こちらハデスだよ。まだですかハルマゲドン

あれ東

第1話

まず歓迎されることはない。知らない家のおばさんは門の前に立っていたあたし達を見るなり顔を曇らせたけれど、ママは善意に満ちた笑顔を向けて呼びかけた。私、清原と申します。今日は人生が豊かになる聖書の言葉をご紹介できればと思って訪問しておりますが、少しお時間よろしいでしょうか。


日差しがぎんぎんに強い夏の午後だった。家が立ち並んだ通りのうちの一つの、見知らぬおばさんの家の門の前。日の当たるところと木陰で曖昧になったところの狭間に立っていて、地面についた二本の足がぐらついて倒れそうな気がした。黒いアスファルトの上には所々擦りへってはげた革靴を履いた足があって、それは揺れちゃあいないのに。みーんみーんと蝉が鳴くのが空気と鼓膜の振動を通して伝わって、ほげーほげーと頭の中で反響しておかしくなる。


もうすぐ神様が地球の悪い人や悪いこと全てを滅ぼします、でも神様を信じていた人たちは死後、永遠の命を手に入れることができます。地上の楽園で永遠に楽しく暮らすことができるなんて素晴らしいことだとお思いになりませんか?


ママが語ることは耳に届かなくて蝉の鳴き声が内側に染みていって、みーんみーんほげーほげーって、耳なし芳一みたいに身体中に習字されていくのを想像する。ああ、うるせえな、ほげほげ鳴いてんじゃねえよ。さりげなく顔を上げて声の元を探すと角のところに数本の木が立っていて、あの木々に何匹の蝉が止まっているんだろうとぼうっと考えた。


思春期と大雑把にくくられることには違和感があるけれど、それは親に反抗しながら自己形成していく時期だというのは本当なのかもしれなかった。近頃あたしはママとのことがよく分からなくなっていた。もっと小さかった頃、ママが大好きで一緒にいたくて褒められると嬉しくて、家を訪問して奉仕活動をすることも集会に出ることも神様の勉強をすることも全然嫌じゃなかったのに、今は疑問をぶつけたくなっている。あたし達は死後の世界で永遠の命を得るために神を信仰して手を合わせて祈りを捧ぐ。でも、その手を開いてみたって掴めるものは何もなくて、透明な空気が存在するだけじゃないかって。今ここにいるあたしは今と未来のためにじゃなくて、そのずっと先の世界のためにあるなんてむずむずする。


ぼんやり視線を彷徨わせていると、困惑顔で話を聞いているおばちゃんと視線が触れた。その時おばちゃんの目の奥が歪んで、可哀想な子と憐れみを込めて見られた気がした。違う。あたしは嘘に浸されているんじゃない、教えは本当で教徒を救ってくださいます。かぶりを振るように目を反らすと恭次の汗がアスファルトにぽとりと落ちるのが見えた。恭次はあたしみたいにきょろきょろしていなくて何かを堪えるみたいに地面を睨んでいて、額から頬にかけて汗のしずくが何滴も垂れていた。小学生の頃に中華屋で四川麻婆豆腐を無茶に完食してからひどい汗っかきになった恭次はネクタイとスラックスの正装で家を回って奉仕活動をする夏の日には汗をだらだらと流している。でも、あたしにはそれが時々涙みたいに見えた。夏休みの前にあった三者面談で、清原くんは目が死んでいますと担任の先生に言われたって恭次は怒っていて、学校の先生とか大人たちは恭次をひどいように言ったりするけれど、恭次は本当は泣いているんじゃないかと思う。双子の姉弟として世界に産み落とされた恭次は多分あたしよりも泣いている。ねえねえママ、恭次は泣いてるんじゃないかなあ。聖書の美しい言葉を語り続ける背中にテレパシーを送ってみるけれど一生懸命なママにそれは届かなくて、恭次は地面を睨み付けるのに一生懸命で、あたしはこの目に心に何を映したらいいのか分からない。恭次の汗はますます止まらなくなっていて地面に小さな水たまりを作るつもりなのかもしれなかった。モーセが海をぱっくり開けたように何かを変えたらいいのに無力だ、恭次もあたしも。すみません、うちはそういうのは本当やらないので悪いんですけど帰ってもらえますか、そろそろ夕食の準備もあるし。おばさんが嫌な背中をくっつけて家に戻っていくのをママは深く頭を下げて見送り、扉が閉まると振り向いて薄笑いを浮かべ、あの人は救われないわねと言った。あたしは苦笑いで頷いたけど隣の恭次は俯いたまま何にも言わなかった。みーんみーんほげーほげーが相変わらず夏にこびりついていて、おばさんの家と蝉の鳴き声を背景にしたママが、さあ次のお家に行こうねと手を伸ばしてきた。ママの手があたしの手を掴み、じゅわりと汗ばんだ感触が伝わった。

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