第5話 「…おはよ。」

「…おはよ。」


 朝、キッチンで母さんに声をかけると。


「ああ、おはよ。帰り遅かったの?」


 あたしの顔を見て笑いながら言った。


「うん…三時過ぎてたかな…」


 あの後。

 事務所でノンくんと二人でセットリストを作った。


「オープニング、何かアレンジしてやんないか?」


 ノンくんのその一言で…

 あたし達は、ギターを取りだして、持ち曲のアレンジを始めた。

 それが思いの他盛り上がってしまって。

 続きをやるどころじゃない。


 ノンくんは、音楽に関しては…かなり尊敬できるし信用もできる。



「父さんは?」


 あくびをしながら問いかけると。


「まだ寝てる。夕べ遅くまで飲んでたから。」


 母さんは苦笑い。


「母さんも行ったの?」


「どこ?」


「椿。」


「もちろんよ。大事な席だったじゃない。」


「大事な席?」


 冷蔵庫を開けながら、母さんに聞き返す。


「あら、知らなかったの?行ってたんでしょ?」


「行ってたけど…ただ織姉に食事しないかって拾われただけだから。」


 冷蔵庫の中から牛乳とバターを取り出す。


「海くんが一時帰国したから、遅くなったけど婚約祝いをしたの。」


 ガチャン


「あっ…あ、ごめん。」


 思わず、グラスを落としてしまった。


「割れてない?」


「うん…大丈夫…」


 母さんはあたしの手元を眺めて。


「…まだ辛い?」


 小さな声で言った。


「えっ…?」


 驚いた顔で母さんを見ると。


「…紅美がアメリカから帰ってすぐ、海くんから電話があったの。」


「……」


 呆然としてしまった。

 母さん…知ってるなんて…

 海くん…なんで…?



