ウィザリア国王位継承事件~ワガママ男爵令嬢は新国王には興味ゼロ~

いとう ゆうじ

第1話 王都仮面舞踏会

「あんなに楽しみにしてたじゃねぇですか。行きましょうよ姫様」

「いやよ。出たくないわ」


 馬車の中で少女がむっとした顔をしている。馬車を降りればそこはもう舞踏会の会場なのだが、淡い桃色のドレスを着た少女は不機嫌そうに座ったまま動かない。


「なんでっすか。さっきまで早く行きたいなんて言ってはしゃいでたのに、着いた途端機嫌が悪くなっちまって……。何が気に入らねぇってんですか」


 両膝をついて少女を見上げていた男はため息を吐いた。


 男の名はジョックス。跪いていても分かるくらい身体の大きな男だ。あちこち跳ねている黒髪の足をリボンで結んでいる。目は青く、顔のつくりは良いのだが眉間に寄ったしわが目立つ。歳は二十だが、体躯としかめっ面の所為で実際の歳よりも五つは上に見られがちだった。


「ドレスよ。このドレスと同じようなドレスを着た方がいたのよ」


 栗色の髪の少女の名はティーナ・メレズディ。透き通るような白い肌に、小さな顔。薄い茶色の目は大きいが鼻は小さく、唇は柔らかそうな桃色だ。レースのあしらわれた袖から出ている指や腕は細いが、胸は大きく膨らんでいる。身長が低く可愛らしい顔つきのため幼く見られるが、ティーナは十六歳。来年成人を迎える歳であった。


「ドレスゥ!? そんなのなんでもいいじゃないですか!」


 ジョックスは呆れた声を出した。するとティーナは口を尖らせて言うのだった。


「よくないわ。半端な格好は嫌なの。ドレスは可愛くなくちゃいけないの。わたくしが目立たないといけないの。見たことのあるデザインなんて嫌。わたくし好みの可愛さでなければそれも嫌」

「そんなこと言ったって、ここにドレスはそれしかねぇっすよ。大丈夫ですよ姫様。姫様は何でも似合いますし、それを着た姫様が一番かわいいですよ」

「わたくしが何でも似合って可愛いのは当たり前よ。分かっていないわねジョックス。他人にどう見られるかじゃないわ。わたくしがどう思うかが重要なのよ。とにかく、わたくしが嫌と言ったら嫌なのよ!」


 そっぽを向くティーナ。ジョックスは「どうしろってんだ……」とガシガシ乱暴に頭を掻いた。ティーナが機嫌を損ねることはよくあるのだが、今回ばかりはどうしようもなかった。舞踏会はすでに始まっており、ティーナとジョックスは会場の目の前にいるのである。一体全体何ができようか。


「田舎からはるばる王都までやってきてこれかよ……。もうじき結婚するから特別にってラルク様も遠出を許してくださったってのに……。なぁ姫様。いいんですか? 馬車を降りれば楽しい楽しい舞踏会ですよ? 本当に行かねぇんですか?」

「いやよ」

「そう言わずに。今日の舞踏会は王子様も来るかもしれないって話じゃねぇっすか。あの、誰も見たことがないって噂の王子様ですよ? 会いたいと思わねぇですか?」

「誰も見たことがないのなら、会っても王子殿下とは分からないわ」


 ティーナはつん、とそっぽを向く。ジョックスはがくりと項垂れた。こうなってしまったティーナはてこでも動かない。


 ティーナとジョックスの住む町はここ王都から遠く離れた田舎町である。


 どこか遠くへ遊びに行きたいとティーナが駄々をこねたので、ティーナの祖父にあたるラルク・メレズディ男爵が渋々王都での社交界の招待状を見せてくれたのだった。


 ラルクを口説き落とすには随分時間がかかった。ラルク・メレズディ男爵は温和だが厳しい人物で、普段はこんな遠出を許さない。しかし来年ティーナが結婚するということやストーカー紛いのジョックスの説得でなんとか折れてくれたのである。


 ジョックスの苦労はそれだけではない。ここまで来る間もティーナが様々な無理難題を押し付けたので難航した。なんと、馬車でゆっくり移動しても一週間程度の距離を二週間かけてやってきたのだった。


 それだけの苦労をしてようやっとここまできたというのに、目と鼻の先で行きたくないと駄々をこねられるなんて冗談じゃない。


コンコン


 頭を抱えていると馬車の扉を叩く音がした。ジョックスが振り返り、ティーナが目だけを動かして「なあに?」と返事をすると、扉が開いた。


「お待たせいたしましたティーナ様! 新しいドレスをお持ちいたしました!」


 白いボンネを被ったメイド姿の少女が身体の前にドレスを出す。


 ふわり。ふんだんにレースをあしらった若草色のドレスが宙で踊った。途端、ティーナの目が輝いた。


「まぁ! とっても可愛い!」


「気に入っていただけて何よりです。閉まっていた店のドアを力いっぱい叩いた甲斐がありました。さぁ、こちらに御召し替えを。ジョックスは今すぐ出なさい」


 メイドはしっし、と追い払うような手つきでジョックスを馬車の中から追い出した。ジョックスが転がるように外へ出るとすぐに中から鍵がかかった。


 追い出されたジョックスは安堵のため息を吐く。


 これで何とかなりそうだ。毎度のことながら姫様のワガママには困ったものだ。そんなことを考えながら腕を背中に回し、背筋を伸ばして立った。ジョックスの身長は二メートルを超えるので立っているだけで人払いになる。


