薔薇鉄冠の儀 Ⅷ
胸を張り、両肩で風を切って堂々と立つ姿は、一介の女学生のものではない。
たとえ彼女が身にまとうのがボロ一枚であったとしても、その圧倒的な存在感を前に、誰しもが
「……グエナヴィア様」
床にくずれ落ち、舌に乗せたその音を噛みしめるよう、ジェイシンスは顔をゆがめた。左胸に手を当て、恭しくその
「今ふたたび、貴女に薔薇鉄冠を捧げます。失われた日々を取り戻すため」
巌窟のなかを、黄金色の花びらが舞う。
風に赤毛を絡ませながら、ジェイシンスは懇願する。
「どうかこちらへ、陛下……」
彼が遠くから差し出した手を、エリファレットは拒んだ。嫋やかな笑みを
「一人だけ特別扱いはできないよ、ジェイシンス。お前が望んでいるのは、わたくしからの特別な愛。
ジェイシンスは瞠目し、血の気の失せた唇をわななかせた。
長い睫毛を伏せ、きつくその下唇を噛みしめる。
「そうだ」――こみあげる憤怒に乱れた声が、地下神殿の静寂をかき乱した。
「貴女はいつもそうだ。そう言って、誰をも自分から遠ざけた……。遠からず死ぬ
私たちの道を妨げるものをすべて排除する――
ジェイシンスは大声で告げ、右腕を宙に掲げた。無数の
その光に照らされた緑の瞳に過ぎるのは、痛みだけだった。
「門の島から来たる者よ。汝、なにゆえわれを忘れ、われを棄ておき給う。われの目は涙の爲に潰れ、われの心は憂う――」
掠れた声が詠唱を紡ぐ。地の割れるような轟音とともに、どこからともなく海水が噴出した。エリファレットの膝から下がすっかり浸かるほどに海面は上昇してゆき、白波が立つ。
「天にましますわれらが神、汝のしろしめす海の園はことごとく涸れ、その首は奪われん。ああ哀しいかな。われはよもすがら泣く、痛みに悲しみに、これを慰むる者ひとりだにない。われは荒れた海を永久にさまよう。涙面のまま」
黒い海水を
ぶるりと一度大きく身を震わせ、蛇は長い尾で地面を払った。多量の海水が跳ね、視界が白くけぶる。さらにその下にある石床が抉れると、宙を舞った瓦礫が降り注ぐ。エリファレットがみずからに降りかかろうとする瓦礫に気付くが早いか、彼女を片腕に抱き寄せたサイラスが後方に飛び退き、難を逃れた。
「ミドガルズオルム属の毒蛇だ。毒液を吐くことはしないが、噛まれたら即死だ」
「うっかり毒腺を斬ろうものなら仲良く皆で地獄行きというわけか。急所を一撃でやるのが無難だな。設計図を出せるか、サイラス?」
ナサニエルと背中合わせに立ったサイラスは、エリファレットを片腕に抱えたまま、無言でうなずいた。周囲に文字盤が浮かび、そのなかから特定の文字列を指先で引き抜く。
大蛇の生体情報を取得したのだ。長い
それをナサニエルに投げて寄越した瞬間、蛇の頭がふたりの間に割り込んだ。水浸しになりながら、分断された男たちは左右に散る。
寸でのところで立体像を掴んだナサニエルが、「先祖がえりは便利で羨ましいよ」と言って片目を
しかしすぐに真剣な顔つきに戻ると、片手剣を握り直し、蛇を睨み据えた。
「サイラス」
サイラスの小脇に抱えられたエリファレットが、声を上げた。
「……何だ」
「ジェイシンスのところに行く」
間髪入れず、「駄目だ」と拒否される。
「退路を切り拓く。地上に逃げろ」
右腕の袖を
「思い上がるなよ、サイラス。お前にわたくしを止める権利などない。わたくしが行きたいと望むのならば、それを叶えるのがお前の仕事」
「そうだろう?」と同意を求めれば、彼は一瞬、口ごもった。
「上手にできたら、褒美をやる」
その言葉にサイラスは舌打ちをした。「さっきから、グエナヴィア様のふりをしているな」――押し殺した声で囁きを落とす。
「やめてくれ。喜びが沸き上がってくる。あの方はもういないのに……まだいるように錯覚してしまう!」
彼の表情に、胸をかきむしられるような痛みを覚える。しかしエリファレットは「そうか」とうなずくと、平然とした態度を貫き通した。
「門の島から来たる者よ。われの声を聽しめよ」
エリファレットを抱えてないほうの右腕が発光する――次の瞬間、水の上を這うように、ジェイシンスのいる祭壇の手前まで、荊棘を組んだ道が形成される。
