家出少年 ━英雄の前日譚━

瀬木

英雄前日譚

 しんしんと雪が降っている。

 どれくらい歩いただろう。

 少年は空を仰ぎ見た。蒼い瞳にはらはらと降る雪が映る。黒い髪はボサボサで薄く雪が積もっている。

 当然太陽は見えない。今は何時くらいだろう。雪を連れてきた雲を眺めながらそう思った。昼に出てきたから、夕方くらいかな。

 その手にはぬいぐるみを握っている。漆黒の鷹のぬいぐるみだ。

 防寒具は赤いマフラーのみ。吐く息は白く、その白い頬と指先は紅く染まっている。体を震わせて幸せそうな灯りで照らし出された街のなかを足取り重く、しかし一歩一歩確実に進む。

 少年は今までのことを振り返る。

 何故、自分が家出をしているのか、その経緯を。



 ▼ △ ▼ △ ▼ △ ▼



 はじめは、普通の家庭だった。どこにでもある、母と父、そして少年の、いわゆる核家族というやつだった。経済力はあった。愛情もあった。少なくとも、少年にはそう見えていた。


 しかし、その幸せはある時、音をたてて崩れ去った。


 専業主婦の母親が、家からいなくなった。父親に、“もう疲れたわ。後の事はよろしくね。私の事は忘れてちょうだい。あなたも新しい人を愛すると良いわ。”というメモを残して。

 少年はそのメモを目にしていない。何が起きたのか、状況をよく飲み込めなかった。つまり、母は戻ってくるのだと思っていた。



 けれど。その日から、父は少しずつ狂っていった。


 死が二人を分かつまで、愛すると誓った運命の相手が、別の男を愛し、自分と子どもを捨てて出ていった。この事実に、少しずつ心を蝕まれていった。

 仕事でしょっちゅうミスをするようになった。初めは憐れに思っていた同僚や上司も見放すようになっていき、遂には職を失った。

 新しく職を見つけるまで、貯金と退職金で何とかしなくてはならないのに、仕事まで失ったことで酒と煙草に溺れていった。


 少年は恐ろしかった。何故こんなことになってしまったのだろう。お父さんは、自分はどうなってしまうのだろう。


 父はそのうちに少年に暴行を加えるようになった。毎日のように殴られて蹴られて。瓶で叩かれたり首を絞められたり。ご飯もろくに与えられなかった。少しずつ痛みを感じなくなっていった。恐怖心も薄れていった。



 このまま死ぬのかな。



 自室に籠って膝を抱えて座っていた少年はそんなことを思った。ぼんやり光をうつさない目はもはやどこも見ていなかった。


 何も考えなくなった脳が再び思考を取り戻したとき、ふと目をやった先に、幸せだった頃に父が買ってくれた真っ黒な鷹のぬいぐるみが転がっているのが見えた。


 あぁ、懐かしいなぁ。あの時はまだ、皆幸せだったな。皆でお出掛けもした。誕生パーティーもした。楽しかったなぁ。

 どうすれば、あの頃の日常は戻ってくるんだろう。なんて、ふと思った。しかし、そんなものはもう二度と戻ってこないだろう事は幼い少年にも薄々わかっていた。

 少年はゆらりと立ち上がりぬいぐるみに向かって歩いていった。それを手に取って眺めた。


 いいなぁ。こんなふうに羽が生えていたら、こんなところから逃げ出せるのに。


 そんなことを考えたとき、少年は驚いた。まだ、自分にもこの場から逃げ出したい、という想いが残っていたということに。

 そうだ、いっそのこと、逃げ出してしまおう。今日はクリスマスだ。今なら。イエス・キリストの聖誕祭の今日なら。きっと…………。



 ▼ △ ▼ △ ▼ △ ▼



「はぁ、……はぁ……」

 少年が息をすれば目の前が白く染まる。体温が奪われる。薄い靴では冷気を遮ることはできない。かじかむ足に鞭を打ち、一歩ずつ歩を進める。街を行き交う人々はそんな少年を憐れむような目で見るも素通りしていく。時々、昔に知り合った友だちの親が大丈夫かと声をかけてくるが、笑顔で大丈夫ですと答えた。心配はかけられない。それでも暖かい羽織をくれた人もいた。ありがたく受け取りそれを羽織ってまた進む。