 しばらくして扉が開く音が聞こえ、ティーナが出てきた。先ほどのメイド、ララが持ってきたボリュームのある若草色のドレスに身を包んでいる。


 世辞を抜きにして、ティーナは可愛らしい。それも桃色や若草色のような淡い春の色がよく似合った。


「……」


 無言で見つめているとティーナが柔らかく笑った。


「どうかしら?」


 白い手袋をした右手を出すティーナ。


「……似合ってますよ、姫様」


 ジョックスは左手を出した。その大きな手の上に、ティーナが小さい手を乗せて馬車から降りた。


「当然よ」


 ふふ、と満足そうに笑うティーナ。ジョックスは「へいへい」と軽く返した。


「行ってらっしゃいませティーナ様。ジョックス、ティーナ様をしっかりお守りするように。粗相のないようにするのですよ」


 腰の辺りで手を揃え、ララは下からジョックスを睨みつけた。


 ララはジョックスと同じくティーナに仕える使用人である。ボンネでほとんど隠れているが髪は癖のない赤毛で、目尻の上がった猫のような緑色の目をしており、歳はティーナと同じだ。偉そうなのはこの歳の少女にありがちなことなのだろうか、と何度ジョックスが思ったか知れない。


「わーってるよ」


 ため息交じりに答えるとララはさらに眼光を鋭くした。


「それじゃぁララ。楽しんでくるわ」


 ティーナが顔の横で手を振る。するとララの表情がぱっと笑顔に変わった。


「行ってらっしゃいませ」


 軽く頭を下げるララ。慣れているのでため息も出ない。


「行きましょう」


 ティーナがジョックスの腕に自分の腕を絡めた。


 馬車から会場までは石畳の一本道だ。すでに夜の帳の降りた辺りは暗く、会場だけが煌々と輝いて見える。


 舞踏会が始まったのは数時間前。時間が経っているにも関わらず、出ていく人数よりも入って行く人数の方が多い。


 貴族は夜更かしだ。


 ジョックスはそんなことを思いながらティーナをエスコートする。ジョックスとティーナにはかなりの体格差があるが、二人はぴったり歩調を合わせている。


「ジョックス、忘れないようにね」


 言いながらティーナは顔の上半分が隠れる仮面をつけた。派手な装飾が施され、本物の鳥の羽のついた白い仮面である。ジョックスもそういえばという顔をして、似たような仮面をつけた。濃紺のジュストコール、黒い髪によく似合っている。


「素敵よ。いいじゃない」


 ティーナが笑いかける。ジョックスも口の端を上げた。目元が隠れていると随分優しい笑顔に見える。


 これから二人が参加する舞踏会はただの舞踏会ではない。仮面舞踏会だ。国内全土の男爵家から公爵家が集う仮面の舞踏会である。噂では、今回の仮面舞踏会にはただの一度も公の場に姿を見せたことのない王子様も参加するのではないかと言われている。


 仮面、舞踏会。会場に入ってしまえば身分の差はない特別な舞踏会。何家の誰々という肩書きを隠し、その表情と共に心の内さえも隠す、仮面の舞踏会。


 ティーナとジョックスは出入り口にいた使用人に招待状を渡し、会場の中に入った。


 途端、ジョックスは気圧された。


 大きなホールの見渡せる階段の上。がやがやと煩いホールには煌びやかに着飾った紳士淑女が花のように咲いている。大理石の床は無数の光を反射してキラキラ輝いていて、天上に描かれた神々と天使の絵はホールに咲いた人々を映す鏡のように鮮やかだ。


 場違いだとジョックスは思った。


 メレズディ家はラルクが畑や牧場しかなかった村を発展させ、初めて爵位を拝命し、つい三十年ほど前に貴族の仲間入りをしたばかりの成り上がり貴族だ。浅い歴史を辿ってみてもこのような大きな社交界に出たことはほとんどない。加えてジョックスはメレズディ家の使用人で、男爵家でもないのである。王都に足を踏み入れただけで圧倒されたのに、このような華やかな場所に来て目がくらむのは当たり前だった。


「ジョックス、何をしているの?」


 呼びかけられてハッとした。


 声のした方へ視線を動かすと、ティーナがいつの間にかジョックスの腕を離れて階段を降りようとしていた。


「おいで。こっちよ。わたくしはこっちよ」


 ふふふと笑ってティーナは階段を降りていく。巨大なホールの中へ溶け込んでいく。


 ジョックスは驚いた。


 ティーナは花のような紳士淑女たちにも引けを取らなかった。小柄で、貴族と言えど田舎娘なのに、ティーナは溶け込んでいるのだ。見た目の華やかさもそうだが、ラルク譲りの物怖じしない性格、堂々とした態度がそう見せているのだろう。


