第44話 「沙都。」

 〇二階堂紅美


「沙都。」


 部屋の外で声をかけると、返事は聞こえなかった。

 …疲れて眠ってるのかな。



「入るよ。」


 返事を待たずに部屋に入ると、沙都はベッドに横になってた。

 目の上に腕を乗せて…その表情は分からない。



「…大丈夫?」


 ノンくんに殴られた頬を触ると。


「…紅美ちゃん、ごめん…」


 いきなり謝られた。


「何が。」


「…連絡できなくて…」


「……」


「食事の前に…シャワーの前に…たった一言…さっき…ノンくんに言われるまで…気付かなかった。」


 あまりにも沙都らしくて、ちょっと笑えた。


「本当に忙しくて…食事ができると思ったら、もうそれしか考えられなくて。シャワーだってそう。それぐらい余裕がなくて。」


「うん。いいよ。」


「…良くないよ…だって、もし反対の立場だったら…僕、もう寂しくて死んでるかもしれない。」


 あんたはウサギか。

 言いそうになってやめた。


「…寂しかったよね…」


 沙都は体を起こして、あたしの肩を抱き寄せた。


「…寂しかったけど、もう…それは乗り越えたかな。」


「……」


「あたし…本当は、沙都のプロポーズ、受けるつもりだったんだ。」


「…え?」


 沙都はあたしから離れて、驚いた顔のまま…あたしを見つめた。


「結婚さえしてれば…離れてても不安はないかなって。だけど、撤回されて…ああ…って気持ちが萎んじゃって。」


「……」


「だから、すごく不安で、壊れそうになって…少し病んだかな。」


「…ごめん…ごめんね紅美ちゃん…」


 沙都は再びギュッとあたしを抱きしめて、耳元で『ごめんね』ばかりを繰り返した。



「あたし、何であんなに不安だったんだろう…って考えた。」


「……」


「沙都の夢、応援してれば済むだけの話なのに。無駄に神経すり減らすほど…不安で不安で仕方なかった。」


 どうして不安だったのか…考えた。


 あたしは…

 沙都の才能が怖かったんだ。

 沙都の声は…売れる。

 そして、あたしはどんどん自分が置いて行かれる気がして…

 自分に自信をなくした。

 沙都とあたしは違うのに。



「沙都がそうしてたから、やり返すわけじゃなくて…あたしも、目の前の事に必死にならなきゃって…やっと思えてる。」


「…もう…僕とは…駄目だって事?」


「沙都はそう思うの?」


「……」


 無言の沙都に、少しイラついた。

 なんで…大丈夫って言ってくれないの?