スカートの裾を持ち上げ、エリファレットはその上に降り立った。
「海水一滴でも私の服に跳ねたら許さんよ、サイラス」
「……援護する」
棘のある硬い茨が複雑に絡み合い、形成された道だ。エリファレットは迷うことなくその道を進んでゆく。
視線はまっすぐ――その先にいるジェイシンスだけを見据えて。
後方で、サイラスが詠唱をとなえた。間を置かず、地下神殿にもう一体の生物が出現する。
――竜だ。
漆黒の鱗に覆われた竜が、咆哮とともに毒蛇の首に食らいついた。苦しみにのたうち回る蛇の尾が跳ね、エリファレットの前方を
その直後、荊棘の地面が高く盛り上がった。無数の薔薇の蔦が意思を持って蠢き、毒蛇の尾に絡みつく。鬱陶しそうにそれを振り払おうとして、蛇の尾は寸でのところでエリファレットのいる方向を外れ、真横から生えた水晶群を砕いた。
竜の背を駈け上ったナサニエルが、大蛇の頭にむかって跳躍する。彼の右腕の先で煌めくのは剣の切っ先だ。
それを視界の端に捉えた瞬間、背後からエグランタインの大声が響いた。
「おい、ナサニエル!」
「――門の島から来たる者よ」
ジェイシンスの紋が光ったのだ。
「天は黄金をうしない常闇に變じてゆく」
そのとき、毒蛇の鱗が変容した。全身の鱗が蠢いたかと思えば、無数の棘が生えた――先ほどの
その針の
振り返れば、エグランタインが右腕を掲げていた。
「……へっ、おっさんにはちょっと荷が重かったか?」
地上に降りたナサニエルを見届け、エグランタインは苦笑を漏らした。
毒蛇の表皮から生えた棘の先端は、組み合う竜の鱗の隙間を縫うと、さらにその内側にある肉を突き破った。竜はなおも果敢にその喉もとに食いついている。噴出した蛇のものでない血が、雨のようにエリファレットに降りかかった。
しかし顔色ひとつ変えることなく、血に濡れた茨の道を歩くことをやめない。
「まるで……」
サイラスは囁いた。
「本当にグエナヴィア様が帰ってきたかのようだ……」
――そんなはずない。
たとえ禁忌を犯して記憶を継承させようとも、その魂ともいうべき部分、思考回路や精神性までを複製できるわけではない。用意した器に用意した記憶を入れたところで、そこには既にエリファレット自身の記憶と経験が蓄積されている。ならば彼女の自我を消去すればいいはずが、ジェイシンスはそうしなかった。
そこに彼の迷いがあるのだと、サイラスは思う。
祭壇の前に辿り着いたエリファレットを前に、ジェイシンスは両腕を広げた。
「陛下。陛下。陛下――グエナヴィア様」
爛々と輝く彼の瞳に映り込んだ自身の顔を見て、エリファレットは顔を
けれども、今はこの演技を貫かねばならない。海水に濡れた手を伸ばし、地面に跪いた男の顔を、そっと包み込む。すると、梔子の匂いがかすかに鼻腔を突いた。
頭に思い浮かんだのは、〝何十年も〟昔の記憶だった。
母である当時の女王の見舞いのため、ある朝馬車に乗り込んだ。そのとき気まぐれに窓から外を覗くと、屋敷の庭の片隅にたたずむ人影を見つけた。
朝露に濡れた、梔子の花を手折る少年だ。ヘウルウェン伯爵家の《紋》を相続させるため、度重なる近親婚を行った末に生まれた、赤毛で弱視の少年。穏和で臆病な性格のせいで、きょうだいからはいつも仲間はずれにされて、ひとりでいることが多いと聞く。噂を伝え聞くことはあっても、お互いに直接言葉を交わしたことはない――ただ彼の瞳に浮かぶ寂しさには、どこか心惹かれた。
王城から帰り、屋敷の自室に戻ると、花が扉の前に置かれていた。
無垢な梔子の花だ。
グエナヴィアは早速手紙をしたため、仲の良い侍女経由でそれを渡した。
――これはわたくしの好きな花。
それ以来、細々と、彼と文通をするようになった。大人になり、彼が宮廷魔術師になり――サイラスが城を去り、自身が離宮に移って死を待つまでの身になったあとも。
かつての記憶を懐かしみ、苦いものを噛むように味わいながら、エリファレットは瞼を伏せた。
長い睫毛を震わせ、しかし涙を流すことはけっしてないように振舞う。