 ジョックスは口元を綻ばせた。


「お待ちください、姫様」


 言ってジョックスはティーナを追った。


 ジョックスがホールに降りた時にはもう、ティーナはどこかの若い男に声をかけられていた。一際目立つ、見事な装飾の入った臙脂のジュストコールを着た派手な男である。鳶色の髪は右側だけ編み込んでまとめており、顔の上半分は銀色の仮面で隠してある。


「押しても引いても動きそうにない大木のような男の登場だ。貴方の連れですか? 若草の姫」


 男がジョックスに一瞥をくれる。体躯の良いジョックスを見ても男は気圧されなかった。


「あら。そんなこと関係あるかしら。彼がわたくしの連れでもそうでなくても何も変わらないでしょう? わたくしたちは仮面舞踏会に来ているのですから。もしかして、わたくしよりも彼がお気に入り?」


「あはは!」


 紳士にしては珍しく、男は声を上げて笑った。大きな声だったので周りの何人かが彼に注目した。


「いやいや、これは失礼いたしました。そうですねぇ。そんなことは全然全く関係ない。私という一人の男は貴方という一人の女性に興味があって声をかけたんだ。彼のことを聞いたのは野暮、でしたね」


 どこか芝居がかったように話し、男はこほん、と一つわざとらしく咳払いした。


「では改めてお誘いを。若草の君。私と素晴らしく素敵な一時を過ごしませんか?」


 右手をティーナの顔の前に出す。男が手首を回すと、どこからともなく桃色のバラが現れた。ティーナはぱっと瞳を輝かせた。


「すごいわ! とっても素敵! 初めて見る芸だわ! それにわたくし、お花は大好きよ。貴方、人を喜ばせるのがお上手ね」


 バラを受け取るティーナ。男はそれを肯定と受け取り、ティーナの肩に腕を回した。ジョックスが仮面の下で眉間にしわを寄せる。


「お褒めに預かり恐悦至極でございます。こんなことも出来ますよ」


 今度は左手を出し、くるりと回した。


「すごい!」


 ティーナは手を叩いて喜んだ。


 いつの間にか男の手に小さな白い鳥が乗っている。小鳥はピチピチと鳴き、じっとティーナを見ている。ティーナが手を出すと、小鳥はティーナの人差し指に乗った。


「可愛いわ。小鳥も好きよ」


 人差し指で撫でる。小鳥は気持ちよさそうに目を細めている。


「それは良かった。小鳥も喜んでいることでしょう」


「この小鳥は放しても貴方の元へ戻ってくるの?」


 小首を傾げるティーナ。大きな目が男を見つめている。


「えぇもちろん。そのように躾けてあります」


「では外に放してあげても良いかしら。ここは鳥には窮屈でしょう」


 男は金色の目を数回瞬いた。それからまたははっと声を上げて笑った。


「もちろんです。夜ですから遠くへは行かせられませんが、風のあたる所で羽を伸ばしてもらいましょう。自由であればこその鳥です」


 男が開いたままになっている扉の方へ誘導する。カーテンで隠れているが、その向こうは庭になっているはずだった。


 ティーナは男に肩を抱えられながら歩いた。ジョックスは二、三歩距離を取って二人の後を追った。


「銀の方! 銀の方!」


「もう一度、あれを見せて!」


 じきに外へ出るかというところで男を呼び止める者がいた。深紅のドレスの貴婦人と群青色のドレスの貴婦人の二人である。


「貴方たちは先ほどの。私の芸を気に入ってくださったのですか?」


 男は笑顔で答えた。どうやらティーナの前に喜ばせた女たちのようだった。


「もう一度見たいの! 見せてくれないかしら?」


 貴婦人は興奮した様子だ。心なしか息も荒い。見たことのない芸を見せてくれたこの男を探してホール中を歩いたのかもしれなかった。


「そうですね……」


 男はちらとティーナを見た。ティーナは二人の女を気にする素振りもなく、にこりと笑った。


「貴方のしたいことをするべきよ。わたくしはこの小鳥を自由してあげたいから行くわ」


 男の腕の中からティーナが抜け出し、離れていこうとする。その肩を、男は少しだけ引き止めて耳元に顔を寄せた。


「後で必ず行きます。それまでどうか、消えてしまわないで」


 ティーナが振り返った時にはもう、男は二人の貴婦人に芸を披露しているところだった。


 ティーナは少しだけ目を細めてからカーテンをくぐって庭へ出た。


 明るいホールから漏れた光が真っ暗な庭をぼうっと照らしている。ティーナが指を頭の高さまで上げると、小鳥は建物の方に羽ばたいていった。小鳥を追うように視線を上げながら振り返る。


「!?」

「っ!?」


 空色の目が目の前にあった。


 ティーナが驚いていると空色の目はティーナから離れ、少年の姿を現した。金というには白っぽく、銀というには黄色っぽい、くせのある髪。青に銀の装飾の入った仮面をしており、濃紺のジュストコールを着ている。


