第一章 9.

 逃げるべきだ。そう判断して、ティセはすぐさま行動に移した。足下の雪を蹴り上げ、即席の目つぶしとする。その隙に、荷物を拾い上げ、魔物とは逆の方向へ走り出した。

 だが、その足はすぐに止まってしまう。

「嘘……!」

 目の前に、また魔物。今しがた相手にしたのとよく似た、ひょろひょろとした気色の悪い体。巨大な一つ目。

 背後を振り返る。そこにいる魔物は、これもまた巨大な一つ目になっている。

「分裂した!?」

 驚く暇もない。最初の一匹が、一歩、こちらへ脚を踏み出す。と同時に両の脚が伸びて――たった一歩で、ティセの目前へと降り立っていた。

「Ita tier ise,Oyoem oyik,Iara hikay.Neuk Uyuoni haheraos,NeruG!」

 もう、脊髄反射だった。精霊たちを喚起させ、炎が起こる。それは吹雪のように獰猛に、目の前の魔物へ向かって突進した。その熱で、周囲の雪がじゅうじゅうと蒸発していくのが見える。

 しかし。

「!?」

 魔物は蔦のように細い足を突き出し、蹴り付けるようにして火炎を迎え撃つ。そしてその炎は、水をかけられたように消えてしまった。炎が消えた原因が水でないのは、まったく蒸気が噴き出していないこと、そして炎を熾し運んでいた精霊たちをも消滅してしまっていることから明らかだった。

 間違いない。この魔物は、魔法を打ち消すのだ。どういう理屈か分からないが、魔法的なものをすべて打ち消す――そういう能力、あるいは魔法なのだろう。

 ティセが契約していた精霊の数は三十体。その半数が、あっという間に失われてしまった。彼女たち(精霊に性別はないが、ティセは精霊たちを女性的にとらえている)が消滅してしまったことも心に痛いが、なにより、魔法という攻撃手段を奪われた今、彼女にはまったく勝ち目がないことを悟っていた。

(逃げなきゃ!)

 振り返る。その先には、魔物。分裂した片割れが、ティセのすぐそばに迫ってきていた。息が詰まるような恐怖に、悲鳴すら上げられない。

 魔物は細長いひょろひょろした腕を振り上げる。その腕の側面に、木の枝に新芽が息吹くように、銀色の突起が現れる。それらはずらりと規則正しく並び、さながら肉を切るナイフのように、ティセを睥睨していた。

(ああ、精霊主よ……!)

 ティセは己の死を予感し、固く目を閉じた。人は死後、精霊となって自然へと舞い戻る。そして人とともにあり、精霊としての役目を終えた時、再び人間となって転生するのだと言う。次に生まれる時は、貧しくてもいいから自由でありたいと願った。

 ヒュン、という風切り音。ザク、という肉の切れる鈍い音。それに合わせて、全身ががくりと揺さぶられる感覚。痛みは、ない。思っていたよりも、死というものは苦しくないのだろうか?

「怪我はない?」

 それは死ではない。声。人の声――トウヤの、声。

「トウヤ、さん……?」

 おそるおそる目を開くと、驚くほど近くにトウヤの顔があった。口の端に貼り付いた、不敵で挑発的な微笑。しかしその額や頬に、じっとりとした脂汗が浮かんでいる。

「君の住む屋敷は、この森の向こうにあるんだね。てっきり、街にあるんだとばかり思ってたよ」

 皮肉な言いぐさ。それに反論しようと彼を睨み付けて、そしてティセは気が付いた。彼の腕に抱かれているということ。そして、トウヤの左腕が、その服ごとズタズタに引き裂かれ、血を噴き出しているということを。

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