「…大丈夫だよ…って、言わないんだね。」


 小さく溜息が出た。

 あたし達って…そばに居てなんぼ。だったんだな…って、ちょっと笑いかけた。


「今の僕に…そんな事言う資格ないと思って…」


 沙都はあたしを抱きしめたまま、小さくつぶやく。

 その言葉に…あたしは…


 ドン


 沙都の胸を押して、ベッドに倒す。

 沙都は驚いた顔。


「じゃ、夢だけ追ってれば。」


 あたしは沙都を見下ろして。


「もう、余計な事考えなくて済むように別れよ。」


 キッパリと言った。


「…え…」


「あんたの言う好きとか、そばにいたいとか…それって、昔から一緒に居たから、そうじゃないと落ち着かないだけだったんじゃないかな。」


「ち…違うよ!!」


「そ?どう違うの?」


「…それは…僕は…」


「…沙都は、ただ、あたしを好きなのよ。それだけなのよ。」


「……」


「それ以上の気持ちは…」


「……」


「……」


 ダメだ。

 もう、泣きそうで…これ以上言えない。



 海くんやノンくんと色々あって…あたしを取られるかもしれない。

 そう思って、少し頑張ってみたら…あたしが手に入った。

 だけど、夢も見付かって…

 そうしたら、途端にあたしを守るなんて、重荷になったんだよね。


 そう…言おうとしたのに。



「…とにかく、もう終わり。そうしよ。じゃ。」


 そう言って部屋を出ようとすると。


「待って。」


 沙都が…あたしの腕を取った。


「…僕のために、わざとそんな事言ってる?」


「…なんで沙都のため?自分のためよ。もう…これ以上不安になるのは耐えられない。」


「……」


「もう、がむしゃらに…夢だけを追って。」


 手を離そうとすると、沙都はあたしの腕を掴んでる手に力を入れて…振り向かせて。


「…僕の夢は…紅美ちゃんがいないと…無理だよ。」


 苦しそうに…そう言った。


「……」


「ちゃんと…連絡するから。」


「そういう事じゃないの…」


「ちゃんと、紅美ちゃんの事…一番に考えるから。」


「だから、そういう事じゃないの!!」


「……」


 ああ…

 もうダメだ…

 あたし…


 ポロポロとこぼれる、あたしの涙を見て。

 沙都は悲しそうにうつむいた。



「…そう言っても…沙都は…長続きしないよ…」


「……」


「昔から、そうだったでしょ?音楽には集中できるのに…他の事にはサッパリで…」


 本当に。

 他の事にはサッパリで。

 新曲を作ってたら、ご飯食べるの忘れてた、とか。

 気が付いたら朝になってた、とか。

 電車で知らない町まで行ってた、とか。


 その間…

 誰とも会話が成り立たない。



 それだけ音楽に集中できるのは…いい事だよ。

 今の仕事、沙都には天性だ。

 だけど…

 あたしを恋人としてしまって…沙都は油断したんだと思う。


 紅美ちゃんなら解ってくれる。

 僕の全部を知ってるから。


 …うん。そうだね。

 知ってるよ。

 あたしの事、大好きで…大好きだから…甘えてくれる事も。



 だけどね、沙都。

 あたしだって…甘えたい。

 あんたには癒されるけど…もっと、ギュッと…心を掴んでて欲しい。

 もっと、ちゃんとあたしを見ててよ…って。

 そう思う。



 沙都は風船みたいにふわふわしてて。

 あたしには…もう無理だよ…


 そして…こんなあたしが彼女じゃ…沙都は、いつまで経っても…こうやって周りから責められる。

 あたしがしっかりしてれば済む話なのに。

 …あたし、弱いな。


 沙都が何かに夢中になると、誰の事も眼中になくなるの…解ってるだけに…

 曽根さんが送ってくれる写真を見て。

 それが、歌ってる顔でも。

 眠ってる顔でも。

 …笑顔でも。

 沙都の頭の中に、あたしはいないな…って感じた。


 音楽だけに集中できる環境。

 今の沙都には…

 辛くても、たぶん…幸せな毎日だ。



「…僕の事…嫌いになった?」


「……」


「僕…紅美ちゃんの事、ずっと変わらず好きだよ…」


「…もう、いい。そういうの、言わないで。」


 …海くんと終わった後…

 もう、しばらく恋はいいやって思ったのに。

 すぐ…沙都とこうなってしまって。

 ほんと、あたし…バカだ。

 急ぎ過ぎたのかもしれない。


 結局…あたしは寂しいと誰かに埋められないとダメな、弱い人間なんだ。


 …しっかりしようよ。

 もっと…

 自分に自信持って…



「…傷付けたね…」


 沙都がそう言って、あたしの肩に頭を乗せた。


「…お互い様よ…」


 あたしは沙都の腕をそっと離して…

 そのまま、部屋を出た。



 〇朝霧沙也伽


 紅美が二階に上がったまま降りて来なくて…


 ああ、どうしよう…

 このままコトが始まったりしてたら…って。

 あたしは、ちょっとドギマギしてた。


 だってさ…

 あたし以外の三人…

 先生とノンくんは紅美に片想いの独身男で…

 曽根さんは、たぶん女っ気ない独身男で…

 そんな三人の頭上で、コトが始まってたら…


 あああああ!!

 どうしようー!!

 変な妄想しちゃうよ!!



 テーブルは静かだった。

 ノンくんは曽根さんに殴られ慣れ過ぎてるのか、少し赤くなった頬をほったらかしたまま。

 曽根さんは、わざとらしく何度も触ってるけど…ノンくんはそれを無視。

 先生は…りんごを剥き始めたりなんかして…


 あたし、どうしたらいい!?



「…あ。」


 ドアの音がして、振り向くと紅美が二階から降りて来て…そのまま外に出た。

 あたし達四人は顔を見合わせたけど…


「…海、行け。」


「何で俺だよ。おまえ行けよ。」


「泣いてたぞ?」


「だからおまえが行けって。」


「俺は…」


 うわ!!何!?この譲り合い!!


「じゃ、俺が…」


 って立ち上がった曽根さんの服を引っ張って。


「何してんのよ。二人で行けば。」


 あたしは、先生とノンくんに言う。


「…は?」


「二人で行って、紅美を挟んで、笑わせて帰って来て。」


「……」


「……」


「早く。」


 あたしが小声で凄むと。

 二人はゆっくり立ち上がって…外に向かった。



「…はあ…」


 溜息をついて、唇を尖らせる。


 紅美…泣いてたよね…

 沙都、あんた何やらかしたのよ。



「…沙也伽ちゃん、紅美ちゃんの事、好きなんだね。」


 そう言われて、あたしは曽根さんを見る。


「…曽根さん。沙都は、ずっと何してたの?」


「え?」


「ずっと…紅美の事ほったらかしてさ…」


 あたしの言葉に、曽根さんは小さく溜息をついて。


「そうだよねえ…必死で歌うしかなかったからなんだろうけど…沙都くん、辛そうだったよ?特に…知り合いが亡くなった連絡があった時はさ…」


「…でも連絡も何もして来なかったじゃない。」


「うん…その辺が、沙都くんは不器用なんだろうね。」


「一言で済ませないでよ。紅美は…待つしかなかった紅美が、どんなに辛かったか…」


 ほんと…

 あたしがどれだけイライラしたか!!