 どうやら誰もいないと思って出てきてティーナにぶつかりそうになったようだ。


 少年はふらふらとたたらを踏み、しかめっ面をして頭を押さえながら壁にもたれた。


「頭が痛いの?」


 少年がティーナを見た。見えている肌が青白い。


「君には関係ないだろう」


 冷たい態度だった。大きなピアスが不満げに揺れている。ティーナは少しむっとして口を尖らせた。


「気になるのだから仕方ないでしょう? 構ってほしくないのなら、構われないようにするべきよ」


 言ってティーナは少年との距離を詰めた。


 ティーナよりも頭一個分大きいが、ティーナが小柄なので少年も男にしては小柄なようだ。


 少年は距離が近くなってぎょっとした顔をしたが、離れようとはしなかった。抱えている頭が痛いせいかもしれなかった。


「お酒臭いわ。どれだけ飲んだの?」


「君には関係ない。早く室内に戻ったらどうだ」


 少年は態度を変えなかった。酒を飲んでいるようなので、見た目は少年に見えても成人しているのだろう。


「いやよ。わたくし、もう少し外にいたい気分なの。貴方こそ中に戻ってどこかで休ませてもらったら良いじゃないの」


「そんなことは出来ない」


「あら。一言頼むだけでしょう」


「そういうことじゃない。……こんな姿を皆に見せられないから、頼まないだけだ」


「それでも十分見苦しいと思うのだけれど。貴方お酒に弱いんでしょう。弱いなら弱いなりに上手く立ち回らないと、今みたいに見苦しい姿を晒すことになるわよ」


「お前、今、俺のことを見苦しいと言ったな?」


 突然男の瞳がギラついた。射殺すような目をティーナに向ける。


「言ったわよ」


 ティーナは悪びれる素振りもなく言った。


「だってそうでしょう? 自分に適した量も分からないなんて自分に対する怠慢だわ。無理矢理勧められることもあるでしょうけれど、断る時は断らないと。断れないなら上手くあしらう術を身に着けるべきだわ。それも出来ないなら他人に頼りなさい。助けてくれる人をつくるのよ。それを全て怠っているのだから、これは貴方の努力不足よ」


 努力不足、と男は唇だけで呟き、口を押えて視線を下げた。確かにそうかもしれない、と思っている顔である。


「人は自分一人ではないの。外に出て誰かに会うのなら、自分だけのことだけではなく、他人のことや他人とどう接するべきなのか考えなくてはいけないのよ。これはその一つね。良ければこういう時のために役立つことを教えてあげるけれど……」


 男がティーナを見た。垂目がちな空色の目が輝いて見える。ティーナはふふんと悪戯っぽく笑った。


「貴方、わたくしには関係ないと言ったわよね。だから教えてあげないわ」


 ぷいっとそっぽを向くティーナ。


「……」


 沈黙。


 男は目を大きくしてティーナを見つめていた。


「……先ほどのことは謝ろう」


 数秒の沈黙の後、男は小さな声で言った。


 ティーナが目を男に向けた。


「確かに君の言う通り、俺の努力不足だ」


 男は口元を押さえながら空色の目を泳がせている。


「……お、俺は……。な、何を……」


 言うことがまとまっていないのか、男の口から出てくる言葉には意味がない。対してティーナはにこにこと笑いながら口を開く。


「なあに? はっきり言いなさい」


「……」


 男は黙ってしまった。きゅっと唇を結び、視線を下げて何かを考えている。


 ティーナは肩を落として男の隣に並んだ。男が驚いて少しだけ身を引く。


「貴方、謝ろう、とは言ったけれど謝っていないわよ。ちゃんと謝って」


 間が開いた。先ほどよりも長い間だった。


「……申し訳なかった」


 目を反らし、男はギリギリ聞こえるくらいの声を絞り出した。不本意だ、という気持ちが伝わってくるが、同じくらいの誠意も伝わってくる。


「いいわ。許してあげる。それで、わたくしにどうして欲しいの?」


 男が目を動かすと、じいっと見つめるティーナの大きな目とかち合った。う、と男は言葉を喉で詰まらせた。


「……こ、こういう時どうすれば良いのか教えてほしい」


 するとティーナは待ってましたと言わんばかりの顔でにこっと笑った。


「簡単よ! わたくしと一緒にいれば良いのよ!」


 男はぽかんと口を開けた。拍子抜けだった。それのどこが対処法なのか。


「君、俺をからかっているのか?」


 男はティーナを睨みつけた。これだけ焦らされて教えてもらえた答えがそれでは納得がいかない。


「からかってなんていないわ。それが対処法なのよ。いいから黙ってわたくしの側にいれば良いわ。深呼吸でもしてみなさい」


 ティーナは大きな胸を張っている。男ははぁ、とため息を吐いて寄りかかっている壁に体重を預けた。聞いたのが間違いだった、とでも言いそうである。


 それから男は腕を組んで目を閉じ、呼吸に集中し始めた。ティーナの言う通りにしようと思ったわけではない。ただ、今までずっと喋っていたティーナが黙ったので自分も黙っただけだった。


