青春の足跡

澄ノ字 蒼

疫病神と青春の足音

厄病神と青春の始まりの足音

「先輩、この間白帯に負けたんですってね。先輩、一応黒帯なのに……」

 ロングの黒髪をポニーテールにした小柄な夏服を着た女子が笑う。もう一方の青年は眉毛が太く、一文字に繋がっていた。一応俺たちは柔道部員なのだ。

「もう一年も練習していないからなあ」

 眉毛が一文字に繋がっている青年はこの物語の主人公“蒼切 壱(あおきり はじめ)”だ。ポニーテールの女子、希原梨枝子(のぞみはら りえこ)がスカートをぱたぱたさせる。

「先生、目をひん剥かしていましたよ」

「希原さん! 今日もカラオケ行くだろ」

「部活はどうすんっすか。今日もさぼるんすか」

 俺はちらっと柔道着をみると、

「まあどうせ俺たちゴミみたいに弱いんだから。今更顔出したってね」

「そうですよね。もうすぐ他の仲間も合流しますからみんなでぱあっと行きましょう!」

 俺たちは柔道部に所属しているがほとんど顔を出さない幽霊部員。正確に言えば、最初に俺がサボり始めて、希原さんも巻き添えにし、二人で幽霊部員になった。時々、良心の呵責に耐えかねて夜になると、胸が痛くなるが、最近ではそれも慣れた。部活も勉強もしていない。どうなるんだろ。俺の人生。

「じゃ、カラオケ行きましょうか!」

 こうして俺たちは限りある青春の1ページをむざむざと無駄にし、部活で汗と涙を流すことなく、そして、がり勉とも無縁で、なんとなくカラオケではしゃぎに繁華街へと足を向けた。


 ある日、部長から呼び出しを受けた。部長は俺を汚いモノでも見るかのように目を細めていた。

 部長と二人で廊下の階段脇の小さな空きスペースに行く。

「部長、何か用ですかあ?」

 反射的に部長は身体をのけぞらせた。

「近寄るな。菌が移る!」

 部長は俺の身体から一定の距離を保っている。

「で、何すか! 用ってのは?」

「ああ……。そのことなんだがな」

 急に部長は眉間にしわを作った。急に部長が威圧感を出して来た。

「お前、自分一人が楽しむ分ならいいんだが、後輩までもお前と同じ道を歩ませるな」

 部長が「この通り」と言って頭を下げて来た。

「柔道部員を巻き込まないでくれ。頼む」

「何のことすっか?」

 部長が頭を下げたまま答える。

「もう希原さんには関わらないでくれ。お前は厄病神なんだ。お前が希原さんと一緒に居ると、希原さんまでクズになっていってしまう」

 そういう部長が何故だか小さく見えた。俺がクズだって? 確かにクズかもしれないが、赤の他人に言われるとイラッとする。思わず、自身のどす黒い心が噴き出す。

「1万用意出来たら考えて上げてもいいかな」

 部長が慌てて財布の中身を全部取り出す。5200円だった。俺はそれを掴むと床に叩きつけた。

「部長こそ俺を厄病神扱いすんのやめてくんない!」

 そう言って、俺は教室に戻り出した。

「お前、何のために柔道部入ったんだ」

後ろを見ないで歩きながら

「受験に有利だからかな」

すると後頭部に痛みが走った。後ろを見ると、部長が何かを投げた後みたいだった。足元を見ると上履きが片っぽ落ちていた。思わずぷっと笑いがこみあげてくる。厄病神と真正面から言われた悔しさや後頭部の傷みやらで何か可笑しくなってしまったのだ。俺本当にクズなのかな。認めたくなかった。


 英語の授業中、ずっと外を見て考え事をしていた。俺は他の人たちを堕落させてしまうのかな。そうだとしたら俺なんでこの世界にいるんだろう。なんかの本で読んだ言葉が脳裏に浮かぶ。人はみんな何かしら役目を負って生きている。いらない人間なんていない。この世界に生きる事で世界に影響を与え、誰かの心を救っていると。本当にそうだろうか。そんな言葉はきれいごとじゃないのか。悔しくて、情けなくて胸が苦しくなってきた。うつぶせになって目を閉じる。そうして真っ暗闇の世界に身を置く。


