152話 淼と垚と焱
「雫、俺に用か?」
「焱さん! 良かった! 来てくれたんだ!」
廊下まで来てくれた焱さんの手を引いて執務室に招き入れる。
「雫が呼んでるって水理皇上が言っ……何だこれは。何で垚がここにいるんだ」
焱さんの視線の先には桶に足を突っ込んだ垚さまがいる。ガタガタ震えながら部屋の中央に置かれた椅子にかけており、その顔には乾いた血の跡が残ったままだ。更に寒さで唇まで真っ青になっていた。
「えーっと、話すと長くなるから、取り敢えず垚さまを温めて欲しいんだけど……」
すっかり冷えきってしまった垚さまを温めるべく、足湯を用意したんだけど全然足りなくて、震える垚さまを見ていたらかわいそうになってきた。
「ちょっと待て……失礼。ゴキゲンヨウ、水理皇上」
垚さまを見なかったことにしたのか、焱さんは淼さまに向き直った。言葉遣いを途中で改めたけどどこか形式的でわざとらしい。
「あぁ、雫が『火があればなぁ』って言うから呼んでみた」
呼び出されたのは僕の呟きのせいだ。それを聞いて焱さんが僕を見る。
「あ、あの、火があれば垚さまをすぐに温められるのになぁと思って……ごめんなさい」
今回はたまたま焱さんも王館にいたけど、いつも都合よく留まっているとは限らない。
定期的に貴燈山にも行っているみたいだし、聞くところによると火精の取り締まりを強化しているそうだ。そんな忙しい焱さんが他所の侍従に呼び出されて良いはずがない。
「何で謝るんだ? 要は垚を燃やせば良いんだろ? 別に構わねぇよ」
いや、燃やしちゃダメだ。そう言う前に焱さんは垚さまの頭を鷲掴みにして、大きな火に取り込んだ。
確かに火には土を助ける『火生土』の性質があるから最適と言える。でも目の前で火だるまになった垚さまを見ると少し不安になってくる。
焱さんは垚さまから手を離すとツカツカと僕と淼さまの間に立った。その隙に火の合間から垚さまの顔を覗き込むと、まるで温泉にでも浸かったかのような顔をしていた。心地よさそうだし、この分なら火だるまでも大丈夫だろう。
「んで、何でこんなことになってんだ」
焱さんが淼さまと僕を交互に見て返事を促す。まるで喧嘩の仲裁にでも来たみたいだけど、断じて喧嘩なんてしていない。
「垚さまが僕のことを貸してって仰って……それで、えーっと」
僕を貸してくれと言われた淼さまは、
もし、僕がこの部屋で
淼さまは垚さまを助けるつもりはなかったみたいだけど、僕が垚さまを掘り起こそうとしたら、あっさり雪を消してくれた。
でも淼さまがやりましたって言いにくい。どうか察して欲しい。
「もういい……大体分かった」
焱さんは天井を向いて額に手を乗せると首を傾げて淼さまを睨んだ。淼さまは茶器を手にとって中身が入っていないことを確認するとそっと皿に戻した。
「反省はしているが後悔はしていない。同じことを言われたら同じ目に合わせる自信があるよ」
「水理皇上、それは反省しているとは言わない。雫も……ちゃっかり給仕するな」
淼さまに新しいお茶を淹れるべく
「垚はあれだろ? 雫を市に連れて行きたいんだろ?」
「市って土の市?」
焱さんに怒られてしまったけど淼さまの手が所在なさげに茶器の縁を撫でているので、早く中身を入れてあげたい。手を動かしながら焱さんに聞き返すと、そうだと返事が来た。
「だろうな。だから氷漬けにしてやろうかと」
淼さまの分と、ついでと言ったら失礼だけど焱さんと垚さまにも熱いお茶を用意する。その間に淼さまは不満を口にした。
「何でそうなんるんだよ」
「今、潟がいない。雫をひとりで王館の外に出したくないんだ」
分かるだろと焱さんに念を推すような視線を送っている。
「あたくしがいるから平気でしょーよぉお!」
歯をガチガチ言わせながら垚さまが会話に参加する。火だるま状態は収まったけど頭の上でそれなりに大きな火が燃え続けているのはなかなか滑稽な姿だ。
「何故いちいち雫を貸さなければならない? 土太子、貴方がひとりで行けば済むだろう」