 しばらくして、深く息を吸うと花のような香りがすることに気がついた。


 何の香りだろうと目を開けてその香りを追ってみると、ティーナの横顔が目に入った。


 香水だろうか。ティーナから花のような香りがする。それも甘い香りではなく、少しさわやかで、それでいて刺激のある、けれどもしつこくなく、むしろ安らぐような不思議な香りだった。


「どうかしら? 気分は楽になった?」


「えっあ……」


 にこりと笑ったティーナの笑顔で顔が熱くなったような気がして男は目をそらした。


 そうして気がついた。気分がよくなっている。びっくりしてティーナを見ると、ティーナは笑っていた。これがティーナの言っていたことなのかとも思ったが、気持ちの良い夜風に当たっていたからかもしれない。


 男は思考を巡らせた。すっかり頭痛は治っている。そんな男の様子に気づいたティーナが満足そうに笑った。


「お兄様がよく言うのよ。『ティーナの側にいると気分がよくなる』と。最初はわたくしを社交界へ連れ出す口実かと思ったのだけれど、どうやら本当に気分がよくなるらしいの。わたくしには人を癒す効果があるのね」


「いや、君の香水だろう。その香りには安らぐ効果があるようだ」


 男が冷静に分析した結果を述べると、ティーナは口を尖らせた。


「こういう時は、そうだねすごいねと頷くのよ。貴方がどんな人付き合いをしているのか分かってしまったわ。正直なのは良いことだけれど、時には相手を喜ばせる言葉を選ぶのも人付き合いには大事なのよ」


 珍しくティーナが軽くため息を吐いてみせる。男は唇をへの字に曲げてむ、とした顔をしてから口を開いた。


「良かった! ここにいたんですね!」


 男は何か言おうとしたが、違う男の声が聞こえたので口を閉じた。ティーナと男が声のした方を見ると、長い金髪を首の後ろで一つにまとめた男がひょっこりカーテンの間から顔を出していた。


「ふらふらどこかに行ってしまわれたので探しましたよ~! ベル様はすぐ酔う癖に断れませんからね~」


 言いながら男は外へ出てきた。青いジュストコールを着て青い目で柔和に微笑む、人のよさそうな男である。ティーナの身長では、仮面の右目に埋まっているレンズが反射して男の右目は見えなかった。


「もしかしてお邪魔でしたか?」


 金髪の男は申し訳なさそうな声で言ったが、ベルと呼ばれた男はいや、と首を振って答えた。


「気分もよくなったので今戻ろうと思っていたところだ」


 ぱ、と金髪の男の表情が明るくなる。


「そうですか。では私は中で待っていますね。それではレディ。失礼いたします」


 ティーナに頭を下げ、金髪の男はホールへ戻っていった。


 ベルと呼ばれた男は背筋を伸ばし、気合を入れた様子でカーテンをくぐろうとした。


「お待ちになって」


 それをティーナが呼び止めた。男が訝しげな顔をして振り返ると、ティーナは男のジレに何かを突っ込んだ。男はぎょっとしてティーナが突っ込んだ物を取り出した。


「これは……」


 ティーナのしていた白い手袋だった。


「また気分が悪くなった時のために、連れていってあげて。わたくしは貴方の側にいられないから」


 男はじっとティーナを見る。にっこり、ティーナが可愛らしく笑うと、男は突然ぼっと顔を赤くして逃げるようにホールへ戻っていってしまった。


「あら、お礼もないの」


 ティーナは唇を尖らせ、カーテンをくぐった。


 ホールに戻るとワルツが始まっていた。今まで気づかなかったのが不思議なくらい、室内が音楽で満たされている。息を吸うと空気と共に音楽が身体の中に入って来るような気さえする。


 管弦楽団の奏でる音楽に合わせ、ホールの真ん中では男女が手を取り合っていた。個々を見るとバラバラなのに、不思議な一体感がある。その中にはジョックスの姿もあった。身体が大きく頭一つ分出ているのでよく分かる。


 姿を見ないと思ったら、どうやら貴婦人に掴まっていたらしい。どこかぎこちないワルツを踊っている。ティーナに気づいたジョックスは助けを求めるように目配せしたが、ティーナは気づかなかったふりをして目をそらした。代わりに、


「ねぇ貴方。わたくしと踊らない?」


 腕組みし、壁に背を預けて立っていた長身の男に声をかけた。


 真っ直ぐな長い黒髪に黒一色の衣装、黒い仮面といった全身真っ黒な、カラスのような男だった。


「誰がお前のような女と踊るか」


 男は一瞥もくれず、吐き捨てるように言った。ティーナはむっとした顔をした。


「踊りたくないならそう言えばいいでしょう」


「勘違いするな。踊りたくないのではない。お前のような女が嫌なのだ」


 ぎろり、と男は真っ赤な目をティーナに向けた。それに加えて威圧的な態度。常人が彼のような態度とその目を向けられたら震えあがっているところだろう。しかし、相手はティーナである。


