第20話 あたしの名前は東 朝子

 〇東 朝子


 あたしの名前はひがし 朝子あさこ

 二階堂という特殊な秘密機関で働く両親の元に生まれた。


 三歳年上の兄は、小さな頃から色んな訓練を受けて…今や立派に二階堂の一員として働いているけど。

 あたしは、昔から何をやってもダメで。

 強いて言えば…料理が出来るぐらいかな…


 同じ敷地内で生まれ育った、一つ年上の瞬平しゅんぺい薫平くんぺいって双子も、二階堂の一員として働いている。

 あたしの周りは、みんなエリート。

 そんな中で、おちこぼれな自分がとても嫌で…あたしは、今自分に出来る事。を、ちゃんとしようって…家事全般は…頑張ってる。

 東家の料理はもちろんだけど、二階堂の大きな本館のお掃除をしたり…庭のお掃除をしたり…うん。


 落ちこぼれでもいいじゃない。

 って思う反面。

 あたしには、落ちこぼれのままでいちゃいけない理由があった。

 あたしは…


 いずれ、二階堂のトップに立つ、二階堂海くんの許嫁だ。



 あたしより八歳年上。

 小さな頃はピンと来なかったけど…

 ずっと優しくて、笑顔が素敵な海くんに…気が付いたら恋をしてた。


 あたしが海くんに恋をした頃、海くんはすでにスーツを着て仕事をしてた。

 あんなにカッコいい人が、あたしなんて好きになるのかな?

 そう思いながらも…あたしは、守られ過ぎてた。

『許嫁』って、約束に。



 あたしがその約束を信じて疑わなかった間に…海くんは、自分の夢を追って渡米した。

 あたしが短大を出たら結婚するはずだった。

 だけど夢を追いたいから、今のままじゃ朝子を受け入れる自信がないからって言われて。

 あたしは、海くんに『待たない』って言った。

 そんな夢があった事さえ…知らなかったし。

 一度も…抱きしめてもくれなかった。

 キスもしなかった。

 あたし達に…幼馴染って絆以外があったのかな?



 だけど、海くんへの長年の想いは消えなくて…空ちゃんと泉ちゃん、海くんの二人の妹さんの研修について、あたしも渡米した。

 久しぶりの海くんとの再会は…やっぱり、彼を好きだ。って、認識させられた。


 だけど…あの事故。


 海くんを助けられて良かった。

 そう思った反面…

 あたしの顔に残った傷は…

 あたしを酷い女に変えて…

 海くんを苦しめ続けた。





「朝子。」


 怪我をして、病院のベッドで目覚めた時…海くんが、あたしの手を握ってくれてた。

 それがすごく嬉しくて…

 そして、あたしの事…一生守るから…大切にするからって言ってくれて…

 あたしは…夢を見てるみたいな気分になった。



 だけど…

 その夢は、本当に夢でしかなかったと思った。

 毎日お見舞いに来てくれてた海くん。

 きっと…疲れてたと思う。

 仕事をしながら、一日も欠かさず…あたしの付添なんて…


 壁にもたれかかって、椅子に座ったまま眠ってた海くんのジャケットから…

 何かが…見えた。


 …写真?



 鈍いあたしの…女の勘が働いたのかもしれない。

 きっとそこには…あたしが見ちゃいけない物が写ってる。

 そう…頭では分かったのに。

 あたしは…それに手を伸ばした。


「……」


 言葉が出なかった。

 でも、言いようのない衝撃に駆られた。

 そこには…紅美ちゃんを後ろから抱きしめるようにして…写ってる海くん…


 二人の笑顔は…あたしの胸を突き刺した。

 海くんの、こんな幸せそうな顔…見た事ない…


 紅美ちゃん、どうして…?

 いつから…二人はいつから…?



