42話 雫と淼の静かな時

 一瞬、何を言われているか分からなかった。落ち着いて頭を働かせる。だめだ。頭が重い。

 

「雫の本体である涙湧泉るいゆうせんが復活した。だから、もう王館おうかんにいる必要はないよ」

 

 びょうさまは、泉が復活したから帰るかと聞いているんだ。確かにそれはそうだ。僕の帰る場所であり、管理する本体ができた。

 

「初めはぎくしゃくするだろうけど、兄姉ももう大丈夫だろう」

 

 母上も待っているかもしれない。僕が帰る理由はいくつもあった。

 

 そもそも僕が王館で保護されていたのは、流没闘争の残党を率いる兄を引き出すため。だとしたら僕はもう用済みだ。兄がいなくなって、闘争が終結した今、僕がいつまでもここに居座るわけにはいかない。


 今度こそ本当にお別れだ。おいとましなきゃ。そう思い、びょうさまと離れることに覚悟を決めようとした。

 

 ところが僕が黙って考え込んでいる間に、淼さまは続けて提案をしてきた。

 

「毎日通って来るか、それともこのまま住み込むか。どっちでも良いよ」

「え?」 

「え?」

 

 またもや何を言われているか分からない。口を開いたり閉じたり……鯉のようにパクパクさせる。

 

「……理術の勉強はまだ途中だよね?」


 途中どころか二冊目しか終わっていない。初級理術が終わったばかりだ。上級は先生が前倒しで教えてくれた二種類しか分からない。

 

れんどのにも指南役の報酬は払ってある。一年間という期間はあったけど、二ヶ月いなかったから少し延長するつもりだよ」

「理術を勉強したら淼さまのお役に立てますか?」

 

 理術を学び始めたとき、もっと仕事が出来るようになって、もっと淼さまのお役に立てると期待していた。でも……


「兄に抵抗出来るように、理術を学ぶようにおっしゃったんですよね?」 

 

 僕自身の身を守るためだった。兄や火精から襲われても抵抗できるように。淼さまのためじゃなくて、僕のためだった。

 

 淼さまが少し体を捻って、再び僕と目を合わせてきた。部屋の暗さで濃い瞳が余計に濃く見える。

 

「それもある。でもそれだけじゃない。……いずれ分かる時が来るよ。その時は……」


 僕の目を見たまま、淼さまは黙ってしまった。目をそらされないのもちょっと怖い。

 

「まぁ、今は止めよう。とにかく漣どのからお墨付きをもらうまでは学んでもらいたい」

「僕はまだ王館ここにいても良いんですか?」


 『出て行って良いよ』というのは『出て行け』と言わない淼さまの優しさじゃないだろうか。

 

「あ、やっぱり通いはキツい?」

 

 そういうことじゃないです。いや……でも通ってくるとなると、相当時間がかかる。前回帰省したときは寄り道しちゃったから正確な時間は分からない。けれど、行き来だけで一日の大半の時間を使いそうな気がする。

 

伯位アルならね、一瞬で来られるけど……それなら通いは止めよう。帰りたいかと思って言ってみただけだよ。住み込みが良いんだったら私としてもその方が安心だ」

 

 華龍どのには申し訳ないが……。と淼さまは続ける。びょうさまの中では、僕がお別れするという発想はないらしい。ちょっとだけ心が軽くなった。

 

「流没闘争は終結した。でも、火精の恨みは簡単には消えない。もう雫は火の耐性が付いているけど、今回の騒動で目立ったからね。狙われる可能性もあるよ」

 

 え、僕まだ狙われるの!? 美蛇の兄はいなくなったのに?

 

 「一滴の雫」と呼ばれていたときは、本体が少な過ぎて、火の攻撃で蒸発してしまうレベルだった。だから水精に恨みを持つ火精に狙われる。びょうさまは以前、そう警告してくれた。

 

 僕の驚きと疑問が顔に出ていたんだろう。淼さまはいつもよりも少し早口で語ってくれる。

 

「雫は珍しいからね。昇格したとは言え叔位カール。側近ではないけど、唯一王館に仕える水精が下位。しかも流没闘争解決のきっかけを作った精霊だよ。注目も浴びるだろうよ」

 

 僕の知らないところで、とんでもない話になっている!? アワアワしているとびょうさまに笑われた。

 

「ずいぶん顔色が良くなってきたね」

 

 そういえば、気持ちが悪いのはおさまっている。重い頭も完全ではないけど少しだけ楽になった。

 

「さっきまで雨伯が登城していたからね。先ほど帰したけど、しばらくは降り続けるだろう」


 雨伯っていうと、表向きは僕の保護者になってくれている方だ。控えめな方であまり表舞台には出てこない。最古参のひとりで創造の頃から存在している。大分前に、そう先生が教えてくれた。

 

 淼さまは立ち上げって僕を見下ろした。銀髪がサラサラと音を立てて揺らいでいる。


「雨が止んだら……」

 

 ドキッとする。さっき、雨が止んだら出て行って良いと言われたばかりだ。体温が一気に下がった気がする。

 

「しばらくの間、えんがいなくなるよ」

 

 息を詰める。予想しなかったことを言われた。何か言った方がいいんだろうけど、返答できない。

 僕が返事をしないので、分かっていないと思ったんだろう。淼さまがあわのことだと注釈を入れてくれた。

 

「彼は次期火理王、火の太子 えん。火の理力の安定のため、火精の不穏な動きを制する必要がある」

 

 王太子とは本来そういう役目だと教えてくれる。理王は王館で理力を正しく管理し、王太子は世のルール違反を取り締まるために討伐に廻る。

 あれ、淼さまはいつも自分で……。


「火精の動きは詳しくは分からない。でも分からないからこそ王太子の出番なんだ。状況を掴むまでは、しばらく帰って来ないだろう」 


 私も流没闘争の真っ最中は、ほとんど王館にいなかった。そう言いながら、淼さまが僕の額に手を乗せた。


「長話をしてしまったね。少しは楽になったようだけど、もう少し休むと良い。元気になったらまた勉強してもらうよ」

「僕は……びょうさまのお役に立てますか?」

 

 さっきも聞いたんだった。言わなきゃよかったと少しだけ後悔する。

 

「……もちろん。雫にはまだまだやってもらいたいことがあるよ」


 やってもらいたいこと……。深く疑問に思う前に強烈な眠気に襲われた。底の見えない沼に体が沈む。そんな感覚を味わいながら意識を手放した。

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