価値負け

中学12年生

第1話

 昔から客観という言葉の定義が気になっていた。いや、より厳密には世俗で言われる「客観」と本来の客観とがそれぞれ想定する概念の誤差を見通せる位置に私は立っていた。それゆえ、私は一般的な人よりも客観という言葉に対して敏感になっていった。


 自分と他人をすぐ比べたがる人々に対して、疑問の札を突きつけずにはいられなかった。もちろん、自分の個性をより明確にするための手段として、比較という工程をとることには、別段意義はない。しかし、世俗の人々は事実を浮き彫りにするためにではなく、価値の優劣を決めるために比較を積極的に行い、そして、もはや己と他者を偏った価値判断で天秤にかけることを目的とすらしていた。


 価値観という言葉が昔から苦手だった。重要なのは事実と論理なのに。人々は価値を積極的に追求する。つまり、一元的な幸福という価値尺度を盲目的に追求する。その結果、最低限確認すべき事実と論理を全く無視して……。そして、それが自分を滅ぼすことになるとも知らないままで……。


 客観という言葉の定義が気になっていた。色眼鏡を掛けた人々の価値判断は、どこまでいっても論理にはならないのに。主観か客観か。認識が実在か。それらを決定的に隔絶する壁は、もはや存在すらしていなかった。そしてついに、認識の実在をいう人まで、そしてそれが本来の客観性の属性を有していると言い張る人まで出現するに至った。


 もはや、客観性は滅びた。幸福を追求する人々によって、論理は価値で測られるものに成り下がった。事実にも、まるで商品のように値段が付けられ、高額な製品は義務教育によって広められていき、その結果それらは平等な知性を表す指標となった。それが学歴と言われるものだ。そして、それらを有していないものは、まるでブランド品を身につけていない貧乏なホームレスかのように蔑視される。事実の価値を計測し、事実の事実性とでもいうべきものを全く無視してしまったままで。


 知識は情報へと、少しずつ形を変えていった。時代の潮流という川の中で流され、丸くなっていく小石のように。


 しかし、それは新たな知見を私にもたらしもした。つまり、しばしば人々は間主観性を客観性に押し上げようとする、ということだ。私は彼らの非寛容さに日々驚かされずにはいられない。偏った価値判断は倫理や道徳を過剰評価する。そして、過剰評価は新たな過剰評価を再生産する。価値観と価値観とが互いにぶつかり合い、竜巻のように肥大化する光景を私は見てしまったのだ。


 幸せとは何か。多くの人が生涯の中でこのような疑問を掲げる。それは、幸せを発見できていない証拠でもある。そして、現在の状況に対して何らかの不満を露わにしていることすら示している。


 しかし、価値観という紐で自らを縛り続ける限り、その問いに答えることは到底できない。なぜなら、時間の変数によって刻一刻と変わる計算不可能な価値で、そしてそれを追求しようとする色眼鏡を外さないままで、自分という人間を考えることに本質的な無理があるからである。


 論理は、価値に敗北した。惨敗だ。事実も同じように金銭の前に平伏している。人々の価値観を互いに理解し合うための「意見」は、自分と異なる価値観を持つ人々に対しての暴言に成り下がった。自分達の幸福、価値を追求し、それらの行為に客観性が宿ると盲信する人々によって、事実は捏造され理屈は飛躍される。


 昔から客観という言葉に対して敏感だった。私はどうにかして価値に勝利したかった。世俗的な処世術を見通す視点を持っている者には、その役目が与えられているとすら感じられた。しかしもう、勝機は僅かにも残されていない。社会は共生から競争になった。旧態社会の価値を守りたい人は、それを誇りすらする。世界はそんなに甘くない、と。競争に勝ち続けている自分を誇りたいという側面もあるのだろう。


 しかしいつか、その強烈な圧政から逃れる術を編み出してみせよう。金銭では測りきれないものがあるのだということを再び証明してみせよう。その時まで、私は何度でも立ち上がるつもりである。


 今、冷めたカレーを口に頬張りながら、私は客観という言葉の定義が気になっている。

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価値負け 中学12年生 @juuninennsei

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