第5話

窓から時折吹きつける風に髪の毛を弄ばれる。図書室に満ちた本の匂いと秋らしい爽やかな風に、長らく洗濯していないのだろうカーテンの埃っぽい匂いが混じって、気持ちいいのかむず痒いのか分からない不思議な匂いがしていた。昼休みが始まって早々に図書室にやってくる変人はあたしぐらいらしく、無人のテーブルの端っこの窓際のところに腰かけて本を開けている。恭次は放課後にここであたしを待っているとき本棚側の端の席に座っているから、今のあたしと放課後の恭次が座っている席はテーブルの一辺の頂点と頂点になっていた、まあそんなことはいいのだけど。お昼休みに一人でお弁当を広げることに耐えられなくなったあたしは三時間目の休み時間に早弁して、四時間目の授業が終わるなり図書室に向かってここで時間を過ごすことで事なきを得ていた。麻子ちゃんに避けられているのは相変わらずで同じ教室にいても言葉を交わさなくなっていて、体調が悪いわけではないだろうに集会にも来ないままになっていたので、麻子ちゃんはきっと神様と喧嘩をしていてそのせいであたしとも関わりたくないんじゃないかなあと考えた。それならそうと一言言ってくれたらいいのにと、ぺらりとページを捲る。でも、そんなふうにもいかないのだろうか。さっき適当に手に取った本はあまり面白くなくて、だんだん盛り上がってくる系かもしれないけれどとりあえず序盤はのめり込めない系で、ふうと息をついて本を閉じかけた。一応指先を挟みこんでおくつもりが爪先が弾かれて本は完全に閉じ、さっきまで読んでいたページが分からなくなった。

このやろう、本の癖に小生意気だな。テーブルに放り出して窓の外に目をやると、恭次がつるんでいるっぽい男の子達が購買から教室のある塔へと歩いていっているのが見えた。立ち上がって下界を覗き込むと、その中でぴょこんと背の高い恭次が紙パックのジュースか何かを持っているのを見つけた。

五階の図書室にいるあたしに気付く素振りは無さそうで、手で掴めそうなミニ恭次に向かって、あ、た、し、は、こ、こ、よ、と口パクをする。教徒以外の友達と遊ぶことは禁止されているから、恭次も学校の外では彼らとつるまないけれど、あたしと違って恭次には教徒じゃない友達がいる。教室のある塔へと離れていく恭次を手で掴んで、ミニ恭次を載せた手のひらをぐしゃっと丸めて潰した。ぎゃっと可愛いおたけびが上がる。可哀想になって急いで手を開けると、潰されてぺらぺらになった恭次を指先で撫でてごめんね痛かったねと謝った。


ほとんど勉強しなくても平均点に掠るぐらいの点を取れる恭次と違って不器用なあたしは、毎日お風呂の後が勉強の時間と決めていた。でも、今日は頭が他のことで占められていて社会の教科書が全然頭に入ってこなくて、暗記はやめて英語の宿題でもしようかなと頬杖をつく。学習机の後ろにはベッドがあって、恭次はそこに寝転んで本を読んでいた。まったりするなら自分の部屋でやればいいのに、あたしが机に向かって勉強している時に恭次はよくそうしている。気になることというのは今日学校でたまたま聞いた麻子ちゃんのことだった。休み時間、席に座ってぬぼっとしていた耳に飛び込んできた話がぐるぐる渦を巻いていた。隣のクラスに倉橋さんっているじゃん、聞いたんだけどおじさんに女の子を紹介してお金もらってるらしいよ、やばくない?何それやばいじゃん、おっさんに何されんの?知らないけど、デートだけじゃ済まなさそうじゃない?それって売春じゃん、そんなことガチでする人いるんだー、倉橋さんこわすぎるー。でさ、こっから更にびっくりなんだけどね?うちのクラスの黒川麻子がそれらしいよ、と。麻子ちゃんがまさかそんなことをするはずないと思う一方で、最近麻子ちゃんと倉橋さんが喋っているのを見たことがあって、根も葉もない噂というわけではなさそうだった。麻子ちゃんは前はあたししか友達がいなかったけど、今は何を考えているのか分からなくなっていた。そのことを恭次に相談したかったけれど、そもそもあたし達が仲違いしていることを知らなかったし、それに今日の恭次には憂鬱そうな雰囲気があって話しづらかった。ノートの端を摘まんで揺らしていると、「あんちゃん明日は柔道の日なんだよ」と後ろから声を掛けられた。明日から始まるという柔道の授業を受けられない恭次は他の男の子が柔道をする中で一人で筋トレをさせられるんだと嫌そうにしていて、教えを守るのは当然だから仕方ないけど可哀想だった。みんなと違って一人になるのは辛い。明日の恭次の時間割にはあらかじめ仲間はずれの時間が組み込まれているのだ。仕方ないし、代わってあげたくもないけど可哀想だ。振り向いて、「きょうちゃん、がんばれ」と言ってみたけれど、頑張れなんて言葉じゃ頑張れないのが分かっているから言葉は無力でやりきれなかった。言葉ぽっちじゃ助けてあげられない。椅子から立って、ベッドに座っていた恭次の本を奪って、開いたまま横に置いてから抱き締めた。

お互いの顔が見えないように頭をぎゅうと抱えてだっこする。こんなふうにしたことは何年もなかったから自分でびっくりするところもあったけど、流れる空気は自然で、不思議と照れくささは感じなかった。代わってあげないけど、代わってあげたいほど元気じゃないんだけど、何かが少しでも伝わって恭次の憂鬱が軽くなったら良かった。よしよし、だっこだ、明日はがんばるんだぞきょうちゃん、明日なんてすぐ終わるんだから。心の中でそう話しかけて、それから、声に出さないまま、ねえ麻子ちゃんはどうしたら戻ってきてくれるのかなあと低い声を脳に響かせた。