 色んな感情が湧き出て。

 あたしは…紅美ちゃんに会った。



 だけど、紅美ちゃんは凛としてた。

 背筋を伸ばしてあたしを見て。


「最初に海くんを捨てたのは、朝子ちゃんでしょ?」


 って言った。


 そして…


「朝子ちゃんがいらないって言うんなら、あたしは遠慮なく海くんをもらう。」


 そう…言われた。


 いらないわけがない。

 あたしは…

 あたしは、待たないって言った事を、すごく後悔してたし。

 だけど…海くんを振り向かせるために…何をどうしたら?って…


「愛より強い同情って、あると思う?」


 紅美ちゃんの言葉に、ハッとした。

 顔に傷が残る。

 そのせいで海くんがあたしを選んだとしても…一緒に居れば…それは愛に変わるかもしれない。

 あたしは、あたしなりに…あたしの全てをかけて、海くんを愛すればいいんだ。



 紅美ちゃんに差し出した二人の写真は、彼女の手によって破られた。

 だけどあたしは…それをきれいに貼り直して…海くんに返して謝った。

 大切な写真だったはずなのに…ごめんなさい、と。



 海くんは無言でその写真を手にして…苦笑いをした。

 そして…その写真は数日後…あたしの目の前で、海くんが燃やした。



「俺は、朝子のそばにいるから。」


 海くんの言葉を…信じようと思った。

 あたしの愛を…受け入れてもらうために。




 海くんと婚約した。

 それは…あたしにとって、大きな安心材料だった。


 退院して、海くんと暮らす事になった。

 小さな、新しい家。

 まさか自分がアメリカで生活する事になるなんて…思いもよらなかった。


 だけど、寝室は別だった。

 それがあたしのちっぽけなプライドを傷付けた。



「…どうして、寝室が別なの?」


 低い声で問いかけると。


「休む時間が違うから。」


 海くんは普通にそう言ったけど…


「…そんなの…言い訳じゃないの?」


 あたしは…言ってしまった。


「あたしと一緒にいるって言っても…罪滅ぼしなのよね…こんな、顔に傷がある女なんて…一緒に寝たくないのよね…」


「朝子。」


「…いい。別々でも。」


 海くんは何も言わなかったけど…ゆっくりとあたしを抱きしめて。


「…どうすれば…朝子は安心するんだ?」


 小さな声で言った。


「……分かんないよ…そんなの…」


 とにかく…不安だった。

 あたしは…勝った。って、勝手に思ってたけど。

 そんなの、あり得ない。

 あたし、バカだ。



 怪我をした事で、研修はリタイアした。

 海くんは最初、辞めるのか?って言ったけど…

 顔の傷をみんなに見られてる気がして…嫌だった。

 あたしは…甘え過ぎてた。

 この、傷に。


 この傷のせいで。って言えば、何でも許される。

 そんな気持ちになっていたのかもしれない。



 空ちゃんの旦那さんである渉さんから、皮膚移植についての話があると言われたけど…あたしは、それを断った。

 この傷がなくなったら…あたし…

 海くんに捨てられるかもしれない。



「朝子、今夜はもう仕事がないから、一緒に休まないか?」


 そう海くんから言われた時は…

 酷い事ばかり言ってるあたしに…海くん、なんで?って…涙が出そうになった。

 確かに、海くんは毎晩夕食の後も現場に出たり、本部に行ったりで…一緒に過ごす時間は少なかった。


 だけど…あたしは、怖かった。

 …あたしにとっては、全てが…初めての経験。

 以前、温泉で見た紅美ちゃんの体は…すごくきれいだった。

 …比べられたら…嫌だな…

 海くんはそんな人じゃないって分かってるクセに…

 あたしは、少し躊躇した。



 海くんのベッド…

 隣に入ると、海くんはあたしに腕枕をしてくれた。


「…キスしても?」


「…聞くの?」


「嫌って言われる可能性もあるかなと思って。」


「…嫌なわけ…」


 あたしがモジモジしてると、海くんは優しく笑って…あたしの頬に触れた。

 …傷は、あまり見られたくないって思ったけど…

 海くんは、その傷にキスをして…

 それから…ゆっくりと、唇に。


 ……胸が、キュッとなった。

 海くんは…すごく優しかった。

 優しくあたしに触れて、何度もキスをしてくれて…

 時間をかけて…


 だけど…

 最後に言われた言葉は…これだった。


「…ごめん、朝子。」




 海くんは、あたしを抱けなかった。

 それまで、まるで夢のような気分だったあたしは…いきなり現実に戻されて。


 つい…


「…どうせ…あたしは紅美ちゃんみたいにスタイル良くないし…」


