第7話
目覚ましのアラームが鳴ったわけではなかったけれど、目が覚めて寝ぼけた瞼を開けると今見ていた夢が甦った。恐ろしい気持ちに襲われて上体を起こして、怪物のようなものが部屋にいるんじゃないかと視線をさ迷わせた。でも暗い部屋にできたお化けみたいな影はただの家具の影だったりして怖いものなんていなくて、夢の名残を飛ばすみたいに顔を振った。夢に出てきたのは麻子ちゃんと知らないおじさんだった。どこかのカーペットで仰向きになった裸の麻子ちゃんに知らないおじさんが覆い被さっていて、おじさんの白くてだらしないお尻が何かを押しつけるようにぬるぬる動いていた。夢の中に存在しない神の視点で二人を見ていたあたしは麻子ちゃんに逃げてと呼び掛けるのだけど、視聴者の声がテレビの中の人に届かないように麻子ちゃんはそれを聞き取らず、半分死んだような虚ろな目をして、おじさんよりも白くて細い腕をカーペットに放り出して無抵抗でいた。それはたぶん姦淫というもので、それについては裸の男女が身体をくっつけて何かすることらしいとしか知らなかったのだけど、でも今見た夢が姦淫の夢なのだろうことは分かった。あたしが麻子ちゃんを穢したのか、麻子ちゃんが穢れたからそんな夢を見たのかは定かではなかったけれど、現実の麻子ちゃんが教義を破って穢されることは今後あり得ることだった。会では婚前交渉を禁じていて、神から祝福を受けた夫婦にしか認められていないことをするのはタブーだった。麻子ちゃんがタブーを破るかもしれないことが許せなくて、身勝手かもしれないけれど唐突に侮蔑の思いが湧いた。麻子ちゃんはもう悪魔サタンの仲間になったのです、あたし達を裏切って、永遠の命を享受できない側の人間になったのです、だから麻子ちゃんのことなどもう瞳にも映してはいけないのです。頭の中であたしによく似た女の声が聞こえた。麻子ちゃんは悪魔サタンの仲間に成り下がって、もう友達ではなくて、気にする価値はないし気にしてはいけないし、目に映すことすらしてはいけない。布団を被ると身体が熱を帯びて熱くなっていて、夢と妄想が混じってどれが本当か分からなくなった空想の麻子ちゃんを糾弾するのに興奮していることに気付いた。裏切りは許さない。呟いた声が乾いた空気に舞って肺に舞い戻ってくる。壁の掛け時計に目をやると暗がりに慣れた瞳は四時過ぎを読み取った。隣の部屋では恭次がすやすや眠っているはずで、今本当に眠っているのかどんな夢を見ているのかと考えて、ぐっすりと眠った恭次が清浄な夢を見ているといいと思った。
だからこそ、恭次があたしの下着を使って変なことをしていると気付いた時はショックだった。きっかけは些細なことで、お風呂から上がって湯冷めしたので長袖のシャツを着ようとしたのに、クローゼットに新しいのが見当たらなかったことだった。仕方なく、今日着ていたものをもう一回着るしかないと洗濯カゴに入れたシャツを取りに行った時、カゴの底から白いシャツを拾い上げて、ブラジャーと靴下はあるのにパンツがないことにふと気付いた。ママとパパは家事を終わらせてからお風呂に入るからお風呂の順番はたいていあたし、恭次、ママ、パパの順で、カゴの中にはあたしと恭次の下着類しかまだ入っていなくて、パンツの姿が見えないのは妙なことだった。お風呂場では恭次がお風呂に入っていてシャワーの音が聞こえていた。ドア越しにはシルエットすら見えなくてお風呂で何をしているのかは全く見えなかったけれど、疑いの気持ちを持つより前にお風呂場の方へ自然と視線を向けていた。でも、恭次とパンツが繋がらなくて、たまたま何かの洗濯物にひっついて誰かが間違ってとかなんだろうと回れ右をして脱衣所を出た。部屋に戻って勉強の続きをしていると隣の部屋の扉が開閉するのが聞こえて、疑う気持ちなんてなかったのになんとなく脱衣所に戻って洗濯カゴを開けてみた。
