武満徹の音楽による心象

ざき

遮られない休息Ⅰ

 夏の日は残酷に路面を焼き、大気との境に陽炎がおどっている。


 停留所に立つ私の元に、女は歩み寄ってきた。清潔な真白いワンピースにサンダル。つばの広い日除け帽を被り、藁編みのバスケットを携えている。生温い風が吹き、塩気のある香りが鼻先を掠めた。

 汗の香り。

 女の香り。

「バスをお待ちなの?」

 女は私に訊ねた。

「ええ」

 私は短く答えた。

 女はそのまま、私の隣に立った。


 バスはまだ来ない。


 女は静かに路線図を眺めている。色分けされたそれを目で辿りながら、声に出さずに停留所の名前を唇でかたどっている。白い歯が覗いた。私は思わず顔を背けた。

東大沢ひがしおおさわは、随分と遠いのですね」

 女は言った。

「終点ですからね」

 私は少し苛々いらいらした。


 何台もの車が、熱気と悪臭を纏って走り去っていく。

 バスはまだ来ない。


 女は路線図から目を離した。そしてバスケットをまさぐると、林檎を一つ取り出した。熱に浮かされて輝くその表面に、女は白い歯を立てた。


 しゃくり。


 唾液と果汁が溢れ、女の口元を汚した。唇から滑り降りた蜜は顎先に集い、珠となって地面に垂れた。

 気付くと私はハンカチで彼女の口元を拭っていた。実の如き肌を傷つけぬよう、丁寧に汁を拭き取る。女はされるがままで、林檎を咀嚼している。しゃりしゃりという音だけが、私の耳に聞こえていた。

 最後の欠片を飲み込むと、女は私を見て笑った。そして齧りかけの林檎を私の手に乗せると、背を向けて歩き出し、瞬く間に陽炎に溶けた。


 林檎は重かった。

 そして、あの女が齧った分だけ軽かった。

 私はハンカチで林檎を包み、空き缶だらけのごみ箱へ放った。



 バスは、まだ来ない。

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