「はっ、はぁ……はぁっ……。」

 お腹が空いた。そろそろ疲れた。眠い。

 もう、諦めようか。ここで眠れば、次に目覚めたときはきっとここではないどこかだろう。苦しまずに向こうに逝ける。

 自分の住んでいた街はもう少年の背中にある。

「お金、お父さんのところから盗ってくれば良かったな」

 立ち止まって呟く。

「ねぇ、寒いね」

 握っていた鷹のぬいぐるみに囁きかける。

「あは、感じないか。ぬいぐるみだものね」

 ぬいぐるみを大事そうに胸に抱く。これが、……これだけが、唯一の、思い出。

 ふぅ、と息を吐き、再び歩き始める。


 いよいよ諦めてしまおうかと少年が思ったとき、は起こった。



「いよぅ、リュカ!そろそろ待ちくたびれたぜ!」

 元気な声が聞こえた。高めの男性の声だった。

 リュカ──それがその少年の名前だった。

「!?」

 突然の声にリュカは驚いた。何処から声がするのか。ここは今、少年以外は誰もいない、森の中だった。

「ここだよここ、お前さんが今まさに胸に抱いているそのぬいぐるみだよ!」

 再び男の声がした。確かに抱いている鷹のぬいぐるみからその声は発せられていた。

「っえ、どういう、こと……?」

「どうもこうもねぇさ」

 驚いて混乱したリュカが辛うじて言ったその言葉にぬいぐるみが反応する。

「俺も何かよく分からんけど、命を授かったのさ。きっとお前さんを憐れんでくれた神様の思し召しだろうよ、有り難く思うんだな!」

「そう、なの……かな?うん、そっか」

 落ち着きを取り戻したリュカは無理矢理納得せざるを得なかった。本人にも説明できない事態なのだ、理解できる筈がない。

 なんにせよ、一人の旅はあんなに心細かったのに既に安堵している自分がいる。もう、独りじゃない。心にじんわりと温かさが広がった。


 その時。


 茂みが揺れた。ガサガサと音をたてて。

「な、何……?」

 現れたのは……────。

「熊だ、リュカ!避よけろ!」

 体長二メートルはある熊だった。振り下ろされた右腕を間一髪で避ける。その拍子に、今までの疲れと寒さから足が体を支えきれず崩れ落ちる。

「え、ど、どうしよう……どうすれば良いの……!?」

「落ち着けリュカ!俺が」

 言いながら、むくむくと大きくなるぬいぐるみ。いや、最早ぬいぐるみではない。それは、本物の鷹の姿をしていた。艶やかな漆黒の羽根を纏った、それはそれは大きな──体長二メートルの熊より一回りくらい大きな──鷹が少年の前に立ち塞がった。

「────っ!」

 大きく目を見開き固まるリュカ。ついでに熊も虚を突かれ固まっている。鷹が言った。

「乗れ!リュカ!」

 かじかんだ足でなんとか立ち上がり鷹の背によじ登る。

「良いか!?行くぞ!」

 必死にしがみつき目を瞑る。

 鷹が羽を広げる。舞い散る羽根。大きな風を吹き起こしながら羽を羽ばたかせる。

 体がふわりと浮き上がるのがわかった。


 ──飛んでる。


 黒に染まった一羽の鷹が一声鳴いた。と言っても龍のように地面を這うような低く轟く声ではないが。

 しかしそれだけでも威嚇になる。熊は一目散に森の中へと駆けていった。



「リュカ、大丈夫だったか?」

 翔びながら鷹が訊く。

「……うん。大丈夫。」

 少年は答える。穏やかな笑みを湛え

「ねぇ、ナツ……ナツは、あったかいね」

 嬉しそうにその羽毛にしがみつき言った。

「なつ……ナツ?それが、俺の名前か?」

 鷹の方も、嬉しそうに命名された自分の名前を反芻する。

「うん。僕の、唯一の思い出。……唯一の、友だち。で、あたたかいから。今日はクリスマスで、雪も降ってて、とても寒いけど……今は、あったかい。だから。──ナツ。」

「成る程な」



 森を抜け、少年がかつて住んでいた街は遥か彼方に去っていた。少年と、鷹の背中を街は見送る。




 いつの間にか空は晴れ、綺麗な夕日を見せていた。あと少しで、日没。


「さて、何処に向かうんだい?」

 ナツが言った。

「うーん……これから、どうするか何にも決まってないんだ。お金も無いし……。何処に行けば、良いのかなぁ」

 困り果ててしまうリュカ。お腹空いたし。眠いし。でも今寝たら、きっとナツの背中から転げ落ちてしまう。

 宿に泊まりたい。ゆっくり食事を摂って眠りたい。そのためには、お金がなくちゃいけない。

「じゃ、その辺で動物でも狩って売れば良い」

 ナツが提案する。

「でも僕、そんなことしたこと無いよ」

 眉毛をハの字にしていうリュカに

「なぁに、安心しろ!俺が狩ってやらぁ!」

 元気に答えるナツ。それくらいお安い御用だ!とでも言うように。

「でも、銃とか短剣とか、そのうち使えるようになるね」

「それはありがたい。じゃ、遠くの方に見えるあの森でひとまずウサギでも狩ろうか」


「うん!」




 こうして、安住の地を求めるリュカとナツの冒険は始まった。一体彼らの未来の先に何が待ち受けているのか、それはこの世の誰にもわからない。








 剣術と体術に秀でた青年と喋る鷹のぬいぐるみが数年後に英雄となることはまた別の話である。

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家出少年 ━英雄の前日譚━ 瀬木 @yesterday3478

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