第九話 イルカさんとデート 前編
基地の最寄りの駅から電車に乗ると、水族館に行くらしい親子連れの姿もあった。おチビちゃん達が楽しそうに、クラゲがどうのとかイルカがどうのとか、ママがパパが大好きなカメちゃんはいるかなあなどと、お母さんとお父さんに話しかけている。
「そう言えば
「はぁぁぁぁぁ、それをここで言わないでくださいよ、せっかく忘れていたのにっ」
せっかく頭の中から追い出して、聞かなかったことにしていたのに!
「どうして? せっかくドルフィンキーパーになったんだ、ウォークダウンでの一番の見せ場でもあるプリタクを、お客さんの前でできるなんて、喜ぶべきことなんじゃないのか?」
「喜ばない人もいるんです」
「どこに?」
「ここに。少なくともここに一人!」
自分のことを指でさす。
「もしかして、あがり症とか?」
「あがるとかそういう問題じゃなくて、私が得意なのは機械いじりであって、人前でどうとかこうとかする能力は、そこに含まれていないんですよ」
「そうなのか。でも、班長からじきじきに言われたんだろう?」
「
「だったら頑張るしかないな。頑張れ、浜路さん」
爽やかな声と笑顔で言われても、避けて通りたいという気持ちは変わらない。
「それに初めての日が一緒だなんて、お互いに心強いじゃないか」
「今の機体チェックの時でさえ緊張するんですよ?
もしかして、曹長はお客さんに背中を向けているから、あまり気にならないんだろうか? そういう意味では、お客さんと向き合うかたちで立っている私のほうが緊張するのかな?
「それは俺も同じだよ」
「白勢さんでも緊張するんですか?」
お客さん達に囲まれても穏やかに笑っているし、飛行展示中のアナウンスでも、いつも爽やかボイスで、噛んだところなんて一度も聞いたことがなかった。そんな白勢さんが緊張するなんて想像できない。
「当然だろ? 特に俺は一般の大学からきた人間だ。一般大学から来たパイロットは、幹部としては役立つけど腕は大したことないなんて、言われたくないからね。そういうプレッシャーもある」
「そんなことを言う人がうちにいるんですか? 信じられない!」
白勢さんは航学出身ではなく、一般幹部候補生の飛行要員として、航空自衛隊に入隊してきた人だ。だから昇任という点からすると、航学出身者に比べてかなり恵まれていた。だけど、そのこととパイロットとしての技量は別問題だと、私は思っている。
「べつに面と向かって言われたわけじゃない。だけど、そう考える連中もいるってことさ。もちろん、ここにはそんなことを考えている人間はいないよ。ブルーに呼ばれた時点で、少なくとも技量は認められているわけだしね」
「ここでそんなこと言ったら、隊長の後ろに乗せられて
「隊長は分かるけど、なんでそこで坂東三佐が出てくるんだ?」
ボッコボコは言いすぎでも、少なくとも一回か二回は力加減せずにボコると思う。
「あれ、白勢さんは聞いてないんですか? 坂東三佐と
「なるほど、それは良いことを聞いた。正式に三番機を任されるようになったら、坂東三佐の前ではおとなしくしておくことにする」
「三佐の前でだけですか」
「ああ、もちろん赤羽曹長の前でも」
「……」
「なにか?」
白勢さんは真顔でこちらを見つめかえした。
「なんで私を含めてくれないのかなと思って」
「浜路さんの前では、おとなしくするつもりはないから」
「ええええ……」
まだしつこく「ハナヂさん」とか「ハマチさん」と呼ぶつもりなんだろうか。私の考えていることが伝わったのか、白勢さんはおかしそうに笑った。
「冗談だよ。浜路さんの前でも仕事中はおとなしくする。だけど……」
そう言うと、屈み込んできて耳元に口を寄せる。
「正式に三番機担当に決まったら、二人っきりの時はるいって呼んでも良いんだよな?」
耳元でそうささやかれたとたんに、体がゾワッてなった。
「だ、だからそれは正式に決まってからって言ってるじゃないですか! なんで今?! しかもわざわざ耳元で!」
また髪の毛が逆立ったような気がしたので、思わず頭のてっぺんを押さえる。大丈夫だ今のところ逆立ってない。うん、私の髪の毛はおとなしくしている。
「そこで耳を押さえるなら分かるけど、なんで頭を押さえてるんだよ」
白勢さんは、わけが分からないよという顔をしてみせた。気になるのはそこですか?
