ヘンリー
横山記央(きおう)
第1話 ヘンリー
空を見た。
青空だ。雲がほとんどない。
どこからか、ツバメの声が聞こえる。
ヘンリーは所在なく壁にもたれていた。家の壁だ。今、家の中では複数の人間が、慌ただしく動き回っているはずだ。
「ぼーっと突っ立ってるだけなら、邪魔だから、外に出てな」
取り上げ女にそう言われ、外に出てきた。まだ若いが、腕がいいと言われている女だった。
子供が生まれる。
村の人たちはめでたいことだと言うが、ヘンリーはそう思えなかった。
もう半年以上、妻のグレイシアは仕事を休んでいる。子供が生まれれば、その期間はさらに長くなる。ヘンリー一人の稼ぎでは、切り詰めても、食べていくことさえ厳しい。そこにさらに一人増えるのだ。どこにも、めでたい要素が見つからなかった。
「ヘンリーさん、こんにちは」
隣村から神父がやってきた。生まれた子供に祝福を与えるためだ。もしくは、死を悼むために。
子供が無事に生まれるとは限らない。それどころか、母親の命すら危ういこともある。実際に四年前、この村で母親も助からなかったことがあった。
それなのに、妻は子供を欲しがった。
望んだからといって、子供ができる訳ではない。村長には正妻の他に妾が二人いるが、誰も妊娠することがなかった。最終的にはあきらめて、遠い血筋の家から子供を一人引き取っている。
子供を授かるのも、無事に生まれるのも、神様次第だというのが、ヘンリーの考えだった。だから、貧しい自分たち夫婦のところには、神様は子供を授けることはないと思っていた。
「良い天気ですね」
ヘンリーにならって空を見上げた神父が、のんびりした声を出す。ヘンリーは「はあ」と気のない返事をした。
「父親になるのは、怖いものですか」
「どうなんでしょうね」
自分は、怖がっているのだろうか。
食べていけなくなるかもという怖さはあるが、父親になることを怖いと思っていない。それどころか、グレイシアが命を落とすかもしれないことへの恐怖すら感じていなかった。
こんな自分は、やはり何か足りないのだろう。
ヘンリーが八歳のとき、村が押し流された。何日も降り続いた大雨で川が氾濫したのだ。家の中に濁った水が入ってきたなと思った次の瞬間には、一気に押し寄せた水に飲まれ、溺れていた。
どちらが上かも分からなかった。むりやりどこかへ連れて行かれることだけは分かった。
突然、ヘンリーの腕が強く痛んだ。
「痛い!」
叫んでいた。自分の声に驚いて目を開けると、そこは、流されているどこかの屋根の上だった。顔を雨がたたいていた。一瞬、母が見えたが、すぐ見失った。
その後のことは良く覚えていない。おそらく気を失っていたのだろう。気がついたときには、この村の人に助けられていた。屋根ごと流されてきたようだ。
それから十年。ヘンリーはこの村の外れにあった空き家に住み、小さな畑を作って生活してきた。去年、グレイシアと結婚した。
「ヘンリー、私はあなたと結婚したいわ。だから、あなたは『うん』と言えばいいのよ」
それがプロポーズの言葉だった。
グレイシアは村で一番の器量よしだ。本人は顔の右側にある赤いアザを気にしているが、ヘンリ-は、それさえもグレイシアの魅力だと思っていた。グレイシアがヘンリーに結婚を申し込んだのは、そのことをどこかで耳にしたからかもしれない。
ヘンリ-より二つ年上のグレイシアは、とっくに結婚していい年齢だったのに、どこからも申し込みがなかった。顔のアザは、ヘンリーが思っているより、大きなハンデになっていたようだ。だから、貧しくよそ者であるヘンリーの所へ嫁いできたのだと思っている。
「神父さんは、怖いものがありますか?」
「神の声を正しく届けることができず、間違えて届けてしまうことですね。私にとっては、それが一番怖いことです」
神の声か。
ヘンリーがそう思ったとき、家の扉が開いた。取り上げ女は神父を中に入れたが、ヘンリーは引き続き、外で待つように言われた。
扉の向こうへ引っ込む女の顔を見て、不意に洪水のことを思い出した。
洪水のとき、運良く屋根にしがみついたヘンリーは、濁流の中に、確かに母を見た。ヘンリーと目があった母は一瞬微笑んだ。その直後、泥水の中へに消えていった。それ以来母を見たことはない。何度か夢に出てきたが、今では母の顔の輪郭さえおぼろげだった。
あのときの笑顔はなんだったのだろう。
「生きるのも死ぬのも、神様がお決めになったこと。だから、精一杯生きるの」
母の口癖だった。あれは、助からないと悟ったゆえ、笑顔になったのだろうか。
ヘンリーは、村があった場所へ一度だけ行ったことがある。井戸の名残だと思われる石以外、そこには村が存在していたことを示す物は、何も残っていなかった。
ヘンリーに父はいなかった。そのことを母に尋ねたが、大人になったら教えてあげると言われた。結局分からないままだ。
突然、家の中から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
生まれた。
「おめでとう。男の子ですよ」
その声に我に返る。どうやら、しばらく放心状態だったようだ。扉から顔を出した神父が、手招きしている。
家の中に入ると、取り上げ女からも「おめでとう」と言われた。今は赤ん坊の鳴き声が聞こえない。見ると、横たわるグレイシアの胸にしがみついていた。
「私たちの子よ」
グレイシアが誇らしげな顔をしている。それは、ヘンリーの記憶にある、母の最期の顔に似ていた。
赤ん坊に近づく。
皺だらけの顔。小さな手。グレイシアが赤ん坊の手を取り、ヘンリーの指を握らせた。思った以上にしっかりと握ってきたその指には、作り物のように小さな爪がついていた。
生きている。
生きようとしている。
ヘンリーの目の前にいるのは、紛れもない命だった。意図せず涙がこぼれた。
我が子の無事を確かめたからこそ、自然とこぼれた笑顔。それがあのときの母の気持ちだろう。
たぶん、母は溺れたヘンリーを見つけ、渾身の力で流れる屋根の上に放り投げたのだ。それが、あのとき母にできる精一杯。そして、我が子が無事屋根の上にいることを知ったからこその笑顔。
今でもヘンリーの腕に残るアザは、そのときの名残なのかもしれない。
グレイシアの顔にあるアザを魅力的だと感じたのは、無意識に、このアザが母によるものだと理解していたからなのだろうか。
この十年、ヘンリーはなんとなく生きてきた。
生きるのも死ぬのも神様が決めるのなら、一生懸命生きることに意味があるとは思えなかったからだ。
だけど、これからは違う。母が懸命に繋いでくれた命。それが今日、自分の子供に受け継がれた。それを無駄にしてはいけない。
今できることに全力を傾け、精一杯生きる。
ヘンリーはグレイシアと我が子にそう誓った。
ヘンリー 横山記央(きおう) @noneji
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