「麻子ちゃん」鞄をかけて教室を出ようとしていた背中に声をかけた。自信がなくて小さな声しか出なかったけれど呼び掛けはちゃんと耳に届いたようで、振り向いた麻子ちゃんは「何?」と顔を強張らせた。そのような固い表情を向けられるのは始業式の翌日ぶりだった、というか話をするのが。以前はセミロングの髪を三つ編みのおさげにしていたのに最近では束ねるのをやめて下ろしているようだった。癖毛なのがコンプレックスで三つ編みにして隠しているんだと言っていたのに、その髪は近くで見ると不自然なほど真っ直ぐになっていた。ストパーでもかけたのだろう。似合っていないとは思わなかったけれど、直線のような髪がかえって痛々しく感じた。でもその感想はあたしのエゴなのかもしれない。


図書館の棟の裏まで向かうと擦れ違う生徒たちはいなくなっていて、前より涼しくなった秋の空気が沈黙の二人を包み、遠くからは下校しようとする生徒達の騒ぎ声が聞こえた。変わらず固い表情をつけたまま顎を引いて、ちらりと見られた。記憶の中の麻子ちゃんは慎ましげな笑顔や遠慮がちに伺うような顔が似合う少女で、向けられる見慣れない表情に戸惑った。何?と鬱陶しそうに言われるんじゃないかとこわくて、「髪の毛まっすぐにしたんだね」という言葉で場をしのいだ。麻子ちゃんは、「三つ編みってださいでしょ。もうやめたの。子どもじゃないんだから」とお姉さんぶった。「そんなことないよ。あたしは好きだったよ」「そういうの、いい」突き放されるような口調に黙ると、「わたしね、会に行くのやめることにしたの。お母さんとはすごく喧嘩してそんなこと絶対許さないとか散々言われたけど、湯船で手首切って自殺未遂なのしてみたらもう何にも言われなくなった。だからやめるの。ごめんね」とつらつらと喋られた。なんでどうしてと分からないがぶわっと湧き上がって、「え、それは、なんで」と口に出すと、「何がなんで?」と呆れるように笑われた。顔つきにも口調にもやっぱり慣れなくて、「そんなに会をやめたいのもその、手首を切ったりとかするのも分からない」としどろもどろになった。麻子ちゃんは少し黙って、まだ明るい午後の空のもとで風がぴゅうと流れていった。「あんずのことが嫌いになったわけじゃないんだけど、そういうわけでずっと避けてたんだ。ごめんね。前みたいに仲良く出来なくなった」なんでには答えてくれず、話すべきことは話し終わったとでもいうように、「ねえ、もう帰ってもいい?」と後ろの校舎の方を振り返り、止めないあたしを置いて踵を返そうとした。「どうしてそんなにやめたくなったのか全然分からないし、嫌なことがあったんだったら話してくれたらよかったのに!」ドッジボールを投げるみたいに勢いだけで背中に声を投げた。振り向いてほしくて。その時、偽善的な嘘の香りが漂った気がしたけれど気付かれなかったかもしれない。ゆっくりと振り向いた麻子ちゃんはあたしを見据えて、「分からない人に話したって分かるわけない」と乾いた声を出した。あたしはおとぼけを纏っていたけれど、何にも理解できないかというとそんなことはなくて、でも分かるかもしれないなんて魂が裂けても言えなかった。混乱して攻撃の選択肢しか取り出せなくて、「倉橋さんのこと聞いたよ。あれ本当なの?本当なんだったらすごく気持ち悪いと思う」と冷たい声を振り絞った。麻子ちゃんは頬をぴくりとひくつかせ、「おじさんと二人でカラオケに行って五千円もらっただけだし何にもしてないから大したことない」と言った。「危ないよ。そんなのやめときなよ。何があるか分かんないから絶対よくないよ」機に乗じて麻子ちゃんを取り戻そうとしたけど、「おじさんは大概気持ち悪いかもしれないけど会の人たちの方がもっと気持ち悪いから」とすっぱり手を振りほどかれた。「じゃあ、ごめん、もう心配とかもいいから、しないで」と言葉を残して置いて行かれる。待って。待って待って待って。心の中でそう言ったけど声は出なくて校門へ歩いていく麻子ちゃんは一度もこっちを振り返らなかった。涙がじわじわ出たかと思うとぼたぼたこぼれて、でも何のために涙を流しているのか分からなかった。


図書室で待っていてくれた恭次と学校を出てから、「あのね」と話し掛けると、恭次は優しい顔をして「何?」とあたしを覗き込んだ。辛くて手を握ったり抱き締めたりして励ましてほしかった。あのね。あのね麻子ちゃんがね。さっきまで話をしていたんだけど。会をやめるんだって。麻子ちゃんはずっと嫌だったのかもしれない。気持ち悪いって言われた。もう友達でいたくないって。ということを長い時間をかけて話した。恭次は「ふうん、そういうこともあるんだろうな」と言ったきり何の感想も言ってくれなくて、あたしだってこの出来事の着地点をどうまとめたらいいのか分からなかった。話が終わるとお互いに無言になって家までの道を歩いた。途中、通りに立ち並んだイチョウの木々から銀杏がぼとぼと落ちていて今年も銀杏トラップの時期がやってきたんだとそれを避けながら歩いた。ひょこひょこと恭次の革靴が妙なステップを取って歩く。匂うね、とか、茶碗蒸しに入ってたら美味しいのに落ちてるのはいいことないね、とか言っても言わなくてもいいことを言おうとしたけどやっぱり無言のままでいた。複雑な思いが混じった自分の心がよく分からなくなっていて、でもそれを取り出して眺めてみるのもこわかった。

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