146話 偽りの雫
廊下で水の溢れる音がして、その直後に潟さんが資料室の扉を開けた。先生が言った通りだっけど早すぎてまだ本を何冊か戻し終えていない。
「潟さん、おかえりなさい」
そう声をかけると潟さんは勢い良く首を回して僕の姿を捉えた。カッと開いた目にちょっとビックリしてしまう。
「雫さま、今までどちらにいらっしゃいましたか?」
潟さんはただいまも言わずに入り口に立っている。何かを警戒しているみたいだけど、僕何かしたかな。
「朝からずっとこの部屋にいますけど」
朝、潟さんと資料室へ向かう途中で先生と合流したので、潟さんとはそこで別れた。潟さんは市へお出掛けで、僕たちは資料室へ向かった。先生と資料室へ入ってからずっとそのままだ。今、何時だろう。
「そう、ですか」
「なんじゃ。わしは連れ出しておらんぞ」
潟さんは本棚の林から帰って来た先生に目を向けた。少し疑いの眼差しだったのを先生が突っぱねる。
「いえ、それなら良いのですが」
潟さんはホッとしたように部屋の中へ入ってきた。その動きの中で腰に挿した大剣の柄から、手が外れる瞬間が見えた。かなり警戒していたみたいだ。
「何かあったのか?」
僕も今、聞こうと思っていたところだ。先生が聞いてくれたので父子のやり取りを観察する。
「土の
先生が質問を重ねて答えを促す。潟さんは気まずそうに首の後ろに手をやっている。
「ええ、参りました。品も手に入ったのですが、情報収集も兼ねて予定より長居をしました」
早い帰館だと思ったんだけど潟さんとしては長居だったらしい。引きこもってる僕が言うのもなんだけど、王館にいては分からないこともあるから実際に見たり、聞いたりして情報を仕入れることも大切だと思う。もっとゆっくりしてきても良かったのに。
「雫さまがいらっしゃいました」
「へぁ?」
変な声が出た。先生は腕組みしていた腕を外して頬をポリポリ掻いている。
「……そんなわけなかろう」
「無論です。遠目に姿は似ていましたが、まさかと思って近づいてみると気配がまるで違いました。ただ他人の空似にしては似すぎと言いますか」
それは確認したんだ。じゃあ僕がいたなんて言わないで欲しい。
「では雫がいたなどと申すではない。本人が一番驚いておるわ」
「あ、あぁ申し訳ありません」
潟さんが謝りながら僕に近づいてきた。僕は中途半端に戻していた椅子を完全に押し込み、借りた本を腕に抱えた。
「雫さまに似た輩が
「月長石?」
そのまま聞き返してしまった僕に潟さんは少し表情を緩めた。緊張が解けてきたみたいだ。
「
けいさん……計算……が何だって?
何を言っているのかさっぱりだ。
「月の石じゃ。夜の理力を秘めていると言われておるが確認できる者がおらんので信憑性は薄い。それで取り押さえたのか?」
先生が解説してくれた。僕が間の抜けた顔をしていたのかもしれない。
「いえ、申し訳ありません。しくじりました」
「しくじった? 珍しいの。そなたでも敵わぬ相手じゃったか?」
今の発言で先生が潟さんを評価していることが分かる。何だかんだ文句をいうことはあるけどやっぱり息子さんを認めているんだ。何故か僕まで嬉しい。
「敵わないと言いますか、戦闘にならなかったのです。跡をつけていると月長石を取り扱う軒を見つけたらしく、取引の際に『水理王の侍従長』を騙りましたので、流石に声をかけました」
そうなるとたまたま似ていたってことではなさそうだ。完全に悪意があって僕に似せてきている。
「私が『御上からの依頼か』と声をかけると、何の返答もなく瞬く間に逃げられました」
潟さんだってそんなにのんびりしている訳じゃない。普段はニコニコとしているけど、戦闘ではうっかり目を離した隙にちゃっかり数人倒している。
「あからさまに怪しいの。御上に報告はまだじゃな?」
「はい、まず雫さまの無事を確認してからと思いまして」
淼さまは今日も謁見だ。最近謁見が多いのは、定期報告の他に淼さまが呼び出しているからだ。予定表を見たけど主に
「御上が戻ったら報告せよ。悪いがわしは帰らせてもらう。
先生は腰を
「先生は体調が良くなかったんですか?」
授業中も少し疲れたと言って座っていた。
「えぇ、昨日の
斧折樺ってことは
「
潟さんはそう言いながらすでに伸びている背筋を更にピンと伸ばした。何か思い出したようだ。
「そうそう、忘れるところでした。雫さまにお土産です」
「僕にですか?」
潟さんは服の内ポケットに手を入れて黒い小粒を取り出した。小さくて何なのか良く見えない。
「良質の
そう言いながら潟さんは僕の手に小さな多面体を二つ落とした。ひとつを指で摘まんで観察すると八面にカットされているようだった。
お使いくださいって言われたからぜひ利用したいんだけど、でもこれどうやって使うんだろう。
「
潟さんが言っているのは
結局、使い処が分からず小さく束ねて机の引き出しに眠っている。あまり装身具は使わないけど、潟さんの好意を無駄にしたくない。
「ありがとうございます。あとでやってみますね」
水の箱を小さめに作って磁鉄鉱を入れる。すぐにしまわないとなくしてしまいそうだ。
それから資料室を出て執務室へ戻ると、すでに淼さまが謁見を終えて帰っていた。机の上で書類の仕分けをしているみたいだ。僕たちが入ってきたことには気づいているだろう。
「雫、ちょうど良かった。土の王館へ行ってきてくれるかな」
淼さまは手を動かすのに忙しいみたいで顔を上げなかった。
「は、はい。ご用命は何でしょう」
「水晶刀の受け取り。鑑定が終わったらしい。届けるか、取りに来るか聞かれたんだけど、雫がここへ来そうだったから。取りに行くと伝えた……あぁ、あったあった」
淼さまが書類を一枚引っ張り出した。仕分けじゃなくて探し物だったみたいだ。僕が片付けてしまって分からなかったのかもしれない。すぐに判子を捺している。
「全く。昨日の今日で目を通しているわけないだろう」
ちょっとイライラしている。謁見で何かあったのかもしれない。こういうときは落ち着く薬草茶でも淹れてあげたいんだけど、その時間はなさそうだ。
「御上、報告したいことがございます」
淼さまが苛ついているのは分かるだろうにそれを無視して潟さんが声をかける。思わず潟さんの袖を掴んで動きを制す。
「後にしてくれないか。謁見に戻る」
謁見の途中で抜けていたらしい。淼さまは足下から波を立たせて部屋から出ていこうとしている。
「雫さま絡みなのですが」
「こっちも雫絡みだ。やっと了承させたんだ。悪いが後にしろ」
潟さんが引き留めようとしたけど、淼さまは行ってしまった。あの様子だときっと待たせてるんだろう。
「仕方ありません。先に土の王館へ参りましょうか」
「そうですね」
淼さまの言葉はほとんど波の音に消されてしまって、何を言ってるのか聞き取れなかった。
「私も土の王館は久しぶりです。
不穏な単語が耳を通り抜けた。
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