 そう言って…泣いてしまった。


「何言ってんだ。比べたりしない。」


「だって…だったら…どうして…」


「…疲れてるのかもしれない。今夜は…悪い。」


 海くんはそう言うと、あたしを優しく抱きしめてくれたけど…


「…もう、いい…」


 あたしは…自分の寝室に戻ってしまった。


 …惨めだった。

 だけど…

 自分の言葉を思い出して…すごく嫌な気分になった。


 紅美ちゃんの事…持ち出すなんて…

 海くんは、あたしを選んだのに…



 謝ろうとして寝室に行くと、海くんはいなくて。

 こんな時間にどこへ…?と思って外を見ると、外のベンチに座って…タバコを吸ってた。


 …海くん…タバコなんて吸うんだ…


 しばらく見てると、海くんは夜空を眺めて…

 それから、下を向いて…小さく溜息をついた。


 …あたしには…

 男の人が、出来ない。って理由がよく分からなかった。

 あまりにも、無知だった。

 疲れてる?疲れてるから出来ないって、そんな事あるの?なんて…

 ただ単に、紅美ちゃんと比べられたんだ。って、そうとしか思わなかった。



 あの時…

 海くんが精神的に思い悩んで出来なかった事や…本当に、あたしの事を大切にしようとしてくれてた事に気付いてたら…


 あたし達は、上手くいっていたかもしれないのに…。






「朝子、行って来るよ。」


 朝…海くんが仕事に行く時に。

 あたしは…見送りもしなかった。

 自分で起きて、朝食を作って食べて…あたしの寝室に来て、頭を撫でて出かけて行く海くん。


 あたしは…最低な女だ。



 起きると、テーブルにはあたしの朝食も用意されてて。

 そのたびに…あたしは海くんに対して『余計な事を』って気持ちを抱いて。

 自分には『どうして海くんを苦しめるの?』って…どうしようもない感情が湧いた。


 海くんを愛してるのに…

 怖い。



 …今夜は、せめて…

 ちゃんと料理して、二人で食事しよう。

 最近、ずっと…無言の抵抗じゃないけど…海くんに会わないような生活をしてしまってた。

 …反省して、改めなきゃ…



「明日、休みが取れた。」


 久しぶりに一緒に夕食を取ってると、海くんが優しい声で言った。


「…そうなんだ。」


「どこか出掛けるか?こっち来て、観光なんてしてないんだろ?」


「……」


 あたしは…思った。

 休みの日にあたしを連れ出すぐらいなら…しっかり休んで、疲れを取って…ちゃんと、抱いて欲しい。

 今度は、疲れてるから。って、言い訳できないように。


 あたしはスプーンを置くと、海くんに言った。


「…あのね…」


「うん?」


「…あたし…赤ちゃんが欲しいの…」


「……」


 自信を持ちたかった。

 海くんとの赤ちゃんを産むことで…二階堂の跡取りを産む事で…

 あたしは、必要な存在なんだ、って。

 自分で自分を認めたかった。



 うつむいたまま、顔が上げられなかった。

 あたし…今、自分から誘ったよね…

 恥ずかしい…



「……えっ…」


 突然、体が浮いたと思ったら、海くんがあたしを抱きかかえてた。


「えっ…え?」


 海くんはあたしを寝室につれて行くと…ベッドにおろして、そのまま…首筋に唇を押し当てた。


「あっ…海くん、シャワー…」


「このままでいい。」


「…でも…」


「今、朝子が欲しい。」


「……」


 朝子が欲しい…

 その言葉で、泣きそうになった。

 あたし…海くんに愛されてる…?


「海くん…」


 嬉しかった。

 海くんの頭を抱きしめて、心から幸せを感じた。



 だけど…

 だけど、やっぱり…海くんはダメだった…



「…明日、病院に行って来る。」


 海くんがそうつぶやいて。


「…何のために?」


「結婚前に、不能をどうにかしないと。な。」


 泣きそうだったあたしに…海くんは少しおどけて言った。


 朝子は悪くない。

 そんな口調で。


「不能だなんて…」


「でも不能だ。この歳でそれは辛い。」


「…だよね…」


「せっかくの休みなのに、ごめん。明日は診察受けて…」


「あたしも…行っていい?」


「…嫌じゃないか?」


「ううん…一緒に行く。」


「…そっか。こっちでの初めてのデートが病院なんて、冴えないな。申し訳ない。」


 海くんはあたしを抱きしめると。


「…ごめんな…朝子…」


 切なくなるような声で、そう言った。

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