奇妙なポテンシャル

 カティが住んでいるのは古くて風雨に汚れたデュプレックス(メゾネット)だった。

 飲み屋が軒を連ねる通りからちょっと引っ込んだ路地を抜けたところにあり、外からは近所の店のネオンサインがちかちかと差し込んで酔いどれの声が響いてくる。

 しかし部屋の中は設備や広さなど申し分ない。なかなか良い物件だった……戸外のうるさささえ気にならなければ。


 カティらしい殺風景かつ実用一辺倒の部屋で、部屋の主はこの珍客を手早くイエローテールや簡単な茹で野菜のサラダなどでもてなし、彼もなかなかにおいしく食べた。

 その後は消費期限ぎりぎりのゲロルシュタイナーと少し萎びはじめたライムで、カティの部屋にあった様々なスピリッツをハイボールにして飲んだ。

 話題は仕事の愚痴だった。


 カティは話してみれば面白い女だった。不思議と話しやすい。

 それに、言葉の端々に、真面目一辺倒で、異動したばかりでもたついている自分を理解してくれているのがわかる。

 カティも、トレバーに対しこいつ意外と喋るんだなと思った。


「でさぁ、僕、言ったんだよぉ、そんなの僕には無理だって」

「ほうほう」

「で案の定無理でさぁ……僕、女のそういうとこが嫌なんだよおおお」

「だよなあ!私も女だけどそれわかるぜぇ」

 酒が進むのと正比例して話題も落ちていく。

 落ちるの落ちないの、とうとう下ネタ、しかもシャレにならない実録回想ものに到達してしまっている。

「そうかそれでトレバーはホモになっちまったのかぁ」

「へ?」

 ラグの上に胡坐をかいているカティはだははは、と高笑いしながらばしんとトレバーの肩を叩いた。

「あんたホモだってもっぱらの噂だぞ」

「違う! それは違う!! 男なんかじゃ勃たないよ!」

 目の周りを赤くして、トレバーが何もそこまでと言いたくなるほどに力説する。

「え~? ホモだって聞いたから安心して部屋に招いてやったんだぞぉ?」

「何だよぉそれぇぇぇぇ」

「でも片っ端から女振ってんだろぉ? みんな知ってるぞぉ?」

「何で知ってるの?!」

「あんたに振られた女どもがあんたのことホモだって言って回ってんぞぉだははははは」

「あははははは」

 酔った勢いで一緒に笑っていたトレバーは、次のカティの台詞に凍りついた。


「ホモじゃなかったらインポかもっていう噂もあるんだぞぉだっはははは超ウケるよな!」


 事実でない噂は笑える。

 事実は笑えない。


 トラウマを鷲掴みされた顔で、撚りが解けてしまっている安物のラグに目を落としたトレバーに、カティは怪訝な顔をした。

「あれ? どうしたトレバー? ウケねえか?」

「……あ、ああ、うん……」

「……あ? ……まさか、ほんとに? まじか?!トレバー、こんなでかい図体でインポなのか?!」

 トレバーの強張った顔に、カティはびっくりした。


――男なんかじゃ勃たない、と言ったが女でも勃たねえのかこいつ!


 カティの驚いている様子に、トレバーは慌てて目を逸らし立ち上がりかけた。

「……僕、そろそろ帰る」

 触れてはいけない話題に触れてしまった動揺に酔いも加わってカティはとんでもないことを言い始める。

「あ、あのな……別にセックスとかできなくても全然……ほら、男でも女でもダメだったら、人間相手は諦めて人形ってのも」

 今まで幾度となく慰められたことはあるが女性からこういう切り口で来られたのは初めてだ。

「僕もう帰るうううううっ!!!」

 背筋こそ冷えたが酔いは最高潮に達している。ソファの脚に足の小指を強かぶつけ、転ぶように再び座り込んだ彼にカティがごそごそと這い寄ってきた。

「トレバーっほらっこれ!!」

 カティが部屋の隅に転がるクッションの下にあったタブレットを取り出し、とあるラブドール制作会社のHPを見せてくる。

「ほら、これとかいいんじゃね? 割とお買い得だし汚しても取り外して洗えるそうだし」


……何?

 何この人?

 僕に何をさせたいの?!