「だって、そんなふうに近くでささやかれると、頭の毛が逆立ちそうなんですよ!」
「へえ。さらにいいこと聞いた」
ニンマリと笑みを浮かべるところがなんとも憎たらしい。坂東三佐より私のほうが、先にモンキーレンチを手に白勢さんを追い掛け回すことになりそうだ。
「いいことじゃないです」
「そうかなあ」
「そうなんです。さっさと忘れてくださいよね」
「耳元でささやくのはNGってことを?」
「そこを忘れてどうするんですか」
よけいなことを知られてしまったかも。白勢さんが三番機を任されるようになったら気をつけないと。この人の前では、ずっとイヤーマフをつけておくべきかもしれない。
+++++
最寄りの駅で電車を降りると、駅から水族館まではシャトルバスが出ているらしく、駅前のロータリーに水族館直行のバスが停まっていた。正面から見ると、水族館のシャトルバスらしく、可愛いイワトビペンギンの顔をしたラッピングバスだ。
「ふふ、可愛い」
スマホを出して、正面からのバスの写真を撮る。帰ったら他の子にも見せてあげよう。……ん?
「……」
「どうした? バッテリー切れ?」
横に立っていた白勢さんが声をかけてくる。
「……え? ああ、違うんですよ。可愛いバスだから、写真を撮って隣の部屋の子に見せてあげようって思ったんですけど」
「けど?」
「誰と行ったのって話になったら、どうしようかなって」
私がそう言うと、白勢さんはなぜか少しだけ悲しそうな顔をした。
「俺と一緒に来たのを、知られたくないとか言うんじゃないだろうね?」
「そんなことないですけよ。でもほら……」
「ほら、なに?」
なんて説明したらよいのか分からなくて、両手をヒラヒラさせながら言葉を探す。
「あまり良くないんじゃないかなって、思うわけですよ。そりゃ、三番機にたずさわる同僚同士として、親睦を深めるのは良いことだとは思いますけど、白勢さんは男の人で私は女で、しかも今日は二人っきりだし、しかもお昼ご飯を一緒に食べてからの水族館だし」
私の言葉に、白勢さんがおかしそうに笑い出した。
「まったく浜路さん、一体いつの時代の人なんだよ。いい年した大人が、二人で昼飯を食べて水族館に来たことのどこに、問題があるのさ。もしかして、隊則にそんなことでも書いてあったかい? それに忘れているかもしれないけど、最初は因幡さんと奥さんも一緒の予定だったんだぞ?」
それは分かっている。だけど重要なのは「今」私と白勢さんの二人だけってことだ。
「そうなんですけどね。なんていうか、色々といい年しても、女の子ってあれこれうるさいんですよ、うん」
「男の俺には、女の子の理屈はさっぱり分からないな」
「女の私にもよく分からないんですけどね……」
とにかく女の子というのは、いくつになっても、どんな仕事をしていても、そういうことに敏感なのだ。私には、イマイチよくわからない世界なんだけれど。
「白勢さんは大丈夫なんですか? 私と二人でお昼ご飯を食べてから、水族館に来たことを他の誰かに知られても」
「まったく困らない。それに因幡さんのことだ、休み明けには皆の前で、中華は美味かったかーって俺に声をかけてくるだろうから。たとえ今ここで俺が誰にも言わないと約束しても、あっという間に知れ渡ると思う」
「そうなんですか」
まったく、因幡一尉ときたら困った人なんだから。
「とにかく、そういう馬鹿げた考えは横に置いておいて。せっかくの休みなんだ、今日はイルカショーを楽しむこと。了解?」
「……そうですね。うん、せっかく来たんだし、イルカのショーを楽しまなきゃですよね。はい、了解しました」
そう返事をすると、白勢さんはよろしいとうなづいて私の腕をとると、シャトルバスに乗り込んだ。空いている席に落ち着いてからハッとなって、横に座った白勢さんの顔を見た。
「あの、白勢さん?」
「なんだ?」
「これってもしかして……」
「もしかして?」
「デートってやつですか?!」
とうとう白勢さんは、その場で涙を流しながら笑い出してしまった。あの、私、そんな変なことを言った?
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