コンプレックス箱買い

藤原キリヲ

コンプレックス箱買い




 コンプレックス。本来は、精神分析の用語。

 この言葉を辞書で引くと、

 心の中のしこり。要求阻止が原因となって抑圧され、無意識のうちに形成され情緒的に強く色づけられた観念の複合。観念複合体。錯綜体。

 ……とかなんとか、難しくてわかりづらい。

 ただ、一般的によく使われるのは「インフェオリティー・コンプレックス」――つまり「劣等感」の意味での用いられ方だろう。

 劣等感――自分は他人より劣っている、という感情のこと。

 ただまあ、難しくてよくわからないと言った、精神分析的語彙による説明文とも、かぶるところがあるというか、

 「色々とままならないことがあった結果、抱え込んでしまう悪影響を伴う感情」といった感じに表現できる。


 そういう類の感覚だと、僕は認識している。



「――コ~ンプレックス箱買い♪ コ~ンプレックス箱箱箱買い♪ コ~ンプレックス箱買い♪ コ~ンプレックス♪」


 ある日、大学の同級生の桜木瑠香さくらぎ るかが唐突に口ずさんだその歌に、僕は衝撃を受けるよりほかなかった。

 その原因は、その頭が楽しげなメロディーでありながらも、とんでもない意味の言葉を繰り返すその歌詞にあるんだと思う。


「ちょっと、何?そのヘンな歌……?」

 ――劣等感コンプレックス、箱買い。

 人生において一個でも十分重たくて邪魔過ぎるソレを、箱買いするなんて考えただけでしんどすぎる。

 というか、意味がわからない。

 何故、買う? 何故箱買いする?

 本来的に不要であるところのそれを、大枚はたいて買う行為が「コンプレックス箱買い」という言葉によって表現され、それが歌として世の中に出て、それを楽しげに口ずさむ桜木瑠香という女の子が、僕には非合理極まりないと思えてならないというか、なにがどうなっているのか理解不能だ。


「わたしのためにあるような良い歌詞だな~と思って」

「意味がわからない」

 僕は思考停止しかける。

 瑠香という女の子は、そんな歌を口ずさむほどに、「コンプレックス」というものについて一家言あるような物言いだった。

 曰く、「わたしは人類全体からすれば負け組に属する人間」だとか。

 曰く、「わたしの人生そのものがコンプレックスの塊」だとか。


 そういうことを自然体で口にできてしまうのは良いことなのか悪いことなのか、一言では言いかねるところがあるけれど、まあ、誤解を恐れずまとめてしまえば彼女は「駄目人間」の類だ。

 悲観的で、厭世的で、後ろ向きで、そんな性質をよくないものだと理解しつつも改善する気などまるでないかのようなふてぶてしさがある。

 でも、それを知ったのは割と最近になってのこと。

 瑠香は一見するとマトモそうに見えるし、身なりも服装も気を使っていることがわかる程度には世の中にちゃんと馴染んでいる。

 そうじゃないのは、彼女の心だ。

 それなりに交流を長く持って、お互いの性質を理解し合ってきたところで、徐々に彼女のそうした精神的不健全さのようなものを、僕は感じ取り始める。


 そんな感じの、一筋縄ではいかない彼女の本性について、僕は会話をしながらあれこれと思索を巡らせている。

 何かにつけ思考し、言語化しようとするのは僕の癖だ。

 これは癖というより生き方のようなもので、理屈っぽいだとかクールだとかドライだとか、余人からは色々言われるけれど、僕自身はそうあることが悪いとも思っていないので、別に治す気はない。