「ヒトでダメなら人形だ!人形でダメならえっと……動物?!」

 次はアダルトサイトを瞬時に表示して「ベスティアリティ(獣姦)」のページを開く。

「う~ん……これって虐待じゃねえのか?? これは私的にアウトだ……いっそここはスカトロ趣味いってみっか」


 なななななななに言ってんのこの人!

 何でこんなサイトがんがん開いてんの?!


「いや、そんなことするぐらいならもうずっと一人でいいから!」

「あ、一人でだったらできるのか……」

「……え……あ……もうやだあああ帰るううう!」

「帰ってもいいけどさ、一つだけ聞かせてくれ」

「何だよおおおおぉぉ!!! もおおおおおお!!」

「トレバーが一人でするときの『おかず』って何だ?」

 アルコールに上気しにじり寄ってきたカティの胸が膝に当たる。

よく見ると襟の隙間から、滑らかな胸元に谷間の始まりが覗いている。

「そりゃ……女の子だけど」

「歳は? ロリペドか? 老女か? 欠損趣味か? ネクロフィリア? それとも二次元趣味か?」

 どうしてそういう方向に持っていくんだこの人は……

「だいたい僕と同じ年齢くらいの地味な娘……」

 カティは彼から身を離した。

「何だ普通だな」

「普通で悪いか!」

「性癖が普通じゃねえから普通の女には勃たないのかと」

「僕はノーマル! とってもノーマルだよ! ただちょっと……」

「ちょっと……?」

 素面であればこんなに突っ込んだ「ツッコめない話」はしないのであるが、疲れとここ数日の不摂生の祟る身体に染みこんだアルコールで理性を飛ばしている二人は、わけのわからないまま抜き差しならぬ話題に踏み込んでいた。


「僕さぁ……まだ小学生の時、すっごく仲良かった近所の友達がいてさぁ、暗くてぼーっとしてる僕がいじめられなかったのは彼のおかげだったんだよ」

「うんうん」

「友達の母親もすごく優しくてさぁ」

「うんうん」

「で、友達のうちに遊びに行ったら友達は留守で、友達の母親が『あがっていけ』って……そしたら僕の服を脱がし始めて」

「おおおおおお!! エロ漫画みてえだな!」

 思わず身を乗り出し、生唾を呑みこむカティに、憂鬱そうにトレバーは言った。

「でさぁ……無理矢理された。すっごく嫌だったし、帰ってきた友達にも見られてさぁ……もうほんっと、最悪で、僕も友達も引っ越しする羽目になったよ」

 その時の羞恥、恐怖、罪悪感が一気に彼の性的な部分に相当なダメージを与えたのだろう。

 自分が「能動的」であった事実がないと男性の場合は性交はできない。その自己嫌悪がまたひどく彼を傷つけ続けていた。

 自分では忘れた、割り切ったと思っていてもこのような傷は人生に影響を与え続けることも珍しくはない。

「コットンフィールドさん、一つ聞いていいですか」

「いやです」

 トレバーが即答したにもかかわらず、カティは質問した。

「その時はできたんですか」

「できた……」

「おお! じゃあ何とか童貞じゃねえんだ! よかったな!!」

「何がよかったんだよ!」

「いやいやご謙遜なさらずともコットンフィールドさん」

「謙遜なんかしてないよ!」


 で、なぜそうなったのかは定かではないが。


「!!!!!!!!!!」

 無性に暑く重苦しい感覚に目を覚ますと温かく柔らかいものに自分がびったりとくっついていることをカティは知る。

 ぼんやりとみているうち、その温かいものには毛穴があり肌理があり、分厚い胸筋のかたちに割れて弾力があるのに気付く。

 慌てて起きあがってみると、自分をしっかり抱えているのは職場の隣のフロアの陰気でふにゃふにゃと曖昧に笑っている主任の男だった。

 しかも、すっぱだかで寝息を立てている。

 なお悪いことにカティも然り、一糸纏わぬ姿だった。

 がんがんと脈打つように痛む頭で昨晩の記憶をなぞっていく。


「このカティ様が男にしてやるぜ~~~!!」

と言った……ような気がしなくもない。

「できた~!! できたよカティ~!」

とかなんとか喚かれ、鼻水をべとべとと垂らされそれをげらげら笑ったような記憶もおぼろげにだが、ある。


 二日酔いで割れそうな頭に手をやり、わしゃわしゃと髪を掻き回しながらバスルームへ向かおうとすると、身体の奥からぬるっと何かが流れ出る感覚があり一瞬頭の奥が真っ白になった。

 恐る恐る、内股に手をやると、指先を濡らしたのは毎月見慣れた暗赤色の血液ではなく、自分に由来するものではないどろりと濁った大量の粘液だった。

 どうも自分はインポだという男と面白がって寝て、溜りに溜まったポテンシャルをインされてしまったらしい。


――とにかく、とにかくだ!

