病のせい

コーヒーラブドール

前書き

 これを読んでいる時には私はこの世にいないかもしれません。なんてオーソドックスでベタでありがちな文章から始まるのだが、実際これから先、生きているのか死んでいるのか自分自身よくわからない。というのも一年前に病院で「○○という病気です。」なんてあっさり言われてしまったのだから実感もわかないまま、とりあえず生きているのである。特に今生きていることに執着も未練もない。意外と生きていけるもんだなんて思って一年たったわけだしなんだか他人事のように思えてくる。しかし確実に病は進行していることも明らかだ。とっくに名前なんて忘れてしまった自分の病だが、徐々に体の自由が利かなくなるもので移動するのにも誰かに助けてもらわないといけない、寝たきりになり最終的には呼吸困難になるんだとか。幸い、なのかもわからないが今はまだ手足に不自由さを感じる程度だが運転や趣味のテニス、野球は諦めなければいけなくなった。さすがに好きだったことができなくなることは辛かったし諦めきれなかった。しかし学生時代のころはおろか友人と遊び程度で行うのも難しいことが分かった。人に言われるより自分で体験するほうが当然実感できたし、諦めもついた。残りの悲しさとか辛さとかは時間が解決してくれた。


 自分が病気だとわかってからは割と忙しかった。家族や職場に報告をし、これからのことについて話し合った。家族からは仕事を辞めたらということも言われたが、自分の性格上そんな無責任なことはできなかった。良くしてもらっている先輩には最初に言わなければと思い報告をすると「お前ができる範囲でいい。俺からも上に言っておく。」とあっさり受け入れてくれた。しかし気遣いや優しさや期待、いろんな思いがその簡素な台詞には含まれていたのだろう。以前は営業として走り回っていたが、今では事務作業中心となり営業先からの連絡があっても自分ではいかなくなった。人材不足なのかはたまた会社の優しさなのかあまり考えないようにしているが、病の自分を手厚くサポートしてくれること、働かせてもらえることにはとても感謝していた。営業に出るよりも事務のほうが仕事をしている感じがしてか以前よりも忙しく感じた。社会人でいられることがとりあえず生きている自分の意味なのかも知れない。ある有名なお笑い芸人が、ネガティブはポジティブになっても治らない。何かに没頭することが大事なのだと語っていた。言い回しはうる覚えなので全然正確ではないが、まあこんな感じだった。趣味がいくつも減ったため何かに没頭することは簡単ではなかった。一人でグラスを傾けることも減ったし、どこか行こうにも運転のできない体じゃ田舎から出ることもためらうようになった。仕事がない時には誰よりも暇を持て余していた。しかし案外自分の病を呪うことは少なかった。プライベートでは何かとこの病のせいにできたから。



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