「――というわけで。わたしってすぐへこむし、死にたがるし、そんなんばっかな人生だったことを恥ずかしげもなく語っちゃうような程度にめんどくさい女なんだよ」

「……よくもまあ、自分のことをそんな悪しざまに罵れるね」

「だって事実なんだもの」

 瑠香は拗ねたようにしてそう言う。

 その口ぶりには「なにもおかしくはないでしょ?」的な開き直りが見て取れた。

 そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。

 僕は瑠香とはそれなりに長い付き合いではあるけれど、彼女の辿ってきた人生全てを追体験するほどまでには彼女について知らないからだ。

 だから彼女のコンプレックスも、それを抱くに至った経緯の自然さも、よくわからないし、わかろうとも思わない。

 人の人生やそれに伴う思考展開なんて、基本的には理解不能だ。

 考えるだけ無駄ではある。

 でも、その思考自体は無価値ではないとも思う。

 興味深い、ってことだろう。つまり。


「そんなにいろんなことがあったんだね」

「そうだよー。これでも苦労しているのです」

 威張るような場面ではないだろうに、胸を張っておどけてみせる劣等感の塊。

 塊、というからには、瑠香という人間は、彼女の人生は、たくさんのコンプレックスが積み重なって出来上がっていると推察される。

 先述のとおり、一見して瑠香は、「普通」だ。

 派手さはないけど佇まいは清楚で、安心感を与える容貌と服飾。

 整った顔つき。綺麗な長髪。

 そんな、美しささえある彼女の中に潜む、劣等感という名の、闇。

 人の心の内を表現するのに「闇」とはちょっと大げさで、詩的に過ぎる気もするが、端的にイメージしやすい言葉なので、敢えてそのように呼んでみよう。

 コンプレックスの塊――桜木瑠香。

 深く、暗く、濁る、おりのような闇色のナニカが、彼女の奥底に沈殿してこごっているかのようなビジョンを僕に想起させる。

 僕は脳裏に浮かぶその有様に、ちょっとだけ複雑な感情を抱く。


「――そんな厄介なものを塊になるまで溜め込んで、気の毒だな」

 とか。

 これは普通な感想。

 当然に思う。彼女を慮る僕の優しさとでも言うべき人間らしい感情。

 なので口にして伝えた。


「……なんか他人事じゃない?」

「他人事だもの。実際」

「そこは、その……少しは共感してくれたっていいと思う」

「そんなこと言われても僕にはわかってあげられないよ」

「なおちゃんは相変わらず冷たいなー」

「よく言われるけれども」

「でも、どんなことがあったか聞きたくならない?」

「んー、興味は……あるけど」


 瑠香の口から語られる、彼女がコンプレックスの塊になるに至った経緯。

 両親が立派過ぎることによるプレッシャーだとか、妹の方が自分より背が高くて能力的にも優秀だとか、物心ついた頃からネガティブが過ぎてクラスでは上手く馴染めなかったことが多かったとか、それが原因で割と酷いイジメに遭ったとか、不登校になったとか、それをネタに再びイジメられただとか、生来的に運動音痴で外遊びや体育の授業が大嫌いなことだとか、実は相当インドアでオタクなことだとか、まあ、他にも色々とあったわけだけど。

 総じて言えるのは、先に言ったのと同じ、「色々と苦労の多い人生で気の毒に」というまっとうな感想だ。

 けれども僕にとっては、結局他人事で、彼女と同じ地平に立って物事を考えたりは、基本できないしするべきでないと思う。

 僕は瑠香とは全然違う人生を歩んでるから全く同じようには理解できないし、下手に恭順を示しすぎてもそれは彼女の心に踏み込み過ぎで、親しき仲にも不躾にすぎる。

 ……というか、よくもまあそんな包み隠さず話してくれるものだと感心する。


 それはそれとして。

 僕の中に普通な感想と同時に浮かぶもの。

 彼女みたいな綺麗で、普通そうな人が、暗澹とした思いに苛まれ続けてる。

 自覚的になるほどに。自虐的になるほどに。

 それは彼女の心中に明確に存在し、人生を形作っている。

 ――ああ、それはなんていうか――愛おしい。

 素直にそう思う。

 これは、たぶん、よくない感想。

 背徳的だとか、倒錯的だとか、そんな風に言われる、仄暗い快感。

 僕は別に聖人君子でもなんでもない。なのでそういう考えも普通に持つ。

 人の心だとかについてぐるぐる考えるのが好きなのだから、人間という存在がそもそも良し悪しを伴った、いびつな存在であるほうが自然だと僕は考えていて、その思考展開に至ることも、非合理ではないと僕自身は考えている。