「わたくしはお前を苦しめたのだな。お前の望むようにしてやれば、お前は幸福なのだと信じていた。――愚かだったよ。不幸も幸福も、孤独も、個人の物差しでしか測ることができない。他者からは知りようもないものだと……だからこそ言葉にせねばならないのだと……私自身がよく理解していたはずなのに」
今の彼に必要なのは、残酷な真実ではない。
嘘や偽り、空虚な演技で埋め合わせた優しさだった。その優しさでもって、彼の心を制さなければいけない。
震える指先で頬を撫でてやり、
「だが、私は孤独ではなかったよ。お前がいて、サイラスがいて、ナサニエルがいて……多くの愛に包まれていた。誰が欠けても駄目だった。だから今、お前たちが生きていることが嬉しい。だからこそ、ジェイシンス。これだけはお前に伝えなければ……」
穏やかな声で、エリファレットは囁く。
「グエナヴィアは死んだ。もうどこにもいない。魂は天に還り、肉体は朽ち果てた。たとえ三十四年の短い命であっても、このグエナヴィアの人生は光輝き、そして燃え尽きた。十分じゃないか。何も悔いることはない。わたくしは助からずとも、わたくしがひろめた生体干渉魔術は、これからも尊い生命を救い続ける。そしてわたくし自身も、愛し、愛され、幸福な人生だった」
「陛下……」
「何も案ずることはない、ジェイシンス。お前はもう自由だ。わたくしがいない世界でも、生きていけるんだ……」
ふと、灰の塊が背中を打った。竜の咆哮が響いたことで、毒蛇が消滅したのだと分かった。
項垂れた男の背に両腕を回し、子どもをあやすように抱き締める。
そこでエリファレットの心もまた、決壊した。
これ以上演技することに耐えきれなかった。
「せんせい」
涙でけぶる瞳をしばたく。視界のなかで、ジェイシンスは顔をゆがめる。
その瞬間――彼の中で何かが潰えたのがわかった。
「……ごめんね、エリファレット。……幻滅しただろう?」
エリファレットはいいえ、と首を振った。
「前にも言ったかと思いますが……そんなことはありません。学園長先生は、私にとっては育ての親同然です。私だけじゃなく、どんな子に対しても、先生は分け隔てなく優しいですから。たとえあの日、馬車に轢かれたのが私じゃなくても、先生は駆け付けたと……そう思います」
グエナヴィア様になれなくてごめんなさい、とエリファレットは呟いた。
はらはらとこぼれる涙を押さえるように、両手で顔を覆う。
「誰からも必要とされなくても、私はエリファレットでしかない。エリファレットにしかなれない。グエナヴィア様を演じて、それで先生が救われるなら、それは悪いことじゃないと思うんです。でも、グエナヴィア様そのものにはなれない……」
震える自身の肩を抱き締める。心が今にも凍り付きそうだ。
誰もが女王の影を自分に見出すとは、こういうことなのだと知る。けれどもオリジナルでない自分には、似たような振舞いをして、彼女そのものに漸近してゆくことはできても――けっして、同じものにはなれない。
その先にあるのは絶望と他者との断絶だと、エリファレットは思う。
「――エリファレット」
ジェイシンスが腕を伸ばした。彼が何かを言いかけた。
背後から足音が響いたのは、それと同時だった。
弾かれたように降り返ったエリファレットの視界に映ったのは、膨大な地下空間を覆う多量の灰――冷たい風が吹き、灰燼と黄金色の花びらが宙を舞う光景。そして自分めがけて駈けてくる、短髪の少女。
咄嗟に身を乗り出し、祭壇に手を伸ばした。
視界で硬い輝きを放つのは、鋼鉄の冠。
――薔薇鉄冠だ。
それに手が届いた瞬間、唇から、空気の漏れる異音が響いた。瑕ひとつない短剣が、背中に突き刺さっていた。
渾身の力を籠められ、深く
「――エリファレット!」
冷たい金属の塊を、それでも深く胸にかき抱く。崩れ落ちる。
自分に呼びかけたのが誰だったのか――わからぬまま、彼女の意識は途絶えた。
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