97 ボタン
一希がその一言を発せるだけの呼吸を取り戻すまでに、月はだいぶ高さを増していた。
「先生、ありがとうございます。しっかり管理します」
一希は新藤の後ろ姿に向かって、きっちり九十度腰を折った。
「
「はい」
「お前の卒業試験、だな」
(卒業。それが先生の答え……)
父、隆之介との思い出が染み付いた大切な形見。その後継者に選ばれることがどれほど厚い信頼を意味するかは、改めて考えるまでもない。弟子としてこれほど誇らしく、幸せなことはない。たとえ今夜の月がこれほど美しくても……。
一年と少し前、一希が枕に置いたオレンジ色のボタン。その意味は、新藤に伝わっていた。これ以上ないほどに。一希が上級補助士に昇格した時点で
まだ温度の下がりきらない空気を大きく吸い込み、一希は草の匂いで胸を満たした。と、唐突に、
「じゃ、後は頼むぞ」
「えっ?」
「キーは
そう言いつつ荷台から小型の懐中電灯を手に取り、新藤はハイキングコースの方へと歩いていく。
「……先生?」
「ちょっと寄るところがあってな」
「あ、でもお帰りは……」
「タクシーでも拾うさ。お前も長居するなよ。熊に食われるぞ」
その声と振り向かぬ背中が遠ざかっていくのを、妙に明るすぎる月が照らしていた。
その晩一希は、一年間大事に空けてあったオレンジ色の空白を、裁縫箱の隅に見付けた黄色いボタンで埋めた。甘いような苦いような涙が、その周囲にたっぷりと吸い込まれていった。
馬鹿なことをしたという悔いがないわけではない。しかし、遅かれ早かれ同じ結果になっていただろう。いつまでも秘めていられるほどささやかな感情ではなくなっていたから。
この位置にあった元のボタンは、新藤から返されることはなかった。
あるいは、一希の気持ちを拒絶したのではなく、その意図に気付かなかったという
ボタンを縫い付け終えてしまうと、いくらか気持ちが落ち着いた。一つだけ場違いな黄色のボタン。一番欲しかったものとは違うけれど、一年前まで時間が巻き戻されたのとも違う。思ってもみなかった新しい道。それが目の前に開けているという実感がようやく湧き始め、身の引き締まる思いがした。
精一杯
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