「なおちゃん、わたしの話聞いてる?」

「聞いてるよ。聞いて色々考えてる。大変だったね瑠香の半生」

「言葉、軽っ。ってか、それだけじゃないでしょ。もっと変なこと考えてるでしょ?」

「うん。考えてる」

「……正直に認めるんだね。何考えてたの?教えてよ」

「嫌だ。教えない」

「なんでよ。わたしの赤裸々な半生を語り聞かせてあげたでしょう?」

「それは瑠香が勝手に喋ったことだし、対価を求めるなんて心外だな。それに僕が抱いてたのは、真人間として口にするべきじゃない類のことだと思うから」

「そういうこと説明しちゃってる時点で、なおちゃんとっくに真人間じゃないからね」

「心外だな」


 でも、本当に心からそう思うのだ。

 彼女の外見的美しさが、そうして溜め込んだ負の感情によって、一層引き立てられてるんじゃないかって思ってしまうほどに。

 不出来なものほど、美しい。

 全てにおいて綺麗すぎたって眩しいだけだ。

 目をそらしたくなるような酷さの方が、かえって直視できる。

 覚悟があれば。

 いや、覚悟なんかいらないか。

 そういうものを愛せる、よくない心が少しでもあれば、それでいいんだ。


 ――瑠香がマトモなだけな人間じゃないと知って、僕は彼女に好感を持った。


 これって、普遍的な考え方というにはちょっと歪んでるだろうか。

 僕の極めて個人的な感情だとも、正直思えないんだけれども。

 内面的には清らかで、内面的には濁っている、瑠香のそんな有り様を、「人間らしい美しい醜さだ」と評価するのは、人類の中で僕以外にも多分いるはずだ。

 ええと、例えば……「変態」って表現が一応普及してる以上、それは人間の心にそういった部分が少なからず偏在しているからだと僕は思うんだけどな。

 僕がそんな感じに変態的なところがあるのは間違いない。

 でも、瑠香に対してこういうことを考える変態が世界に僕一人だけってことは、きっとない。

 そんな感じの魅力が、彼女にはあるということを、僕は今日発見した。



「でも聞かせてもらえてよかった。瑠香って人間の厚みみたいなものが、僕の中で良いものとして増した気がするよ」

「えー?そう言ってもらえると、なんか、苦労してきたかいがあったって思えて嬉しくなるなあ」

「……ホントに苦労してきたの?」

「ひどっ、してきたよ!よくわかったでしょ。生きにくい性格してるって」

「わかったし、もともと知ってるけど。そういえば瑠香は僕と出会ってからもくだらないことぐずぐず考えるし、なんかあるとすぐ泣くし、軽率に死にたがるし」

「あの……ちょっと、もう少しオブラートに包むとか、そういった優しさはないものでしょうか?」

「ああ、ごめん。つい正直に喋ってしまった」

「なおちゃんってホント、歯に衣を着せないっていうか……、わたしが精神的に虚弱だってホントにわかってんのかなっておもう」

「わかってないわけじゃないけど、瑠香の言葉は軽いんだよ。ホントにメンタルやられてる人は、そうやって自分の弱みみたいなことを嬉しそうに語ったりしない」

「嬉しそうになんてしてなーい! なおちゃんにはわたしの心の闇をちゃんと知ってもらいたいって思っただけです」

「心の闇って……そういうこと自分で言葉にしちゃうところが軽く聞こえる理由じゃないかと思うんだけど」

「またぐさっとくることをー」

「ああ、ごめん。でも、僕はこういう人間だから。瑠香が喜ぶようないたわり方も慰め方もよくわからないんだ」


 だというのに何故愛せるのか?

 瑠香みたいな一見マトモそうな人が、何かに敗北し、抑圧され、悪影響を及ぼされている姿のどこに、僕は良さを感じている?

 僕は何故瑠香の心の闇を、味を引き立てるスパイスか何かのように、良いモノとして捉えることができるのだろう。


 ギャップ萌えか?そういう嗜好は確かにあって、共有されている。

 けどそんな簡単な言葉で片付けたくはない。

 そもそもその概念は、ギャップのどこに萌えてるっていうんだ?