低い声でそう告げる淼さまの向かいに焱さんはドカッと腰を下ろした。背もたれに両腕を乗せて襟元を弛めている。
「前回の土の市でも水理王の侍従を名乗る輩が現れたのよ。でも張り込んでたのが
割られたなんて可哀想だ。土の王館で出会った埴輪の動きを思い出す。チョコチョコと動き回ってとても可愛かった。
「偽物って言った瞬間に割られたらしいわよ。だから今度は本物の侍従を連れていってとっちめてやるわ!」
垚さまが勢いよく立ち上がったせいで桶から湯が溢れた。頭の上で燃えていた火はすっかり消えて、完全に温まったようだ。血の跡は消えてないけど、元気そうで良かった。
「方法としては適切だな」
焱さんが大袈裟に足を組み替えて注目を集めた。長い足がテーブルを掠めて小さく音を立てた。
「水理皇上、最近は土の市だけじゃねぇぞ。火の市にも水理王の侍従を名乗る輩が現れた。水理王のツケで何らかの取引をしようとしてる。火理王は火の市に
水の市を除いている辺りがわざとなんだろうな。僕が行って、僕が水理王の侍従です。騙されないでって言えば良いのかな。
「一理ある。だが免のことも解決していない上、水は今、大事なときだ。他の方法を検討願いたい」
「あらぁ、その大事なことを後押しできると思うんだけど」
垚さまが桶から足を抜いて近寄ってきた。びしょびしょの足のまま床を裸足で歩いている。後で掃除しなきゃ。乾かせば済むかなぁ。
「雫ちゃんに一役買わせたら? ほとんどの高位は了承させて、あと数名納得させれば事が成るって聞いたわよ。活躍の場を見せつけてやれば良いじゃない」
何の話をしているんだろう。僕に活躍の場って言われても、侍従なんだから淼さまの隣にいられれば満足だ。
「流石に知りたがりは情報が早い」
「あら、ありがと」
淼さまの嫌みっぽい言い方を垚さまは受け流した。二人の間に入って焱さんは苦笑している。
「俺も一緒に行ってやれれば良いんだけどな。ここのところ目の調子が良くなくてな、足手まといになりかねないからなぁ……」
「え、焱さん、目悪いの?」
治療してからもう随分経つし、すっかり治ったと思っていた。
「治ってはいるけどよ。見え方が前と違ってバランスが取りにくい。完全に馴染むには数年かかると言われたが仕方ないさ。これを機に内政を学べと
「なるほど。火理が忙しいと言っていたわけだ」
淼さまが納得したように新しいお茶に口をつけた。復活した垚さまは焱さんの隣をちょっとだけ強引に空けさせて体をソファに捩じ込んだ。
「ねぇ? だからあたくしが行商に扮して
「逃げられたら同じじゃねぇ?」
焱さんが言うのも尤もだ。僕が行こうが行かまいがこれまでみたいに逃げられたら終わりだ。
「だからあたくしの出番なんでしょ。雫ちゃんの登場で気を惹かせている間に
悪い顔をしながらわきわきと指を動かす垚さまから逃げられる気がしない。
「雫はどうしたいんだ?」
焱さんが垚さまの体を避けて僕に直接尋ねてきた。淼さまの視線も感じる。
「僕は……」
僕を騙る輩に会ってみたい気もする。淼さまに対価を払わせようなんて迷惑な奴放っておきたくないし、何より僕自身が気になる。けど……
「淼さまが行くなと仰るなら行きません」
淼さまの意見が一番だ。そう思って模範的な答えを述べたはずなのに何故か空気が悪くなった。
「おい」
「ほらね」
「……」
淼さまの表情は氷細工のように固まっているけど、不安と期待と驚愕と歓喜がごちゃ混ぜになった複雑な感情が流れ込んできた。淼さまの感情がこんなに読み取れたのは初めてだけど、いろいろな感情が一気に流れてきて僕が混乱しそうだ。
「……分かった」
淼さまが短く呟くと感情の流れがピタリと止まって、読めなくなってしまった。
「行っておいで、侍従長」
淼さまは優しい声で僕を一切見ずにそう告げた。
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