外気

時雨逅太郎

外気

 数日ぶりの外出。淀んだ室内から吐き出されたヘドロのような俺は清涼な外気を肺に満たした。友人の元へ野暮用があり、俺は外に出たのだが、数分前まではなにひとつとして清々しい気分などはなかった。なんならこの世界を破壊してしまいたいと言ったような多少の衝動、そして全能感を求め、暴れたくっていた。人間は数日を孤独に、一つの部屋で過ごすと簡単に化け物になってしまうらしいが、俺の暴動は全くそれとは違う話である。

 しかし、人間はどのような場所でもすらりと馴染んでしまう存在であり、俺も人間である以上、場違いな醜態は身の丈ほどの凡庸と刷り変わっていた。それは俺の感情も同様であった。これじゃ、自分を主張したくもなるだろう。俺は独りの夜道でにたついた。そのようなことを無理にするような者に「嗚呼愚か」と嗤ってしまいたい気分でもあった。だが、そいつは自分だと気づいたとき、俺は自傷したことを知った。そして、自分を嘲った。

 孤独な人間は大概気づかないだろう。基本的に殴り飛ばしている仮想敵は自分そのものであるということに。それに気づきながら未だ繰り返すのは哲学者であり、それに気づかぬままなのは正に歴史が指し示した人間の姿だろう。仮想敵が自分でないか警戒しながら殴る俺は、はて、一体どこに属したものか。

 俺は気を許さぬ友人の家へと向かっている。気を許さぬ時、俺はそいつの敵性を最大限に見積もっている。単純なリスクマネジメントであるが、こいつがなかなか強烈に響くことがある。過去に俺はこのやり口で、俺から盗みを働いた友人を見つけたくらいだ。また、逆に妙になつかれることもあった。人間とは基本的に猛獣であるのではないか、などと錯覚してしまうほどだが、俺のこのやり口は一種メタ的であり、例えるならば飼育員だ。

 俺は鼻につくなにかの錆びた臭いにぞっとした。駅前の電車待ち。俺は自らの身体からそれが臭っていないだろうか、そのことに焦りを感じたのだった。猛獣は簡単に噛みつきうる。飼育員である俺を襲いうる。いくらメタであろうと物理的に並列な俺はその牙になすすべはないだろう。そのことに震えた。出る前にシャワーでも浴びておくべきだったかと後悔をした。

 しかし、少し経つとこいつの出所はどうやら俺の身体でも衣服でもないということに気づいた。臭いはこの駅から、いやむしろ空気がそもそもそういった臭いであった。俺は確信した。こいつは排気ガスの臭いだ。そう思うと、空気は確かに焦げ臭く、廃油のような香りを纏っていた。

 俺は滑稽だと思った。自室から出、そして吸い込んだ空気はあれほどまでに清涼であったのに、今や外気はひどく汚れている。俺は、まだ自室の空気の方がましではないか、と眉をひそめた。外気に触れず、俺の喉と肺をフィルターにした俺の部屋の方が、確かにクリアだ。フィルターである俺はきっと劣化の一途を辿るだろう。この時俺は、空気清浄機というやつがどれほどこの世に必要とされているかを実感した。

 空気清浄機の購入を検討することになろうとは思っていなかったが、まあ思い立つ者もまた人間である。気の許せない友のことを考えるよりはこちらの方がまだまだましだ。俺は煙草がわりに、外気を含み、輪郭のない紫煙を漂わせた。どいつもこいつも喫煙者だ、と静かにほくそ笑んだ。

 

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外気 時雨逅太郎 @sigurejikusi

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