 印象と実態の乖離?

 遠そうに見えたものが意外なほど近かった、というような、親近感に似た作用が働いて、実際以上に快いものに見せている……?


「なおちゃんの辛辣なコメントを受けて、わたしはまた死にたくなりました」

「そうですか」

「すでにありすぎるほどにたくさんあるコンプレックスが、更に増えました」

「大変ですね」

「やさしく慰めてはもらえませんか」

「考慮はします」


 それとももっと邪悪に。

 僕は、彼女を見下せることが快感なのか?

 自分より優れていそうだな、と外見的で表面的な無根拠で実に空虚な印象が先行していた人間が、その実、愚にもつかないくだらない思いに苛まれている姿が滑稽だから?

 それもあるだろう。

 人の不幸は蜜の味なのは本当だと思うし。

 弱っている人間は見ていて可哀相ではあるけれど、愉快さもまとわせている。

 多少なりとも嗜虐心がある人間ならば、そう感じ取ってしまう程度に人間は総じて邪悪だ。言葉と表現の存在が、それを証明している。


 瑠香の劣等感は、彼女だけのものだ。僕には関係がない。

 瑠香が思い悩んでいることだって、僕が同じ境遇に置かれても悩んだりしない可能性はある。というか多分悩まない。

 けど、だからといって無意味な苦悩だと断言するのは乱暴な話で、それはつまり、僕の価値観によって瑠香の一方的に人生を再評価して、僕が勝手にくだらないと決めつけているだけに過ぎないとも言える。

 瑠香の悩みは瑠香のもの。

 苦しみの質は人それぞれ。

 人の数だけ苦悩はあるのだから。

 僕が無条件で見下して良いようなものでは本当はない。

 それは傲慢さだ。きっと。

 悪しき感情。

 とはいえ、結局の所、僕は僕の価値観でしか物事を測らないのだから、そんな偽善めいた話は今は関係がないと言えるけれど。

 快楽を得る、みたいな本能的な話ならなおさらだ。

 性善説に則って従う欲望など本能とか直感とは呼べない。


「瑠香は、そういう風に色々抱え込んでて、辛くないの?」

「辛いよ。そりゃあもちろん」

「それにしては、さっきも言ったけど、ずいぶんと明け透けに語るよね」

「事実だし。それに、わたしのコンプレックスを全く同じクオリティで共感してもらいたいわけじゃないもの」

「共感して欲しいわけじゃないの?」

「ちょっとはして欲しい。でもなおちゃんに同じコンプレックス抱えてもらいたいとかまではおもってない」

「難しいこと言うなあ……」

「慰めてくれたら嬉しい……けど、それはわたしのわがままだし……、でもただ聞いて、知ってもらえるだけでも、嬉しいから」

「そういうものだろうか」

「うん。ひとりじゃないよって言ってもらえてる気分になる」

「僕は別にそんなこと言うとは限らないけど、瑠香の孤独がそれで紛れるなら価値あることだ」

「そこは素直にそうだって言ってよー!」

「わかった。瑠香はひとりじゃない。少なくとも僕は瑠香のコンプレックスについてちょっとだけど知った」


 ということで、瑠香が自称する劣等感について、僕は僕なりの考えからそれをしょうもないものだと決めつけ、そんなものを抱え込んで人生を暗闇で凝り固まらせる彼女の生き様を、嘲笑うかの如き悪性を根源として、そう、愛おしいと感じる。