「あたし…」


「紅美。」


 母さんは、あたしの手をひいてソファーに座ると。


「辛かったでしょう?」


 そっと…あたしの頭を撫でた。


「母さん…」


「ごめんね。気付いてあげれなくて。」


「そんな…何言ってんの…」


「帰って来た時、様子がヘンだなとは思ったんだけど…紅美が言うまでそっとしておこうって思ってたの。でも…あんたってば、自分で全部背負い込むから…」


 あたしは母さんの小さな肩に頭を乗せて。


「…このこと…父さんや織姉は?」


 小さな声で問いかける。


「知らないわよ。母さんと海くんの秘密。」


「…そ…」


「もう、恋をするのはイヤ?」


「……」


 母さんの問いかけに答えられずにいると。


「母さんは、そんなに恋愛経験ないから言えた義理じゃないかもしれないけど、母さんから見れば、紅美はいいなあって思う。」


「え?」


「だって、辛くても素敵な恋だわ。」


「……」


「ずーっと…想ってた人と…絶対ありえないって思ってた人と、想い合えたなんて…ね。」


「…そう考えると…少しは救われる…」


「……」


「こんなに辛くなるなら…好きだなんて気付かなきゃ良かった…って。ずっと、そう思ってた。」


 母さんは、あたしの腕をゆっくり擦ってくれてる。



 アメリカにいた時は…

 たぶん、変に気が張ってたんだと思う。

 だから、自分でも…強がりだって分かってても…

 笑えたし、祝福さえもできる気がしてた。



 だけど…帰国して…だんだんと日常に戻り始めて…

 アメリカでの出来事は、全部夢だったんじゃないか…なんて。


 海くんと、アメリカで会った事も…

 妊娠して、流産した事も…

 朝子ちゃんの事故も…


 …愛し合った事も…



「…時間…かかると思う。」


「…そうね。」


「情けない娘でごめん…」


「何言ってんの。」


 母さんは、あたしの頭に自分の頭をくっつけて。


「母さんこそ…何も出来なくてごめんね。でも…どんな事があっても…母さん、紅美の味方だから。」


 涙声で…つぶやいた。


「……」


 味方…

 母さん、あの時の事…ずっと後悔してるのかな…



「…母さん。」


「…ん?」


「ありがと…嬉しい…」


 あたしがそう言うと。

 母さんはあたしの背中をポンポンとして。


「…そろそろ父さん起こさなきゃ。紅美、頼んでいい?」


 小さく笑いながら言った。



 * * *


「何だ。一人か?」


 あたしが一人でプライベートルームにいると、ノンくんがやってきた。


「うん。待ってたの。」


「俺?」


「うん。ご飯行かないかなと思って。」



 昨日…母さんと海くんの話題になったからか…今日は一人になりたくなかった。


 …違う。


 あたしは楽になりたいだけなんだ…

 結局、誰が相手でもいい。

 この寂しさを埋めてくれる人なら。



「あー…約束があるんだ。」


「……」


 何となく…これは…


「…薫さんと?」


 なぜ、こういう時って鼻が利くんだろ。


「ああ。」


 やっぱり…


「二人で?」


「たぶん。」


「……」


 少しだけ、唇が尖った。

 そんなあたしの唇を見て。


「何、やきもちかー?」


 ノンくんはふざけた口調で言った。


「うん。」


 あたしは素直に、それに答える。


「…え?」


 ノンくんはあたしの前に立つと、あたしの髪の毛をクシャクシャっとして。


「何か変な物でも食ったのか?」


 目線を同じにして言った。


「どうして。」


「変なこと言うから。」


「変な事かな。」


「…ま、とにかく今日は悪い。」


「…分かった。」



 そうだよね。

 変だって思うよね。

 今まで散々妬いてるのかって聞かれても、全部否定してたのに。


 ノン君はこうやって、のらりくらりとあたしだけの物にはならないような気がする。

 疲れる恋は、したくない。

 …都合良く寝れる相手…いないかな…


 そんな事を考えながら、ギターを担いで部屋を出る。

 後ろから、少しためらいがちに、距離をとってノン君が歩いてくるのが分かった。



「あ、華音。」


 ロビーで薫さんがあたしの肩越しに、ノン君に手を振る。

 それさえも、嫌味に思えて仕方ない。


 やだな…

 あたしって、ちっさい女だよ。


 なんて気持ちがギュッとなりかけてると…


「……え。」


 事務所のガラス張りのロビー。

 正面玄関の向こうに…


「……」


「…紅美?」


 立ち止まったあたしに、ノン君が後ろから声をかけたけど…

 あたしの視線は、そこから動かなかった。



 …どうして…ここに…?