――一刻も早くシャワーだ!


「カティ……」

 背後から男の呻き声がし、カティはぎくりとした。

「どこ行くんだよぉぉぉ」

 甘えた声が気持ち悪く、つい不機嫌に低い声で答える。

「シャワー浴びんだよ」

 トレバーは腹這いになってカティの後姿を寝惚けた目で追い、しなやかな脚の内股から踝まで艶やかに濡れて光っているのを見てはねおきた。

「待って」

 起き出す気配にカティはちらっと目だけで振り向いたがその途端、どたばた走り寄ってきた大男に抱き竦められた。

「待ってってば!」

 そのままずるずるとベッドに引き戻され、両膝を掴まれてぐいっと開かれる。

「何すんだ! やめろよ!」

 慌てて肝心の場所を隠すカティの手には頓着せず、トレバーは顔を近寄せた。

 大きな鼻孔で熱心に匂いを嗅ぐ。

 雌の匂いに混じって、雄が分泌するアルカリ性の体液の強い匂い。

「やめろ!!! 警察呼ぶぞ!」

「ねえカティ」

「何だよ!」

「僕、できたんだね? 君と、ちゃんとできたんだよね?」

「あんま覚えてねえけど……状況的にはそうなんだろうな」

「夢じゃなかった……」

 大きな黒い目に涙を浮かべられ、カティは困惑した。

 女はとりあえず性的にどういう状態であっても、それなりに健康であればどんなに不本意であってもできる。それがいいことか悪いことかはともかくとして。

 ところが男はいくら健康でも、あれがああいう状態にならなければ、ノーマルな性交はできない。

 他の女と何度ベッドインして、プロアマ問わず様々なテクニシャン達にどんな愛撫をされてもしゅんとしていた自分が、なぜかカティとならできたというのが、彼には不思議でならない。

「もう一回、してみてもいい?」

 カティの細い手を導いて、触らせながら彼は目を潤ませていた。


 朝の雑踏を、カティは蟹股気味に歩いていた。その後ろにぴったりとトレバーがついてくる。

 朝食を摂る時間も与えられず発情期の犬のようにやみくもに番われ、カティは腰痛と眩暈と寝不足とで憔悴していた。

 一方、同じく寝不足で「夜のスポーツ」に興じまくっていたはずのトレバーはふわふわと浮つき、つやつやと幸せそうだ。

 不公平だ、とカティは思った。

 DON’T WALKの信号表示に並んで立ち止まる。

「離れろよ」

「なんで」

「会社の連中に見られたくねえから」

「見られてなんかまずい事でもあるの? 他に男がいるの?」

「いねえよ! ゲスい勘繰りされたくねえだろうが」

「うふふ」

「きめえ」

 信号の表示がWALKに変わり、二人は職場の社屋へ向かって歩きはじめる。

「あのな、一回やったからって自分の女扱いすんじゃねえぞ」

「一回じゃないよ」

「……言い間違えた。一晩やったからって……」

「ひどい」

 電算室の中までついてきた彼に、カティは顔を顰めた。

「できるってのがわかったんだからもういいだろ? あっちへ行け!」

「ねえ、次いつ会ってくれる?」

「仕事場でしょっちゅう会ってるだろうが」

「そうじゃなくてプライベートで」

 カティの眉根が更に寄り、機嫌が悪くなったのが如実にわかる。

「私は別にあんたが好きで寝たんじゃねえ! 酔った勢いってのと……その、インポってやつがちょっと面白そうだったからだ。次はねえよ」

「……ひどいよカティ」

「あんたを好いて言い寄ってくる女はいっぱいいただろ? やりたきゃその中から適当に見繕え!」

「僕はカティがいい」

 ああ、こいつ初めてまともに女が抱けて、偽親の姿を刷り込まれたガチョウの雛みてえになってやがる!

 トレバーがみるみる悲しげな顔になるのを見て、カティは怒鳴った。

「ここは私のオフィスだ! 出て行け! 鬱陶しい! 風俗にでも行け!」

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