「わたくしのどこが気に入らないのよ」


 ティーナは頬を膨らませて真っ直ぐな目で男を見ている。男は壁につけていた背を浮かせ、小首を傾げてティーナを上から下に見た。ティーナと男の態度には大きな温度差がある。


「全て、だ。その幼げな容姿、生意気な目、この私に口答えする態度。全てが気にくわぬ」


「酷い人ね。無知や性格を詰るのは許せても、このわたくしの容姿を詰るのは許せないわ。お母様からいただいた大切な身体なのよ。謝りなさい」


 男はハ、と鼻で笑った。


「母を出すか。まだ乳離れ出来ていない赤子のようだな。女であるお前からダンスに誘ったのも、思考が幼いからか? 見目相応に中身も幼いようだな」


「あら。どうしてわたくしからダンスに誘ってはいけないの? わたくしは貴方と踊りたいと思ったから誘ったのよ。それの何がいけないのかしら。男が女を誘うのが決まりだからとでも言うの? 決まりが何だっていうのよ。踊るきっかけなんて何だって良いじゃない。それとも貴方、ダンスが苦手なの? 安心して。わたくし、ダンスは得意なの」


 ティーナは胸に手を当て、ふふんと得意げに笑って見せた。すると男は上体を曲げ、上からティーナを見下ろしてきた。黒い長髪がするすると背中から流れ、ティーナの頭の上から顔の横までカーテンをつくる。


「減らぬ口だな。利けぬようにしてやろうか」


 男の白く、長い指がティーナの首に伸びる。


 びく、とティーナの身体が震えた。


 冷たい指が肌に触れ、細い首を掴もうとする。


「レディ」


 途端、男の手が止まり、するりと解けた。


 ティーナが声のした方を振り返ると、背筋をスッと伸ばした姿勢の良い男が立っていた。青鈍色の前髪を上げ、白い仮面をした男である。ほとんど黒い深緑のジュストコールを着ている。


「私と踊っていただけませんか?」


 男が手を出す。ティーナは咄嗟に黒髪の男を振り返ったが、驚いたことに、男の姿形はなくなっていた。ティーナは目を大きくした。


 まるで、一瞬だけ、黒い悪夢を見ていたかのような……。


「レディ」


 もう一度、青鈍色の髪をした男が呼ぶ。ティーナは唇を結んでから男の方に向き直った。


 数秒、男を見つめたまま固まる。男は手を出したまま微動だにせず、ティーナを待っていた。


「……喜んで」


 一度出そうとした言葉を飲み込んでから気を取り直してにっこりと笑い、ティーナは男の手を取った。


 男は慣れた手つきでティーナをエスコートし、曲に合わせて踊り始めた。ティーナもそれに合わせて身体を動かす。男は身長の低いティーナを気遣って足を運んでくれるのでティーナは随分踊りやすかった。


「お上手ね」


「恐縮です」


 男は軽く礼をした。律儀な男である。


「ダンスはお好き? わたくしは好きよ」


「好きでも嫌いでもありません」


 正直な男である。


「それでは何がお好きなの?」


「剣術でしょうか」


「まぁ、すごいわ。貴方が剣を持っている姿は様になるでしょうね。剣術のどこがお好きなの? わたくしは剣など持ったことがないから分からないの。教えてくださる?」


「そうですね……。他者と戦い、勝利を得るというのが分かりやすい成果で、喜びを実感しやすいです。ですが私は強くなるために身体を鍛え、精神を鍛えるといった日々の鍛錬こそが喜びではないかと思っています」


 くっつけていた身体を離し、くるくると回ってからティーナは再び男に身体をくっつけた。


「素敵ね。剣術もお好きなのでしょうけど、ご自分のことが大好きなのね」


 男は灰色の目を少しだけ大きくして沈黙した。


 1、2、3 1、2、3


 ワルツが三拍子を刻んでいる。


「……そうかもしれませんね」


 それだけ言ってまた男は黙ってしまった。唇を引き結び、目は目の前のティーナではない何かを見つめている。無表情のため分かりにくいが、何かを考えている様子だった。ティーナも口を閉じたので、二人は無言で踊り続けた。それでも不思議と居心地の悪さを感じなかったのは、踊っていたからだろうか。


 曲が終わって、ティーナと男は離れて向かい合った。すると男が深く頭を下げた。


「申し訳ありません。少し考え事をしてしまって……。貴方に楽しい時間を与えられたのか、自信がありません」


 真面目な男である。


 ティーナはくすくすと笑った。


「ご自分のことを考えていたんでしょう? やっぱり、ご自分のことがお好きなのね」


 男は口を閉じた。無表情だが、どこか、バツの悪そうな顔のような気もする。ティーナはそんな男の両手を取った。


「いいのよ。わたくしも自分が大好きよ! 当たり前のことだわ。自分のことが大好きでないと自信なんてつかないのだから、自分を好きでいるべきなのよ。貴方は大きな自信を持った、素敵な方なのよ」


