cent et un

 あれから明生君とはメールのやり取りもするようになった。先週末以降家族との関係は微妙なんだけど、それさえも払拭してしまうくらい今の私は精神的に満たされている。

 今日は早めに出ようかな? 姉も帰ってきていないし、弟二人もまだ就寝中。彼は基本的に朝型で五時前には起床するとのこと、私もそれに合わせて早起きをした。自分で朝食を作ったとして、また何かしら物を壊したら家族にも迷惑が掛かってしまう。であればこのまま家を出て職場最寄り駅近くの喫茶店でモーニングを食べた方がかえって経済的だと思う。


 只今午前六時と少し前、もうじき姉が帰宅する時間ではあるが、支度も済ませてあるので家を出て鍵をかける。今は冬至の時期よりも多少明るくなっているがそれでもまだ暗い。寒さは今の方が堪えるが、キンと冷えて澄んだ空気は昼間のそれよりも心地が良い。私は足早に駅まで歩き、途中のコンビニでペットボトルのホットレモンを買う。ちょっと睡眠不足気味だからビタミンCを補給しておこう。

 この駅は午前四時台後半から運転を始めている。普段利用している時間帯ほどではないが、遠方に勤務されているサラリーマン、OLさんの姿もちらほらと見受けられる。あと意外と疲れ切った方も多い、夜勤明けの方ってこの時間に仕事が終わるのか。しばらく待つと電車が到着し、普段以上に空いていて余裕を持って座ることができた。一度市駅まで出てJR線に乗り換える。駅構内はそれなりの人がいたが、ほとんどの乗客は逆方向である県庁所在地行きのホームへと流れていく。

 これからこの時間にしようかな……会社は九時始業だから八時まで開かないけど、最寄り駅の喫茶店、カフェなら七時営業のお店が二軒ある。市駅であれば二十四時間営業のレストランも一軒あるから、途中下車して利用するのもアリか。

 これまで何から何まで姉に頼りきりだったから、多少の負担は減るかもしれない。夜勤明けまでに出勤してしまえばお弁当を作らせる手間だって省け、一分一秒でも長く睡眠を取れるじゃないか。何でこれまでその考えに至れなかったのだろうか? 私はこれまでの甘ったれた態度を恨めしく感じていた。

 

 喫茶店でモーニングを頂き、解錠さたばかりの社内にいの一番で出社する。

「「おはようございます」」

 保安の方と挨拶を交わし、誰もいないオフィスに入って業務の支度を始める。パソコンの電源を入れて、その間に今日要る資料ファイルを揃えておこう。まだ少し寒いので暖房を点け、残りのホットレモンを飲み切った。

「ん?」

 パソコンの立ち上げ操作を終えると、一通の社内メールが受信されていた。発信元は秘書課、何かなぁ?

【本日午後三時半に八階待合室にお越しください】

 八階? 社長室のある階か、一体何の用かな?そう言えば今回人事異動の辞令まだ出てないなぁってそれは人事課か。前回は社長自ら指揮を執られていたけど、十一月にイレギュラーでしてるからさすがに無いでしょ。

「じゃ何?」

 そう思ったが、考えたところで分からないので取り敢えず保留案件とさせていただいた。


「少し席を外します」

 通達にあった時刻となったので、一度業務から離れて八階へと向かう。

「お疲れ様です」

 あっ、境さんだ。

「しばらく振りです」

「社長室へご案内致します」

 私は境さんに付いて社長室へ。今は業務中なので私語は慎んでいる状態だが、平賀時計の若社長とはうまくいっているのか? それよりも社長は私に何の用事なんだろうか? などと考えている間のあっという間に社長室の前へ、境さんは涼やかな表情で一際重厚なドアをノックなさった。

「社長、お連れ致しました」

『入れ』

 今日はちゃんといらしたわ、たまにだが呼びつけておきながら不在なんてこともままあったりするんだよなあのホスト。

「失礼致します」

 境さんを先頭に社長室に入ると、相変わらずのホストスタイルでお高そうな革製の椅子に座ってらっしゃる。

「おぅ、来たか」

 そりゃあ社長に呼ばれりゃ嫌でも来るさ。

「お呼びでしょうか?」

 まぁ上司と部下の間柄ですから、ここは丁寧に穏便に。

「あぁ、まずは座れ」

 社長に勧められたソファーの下座に腰掛けると、ホストは私の向かいに座った。

「あの、ご用件は?」

 そう、一体何の用なんだ?

「単刀直入に言えば異動の話だ」

 は?

「えっ? 私がですか?」

 冗談でしょ? 弥生ちゃん三月で辞めるから人員減るんだよ。

「あぁ、今回はそれなりの大型異動だな」

 また? イレギュラーで十一月にしたばかりじゃない。

「私一般職です」

「内部異動なら一般職は理由にならん」

「でも……」

 なら何故私なのかますます分からない。

「だが今回は外部異動への打診だ、西日本倉庫の経理課に行ってもらいたい。返事は来月十日、それまで持ち帰って考えろ」

 冗談じゃない、オリエンテーリングで引率担当だったスパルタがいる部署でしょ?

「そんな、私できません」

 悪いがお断りさせて頂く。一般職社員の外部異動は任意で構わないんだから。それに今辞令なんか出されたら明生君と一緒にいられなくなるじゃない。今度こそ失敗したくない。

「即日返事は認めてない、期限内で目一杯考えろ。家族間であれば相談しても構わねぇが、返事は三月十日に聞く」

 それでも答えは変わらない、家族への相談も必要ない。 

「おい五条」

「はい」

「男でもいるのか?」

「えっ? あっ、いえ。その……」

 実は今彼に復縁しようと言われてる。けどまだ返事はしていないからどう答えたらいいのか分からない。

「話は終わりだ、業務に戻っていいぞ」 

 このタイミングで異動の打診だなんて……神様は何故私たちの味方をしてくれないの?

「失礼します……」

 私の頭は鈍器で殴られたかのようにぐゎんぐゎんと揺らいでいるような感覚があった。社長室から出ようと立ち上がったが、ショックのせいか視界がぐらぐらとしてきちんと歩けているかすら微妙な状態だった。

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