 瑠香は何がしかの原因により心に歪みを抱え、振り返ればそんなんばっかりな自分の人生を苦笑している。

 僕はそれを見て、彼女の半生を気の毒に感じつつも、不出来故の美しさを覚え、良いものとして愛でるのだ。


「なおちゃんは、コンプレックス感じてないの?」

「……それは、まあ、生きてる以上、全く感じないなんてことは、ないよ」

「そうなんだー。わたしと一緒だね」

「いや、一緒では……全然ないと思うけど」


 僕にだって、少なからずある。

 完璧超人には程遠い。むしろ不出来な人間の類だろう。僕は。

 それについて、人と比較したり、それで自分の至らなさを知ることは、幾度となくあった。

 瑠香は人並み外れて山程あるみたいだけど、そうじゃない僕だって――人間は誰しもそういった感情を多かれ少なかれ持って生きていくものだろう。

 ただ、それを抱え込みすぎるとがんじがらめになって動けなくなってしまうことが僕はわかるので、自分の許容量を超えかねないほどの量は持たないようにしている。

 自分には他の良い部分があると見方を変えたり、弱点ではあるけど気にし過ぎても仕方ないことだと前向きに諦めてみたり。

 そういう風に、処理をしている。


 コンプレックスというものは、買いすぎず、買ってしまったとしても、人生の折に触れて売るなり捨てるなりして、処理している。

 そういうものだろう。

 瑠香みたいに箱買いしまくって、それを他人に開陳できるほど並べ立てたりするもんじゃないはずだ。きっと。


「そっかー、なおちゃんは自分をそうやってちゃんと管理してるんだね」

「まあ、それが普通っていうか。瑠香みたいなアンバランスさで成り立ってるのって、ちょっと奇跡っぽいっていうか」

「褒めてる?」

「呆れてる」


 ところで、僕、今ちょっとおかしな表現を使ったな。

 買うだの売るだの箱買いだの。コンプレックスってそういう表現でやり取りするモノでは本来なかったはずだ。

 なんか瑠香につられて自然に使ってしまった。

 ――それというのも、あの衝撃的な歌のせいだ。


 でもコンプレックスを「買う」って表現はちょっと上手いようにも思える。

 本来的によく用いられる「抱える」ではなく、それに類するような「もらう」とか「拾う」じゃなくて――「買う」。

 購入。それを手に入れるのに、支払いを伴うプロセス。

 金銭的出費は痛手だ。お金が減るのは嫌なことだ。

 だから「買う」は、「もらう」「拾う」等とは絶対的に異なる行為を示す表現だ。

 そして、コンプレックスは、受け取ることでお金は減らないけれど、お金ではない何かが確実に減らされている感がある。

 だから、ちょっと上手い。

 精神が被る負担とか苦痛とかを、出費と表現するのは、なんかドライで良い感じがして僕好みだ。


 まあ、これが普通の買い物と違うのは、こっちの購買意欲が皆無な状態が普通ってところだけど。

 コンプレックスは他人から突然、勝手に植え付けられるものであるからして、欲しがって得るものではない。

 ということは、押し売りに近い。

 迷惑な話だ。

 人間は欲しくもない劣等感を押し売りし合って、精神という財布からお金をごっそり持ってかれている。


「因果な生き物だな。人間って」

「うん。そうだね。生きるのって難しいよ」

「そうだね。瑠香みたいな人にとっては特にそうだろうね」

「なおちゃんだって同じだとおもうんだけど」

「僕は瑠香ほど大変じゃないよ」

「でも、大変な時ってあるでしょ?」

「まあ、ある」



「だから、そのね……これから訪れる数々の苦難を乗り越えていくために、人は寄り添って生きるべきだと思うのです」

「……ん?」




「なおちゃん。わたしを、あなたのコンプレックスにしてください。

 生きるのが下手なわたしを、どうかなおちゃんの心で暗く重たく、抱え込んでもらえないですか」


「ああ――」


 僕に弱みをさらけ出したのはつまりそういうことか。

 そうすれば僕が、その歪みに良さを感じて、彼女になびくだろうと考えたんだろう。

 僕が瑠香をどんな感じの人間だかわかっているように、瑠香も僕がどんな感じの人間かはある程度わかっていたのだろう。

 明確に表に出していない自分の性質が、言外に理解されていた。

 その事実が意外でもあり、当然のようでもある。



 それにしても――。



「――まったく、わけのわからない告白だな」