 真っ直ぐな笑顔を向けられ、男は初めてはにかむように笑った。


「そう言っていただけると嬉しいです」


 それからすぐ無表情に戻り、男は胸に手を当てた。


「このお返しはまたいつか。再びお会いできることを天に祈りましょう」


「あら。わたくしを探して会いに来てくださらないの?」


 くすりと笑うティーナ。


「……ごもっともです。では、後日改めてお返しに伺いましょう」


「待っているわ。その時はわたくしをうんと楽しませてちょうだいね?」


「私の出来る限りを尽くします。それでは」


 男は軽く礼をしてから機敏な動作でティーナに背を向け、人々の間に消えていった。


ワッ


「!」


 突然会場が湧いた。小さな悲鳴も交じって聞こえる。


 ティーナは急いで首を右や左に動かして会場が湧いた理由を探した。見つけるのに苦労はしなかった。探し始めてすぐ、ホールの真ん中あたりに不自然な空間が出来ていることに気がついたのである。ティーナは何が注目されているのか確認しようと、少し移動して人々の隙間から空間を覗いた。


 男が立っていた。


 真白な男だった。白い衣装に、白い仮面、白い肌。そして、一際目を引く白く真っ直ぐな長髪。


 何もかもが、白い。男が立っている部分だけ漂白したように白い。この世のものとは思えないような、あまりにも現実離れした容姿であった。


 周りの人間は完全に気圧されていた。言葉を発することなく、およそ人とは思えないその男を見つめていた。


 騒然とした空気の中で次の曲が、始まる。


 男はふと目が合った若い女をダンスに誘った。言葉は発しない。ただ、女に赤い目を合わせ、手を差し伸べたのである。女は微笑をたたえる男と差し伸べられた手を何度も交互に見て、恐る恐るといった様子で手を取った。


 そうして二人はゆったりと踊り始めた。


 1、2、3 1、2、3……


 白い男と若い女がステップを踏みながら回っている。女の着ている赤いドレスに白い男はよく映えた。


 周りの人間はしばらく二人を見つめていたが、ふと我に返って各々ダンスをし始めた。皆の動きがぎこちない気がするのは、意識の隅に白い男の存在があるからかもしれない。


 ティーナの前にも男が現れた。赤毛の男だった。ティーナは笑顔で男の申し出を受けようとした。


「きゃっ!?」


 しかし、横から誰かが赤毛の男のために差し出したティーナの手を取り、身体をかっさらった。ダンスの足の運び方だが、動きが大きいのでほとんど移動しているだけに近い。


 びっくりしたティーナは目を大きくさせ、身体をくっつけている人物を見上げた。それでさらにティーナは驚いた。


「貴方っ」


 先ほどの男だった。あの、壁際にいた真っ黒な男だ。


「貴方、わたくしとは踊りたくないと言ったじゃない!」


 堪らずティーナが不満を漏らすと、男は赤い目で睨んだ。


「光栄に思え。私と踊ることなど二度とないぞ」


「勝手な人ね! 貴方こそ、わたくしと踊れることを光栄に思いなさい! わたくしと踊れる機会は二度とないわよ!」


 ティーナはぷんぷん怒りながらも動きを止めなかった。ホールを横断する勢いで大きく動く男にしっかりついてきているのである。これだけ動きが大きいと振り回されるだけでダンスというよりは連れ回されているといった印象になるのだが、二人のそれはダンスに見えた。


 男はじっとティーナを見た。


「なあに?」


 むすっとした顔でティーナが見上げる。男はすぐに目を反らしてしまった。


 足がもつれるのではないかというくらい目まぐるしく立ち位置が変わっているにも関わらず、二人は美しい姿勢を保ったまま踊り続けている。人々の間を縫って足を運び、人にぶつかりそうになる度に、男は乱暴にティーナを振り回した。ティーナは「もうっ」とか「危ないわよ!」などと口に出すが、男は聞こえているのかいないのか全て無視だ。コミュニケーションも何もない。それでもダンスの形が取れているのは、双方の技量あってのことなのだろう。


 ぐるぐる回る視界に慣れてきた頃、ティーナの目にはあるものが頻繁に映り込むようになっていた。


 あの白い男だ。


 離れたところにいたのに今は近くにいる。どうやら目の前の黒い男は、あの白い男に近づこうとしているようだった。ティーナは目を細めて男を見上げた。案の定、男の目は白い男を捕らえていた。


 もう少しで隣に並ぶ。そう思った時、ティーナの肩甲骨あたりに添えられていた男の手が離れた。不審に思って動かしてみた視界が、何か、光る物を捕らえた。


「貴方っ何を考えているの?!」


 光るものが刃だと気づいたティーナが声を荒げる。


 男がちらと赤い目でティーナを見た。その瞬間、ティーナの背にゾッと冷たいものが走った。


「貴方ッ……!」


 獣のような目。何かを心の底から憎む者の目だった。


 黒い男は血のように真っ赤な目を光らせ、右手に刃を持ち、ティーナを隠れ蓑にして白い男に近づこうとする。黒い男の狙いが白い男だということは明確だ。


がくんっ


「!」


 突然男がバランスを崩した。赤い獣のような目がティーナを睨む。ティーナは薄い茶色の大きな目で睨み返した。ティーナがどっしりと体重をかけて男のバランスを崩し、行く手を阻んだのである。しかし、小柄なティーナではコンマ何秒の足止めにしかならなかった。


