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どうにも集中するといけない。
机に向き合って姐御に頼まれた『対策案』の作成に取り組んでいると、気が付けばまだ風呂にも入ってないのに日を跨いでいた。
風呂は大切だ。身体を清潔に保つ以外にも湯に浸かることで疲労を回復させる効果がある。
なにより心地よい。おざなりにしてはいけない。
「はふぅ〜〜」
と言うわけで、草木も眠る丑三つ時にかなり遅めのバスタイムと洒落込むことにした。
発熱した日向以外の二人が入り終わったにも関わらず湯船になみなみ張られた、入浴剤の乳白色に染まった湯に肩まで浸かり、今日一日の疲れを融き解していく。
魔術が世に広まったことで、当時人々を悩ませていた「水不足」は真っ先に解決に向かっていった。
それまで、人々が生活用水として使える水の量は青い地球とまで呼ばれたこの惑星の膨大な水資源の内、僅か0.01%と言われていた。
その最たる理由として、地球の表面積の大半を占める水が海水だということが上げられる。
海水を飲料水に蒸留する技術はそれまでにもあった。しかし、日本だけでも一日に4000万㎥という、想像もできないほどの水を使用する。それが世界規模となると果てしなく膨大な量に膨れ上がる。それだけの量の水を処理するためのリソースが当時は不足していた。
魔術がもたらした高効率のエネルギーはその問題を解決し、地球上の水を世界中の誰もが自由に使えるようにした。
水は循環する。だから、もはや、水は有限の資源ではない。とはいえ、蒸留には人手がいるため水道代が無くなったわけではないが。
「まあ、今日は頑張ったし、このくらいの贅沢はいいよね」
世界的に水不足が解決し、それに追随する形で食糧不足も次第に解消された。人々が長い歴史の中で奪い合ってきた、エネルギー資源、水、食糧は潤沢になったのだ。
「それでも、人は争いをやめる気配がない。どこまでも人とは業突く張りだな……」
争いとは、欲っするモノを手にする手段の一つだ。交易や自農自作ではまかないきれない物を手にするために。
或いは破壊するために。自らに害なすものを。
「人的資源、土地、国、思想、それに、人種……どうしたものか……」
金で手に入らない、手ずから生み出せない、排除せねば損害を被る、というものはどう満たせば良いのだろうか。
「……休息のために風呂に入ってるというのに、頭を動かしてどうする……」
ここで、そんな大きなことを考えても答えはでない。
とにかく目先の問題を解くためにも、僅かでも疲労回復に努めよう。
温まり過ぎても眠気が出てしまうので適当なタイミングで風呂を上がり、頭を休息モードから徐々に仕事モードに切り替えていく。
「これまでに挙げた対策案はどれも、もし、方舟の防備に綻びがあれば、といった悲観的な視点からの案だ。だが、相手からすればそんな希望的観測で作戦を遂行するとは思えない」
敵方も前提条件として『難攻不落な方舟』を想定しているはず。
抜け道や見落としを期待する行き当たりばったりなんてナメた連中がNNN(僕ら)に宣戦布告なんて、それこそ楽観し過ぎだ。
「パッと十個ほど案が思いついたけど、それでも、やはり不確定な要素が多い」
舞台はこちらの牙城。だが、敵の調査は疎かで情報が足りない。何もかもが『もし』の域をでない。まるで透明人間でも相手にしてるみたいだ。
「或いは真っ白なパズルか……」
とにかく、裸で考えても湯冷めするだけだし、さっさと服着て、続きは部屋で髪でも乾かしながらながら考えよう。
着替えるため巻いていたバスタオルを取った瞬間、そう、まさしく一糸纏わぬ状態のこの瞬間、予想だにしないことが起こった。
ガラッ、となんの前触れもなく脱衣場と廊下とを繋ぐ戸が開け放たれた。そこには、寝癖で鳥の巣が荒れ放題になっている日向が立っていた。
こんな夜更けに誰かがやってくることを想定しなかった僕は、戸の方に体を向けていたため、戸を開けた日向と目が合う形になった。
「…………」
「……………………」
互いにこの絶妙に『お約束』から逸れた変化球にどう対応したものかとなっていた。
確かに毛恥ずかしいが男の肢体を見た相手に拳と共に「きゃー、のび太さんのえっちー」というのも申し訳ないし、とっさにタオルで体を隠すのもなんか違う気がする……とりあえず慌てる素振りは見せず、先程とったバスタオルを体に巻き直しておく。
こういう『お約束』は僕じゃなくて、もっと適した人がいると思うんだけどな。
「……お前、こんな時間に何やってんだ?」
