008.心
フェンは家族連れや若者で溢れるショッピングモールの中には、少々似つかわしくない男だった。上半身は白いシャツ一枚、足には黒いスーツパンツを身に纏い、気怠げに辺りを見渡している。シャツから浮き出る、スマートに鍛えられた肉体と、あらゆることに無関心なような、静かに落ち着いた瞳。それらから湧き出る底知れない雰囲気が、只人ではない感じを彼に与えていた。
彼にくっついているカムニエも、この場においてはかなり異質であった。ダボダボの黒いスーツジャケットを着て、股下までを何とか隠した、幼い少女。このスーツはフェンのものであることは明らかであり、そこから覗く脚や肌は汚れて、何か訳ありなことが見て取れる。
否が応でも目立つ二人は、周りの人間からしげしげとした視線を集めながら、モールの中を服屋へ向かって歩いた。
「見られて……ますね」
「まあ、仕方ないな。少し目立つからな、俺たちは」
「私のせいですよね……すみません」
顔をうつむけて謝るカムニエに、フェンはその砂交じりで乾いた髪を撫でて、笑いかけた。別に目立つことは悪いことではない。謝る必要はどこにもないのだ。
それに、カムニエが目立つ原因は身なりだ。服をちゃんとしたものに変えて、風呂にでも入ってさっぱりすれば、彼女は普通の女の子に早変わりするだろう。
そのことを話せば、カムニエの瞳は輝いた。風呂という単語が彼女の心に火をつけたようだった。彼女は一人で過ごしていた時期には、水浴びすらまともにできていなかったのだ。
フェン達はモール内の女性用の服屋にやってきた。フェンの姿は女性の多いこの店では少し目立ったが、彼が手を引くカムニエの姿を見れば、誰もが微笑ましそうに彼らを見るのだった。
「わ、綺麗……懐かしいなあ」
カムニエはずっと昔、家族そろっていた時のことを思い返して、顔をほころばせた。
「好きなのを選びな。とりあえず全身揃えよう」
フェンはきょろきょろと服を見回しているカムニエを見守りながら、ベンチに腰掛けた。
彼はこの場に対して特に何も感じてはいなかったが、場違いであるとは思っていた。
カムニエという少女と共に来たことで、下着やフリフリのスカートなんかが売っている場所にフェンが居ても、特に眉を顰められる事はない。しかし、彼自身は血煙がこびりついた、異端の存在だ。例え周りがどう見ようが、彼は自分を平和が似合わない人間だと思っている。自分の中に平穏を忌避し、のんびりとした空気から逃げ出したい心がある事を、彼はしっかりと自覚していた。
この場の平和な、倦怠のある空気は、少しばかり肌に合わないことを、彼は無感動に感じていた。
「あ、あのっ……」
ぼうっと座っていたフェンは、カムニエの掠れ気味の声を聞き、そちらへ目を向けた。彼女は一枚きりのセールのワンピースと、この店で最も安い下着と靴下を一セット抱えて、申し訳なさそうにフェンを見ていた。
「……それだけか?」
「あ、はい……多すぎましたか?」
「いや、大丈夫だ」
フェンは僅かに目を細め、もっと沢山服を買ってやろうかと考えた。しかし、カムニエに対する同情と憐憫は、すぐに意思の尊重という無気力に取って代わった。
カムニエとフェンは初めて会った間柄だ。そんな相手に高価なものを買わせるのは、カムニエの様な
それに、初対面の少女にあまり世話を焼きすぎても、少女の心の内から出てくるのは、不信と怯えだけだと、フェンは知っていた。彼女のような人種は、自分が価値あるものだと考えられないのだ。環境による卑屈は根が深く、転じれば傲慢となり、中々中庸の感覚を取り戻せるものでは無い。
尤も、もしカムニエへ与える事によって、彼女が傲慢を知ったとしても、キーラという杭打ちが存在している限り、彼女から怯えと従順の愛らしさが剥がれることはないだろう。
フェンは会計を終え、カムニエに試着室で買ったばかりの服に着替えさせた。ボロきれのようなかつての服をゴミ箱に放り込み、新しく綻びのない服を身につけたカムニエは、恐ろしく不幸そうな難民の少女から、貧乏臭い汚れた少女と言えるくらいまでには、身なりを改善できた。これを改善と言えるのかは判断が分かれるところだが、本人は幸せそうなので、悪いことではない。
「あとは飯だな。何か食いたいものはあるか?」
「あの、サンドイッチが食べたいです!」
カムニエは思いもよらず食い気味に、母がよく作ってくれた料理の名を口にしていた。
それから、彼女の心には、家族の思い出が湧き上がった。
知らぬ街、知らぬ人、知らぬ場所。それらの中で彼女の慰めになるものは、今は遠い家族の思い出だけだった。
リンの中に姉のような幻影を見たものの、そのリンは病院へ運ばれてこの場所にはいない。彼女の心には、泥土から染み出す湧き水のようにじわじわと、家族への恋しさが思い出されてくるのだった。
彼女の目には、知らず知らずのうちに涙が浮かんでいた。フェンは指でそれを優しく拭い、その華奢な手を引いた。
「なに、きっと大丈夫さ。また会える。俺の勘は当たるんだ」
フェンのその言葉には、限りない優しさが秘められていた。少女の涙は止まり、彼を見る目には親愛の情が煌めいた。
フェンはその瞳を見つめ返し、僅かに微笑んだ。かつて、この様に純粋な目で見つめられた事があったことを、彼は静かに思い出していた。
二人の食事には暖かな空気があった。
少女は
◆
病院五階の隅の、言葉も喋れないような人間がベッドに横たわっている四人部屋に、リンは運ばれた。全身の処置は終わり、包帯やガーゼが全身に巻かれた上で、水色の病服を身につけている。