 ティーナを引きずって、黒い男が、白い男に向かっていく。


「ジョックス!」


 ティーナは大きな声でジョックスを呼んだ。体重をかけても、服を掴んで引っ張っても、男は止まらない。


 もう、振り返れば白い男に手が届く位置。


「姫様!」


 その位置で、どこからともなくジョックスが現れた。


「この方を捕まえて!」


 ティーナは掴んでいた男の左手と胸の服を強くぎゅっと握った。ジョックスが黒い男の背中側に身体を滑り込ませて腕を出した。しかし、男は寸でのところで機敏に上体を下げ、ジョックスの腕を避けてしまった。


「ちっ」


 ジョックスは舌打ちし、自分の腕の下を潜り抜けようとする男を引っ掛けようと足を出した。


とんっ


「わっ!」


 背中が誰かにぶつかった。ジョックスが気を取られたその瞬間に、男は踊り続ける人々の中に紛れてしまった。それでも長身のジョックスには逃げていく男の姿が見えていた。追いかけようとしたが、胸に手を添えられて思いとどまる。視線を下げるとティーナが寄り添っていた。


 だがティーナはジョックスを見ていなかった。ティーナが見ていたのはジョックスがぶつかった相手だった。


「邪魔をしてしまってごめんなさい」


 ジョックスはティーナの視線を追って振り返った。


 白い男だった。ぶつかったのはあの白い男だった。


 ジョックスは目を大きくして絶句した。あまりにも現実離れした容姿が不安を掻きたて、知らぬ間に彼からティーナを遠ざけようと彼女の両肩を軽く抱いていた。


 男はぶつかった時にダンスを止めたのだろう。彼の向かいにはパートナーだった女性が困惑した様子で立っていた。二人は、いや、ティーナとジョックス、それからあの黒い男以外には何が起こったのか分からないはずだ。無理もない。ただ、ジョックスが白い男にぶつかったという事実だけが転がっている。


 白い男は唇に笑みを浮かべたまま首を振った。気にするな、ということらしい。


 それから男はすっと手をティーナの前に差し出した。


 曲はまだ続いている。ダンスのお誘いらしかった。


 ティーナは無言でその手を取った。白い男がティーナを引き寄せ、足がステップを踏み始める。ジョックスは二人の姿を視界で捉えたまま、残された若い女をダンスに誘った。


 白い男は笑みを絶やさなかった。常ににっこりと笑った状態でティーナを見つめている。それでいて全く口を開こうとしないのだ。


 変な男だと、ティーナは思った。まるで彫刻のようだ。生気がない。作り物のような男。


 そうこうしているうちにすでに終盤だった曲が終わり、二人は立ち止まって向かい合った。男がさらに笑みを深くする。ティーナが何も言わずに見つめていると、男は身体を屈め、ティーナの右手を持ち上げて指先に口づけをした。


 ティーナを見つめたままの赤い瞳が、笑っている。


 男が、屈んだ身体を持ち上げようとした。


 しかし男の身体は持ち上がることなく倒れてしまった。


「きゃあっ!」


 巻き込まれたティーナは下敷きにされた。


「姫様っ!」


 ジョックスがすぐさま飛びついて男の身体を退け、ティーナの肩を抱いた。


「大丈夫ですか?」


「わたくしは大丈夫よ。けれど、あの方は……」


「きゃぁぁぁぁぁぁ!!」


 ティーナの声と甲高い女の叫び声が重なった。


「死んでいるっ死んでいるわっ!」


 先ほどまでジョックスと踊っていた女が倒れている白い男を指差して叫ぶ。すると不安と恐怖は一瞬で波紋のように広がり、次々に人々は叫び始め、倒れた男とその脇で身を屈めているティーナとジョックスを取り囲むように距離を開けた。逃げはしないのは、こんな時でも好奇心を隠しきれないからだろう。


「ジョックス、確かめて」


 指示を受け、ジョックスは白い男の唇に手をかざし、それから手の脈を取った。


「……きれいに死んでますよ、これ」


 ティーナは口を押えた。


 ジョックスの言う通り、男は綺麗に死んでいた。


 男の現実離れした見た目そのものもそうだが、一見したところ何の外傷も見受けられないのだ。だた、男はそこに倒れ伏し、死んでいるのである。真っ赤な目を、開けたまま。


「姫……!?」


 ティーナのところへ戻ろうとしたジョックスは、複数の足音が近づいてきていることに気づいた。バタバタと騒がしい足音の中に、金属のこすれる音も紛れている。


「姫様!」


「二人とも動くな」


 立ち上がろうとしたジョックスの首に剣が突き立てられた。


 視線を上げる。


 青鈍色の前髪を上げて、白い仮面をしている男がジョックスを見下ろしていた。


「貴様らはこの男を殺した容疑でこれから裁判にかけられる。そこを動くな」


 男は氷のような冷たい声で言った。

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