何とも言えない状況で、見つめ合うこと数秒、口火を切ったのは日向だった。
この感じだと、今のを気にしてないようだ。助かる、そっちの方がこちらとしても気が楽だ。
「そりゃあ、お風呂に入ってたんだよ。ちょっと読書に集中しすぎて夜遅くになったけど。キミこそ、こんな時間にどうしたんだい?」
日向が相手でも流石に仕事のことを漏らす訳にはいかないので、その辺は適当にボカしておく。
「熱で汗かいたから、シャワーでも浴びようと思ったんだ」
少し顔色がよくなっている日向を解析してみると、高熱は微熱にまで下がっていた。
「どうやら大分、熱は下がったようだね。良かった……けど明日は大事をとって休んでおくといい。それはそうと、だ……今から服を着るから出ていってくれるかい?」
●
「なんだ、まだ起きてたのか」
お湯を浴びてか、頭の鳥の巣が崩れ、頬が若干紅潮している日向をキッチンのカウンターで出迎えた。
「ああ、日向、少し座って待っててくれるかい? 簡単だけどお粥作ってるか
ら」
日向は帰ってすぐに寝込んでしまったので晩ごはんを食いっぱぐれたのだ。
「気にしなくていいのに……」
「体力が落ちてる時こそ栄養を摂らないとだよ。流石にこんな時間だから手の混んだものは作れないけどね」
お粥が出来上がった土鍋に梅干しを乗せてカウンターから日向に手渡す。
遠慮して見せていたが、やはり結構お腹が空いていたらしく、あっという間に平らげてしまった。倒れる前まで三角と特訓していたのだから当然か。
体調に配慮して食べやすいお粥にしたけど、この様子だともう少し食べ応えのある物の方が良かっただろうか。何かおかずになる物でも用意してあげよう。
「悪かった、自分の体調もまともに看ることのできないくせに勝手なことをして」
どうやら、主治医の僕に黙って、無茶をしていたことを悔いてるようだ。
日向は今のようなぎこちない距離感の相手に、なにもかもをつまびらかに話すのは抵抗があるだろう。
「怒ってない、と言えば嘘になる。なにせ、僕に黙って無茶をしていたんだから。けど、むしろ、反省すべきは僕の方だ、キミの身体を預かる立場だというのに、キミの状態を正しく認識できていなかった」
万象を見透かす耳目を持っているくせに、いや、持っているがゆえに、僕には人の行動の裏にある本心が見えないし、言葉の外にある本音が聞こえない。
物事をたった一つのイコールでしか結べない。言動から帰結する一つの答えしか導けない。
だから、彼が抱えているモノの重さも形も正しく理解できていなかった。正直、事情を聞いた今でも日向の考えを100%汲み取れてるとは思えない。
「昔、人に言われたことがある『アナタには、人の心がわからない』ってね」
「そんなことは……なくもないか、ドクター空気読めないし。けど、理解しようと努力してくれているのはわかる、てか、俺の方こそ、もっと上手く感情を表現できればいいんだけどな」
人の感情がわからない僕と、人に感情が伝えられない日向。改めて考えると奇妙な取り合わせだ。
「ある意味、本質は近いのかもしれないな」
「なにか言ったか?」
「なんでもないよ。それより物足りないみたいだったから、餃子焼いたよ。冷凍のだけどね」
油いらずで簡単羽根付き餃子、という売り文句の冷凍餃子を夕方スーパーで買っておいた。
菅野相手に栄養管理の豆知識として、冷凍食品の有用性を力説したのを思い出す。
『冷凍技術の飛躍的進歩が目立った平成時代、この時点で冷凍食品の味やバリエーションの追求は一通り完成し、現在、冷凍食品が追求しているのは正に健康志向だ。冷凍による組織の破壊を極限まで抑え、食物本来の栄養を守る技術が確立され、今や冷凍食品は普通の食品と遜色ない』
多分、半分以上聞き流していただろうけど。
「冷凍食品といえば、何年か前に冷凍食品の袋に穴を空けて中に異物を混入するとかいう、下らんイタズラが問題になってたよな」
よく覚えてるな。確か僕が日本に来て間もない頃、全国の悪ガキの間でそんなことが流行ったのだ。なにせ規模が規模なだけに冷凍食品を主力にしてる企業は少なくない打撃を受けた。
「悪質だったね。スーパーなんかじゃ、パッケージに損傷があったらその商品は即廃棄だ。食糧事情に明るくなったと言っても、食べ物を粗末にしていい理由にはならない。まったく度し難い。まあ、今では対策されて、そんな下らないイタズラは出来なくなってるけどね」
「対策?」
「例えば、針くらいなら余裕で耐えれるように外装を強くしたり、僅かでも傷が付けば袋から大きな音が出たり、その他諸々の血の滲むような努力の末、そんな下らないイタズラは根絶したんだ」