「どうした?」


 怪訝そうに、あたしに声をかけるノン君。


「華音、行きましょうよ。」


 そんなノン君に、声をかける薫さん。


「ああ…」


 ノン君と薫さんが歩いていく気配。

 それでもあたしは…立ち尽くしたまま。


 …どうしよう…



「……」


 視線を外すことも、動く事もできずにいると。


「……」


 向こうが、あたしに気付いた。


「……」


 意を決して、一歩踏み出す。


 …あたしを見ても、そこにいるって事は…

 偶然じゃない。

 きっと…あたしを、待ってた。



「…久しぶり。」


 一瞬、目を合わせたけど…あたしは、足元を見て、そう言った。


「ああ…大活躍だな。」


 もう…完全に吹っ切れたはずだったのに。

 何だろう。

 この胸の…小さな疼き。


 少し痩せた…


 あたしは、残像の慎太郎を…顔を上げて見る事が出来なかった。



「…ルミちゃんは?」


 やっとの思いで、言葉を発した。


「あ?」


「結婚…したんでしょ?」


「………ああ。」


 顔を上げて…目が合った。

 相変わらず…人を突き刺すような、目。

 だけど、あたしは知ってる。

 この冷たさの奥に、燃えるような情熱がある事。



「相変わらず、好き放題な女だよ。」


 慎太郎は小さく笑うと。


「おふくろが…死んだんだ。」


 少しだけ、遠くを見ながら言った。


「……」


「おふくろの手前もあって…俺はおまえから逃げるように離れた…悪かった。」


「…お母さん、どうして?」


「もう、長い間ガンを患ってたらしい。」


「…そっか…」


「…………はー。」


 慎太郎は大きく息をつくと。


「…カッコわりいな、俺。」


 髪の毛をかきあげながら、うつむいた。


「…カッコ悪い?何が?」


「今さら、おまえの所に来るなんてさ。」


「……」


「あんな別れ方して、おまえ…泣いたよな?残酷な事したクセに…のうのうと顔見せられた義理じゃねぇんだけど…」


「……どうして、来たの?」


 あたしの言葉に、慎太郎は少しだけ黙った。


 空には、一番星が瞬き始めて。

 帰り道を急ぐ人たちも増えた。



「…ずっと…おまえのデビュー曲を聴いてる。」


「……」


 あたしは…

 辛かったあの日々を…だけど、周りの人に支えられた事、色んな出会いがあたしを変えた事を、デビュー曲に書いた。


 Lovely Days



「…あいつとは?」


「あいつ?」


「沙都坊。」


「あはは…沙都はー…うん。彼女ができて…」


 慎太郎は首をすくめて。


「僕の紅美ちゃんって言ってたクセにな。」


 笑った。



「…時間あるの?」


 あたしは…あわよくば、壊して欲しいと思った。

 あの、慎太郎との甘い日々は、海くんを忘れさせてくれる助けになる。

 すると慎太郎は。


「……やめとく。一緒にいたら…今度はさらって行きそうだからな…」


 自分の爪先を見て、笑った。


「……」


 正直…

 さらって欲しい、と。

 思ってしまった。


 …あたし、病んでるのかな…



「じゃあな。話せて…良かった。」


「…うん。」


 慎太郎が手を上げて歩いて行く。

 本当は…どこに住んでるのか、今何をしてるのか…聞きたい気もしたけど…

 あたしは、無言でその後ろ姿を見送った。


 そんなあたしと慎太郎を。


 通りの向こう側から、ノン君が見てた。



 * * *


「紅美ちゃん、ロビーにお客さんが来てるって。」


 プライベートルームの電話を取った沙都が、あたしにそう言った。


「お客さん?」


「うん。ナナさんて人。」


「あ、ナナちゃん。久しぶりだな。」


 沙都と沙也伽を残して、あたしはロビーに降りる。



 昨日の今日だから…色んな事を想像してしまうんだけど…

 ノン君が、遅刻してる。

 薫さんと…盛り上がったのかな…。



「紅美ちゃん、ごめんね…忙しいのに。」


 ロビーに降りると、ナナちゃんが遠慮がちに駈け寄って来た。


「ううん。ナナちゃん、ここに来るなんて珍しいね。何かあった?」


「うん…」


 ナナちゃんは少しだけ周りをキョロキョロとして。


「ちょっと、時間ある?」


 あたしの手を取った。


「え?うん…何だろう。」


「お店に来てほしいの。」


 あたしは時計を見て。

 一時間ぐらいなら平気かな…って、ナナちゃんとロビーを出た。


「何か深刻な話?」


 ナナちゃんのお店までの道のり、あたしは沈んだ顔のナナちゃんに話しかける。


「うん…ちょっとあたしにはどうしようもなくて…だからって…紅美ちゃんに言うのも…アレだけど…」


「…?」


 お店につくと、店にはカーテンが降りて『CLOSE』の看板が下げてあった。

 ナナちゃんはそれを取ってドアを開けた。


「さ、入って。」


「お邪魔しま……す…」


 店の中に…ルミちゃん。


「…りんちゃん…」


 懐かしい名前で呼ばれた。

 ルミちゃんは憔悴し切ってて、随分やつれたようにも見えた。


「ど…どうしたの?」


「凛ちゃん…っ。」


 ルミちゃんはあたしに抱きつくと。


「慎太郎が…慎太郎が、いなくなっちゃったの…!!」


 泣きながら、そう言った。


「えっ…?」


「いなくなったのよ…」


「昨日…会ったよ?」


「夜には帰るって言ったのに…帰って来なかったの…」


「……」


「慎太郎…慎太郎は…」



 それからー…ルミちゃんが、ある告白をした。


「……」


「……」


「……」


 あたしと、ルミちゃんとナナちゃん。

 三人は…無言のまま時間をやり過ごした。

 ルミちゃんの告白は、衝撃だった。



 慎太郎を追って、慎太郎の故郷へと行ったルミちゃんは。

 そこで、全く慎太郎に相手にされず。

 慎太郎の幼馴染だという男性と、結婚したらしい。


 慎太郎と結婚した。


 そう、みんなに伝えたのは、慎太郎の提案だった、と。



 それから、慎太郎はその幼馴染や近所の人達と…


 やっぱり、あたしの勘は当たってた。


 漁港の生まれだった慎太郎は、みんなと漁師の仕事をしていたらしい。

 今までと全然違う世界でも、慎太郎は難なくそこに入って。

 最初は戸惑ってたルミちゃんも、旦那さんや近所のみんなの温かさに触れて、とても幸せに暮らしていた、と。


 慎太郎のお母さんが病気で亡くなって。

 周りからは、慎太郎もそろそろ身を固めたらどうか、と。

 色々お見合いの話も来て。

 だけど慎太郎は。


「忘れられない女がいる。」


 と、全て断っていたらしい。


 一人身も楽なもんだ、と。

 気心の知れた人達に囲まれて、慎太郎はだんだん明るくなっていった。

 だけど…先月…


「旦那がね…血相変えて帰って来て…」


「……」


「慎太郎が、血を吐いた、って。」


 慎太郎は。

 ガンで。

 もう、手術もしようがなくて。


 …そう言えば。

 昨日、たばこ吸ってなかった。

 あれだけ、片時も離さないぐらい吸ってたのに。


「…まさか、自殺…なんて…ないよね?」


「ナナ、縁起でもない事言わないでよ!!」


「だって…」


「…ちょっと…探してみる。」


「え?」


「もし何か連絡あったら、あたしにも知らせて。あ、携帯の番号、これ。」


 あたしはレジの横にあるメモ帳に番号を残すと。


「慎太郎の事、信じよう?」


 二人にそう言って、店を出た。

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