歩幅

risa

第1話感傷


とある喫茶店。扉を開けると、嫌味のない鈴の音が


天井高に響く。そして、次に聞こえるものは穏やか


で優しい声。聴き慣れたその声が、僕をいつもの席


へ誘う。僕は、気まぐれにここに来る。そしていつ


も、変わらないコーヒーを飲む。熱く、濃く、カッ


プの中で回るエスプレッソは、現実をも溶かしてく


れる。窓ガラスから差し込む光はこの小さな空間を


暖かく、僕を抱擁してくれる。何処からか抹茶の香


りが僕の鼻腔をくすぐる。茶の名産、宇治茶を使用


したパウンドケーキを試作品として、飲み物と付い


てくるのだとか。好評なら、商品化するとオーナー


は、嬉しそうに話してくれた。抹茶の次には、花の


様な凛とした香りを捉える。常に感傷的な僕の前に


あるのは、手入れの行き届いたこじんまりとした


庭。そこに青々とした1本の木の側に小さな噴水。


とくに目立った訳ではないけど、大きく、そして勢


いよく水が飛び上がっている。それをどこか遠く渇


ききった目で見ている。エスプレッソを飲み終える


と、夢から覚めたような感覚になる。それは遊園地


に行った後の帰り道のような感覚に似ている。


この喫茶店は、京都の都会から、少し離れ、街の喧


騒は消え、辺りは静寂に包まれている。そんな所に


ひっそりと佇でいる。今にも青い鳥が住んでいそう


な、アンティーク調で、チルチルとミチルの世界に


引き込まれたかの様に、店主と客の大切なもので部


屋は輝いていた。この喫茶店は、風変わりな事に、


客は自分の気に入っているものを、一人一つだけ、


部屋のどこかにディスプレイする事が出来るのだ。


そんな店の周りに木と花の蕾が切り取られた薔薇の


株がある。オーナーのお気に入りだ。特に薔薇が好


きなのだとか。薔薇の花言葉は、愛と言う意味があ


るんだよ。と眩しい笑顔で僕に話してくれた。オー


ナーは、いつも愛で満ちている。庭のキラキラと咲


いている花に対して、僕は素直になれない。



店を出て、変わらないアスファルトを見る。何も


変わらない。だが今日はいつもと、違う何かが見え


た。それは、幼い子の靴だった。子供の泣き声が聞


こえたから、恐らく、ベビーカーから落としてしま


ったのだろう。その靴を黙って見ていると、その子


の母親らしき人がやって来た。「すいません。その


靴をとって頂けませんか?」両手に沢山の荷物を抱


えた女性は、空気を持っているかのように軽々し


く、そして、なんの躊躇いもなく僕の目を見て言っ


た。自信のない僕は、俯きながら渡した。母親は


「ありがとう。ごめんね。」と言って、子供の所へ


戻って行った。


ーー「ねぇお母さん。ねぇ。聞いてる?」「どう


したの?」母は、いつも忙しそうに指を動かしなが


ら、顔も見ずにそう答えた。「きょうね、幼稚園で


ね、友達とこれ作ったんだ!」現物を見せようと母


親の前に差し出した。「そう、上手ね!」一目見た


か、見てないかぐらいの速さでそう答えた。少し、


がっかりした。次の日も次の日も、僕の顔をまとも


に見てくれる日は、無かった。子供だった僕はそれ


が普通の事だと思っていた。


フラッシュバックしている間に、少し古びたアパー


トまで辿り着いた。途中、寄り道をした為に、体に


疲労が溜まってしまった。気怠げに階段を登り扉を


開ける。シューズボックスの上に無造作に置かれた


写真立てが、オレンジ色に輝いた太陽の光を反射し


て、薄く眼を細める。そのすぐ後に、長く続いてい


るアスファルトの上に重く黒い雲が空一体を、深


く、暗く明かりを閉ざしていく。




今日はふと家でコーヒーを飲みたくなった。父がよ


く淹れてくれた味と香りを思い出しながら、自分の


家で豆を挽き、湯を注いだ。色濃く溶け、コーヒー


カップの底を少しずつ染めていく。そこに温めたミ


ルクを注ぐ。宇宙の様に、綺麗な模様を描いてい


く。そこにスチームミルクを上に浮かべる。ふわっ


と湯気が立ち、その湯気と共に香りを運ぶ。身近に


感じたその香りに、気づけば数分も時間が経ってい


た。緩やかに新聞紙を広げ、パンを焼いた。くだら


ないニュースを横目に、きつね色に焼けたパンに齧


り付く。サクッサクッと響くその音はまるでマイク


が拾うように大きい。いつもよりゆったりと、そし


て、冷ややかに過ぎていった。 それは、どこか不


穏な空気で満たされていた。


のんびりとした朝は刹那に過ぎていった。気がつ


く頃には昼になっている。ご飯は軽く済ませ、予定


していた通り図書館へ向かった。家をでて、鍵を閉


める。道路にでてもやはり自分にはコンクリートし


か見えない。他の人の足音、笑い声、子供の泣く


声、僕の足音は響かない。いっそこのまま飲み込ま


れても良いとさえ思えてきた。自分はいつもそう


だ。前に進もうと思っても、歩幅は数センチで、み


んなはもう霞んでよく見えない。取り残される絶望


感と孤独感、永遠に追いつけそうに無い距離感。何


もかも目を瞑りたくなるような現実。僕は、そんな


人たちを憧れ、心の奥でその想いを煮詰めていた。

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