二人分のちょっとの洗濯物の一番上にあたしのパンツが載っかっていて、あれ?と首を傾げる。脱衣所の扉に鍵をかけて水玉模様の水色のパンツを拾い上げると蒸気をはらんだように湿っていて、あれ?あれ?あれ?とまた首を傾げる。部屋に戻ると机に教科書やらを広げっぱなしにしたまま電気を消して、まだ早い時間だけどあたしはもう寝るんですと真っ暗にした部屋でベッドに入って布団を頭から被った。もしかしたら恭次はあたしのパンツを使って変なことをしていたのかもしれなくて訳が分からなかった。柔道の授業の前の日に恭次を抱き締めてあげたことも思い出して、頭が回る。オナニーというらしい、股のあたりを触って気持ちよくなる行為があることは知らないわけじゃなかった。でも、あたしは自分の股のどこを触るものかも知らなかったし、それが気持ちいいというのも都市伝説みたいでよく分からなくて、恭次がパンツを性的なことに使っていたのかもしれないとは思い至ってもどうしてそうなるのか理解できなかった。恭次はオナニーしたりするのだろうか。でも性的な快感を得るのは禁じられているはずで恭次が禁忌を犯すなんて信じたくなかった。でも、消えてまた現れたパンツの不思議を思うと、恭次はやっぱりあたしのパンツを使っていけないことをしたのかもしれなかった。だめだよ恭次、決まりを守ってよ。感情が高ぶって涙が出そうになって、目を固く瞑るとしずくがシーツに落ちた。決まりを破って神を裏切らないで。あたしを置いて行かないで。会の人たちはいっぱいいるけれど恭次がいなくなってはだめ、だからあたし達を裏切らないで。禁忌を犯したかもしれないことが許せない以上に置いていかれることがこわくて、神のためにより自分のために泣いて、そんな自分に気付いて布団の中でうすら笑った。ああ、恭次じゃなくて、恭次をそそのかす悪魔サタンの仲間達が悪いんだわと、あたしによく似た誰かの声が聞こえ、頷いて彼女を肯定すると布団を捲って立ち上がった。隣の部屋の扉を開けると、ベッドに横たわって両腕をかかげてipadをいじっている恭次がいて、「きょうちゃん、この世の友達なんて捨ててよ」とあたしか誰かが声を発した。言葉は無力だろうか。あたしを見上げる恭次のベッドの隣に腰を下ろすと、何も返事をしてくれないのに視線を刺され続けられていることに身体がぴんと緊張してきて、それからやっと返された言葉が、「どういう意味?」と冷たさを纏っていたことに傷ついた。自らけしかけることを言ったくせに真意を尋ねられて萎縮するなんて所在無くて、「そのままの意味だよ」と小さな声で返事する。
察してと言うくせに実のところ自分ですら言葉に込めた意味がよく分かっていなくて、悪魔サタンの仲間が恭次に悪影響を与えるからやめてほしいとか、あたしから離れていかないでほしいとか、教義は守ってほしいとか、そもそも恭次は本当にパンツで何かをしていたのかとか色んなことがごちゃ混ぜで、この惨状を解説したくなかった。麻子ちゃんを失ったからって恭次まで生贄にしようとするなんてお前の世界はお前を中心に回っているのか。そんなふうに呆れられたかと不安が色濃くなり始めた時、「あんちゃん、一緒に寝よ」と手を引かれた。無力なあたしが恭次のベッドの隣のところに寝転ばせられ、くっつきあった磁石と磁石みたいに背中に手を回されて抱き締められる。恭次の顔があたしの顔のうんと近くに来て、天井から強固な安心感がずどんと落ちてきて、どうして空いているのか分からないけどぼこぼこ穴が空いて欠損していた心を満たしてくれた。
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