「でも、俺…ちくいち近況報告してたんだけどな…」


 曽根さんの言葉に、あたしは軽くキレた。


「あーのーねー。」


 椅子ごと曽根さんに向き合う。


「は…はい…」


「曽根さんの近況報告ってさ、まるでファンクラブのお知らせ?って感じだったよね。」


「え…あ…う…」


「こっれだから経験のない男は…」


 あたしがしかめっ面でボヤくと。


「けっ経験ぐらいある!!何言ってんだよ!!」


 曽根さんは必要以上に怒った。


 何なのよ。

 ちっさいわね。


「ちがーう。セックス経験じゃない。恋愛経験。」


「う…あ、あるよ!!あるさ!!」


「あーそーですかー。じゃ、もっと配慮があっても良かったわよね。何月何日にどこそこでライヴがあるって報告もらっても、行けるかアホ!!ってなるの、分かるんじゃないの?」


「はっ…」


「何がはっ…よ。だいたい、曽根さんのそういうのも、紅美を追い詰めてたんだからね!!」


「…そ…そうなのかな…」


「だって、沙都が紅美の事、なーんにも言わないから、それしか送れなかったんだろうなって思うよね。」


「……」


「あー、もう紅美の事って一ファンとしてしか思ってないんだーって。」


「…ど…どうしよう…」


「知らないわよ。ほんと腹立つ。」


 言い過ぎたかなーと思いつつ。

 あたしは今までの鬱憤を晴らした。

 沙都も曽根も、いっぺん豆腐の角に頭ぶつけろ!!



 〇二階堂紅美


「……」


 庭のベンチに座って、泣いて火照った頬を夜風で冷やしてると。


「……」


「……」


 右に海くん。

 左にノンくんが座って。


「……」


「……」


「…食うか?」


 ふいに、海くんが手に持ってた小皿を差し出した。


 …リンゴ。

 きれいに剥いてある。


「…要らない。」


「そうか…」


「じゃ、俺が食う。」


 ノンくんが、あたしの前から手を伸ばしてリンゴを取った。

 それに釣られたように、海くんも一つ。


 …シャリシャリシャリ…


 二人がリンゴを食べる音だけが、響き渡る。



 …慰めようとして出て来てくれたのかな…

 あー…ほんと…あたしって…

 迷惑な奴…

 部屋に入れば良かったよ…


 シャリシャリシャリ…ガリッ


 え。


「い゛っれ゛!!」


 リンゴを食べる音に混じって…凄まじい音が…


「ははっ。舌噛んだのかよ。思い切りだったな。」


 海くんが笑う。

 当のノンくんは、口を押えて悶絶中。


「…す…すごい音したけど…」


「~……」


 芝生に手を着いて、四つ這いになったノンくんは。

 言葉も発せられないほど。


「見せてみ?」


 海くんがノンくんの前に回って顎を持ち上げた。

 それが何だか…

 男前同士のキスシーンみたいに見えて…


「…ふ…」


 つい、笑ってしまった。


「…何か笑われるような事でも?」


 海くんが眉をしかめた。


「…キスしそう。」


 あたしがそう言うと。


「なるほど…涙目の華音には、なかなかそそられるな。」


「バカか。」


「あー…血出てるぜ?」


「…リンゴで紛らわせる。」


「また噛むなよ?」


「噛まねえよ。離せ。」


 ノンくんは痛がりながらも、二つ目のリンゴを手にした。

 それを見てると…あたしも食べたくなって。

 小皿から一つ取って食べた。

 しばらくそうしてると…


「…僕も。」


 沙都が…出て来た。


「……」


「……」


「……」


 沙都はあたし達の前、芝生にあぐらをかいて座って。

 下を向いたまま、リンゴを食べる。

 ノンくんと海くんは、あたし越しに顔を見合わせたりしてるけど…

 あたしは、言葉を出さずにいた。

 すると…


「…また、今日からライバルだよ。」


 うつむいたまま、沙都が言った。


「僕はフラれたけど…まだ諦めないから。」


 その沙都の言葉に。


「女心を解ってなひ男は、諦めた方がひーんじゃねーか?」


 ノンくんが『い』を言いにくそうにそう言いながら、あたしの肩に手を掛けた。


「…何これ。」


 あたしがノンくんを見て、眉間にしわを寄せて言うと。


「ま、近くにいるだけで、手を出せない奥手も無理だと思うけどな。」


 そう言って、海くんも…あたしの肩に手を掛けた。

 そんな二人を見上げて、沙都はムッとしたけど。


「…あたし、今はバンドに懸けるから。」


 あたしはそう言って立ち上がる。


 沙都じゃないけど…

 あたしも、音楽だけに…夢中になりたい。



 ベンチから離れると。


「…だってさ。」


 そう言って、沙都が二人の間に座った。



 三人並んで座った姿を。

 リビングの窓から沙也伽が見て笑ってて。

 なぜか、その奥では…

 テーブルに突っ伏して泣いてる風な曽根さんの姿が見えた。

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