腐った熱

時雨逅太郎

腐った熱

 なにか書かなければならない、というのは間違いであるが、俺の中にはその種の執着が根付いていたのは確かである。徒然の休日、単なる大学生である俺は暇を持て余していた。他の大学生はバイトだ遊びだと忙しそうだが、俺はそんなものに微塵も興味が湧かない。遊びは断り、また金を稼ぐ気力もなかった。

 物欲等の執着は単純で強力な熱意である。シンプルなものに人は勝てない。しかし俺にはそのシンプルさが欠け──というよりは俺の興味を引くようなものはそれほど多くなかった。他の人間が持っているであろう、「なんとしてでも手にいれなければ」という気持が俺には経験したことのない──記憶にあるかぎりの話ではあるが──物であり、それがあったとしてもそれは金で買えるものではなかった。

 俺の日常は鬱屈としたものである。それはまさに物欲がないゆえであった。欲望とは愚かではあるが、また一方ではひどく偉大なのである。熱意というやつは正に人が人らしく生きるための煌めくオイルであり、こいつが無ければ錆び付いたアンティークの様になる。掠れたヴィンテージはそれだけで雰囲気を変えるだけの力を持つ。要は、美しいのだ。しかし、俺は手入れを抜かった鋏のような歪さが漂うばかりで、それは美しいと言うよりは、不気味と言う方が「正に」と膝を打てるのである。

 俺に熱意が全くないというわけではない。しかし、俺の熱意はすっかり使い古された廃棄油であり、過去の情動や憧憬が塵のように浮いていて、流行りのリサイクルも出来ない。捨てられるばかりの腐った油を吐き出しているのがこの俺の様であった。


 俺は腐った熱のせいで、なにかを生み出さねばならないと思い込んでいる。実際そんな必要はなくても、腹が減ったら箸を取るように、俺は筆を取らなくてはならない。筆を何度か折ろうともしたが、俺にとってはそいつは自殺行為に等しいのかもしれない。それは舌を噛もうとするようなたまらなさが潜んでおり、俺はそういったことを思いつく度に吐き気を催した。

 俺はキーボードに向かい、指を奏者のように滑らせてみる。しかし、その勢いは五秒と満たず、スネアのように文字を消す音を鳴らす羽目になった。そう、所詮俺の制作過程など無様であるのだ。どんなに輝かしい作品を俺が書き上げたとして──その途中は聞くに堪えないリズムを刻む。この姿を美しいと形容する馬鹿がいるだろうか、俺は苦笑した。そんな奴がもし居れば、上手い酒が久々に飲めるだろう。

 たまらない経験と言えば、俺は何度も人に暴力を振るう妄想を行うことがある。断っておくが、俺は善良な市民であり、実際にそういった事件を起こしたこともない。誰かが憎いわけではなく、ただぼんやりと──青空を眺めるほどの気軽さで──俺はそういったことを考え、そして自らの考えと望まぬ結末によくぞっとしていたものだ。

 特にぞっとしたのは寝ている親父の背中を見た時であった。俺は、その時テレビを見ていたが、酒で眠った親父の背中が視界に入った。俺は、親父の背中が思った以上に普通の背中であることになんだかむず痒くなりながらも、その背をナイフで四回ほど刺した。

 親父の背から赤黒く、細長い楕円が四つ。そこまで見えてから、俺は鳥肌を立て、逃げるように布団へと潜った。俺は、親父に殺意を抱いたこと等ない。いくら憎めど人を殺めたい等とは思ったことがない。しかし、俺はこの時、俺の心の中にそういう殺意の怪物が存在していて、そいつが妄想の中で殺してみせて、そして闇の中で良い子ぶった俺を嘲笑っていると感じた。同時に、なんとなく敬遠してきた犯罪者という存在に、俺もいずれ身を落とすのではないかと思った。いや、こいつは一種の確信であった。油断すれば、俺のように善良を心掛けた人間であっても、人体に通ったチューブを軽く切ってしまうという、確かな予感だ。

 俺は、このたまらない経験から、その熱意を極力使わぬように心掛けてきたのかもしれない。熱意というやつは迸る生命の奔流だが、同時に銃器のような暴力の象徴である。俺はそれが「殺し」をいつか実現してしまうのだと震えたのだ。熱意を暴力として使わなかった人間は、本人が気づかぬだけで、本当はいない。誰しも軽度の暴力を働き、それがエスカレートする。エスカレートが止められなかった者は、「殺し」を行う。

 こういった考えは文学向きだ、と俺は独りで笑った。しかし、現代は村社会のような思想統制が働くもので、俺の言論は正に熱意の暴力を喰らうだろうとため息を吐いた。俺が恐れるのは自らの檻に存在する獣くらいだが、そういった過剰投与される正義──こいつをおちょくるなら丁度“overdosed justice”等という造語が宜しかろう──は、アルコールが纏っている偏頭

痛ほどには煩わしいのだった。


 俺は今、何かを批判している。その事実に目を向けると、多少焦った後、安心するのだ。

 そうだ、俺にはこれに執着するほどの正義を持っていない──

 俺の正義は錆び付いて、動く度にキコキコと間抜けな音を出す自転車くらいのものなのだ──

 これでは人を轢けまい──


 それでいい。

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腐った熱 時雨逅太郎 @sigurejikusi

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