山の祝事
嘉代 椛
第1話
私たちには神様がいた。
いと高い山に集落があった。
仙山郷と呼ばれるその場所は、切り立った崖に作られた鳥の巣のように存在していた。木造の建物を軋ませる強風や鋭利な爪を持つ猛禽類。それらの脅威を理解してなお、私たち一族はある使命のためにここに住んでいた。
私たちには神様がいた。
集落から更に登った先、雲間を抜け、尖った岩石を登っていくと、そこに社がある。先祖代々から受け継がれるその社には、神が眠っているとされていた。
神が目覚めれば、大いなる災いが起こる。私たちの一族はそれを治めるために、ここに住んでいるのだ。梅干のようにしわくちゃになった老婆は口癖のようにそう言った。
そして、ある日集落中の娘を呼びあつめると、私たちの額に一人づつ指先を当て始めた。
そうして彼女は、私を選んだ。
「お前だ、お前が行くのだ」
「はい、おばあさま」
私は世界のために命を捧げる役目を承った。そのことに不満はなかった。百年に一度目覚めるとされる神。それを治めることが一族の役目に出会ったし、それを受け入れなければここではいけなかった。
選ばれなかった娘たちは、私を複雑な表情で見る。私には彼女たちがそんな顔をする理由がすぐに分かった。
彼女たちの中には私に対する妬みと、生に対する安堵がある。神に身体を捧げる役目は、名誉でもある。そして、それに選ばれるのは一族で一番美しい乙女だった。
「それでは行って参ります」
私は鉤のついた縄を背負って山肌を登っていった。
頂上への道は遠く険しい。優れた身体能力を持つ一族でさえ、道具なしには登れないほどだ。加えて濃い霧が視界を真っ白に塗りつぶす。私は体に幾重にも傷を負わないように、ゆっくりと慎重に山を登っていった。
ついに頂上へとたどり着くと、私は縄を下ろし、服を脱いだ。それらを下へと蹴落とすと、痛いほどに冷やされた大気が肌を襲う。いつ建てられたかも知れぬ社は、晒されるようにしてそこに建っていた。
「神さま、神さま、どうぞお出ましください。身を捧げに参りました。災厄をお治め下さい。捧げものが参りました…」
朽ちかけた社の前で私はひざまづく。岩肌に頭を擦り付け、裂けた肌から血が流れる。血が社の下まで滴り流れると、ただでさえ寒かった大気が一層厳しさを増した。
『近う寄れ』
身体に響くような低い声。怖気が身体中を這い回り、感覚の一切がなくなった。身体は私の意思に関係なくゆっくりと動き、社の目と鼻の先まで近づいて行った。
社の中へと入り込む。生臭い。むせ返りそうなそれを必死に堪えていると、身体を湿った何かが這い回った。透明な液体をまとったそれは、私の首を、胸を、尻を、割れ目を余すことなく舐めとっていく。
舌だ。二股に分かれたそれが何かを理解して、私はぞっと鳥肌を立たせる。
あれほど名誉だ、幸運だと教えられた儀式がおぞましくて仕方がない。私は死への恐怖で震え上がった。
『面を上げよ』
言葉の通り、顔を上げる。いつの間にか、私の前に一人の男が立っていた。
男の股間で蠢く白蛇が私の眼前で鳴き声を上げる。先ほどの舌の持ち主が誰だったのかを、私は理解した。
ゆっくりと視線を上げると、均整のとれた身体が眼に映る。男の首の上には顔のない顔が乗っていた。卵のように起伏のない、というわけではない。本当に顔がないのだ。混ざり合うようにしていくつもの顔が重なり合っている。紙の上に繰り返し書いた文字のように、元々顔だったであろうそれは判別不明なほどに塗り潰されていた。
私は動けなかった。しかしそれは恐怖からではない。その証拠に、恐怖に震えていた身体はすっかりと落ち着きを取り戻していて、神の姿を目の当たりにした恍惚に脳が支配されていた。
神は美しかった。顔もなく、人でなく、おぞましい。しかし、それを忘れさせるほどに、その存在そのものが美しかった。
乳房に蛇の牙が食い込み、二つの筋が流れる。神がそれを指先で掬いとると、私は絶頂した。これまで感じたどんなものより甘美なそれ。私はこれからそれを感じることができるのだと、直感的に理解した。
世界は私を糧に命を永らえるのだろう。私たち一族はそのために存在し、隔絶した世界での生活を余儀なくされた。私はそれを悲劇的な出来事として捉えていた。
しかし違った。これは世界のために身を捧げる儀式ではないのだ。我々の一族、その中で選ばれたものだけが至上の快楽を得る。
そのついでに世界が救われるだけのこと。
私はそのまま快楽の坩堝に落ちていった。
山の祝事 嘉代 椛 @aigis107
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