外からの攻撃をあらゆる細工で工夫し防御する、そう意味ではこの包装は鉄壁だ。
今の冷凍食品に異物混入しようと思うなら、製造の過程でもないとだけど、そんな自分の首を締めるようなことをする愚か者は大手にはいないだろう……けど……。
「そうか……なるほど……」
わかってしまった。いや、『気付いてしまった』
思えば、こんなことは誰でもわかる簡単なことだ。けど、あえて考えないようにしていた方法が最も効率よく鉄壁の方舟に穴を穿つ方法だということに。
●
真っ白なパズルは、全体図を見せた。
ただ、その絵は誰も望んでいない解答だ。
日向が自室に戻ってからも、僕はリビングに残っていた。
今戻ったところで、きっと仕事なんて手につかない。
気を落ち着かせるために煙草の代わりに飴を頬張り、ソファーに横たわる。風呂で温まり疲れた身体は更なる休息を求め眠気を誘うが、相反して頭は冷水を浴びたかのように覚めきっていた。
「やっぱり、まだ起きてたんだ未希」
ぬっ、とソファーを覗き込むように桜が顔を出した。
現在時刻は3時前後、人によっては早朝か深夜かで意見がわかれ始める時間だ。
早寝早起きが永遠のテーマの桜と言えども少々早過ぎる起床だと思う。
「キミまで起きてきたのか、桜」
「未希が眠れなくなってるだろうと思って添い寝しに行ったら部屋にいないんだもん」
「答えになってるようでなってない……どうして、僕が眠れないって思ったの?」
「ここ最近、未希はなんていうか、何かを見ないようにしてた。怯えてるように見えたから」
「そんな風に見えてたのか。僕って案外顔に出やすいのかな」
これでもポーカーフェイスは得意な方なんだけど。
「日向ほどじゃないけど読みにくいよ。どんなときでも笑ってるから。けど、わたしにはわかる。未希がいつもと違うことも、今一番怖い思いをしてることも」
「キミはいつから読心系能力に目覚めたんだい? 大体合ってる。きっと僕は怖いんだと思う。そうだな、真っ白だったパズルが完成した途端、竈馬の絵になったってくらいの衝撃と恐怖感がある」
「かまどうま?」
「花蓮に聞いてみな、けど、絶対にネット検索はしない方がいい」
解答を求めることも、解答を出さないことも、どちらも怖い。結末はどちらも悲劇的だ。マイナス同士を天秤掛けるなんてこと、したくはなかった。
「ソファーじゃ流石に添い寝は難しいし、これで我慢してね」
そう言って、桜はソファーに横たわる僕の頭を無理矢理持ち上げ、そこに自分の太腿を滑り込ませた。俗に言う膝枕だ。
「怖いなら、怖くなくなるまで、わたしが傍にいるよ」
「僕はキミより歳上なんだけどね」
穏やかな笑顔を浮かべながら、桜の指が僕の髪をなぞる。
彼女の膝枕から、目をつむっても様々情報が流れてくる。ほんのりと温かい体温、ゆったりとした息遣い、桜という人間の凹凸の少ない姿形、心地の良い弾力、元気の溢れ出る健康状態、そして、何より『生きている』ということを実感できる。
「アナタは何にそんなに怯えてるの?」
「この温もりを失うこと。それが自分の責任なら尚さら。もしかしたら、また僕は知らず知らずのうちに誰かを傷付けていたのかもしれない。人の気持ちを踏みにじって」
実のところ、事態の全貌が見えたわけじゃない。こればっかりは、調べるまではわからない。けど、僕は無神経なくせして誰かを傷付けたかどうかもわかってない。人混みで足を踏んづける感覚でいつも誰かを傷付ける。
それが、恐怖に拍車を掛けている。
「それは、仕方ないよ。うん、仕方ない」
「仕方ないって?」
「未希だけじゃない、みんな、人の気持ちを100%理解なんて出来ない。確かに未希はその辺が人より苦手なのかもしれないけど、ちゃんと言葉にしないのに『100%理解して欲しい』なんてそんなのはワガママだよ」
「けど、だからといって、相手のせいにして傷付けたまま、謝れないなんて駄目だ」
「どっちもどっちだよ、そんなの、無神経なこと言って傷付けるのも、傷付いたことをちゃんと言葉に出来ないのも。わたしはそういうの嫌だから思ったことはなんでも話すよ。真っ直ぐな飾らない気持ちで」
ああ、そうか、彼女は誰もが隠したがったり、偽ったりするモノを、いつも曝け出してくれてるから、感情を見て取れるから、僕は彼女の傍にいることを心地よいと感じるのか。
恐怖は和らいだ。
完全には拭い去れていないが、その位が丁度いい。
では、ケリをつけようじゃないか。
どちらに転んでも負債や後悔しかない、このクソったれな舞台を。
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