 その時だった。


「蒼切! 何寝てる!」

 英語の先生の怒鳴り声が聞えてきた。無視をする。

「蒼切!」

 無視

 無視

 無視


 いきなり耳に激痛が走る。そのまま身体を起こされた。

「蒼切! 大層なご身分だな! 無視しやがって」

 先生は目を真っ赤にして俺をにらんでいる。この目つき。みんなが俺を見る目と一緒だ。

「先生……」

 先生は「何だ」と怒鳴る。

「俺、何のために生きているんですか。俺って厄病神なんですか。この世の中に不要な人間なんですか?」

 先生は、一瞬目を見開き、そうして目を泳がせた。

「それはだな……」

 黙って先生を見つめる。先生は教科書をぱたぱた言わせると言った。

「勉強しなさい。そんなことばかり考えているから英語の点数が低いんだ」

話は変わるが、勉強もダメダメだ。好きな教科、国語しか勉強していなくて、嫌いな教科の英語は毎回赤点だった。大学浪人する気満々なダメダメ学生である。


 先生は重ねて「分かったな!」と言った。

 先生は無理矢理に話を終わらせると、授業の続きに入った。しぶしぶ椅子に座る。しかし、授業に集中出来なかった。いつの間にか授業が終わっていた。


 昼休み、後輩たちが俺の教室にやってきた。そうして5人で屋上で飯を食った。希原さんにしても他のみんなにしても無邪気だった。天真爛漫だった。

「なあ、俺ってクズで厄病神かなあ」

 希原さんがじっとこっちを見ている。他の後輩たちも黙った。やがて希原さんが言った。

「確かにクズで厄病神かも知れませんね」

 俺はそれ以上聞けずに黙々と弁当を食った。


 その日は一人で家に帰った。


 次の日

 また次の日

 そのまた次の日

 ずっと一人で考え込んでいた。


 もちろん後輩たちと一緒に飯食って、カラオケ行って、毎日がその繰り返しだった。でも前ほど楽しめなくなっていた。

「おい、希原さん!」

 希原さんは購買部で買った手作り風の鮭のオニギリをぱくついていた。

「放課後、少し寄りたい所あるんだけど、いい?」


 5時間後、俺と希原さんはとある図書館に来ていた。俺は真直ぐ歩いて行く。そうしてスポーツの柔道のコーナーにやってきた。

「ここ何すか?」

俺は何がいいか柔道の本を探しながら、

「宝の山とも言えるし、ただの本棚とも言えるな」

 希原さんが眉に皺を寄せる。

「宝? 本棚?」

 ぱらぱらと本を捲る。辺りが静まりかえる。一ページずつ読んでいく。一冊読み終っては次の本に移る。また次の本。そうしてついに良さげな柔道の本を見つけた。写真で一つ一つコツなどを解説していて分かりやすい本だった。希原さんは俺の顔をまじまじと眺めていた。

「何だよ。気持ち悪いな」

「先輩って、いつもちゃらちゃらしているのに、本を読む時だけはすごい集中力を発揮しますよね」

「それしか取り柄が無いからな」

 そうして、希原さんに本を渡す。

 希原さんが「はあ」と言うと、本を受け取る。何気なしに本を見ている。その内に目の色が変わって来た。

「背負い投げってこんなテクニックが必要なんですね」

 とか

「ね! ね! 先輩! 相手の防御ってこんな風にして崩すんですって!」

 とか矢継早に読んだ本の内容を教えてくれる。そっとその場を離れる。

「どこ行くんですか?」

「ちょっとトイレ」

 希原さんは「はあい」と言うと、また本を読みだした。


 トイレで便器に座りながら、しみじみ考えた。確かに部長の言う通りだったなあ。希原さんの青春を奪っていたなあ。クソをし終え、手を洗うと、希原さんの様子を見に行った。希原さんはその場に座り込んで本を読んでいた。