「えー、なおちゃんが気に入るような、上手いこと言えたとおもったのになー……」



 瑠香は僕のことが好きだったらしい。

 僕も僕で、瑠香のことが今日、結構好きになったので、その事実自体は喜ばしいことだ。

 突然の展開に驚きはあるが、思考停止するほどの驚愕ではない。

 どことなく不自然な会話運びに、僕はこの展開を予想していた……と言うと後出しジャンケンみたいだが、予感はちょっとだけあった。


 瑠香は自分をコンプレックスの塊だと言い、僕にとってのコンプレックスのなりたい、と言った。

 なんだそりゃ。

 僕好みの表現を模索した結果だというから半ば冗談のようなところもあるのだろうが、そんな発想はいびつにも程がある。

 交際を申し込む言葉というのは、もっとこう、多幸感に満ちたものであるべきだと思うのに。

 そんな言い方じゃ重たく受け取られかねない。それじゃ完全に逆効果だ。

 相変わらず、非合理極まりない。


 恋人とか結婚とかって、人生においてはコンプレックスになり得るものなのだろうか。

 パートナーと呼べる存在を側に置くことによって、全く影響を受けないなんてことは不可能なわけだから、それが悪い方向に影響したとしたら、そうとも言えるのかもしれない。

 自分が相手の存在やその関係性を重荷に感じたり、一緒にいることで生じた自由の無さを人から嘲笑されたりすることもあるのかもしれない。

 だとすれば、それは抑圧であり、複合的に強い感情を喚起し得るもの。


 でも、全ては考え方次第。

 人の数だけ、苦悩はあるのだから。

 それを悪しきものと捉えるか否かは、当事者の僕次第――。



「というか、その言い方だと、僕が劣等感を抱えるのが前提になっているというか、自分がそんな悪影響を及ぼす存在だってのを全面に出されてこられてもなって感じなんだけど……」

「でも、事実だし。わたしめんどくさい女だし、すぐへこむし、死にたがるし、そんなんばっかな人生だったことを恥ずかしげもなく語っちゃうような程度にね。で、それは好きな相手だからって隠し通せるものじゃないし」

「だから、そういうことを自分で言うのはどうかと思うって話で……、って、そんなこと、誰彼構わず言うわけじゃないのか」

「あたりまえじゃん。なおちゃんのことが好きだから、なおちゃんだけに知っといてもらいたいの」


「そっか。ならいいよ。付き合うで」

「返事、軽っ!」


「突然すぎて気の利いた言葉が浮かばないんだ。瑠香を感動させられそうな言葉が思いついたら、改めて言うよ」

「そんな補足いらない……」

「でも事実だ」

「てゆうか、その言い方のせいで既に感動は若干ですが失われつつあります」

「それは、ごめん」


「いいよ。なおちゃんのそういう理屈っぽくてクールでドライなところが、わたしは頼もしくて好きだっておもったのです」


「それは……、ありがとう」



 ――というわけで、僕はコンプレックスを買うことになった。

 しかも、箱買い。料金は後払いだ。これから払う。

 僕が買ったのは、自らを「塊」と称する程度に大量のそれだ。

 でもこれは、「コンプレックス」と表記されてはいるものの、僕にとってそうなるかどうかはわからないものではある。

 そう思って負担に感じることもあるだろうし、なにも感じずに自分のモノとして大事にすることもあるだろう。

 いわゆる買い物だって、買う前に感じていた魅力と異なる部分や、買ってから気づく使用感なんていくらでもあるのだ。

 それを良しとするか、悪しとするか、費用対効果に見合うものかはこれから僕が時間をかけて考えていくのだ。


 僕が今日巡らせた、色々な思考だって、これが正解とは限らないのだし。

 何かにつけ思索と言語化をしていくのが僕の人生だ。

 僕という人間は、そうして生きてきたしこれからもそうしていく。

 生き方なのだから治す気はない。


 とりあえず考える。

 感情のことだとか。思想のことだとか。人生のことだとか。

 コンプレックスのことだとか。


 瑠香のことだとか。



 そういった、僕を取り巻く全てのものについて、僕は残りの人生全てをかけて、ずーっとぐるぐる、思考し続けて行くのだ。

 その道のりに同行してくれる人ができたという事態は、そんなに悪いことじゃないのでは、と今の僕は考えている。





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