浴衣記念日

青辺 獄

浴衣記念日

 窓の外から聞こえる蝉の声を聞いていると、「ああ。いよいよ夏が来たんだな」と思う。暑いのが苦手な僕は、身体の底からじんわりと汗が吹き出してくるような感じが、あまり好きにはなれなかった。


 僕は部屋のエアコンを起動させる。人工的な冷気が、火照った身体から熱を奪っていく。心地よい。

 だけど、僕の彼女は、エアコンの設定温度を28℃以下にするは絶対に許してくれなかった。

「身体を冷やしすぎると、かえって暑くなっちゃうから」

 というのが彼女の主張であった。でも、本音を言ってしまえば単に電気代を節約したいだけなんだろう。


 だから僕は、部屋にいるときは扇風機を併用するようにしている。こうして効率よく冷気を対流させることで、エアコンの設定温度よりも涼しい体感を得ることができるのだ。

 扇風機を使うことに関しては、今のところ彼女のお咎めを受けたことはない。やっぱり、エアコンの温度を下げたがらないのは、電気代の節約のためなんだろうと思う。


 部屋を循環していく扇風機の冷風を浴びながら、僕はふと壁にかかったカレンダーを見た。明日の日付には、赤ペンで丸が囲ってある。そして余白の部分には、彼女の筆跡で次のように書かれていた。


『浴衣記念日』


 はて。なんだろう。

 僕は見たこともない記念日に、首を傾げた。


 世の中には、誰が決めたのかよくわからないような記念日が無数にある。だから、僕が知らないだけで、明日が『浴衣記念日』に制定されていたとしても、まあ納得はできる。

 気がかりなのは、その浴衣記念日をどうしてわざわざ彼女が祝うのか、ということだ。


「ねえ、これってどういう意味?」

 扇風機の前に座って風を独占しはじめた彼女に、僕は尋ねた。彼女は質問には答えなかった。暑さにうだった様子で、回転する羽と向かい合いながら、

「ん゛~~~」

 と、宇宙人のような唸り声を上げただけだった。



 ☆ ☆ ☆



 翌日。

 彼女は部屋のなかで浴衣を着ていた。紫陽花の絵がプリントされた、なかなか風流な浴衣だった。

 でも、どうして彼女は浴衣なんか着ているんだろう……?


「今日って、なにかイベントあったっけ?」

 暑さで性能の鈍る頭を抑えながら僕は言った。

「とくに、予定なんてなかったような気がするけれど」

「ん゛~~~」

 彼女は浴衣姿になっても宇宙人のままだった。扇風機の冷風を直に浴びながら、意味もなく唸るだけ。

 だけどその様子は、僕になにかを気づいてほしいような、大切なことを思い出してほしいような、そんな要求をしているように見えた。


 僕はどのように反応すればいいのだろう。浴衣をはためかせながら風を奪っている彼女を、僕は呆然と見つめるしかなかった。

「……記念日。覚えてないの?」

 ついに、彼女が人間の言葉を発した。しかしその言葉の意味は、残念ながら僕には理解できないことだった。


 いきなり記念日と言われても、なんのことだか見当もつかない。

 僕がしばらく黙っていると、彼女がぶっきらぼうに言った。


「……去年の花火大会」

「花火大会? それがなにか?」

「……褒めてくれたじゃない。私の浴衣姿」


 ああ。そういえば、そんなこともあったな。

 僕は記憶を引っぱりだして、彼女が言っている場面を思い出した。


 立ち並ぶ屋台。楽しげな人々。打ち上げられた花火――。

 その色鮮やかな光に照らされた浴衣姿の彼女を見て、僕は一言、「綺麗だね」と呟いたのだ。


 普段から自己表現が苦手な僕は、人を褒める時でさえお世辞っぽくなってしまうのだけれど、この時ばかりはとても素直に、彼女の容姿を称えることができた。


――でも。正直に告白すれば。

 あれは浴衣に対してというよりも、彼女の白く伸びた首筋に対して言った部分が大きかった。

 ちょっと後ろめたさを感じた僕を、じぃっと見すえる彼女。僕は一年ぶりになるその言葉を、まるで免罪符のように呟いた。

「綺麗だね」


 彼女の表情が、少しほころんだ。扇風機の風に煽られて後ろ髪がなびくと、白い首筋があらわになる。

 僕の言葉に嘘はない。と、思う。



 ☆ ☆ ☆



 今日は僕らの浴衣記念日――。

 僕にとっては『うなじ記念日』なのだけれど、それは僕一人だけで、祝うことにしよう。

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