 俺はその図書館を後にした。


ごめんな。希原さん、お前の好きな柔道奪っちまって。だけどもう大丈夫。邪魔者はいなくなるから。明日からお前は、立派な柔道家に戻るんだ。もう俺みたいなごくつぶしに付き合う必要は無いよ。


 さよなら


 次の日から放課後は一人でさっさと帰った。ある日の下校途中、とある一級河川の河川敷に行き、日が暮れるまでじっと水がこぽこぽ流れる様子を見ていた。ずっと水が流れる様子や音を聞いていると眠くなる。さっき本を読んだ時、過度な集中をしたから疲れたんだろう。あと、希原さんとの別れ。色んなことが重なり疲れた。近くの草むらで身体を横たえた。すぐさま猛烈な眠気がやって来て、気が遠くなった。


 厄病神よ 厄病神よ

 お前はこの世に居てはならぬもの

 お前はこの世に不要なのだ

 お前がいるとみんなが不幸になるのだ

 厄病神よ 厄病神よ 

お前を お前という存在を

成敗いたす 成敗いたす 


 犬や雉や刀を持ち鉢巻を巻いた部長と思しき人物がそんな歌を歌いながらキビ団子で宴会を開いていた。そこに大層立派な着物を着た猫がやってきてお酌をする。


 話はここで急に飛んで俺は何故か着物を着ていた。そして真っ青な皮膚を持ち、長い長い舌をするりと伸ばし、そして大きな杖を持っていた。焦る。何で俺が厄病神に。何故か自分が厄病神だと直ぐに分かった。直感だった。何かの間違いだろ。身体を掻きむしる。が、血が出るばかりでどうしようもなかった。そこへ、

「厄病神や いざ成敗いたす」

 鉢巻を巻いた部長が刀を振り回して突進してくる。俺は必死に薙ぎ払うと、部長に噛みついた。部長は叫ぶ

「ごくつぶしが生意気な!」

 その時、俺の背中から胸にかけてぶすりと刀が刺さった。血が噴き出る。後ろを振り向くと、犬が口に咥えた刀を俺に突き刺していた。よくよく見ると、犬は希原さんだった。思わずわーと叫ぶ。


 星が夜空に瞬いていた。月も青白く輝いている。(夢だったんだ)。良かった。身体を起こそうとした。が、重くて起きれなかった。たまらずまた寝そべる。このまま消えてしまいたかった。


 帰ったのは、朝だった。チャイムを鳴らしたら、玄関が慌ただしく開いた。そして、お袋は俺の顔を見るとその場に泣き崩れた。俺は冷めていた。よくこんな演技するな。弟さえいりゃあそれでいいんだろ。出来損ないの兄貴と比べて、弟は進学校に通っていて成績もトップクラスだしよ。重い足を引きずり自分の部屋に行く。お袋が顔をくしゃくしゃのまま足にしがみついてきた。

「どこ行くの!」

「足離せよ! 部屋だよ」

 無理やり手を振りほどくと、部屋に入り、ベッドに倒れ込んだ。意識が遠くなる。そのまま寝た。


 そのまま何日も寝た。途中、意識朦朧のまま飲み食いしたのはところどころ覚えているが、ほとんど無意識だった。

 完全に目が覚めたのは、一週間と一日後だった。分かったのは、起きて目覚まし時計を見たからだった。このまま死んでしまいたかったな。ふとそう思った。ふとまた部長の厄病神という言葉が頭の中で再現された。悔しくて涙が出た。毛布に顔をうずめて泣いた。死にたかった。あのまま眠ったまま死んでいたらさぞかし楽だっただろう。


