76話 王太子の試練
どうしよう、どこにいるんだろう。後ろを振り向いても真っ暗で何も見えない。挙動不審な動きをしているのが自分でも分かる。
『ふフ、そんナコトでは王太子とは言エナいヨ』
「僕は王太子じゃありません!」
返事をしてしまった。
『王太子じャナい?』
「わあっ!!」
目の前に僕の背丈くらいの水柱が立っていた。声はそこからだ。水音も気配もしなかった。いつから立っていたんだろう。光を反射してキラキラと眩しい。
『王太子ジャないノニなンデこコに来たノ?』
「……何ででしょう?」
何でって言われても困る。
『なンデか分かラナいの?』
「ここで魄失に会うようにって
『淼サマ?』
しまった。淼さまの名前を出さない方が良かっただろうか。首をかしげるように水柱の先端が少し傾く。
『王太子に言わレテ来たノ?』
「違います! 水理王に言われて来たんです!」
淼さまことを言わない方がいいと思ったばかりなのに、また触れてしまった。しかもちょっとムキになってしまった。
『水理王なノに
「え?」
言ってることが分からない。だって
十年間、
『まァ、どっチデもいイヤ』
水柱が消えたかと思ったら、今度は三本になって現れた。ザワリと鳥肌が立つ。嫌な感じだ。この感じはもしかして……。
『折角来たノだカラ』
水柱がものすごい速さで近づいてきた。避けることが出来ずに飲み込まれる。しかし、目を開けたときには水柱は僕を通りすぎていた。
自分の体を確認しても特に怪我や違和感はない。確かに水柱に飲み込まれたのに、何なんだろう。攻撃された感じはない。
『雫』
後ろから呼ばれた。何で僕の名前……。鳥肌がおさまらない。振り向けない。この声は……そんな……まさか。
『雫』
もう一度呼ばれる。意を決して振り向いた。
「……っあ、にうえ」
美蛇の兄が立っていた。暗くて見えないはずなのに、どういうわけかはっきり見える。
そんなはずはない。でも間違いない。細身の体に碧の髪、瞳の色は見えないけど恐らく青みがかったグレーだろう。親しんだはずの兄、美蛇江 渾だ。
『雫、おいで。仲直りしよう』
おいでと言う割に、兄上自身が近づいてくる。きっと……これは幻だ。そうでなければおかしい。だって淼さまから罰を受けて、復活も許されていないんだから。
『しず』
「っ
撃った水球はパシャリと音を立てて美蛇に当たった。確かに当たった。でもまるで効果がない。水溜まりに雨粒がひとつ落ちた程度の揺らぎしかない。
『ふふ、悪い子だね』
兄上の手が伸びてくる。咄嗟に顔の前で腕を組んだ。でもその手に捕まることはなく、兄は雲のように僕の体を通りすぎていった。
その瞬間……本当に僅かな時間だったけど色んな感情が流れ込んできた。焦燥、羨望、躊躇、屈辱、嫉妬…………嫉妬?
……苦しい。色んな感情が一気に押し寄せてきた。苦しいのは胸なのに、頭がどうにかなりそうだ。
『うン。心は強イけど、マダ足りナい』
水柱が真横に立っていた。もう美蛇はいない。ただ複雑な感情だけが僕の中に残っている。誰に対してか分からない。気を抜くと嫉妬の渦に飲み込まれそうだ。
『じゃア、こレは?』
水柱が再び僕を飲みこんだ。一瞬の出来事で、逃げることも抵抗することも出来なかった。出来たのは目を瞑ることくらいだ。その間に勢いよく跳ねて、僕から離れていった。
何の音もしない。今度は何がいるのかと、恐る恐る目を開ける。
「……っ」
『……』
僕が立っていた。
『バイバイ』
どこへ? 来た道と反対へ進んでいこうとする。止めようとして手を伸ばした。けど……。
手がない。
自分の手がない。いや、良く見ればうっすら透けて手の形が見える。自分の体を見ると他にも透けているところや、輪郭がぼやけ始めたところがある。
何コレ! どうなってルノ!?
はっきり言葉が出ない。僕の姿をした何かの後を追いかけたいのに足が動かない。その前に、足がまだちゃんとあるのかすら分からない。
淼さまが笑顔でそれを迎える。僕の肩に手を置いて、背を向けてしまった。
違う、違ウ! それは僕じゃなイ! 淼さま! 淼さま!!
部分的に明るかった部屋が真っ暗になった。外の明るさが際立って、階段を上っていく二人が良く見える。淼さまの背に流れる銀髪が揺れている。その様子を遮るように、
淼さまが何か話しかけたらしく、すぐに後を追いかけていった。親しげに話をしながら二人の姿がどんどん遠くなる。もうすぐ淼さまの銀髪が見えなくなりそうだ。
嫌だ! 嫌だ嫌ダ! 置いてかないで! 淼さま助けて! 嫌だ! 淼さま!! イヤだいやダーーーー!!
外の明かりも遂に消え、真っ暗になった。自分がどうなっているのかも分からない。目は開いているのか、閉じているのか。手を握っても感覚がない。
「だ……れカ」
誰も答えない。
何も感じない。
何もない。
あるのは自分だけ。その自分がちゃんと存在しているのかどうか怪しい。泉が涸れたときもこんな感じだっただろうか。ひょっとしてあの時から、僕はもういないのだろうか。助かったのは勘違いで、もしかしたら、もう僕は、とっくに……あの時……消え……。
体が勝手に跳ねた。心臓がドクドクとすごい音を立てている。眩しい……。
「あぁ……おかえり」
淼さまの顔が正面にあった。逆光だけど、安堵の表情が読み取れる。背中が柔らかい。どうやらソファに横になっているらしい。
見慣れた家具や天井は執務室のものだ。淼さまの執務室で寝ているなんてとんでもない。急いで起き上がる。でも思ったより体が動いていなくて、淼さまが起きるのを支えてくれた。
お礼を言いつつ、自分の指先をじっと見る。何ともない。透けてもいないし、輪郭もはっきり分かる。テーブルに視線を落とすと、空の茶器がそのまま置かれていた。
……夢でも見ていたんだろうか。
「気分はどう?」
夢じゃなさそうだ。淼さまの表情が険しくなる。自分の喉から唾を飲み込む音が聞こえた。
「誰に会った?」
「兄に……美蛇江に会いました」
罰を受けて亡くなったはずの兄。伸ばされた手が恐ろしかった。今度こそ全部奪われるかと思った。
「あぁ、なるほど。どうだった?」
淼さまは僕の背から手を離して腰を伸ばした。目の前で銀髪が揺れている。
「色んな感情が一気に押し寄せてきて……」
でも一番大きかったのは嫉妬だ。何に対してか、誰に対してか分からないけど。
「そうか」
淼さまの手が再び僕の背に触れる。落ち着かせるように撫でてくれるので、自分の息が荒くなっていることに気づいた。
「それで、雫自身は?」
近距離にある淼さまの顔を見つめる。何を聞かれてるのだろう。淼さまの濃い色の瞳が僅かに揺れている。
「
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