「何か体の調子が悪かったりしましたら、コールボタンを押してください」
「ええ、ありがとうございます」
リンは付き添ってくれた看護師に礼を言うと、その背が部屋を出ていくまでぼんやりと見つめていた。周りの患者たちは昏睡しているか寝ているか、はたまた言葉も喋れないほど弱っているかで、この新しい同居人に煩わしい挨拶をかけることはなかった。
リンのベッドは窓際で、開いたカーテンには暮れゆく茜色が反射していた。ガラス越しの景色は背の低いビルと多少の小さな店や家屋ばかりで、細い道にはちらほらと通行人の姿が見えた。世界は茜色の夕日に染められて、リンの頬にも茜の光が照った。
ベッド脇の白い台には看護師の置いて行った水のボトルがあったので、リンは蓋を開けてそれを飲み、ベッドに寝転がった。水は温く、濃霧の様にとらえどころのない熱を冷ますのには、何の役にも立たなかった。
リンは弱っていた。
火傷の処置は施されたとはいえ、相変わらず酷いものであり、肉体への負担は大きかった。
それに、リンは孤独だった。リンには心を許せる友が居た試しがなかった。医者も、看護師も、病室の人間たちも、彼女の心には何の慰めにもなりはしない。彼女は怪我よりもむしろ、精神的な弱体に陥っていた。
普段の氷の如く凛とした彼女であれば、孤独など何の障害にもなりはしなかった。しかし、弱った肉体は引きずる様にして、彼女の精神の要塞をじりじりと追い詰めていった。
彼女は驚くべきことに、怪我らしい怪我をしたことが無かったのだ。初めての傷――今回のは初体験にしては
リンはぼうっと熱を持った頭で、自分はこれほど弱かっただろうかと考えた。
寒いのだ。
全身は暑くて、痛くてたまらないが、そんなものは問題ではない。
胸の内の痛みと、凍えるような冷たさだけが耐え難い。
それは彼女が初めて感じる痛みであり、精神の救難信号とでもいうべき性質のものだった。年頃の――それこそスクールに通っているべき年齢である彼女の精神は、乾いた血と硝煙の臭いに耐えられる構造ではないのだ。
弱くては死んでしまう、怯えれば付け込まれる、信じれば裏切られる。命が軽く、死が隣人であるこの世界で生きていくには、他人を信用するなど不可能であった。力こそ全て――それこそが傭兵世界の掟であると、リンは本能的に学習し、またそれが事実であることを、生きていく中で知った。
そんな世界で生き残るために、彼女の精神は尖り、人を寄せ付けぬ見えない壁は分厚くなっていった。楽しいという感情がどんな感覚だったのか、彼女の心は既に忘却していた。孤独の病は随分と前から彼女に
それでもリンが正気を失うことなく生きてこれたのは、生来の鉄の様に芯の通った性格があればこそだ。あまりにも強靭で迷わない気性のおかげで、彼女は危うい精神のバランスの上にしっかりと自分を保っていられた。しかし、一度
彼女に必要だったのは、誰か――自分の全てを預けられるような、絶対的に安心を与えてくれる――端的に言えば、自分の弱さの全てをさらけ出して甘えられる相手だった。
「よお、大丈夫か?」
病室の扉が開き、スーツジャケット姿の男が現れた。リンは横目でその姿をぼんやりと風景画の様に眺めていたが、彼に続いて入ってきた少女によって、リンの壊れた感覚は不格好に修正された。
「あの、大丈夫ですか……お見舞いに……」
「あら、カムニエちゃん……綺麗になったわねえ」
清潔なワンピースを身に付け、艶やかに纏まった髪を腰まで下ろした美しい少女。
その少女はカムニエだった。
身なりは変わったものの、サファイアの様に透き通る純真な青い瞳だけは、何も変わっていなかった。
カムニエを認識したことによって、隣の男がフェンだと、彼女はようやく理解した。フェンは気遣うような優しい瞳でリンを見つめていた。カムニエは持ってきた袋からフルーツを取り出して、丁寧に台に並べた。
「別に……わざわざ来なくても……よかったのに」
リンはこれほど渇いた自身の言葉を聞いたことが無かった。その明らかに内心と矛盾した言葉は、彼女の作り上げた精神の防壁――今や壊れてしまった壁の、最後の発露だった。
そして、露わになって弱り切った心からの声なき声は、一滴の涙となってリンの瞳から溢れだした。
信用できない!
恐ろしい!
隙を見せればやられるぞ!
そんな風に警告を発していたものは、既に瓦礫と化して沈黙していた。
彼女の理性は、相手がつい昨日出会い、少し助けられただけの傭兵であると警鐘を鳴らしていた。初めに優しい顔をして、後から牙をむくような人間はいくらでもいる。こんな薄い関係の相手に弱みを見せるなど、正気ではない! そうやって叫んでいた。
しかし、魂からの衝動に理性は殆ど無視され、また本能は彼を信頼できると判断を下した。
涙は一滴から次々と零れ、やがて一筋の線となって、双眸から流された。
フェンは何も言わず、シーツに顔を押し付けて嗚咽をこぼすリンの頭を撫でた。
カムニエはどうすればいいか一瞬戸惑っていたが、すぐに決意を秘めた顔つきになり、ぎゅっとリンの体を抱きしめた。
部屋の扉の向こう側では、キーラが寄り掛かって沈黙を守っていた。彼の瞼は無感動に閉じられ、口元は何の動きもなく閉じられていた。彼はリンの涙声が終わるのを待たずに目を開けると、静かに去っていった。
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