「壱!」

 お袋が俺をまんまるい目で見つめていた。そうして大粒の涙で顔中をぐしゃぐしゃにして泣いていた。面倒くせえ……

 身体を起こすと、コンビニまで散歩に行くことにした。もう外は夏の香りがした。ぷんと強い独特な草花の匂い。これぞ野性って感じだった。外界はこんなにも生命が脈動しているのに、何もしていない自分に少し苛立った。でもしょうがないさと諦めにも似た呟きを口に出すと、気持ちがおさまった。人間には、やはり運命と言うものがあるとこの頃思う。神様はひどいなあ、人間平等だと言っておきながら、不平等に作るんだもの。小学校を卒業して中学に行く時に思った。これで師と仰げる人に出会える。しかし、そんなものは幻想だった。あるのは、同級生からの侮蔑、軽蔑だけであった。中学に入って学べたことと言えば、人が憎しみや軽蔑を抱く時、どのような眼差しを人に向けるかだった。もちろん、そんな顔をしない人もいてくれた。でもそういう人に限って、裏で俺の悪口を散々言っていた。


この世は地獄 この世は天国

生まれた時に駒が配られ

その中から駒を動かして生きなきゃならぬ

飛車がありゃもうけもの この世の勝ち組よ

ひさんなのは、生まれた時から

歩の駒しかもっていないクズどもら

と金になる前に 狩られてお終い

どうあがいても人には勝てぬ


 歩きながら歌っていると、子連れの母親にじろじろと見られた。ぐわっと見返すと、母親は子供の手を引っ張りと足早に逃げて行った。余りにも母親が慌てていたから思わず噴き出した。が、やがて心が重たくなって真夏なのに身体が冷え切って来た。慌てて家路へと向かった。


 次の日の夕方、お袋が、柔道部の部長が来て下さったわよと告げにきた。急いでトイレに隠れるが、虚しくなったので部屋に向かうと、部長と希原さんが正座して座っていた。

「どうだ。蒼切…… 具合の方は」

「御覧の通り。ぴんぴんしてます」

「それにしても顔が青白いぞ」

 確かに血の気は引いている感じがする。少し寒い。

「確かに少し寒いです」

 部長は無言のままじっと俺を見つめていた。部長の目に吸い込まれるような感じがする。疲れ切ってしまって目をそらす。やがて部長が言った。

「お前が本当の悪党だったら、どんなに気持ちがいいのに……」

「どういう意味です」

 部長は足を崩してもいいかと聞くと、足を崩した。

「聞いたぞ。希原さんから。今回のこと」

「部長に厄病神といわれた事ですか?」

 部長が口をへの字にして黙った。

「いいから聞けって!」

 部長は静かに話し始めた。

「希原さんに柔道の本見せてやったんだってな」

「はい」

「それでお前はショックのあまり寝込むのか」

「それだけじゃないけどね……」

 俺は、少し寒いので毛布を被る。部長は、はあと大きくため息をついた。

「お前、厄病神じゃなくてただのバカだったんだな」

 その言葉を聞いて涙が出て来た。そんなたいしたこと言われたのではないが、涙が溢れ出て来た。部長はその様子をじっと見つめる。部長がつぶやく。

「これじゃ俺が悪者じゃん」

場が落ち着くと、部長が立ち上がった。

「今から学校に行くぞ。制服きて柔道着をカバンに詰めろ」

 もう昼の2時だった。今日は日曜日で授業は無いのだが……。

「今日授業無いよ!」

「部活だよ! 部活!」

 毛布をギュッと掴む。今更部活とか考えられなかった。ちゃらんぽらんにやっていて幽霊部員で、更には後輩まで幽霊部員にさせてしまった。柔道部のみんなに合わせる顔がなかった。今までの自分が恥ずかしかった。消えてしまいたかった。

「みんなに合わせる顔ないよ……」

「俺がついてるから大丈夫だって!」

「でも……」

 ずっとうつむいて、でも……とばかり言っていた。その時、希原さんが初めて声を出した。

「蒼切先輩!」

 希原さんがこちらをきらきらとした目で見つめている。

「私の知っている、蒼切先輩は確かに一般的にはクズだったと思います。柔道は下手くそだし」

「でも、とても刺激的でした。時々、本を読む時にみせる真剣な眼差しがとてもすてきでした。国語はピカイチだし。尊敬しています。それに私が柔道部に入って何も分からなかった頃、たくさん教えてくれたじゃないですか! すごく感謝しています」

「つまり何が言いたいんだよ」

「蒼切先輩は、厄病神なんかじゃないんです。先輩も柔道部員なんです。柔道部にとって欠かせない存在なんです。少なくとも私にとって……」

 黙ったまま、希原さんを見つめる。何にも言葉が出てこなかった。うまく言葉が言えない。

「つまり何なんだよ」

 希原さんの顔が真っ赤に染まる。耳まで真っ赤だった。

「先輩のこと……」

ふいに希原さんが俺の右頬に張り手を食らわせた。叫ぶ。

「分からず屋!」

 希原さんは顔を真っ赤にさせ、俺をにらみつけるとどたんばたんと出て行った。

 部長と俺はしばらく無言だった。


 のそのそと布団から出ると、制服を着た。そして柔道着をカバンに詰めた。部長がニヤニヤしている。

「何、ニヤニヤしてんだよ」

 部長は何でもねえと言うと、よっと立ち上がった。

「もう希原さんの前でカッコ悪いとこ見せたくない」

 部長は、手で顔を仰ぐ。

「暑いね。暑っ苦しいね」

 そして、手元にあった麦茶を一気に飲み干した。


 俺と部長は学校に辿り着いた。

「やっぱり行きたくないよ」

 部長は聞く耳持たずずんずん歩いて行く。仕方なく付いて行く。放課後の校舎は青春真っ最中って感じだった。校庭では陸上部が走り込みをしていたし、テニス部もテニスをしていた。校内に入ると、トランペットの音が聞こえた。

「放課後ってこんな感じだったんだね」

「今まで気付かなかったのか?」

「ずっと幽霊部員で放課後学校いなかったからね」

「アホ!」

 そんなこと言い合っている内に部室についた。部室に入ると、部員たちが一斉にこちらを見た。

「蒼切先輩、久しぶりっす」

 そんなこと言ってくれることを少しは期待した。が、現実はみんな目をそらし、ただ準備運動していた。その中に希原さんもいた。顔を向けると、ふいと顔を反らされた。

「準備運動の後、乱取り稽古を行う」

乱取りとは、実際に、制限時間の中でお互いに自由に技を掛けあい、技術の向上を図る稽古のことだ。乱取り稽古を行うことで、自身の技の至らなさや、技の応用を目的とし、自身自身の柔道の目標を設定できる。とても実践的な稽古だ。

「乱取りって……」

 部長は、手をぱんと叩くと、みんなに告げた。

「5分×20セットだ」

 呆然としていると、みんなさっさと道場のほうに行ってしまった。慌ててトイレに駆け込み着替える。

 十分な柔軟体操の後、受け身、それから各自決め技の練習を行った。仕方ないので背負い投げの練習を始める。が、何をどうやったらいいか分からない。適当にごまかしてその場を乗り切った。


 そして乱取りの時間がやって来た。希原さんも乱取りに加わる。稽古が始まって、何回もぼろきれのように投げられる。

 その後、何人かに当たるが、ことごとく投げられてしまった。黒帯なのに白帯に負けてしまうという屈辱もあった。ショックのあまり休む。その時だった。

「乱取りお願いします」

 見ると、希原さんだった。希原さんは顔を真っ赤にさせ、右の袖で汗をぬぐっていた。

「聞こえていますか。稽古してください」

 ここで投げられたら、一生涯の恥だった。何でこんな所来たんだろう。希原さんと部長は俺のことはめたんじゃないだろうか。俺に恥かかせようとしたんじゃないのか?

「希原さん、俺のこと恥かかせに来たの?」

「はあ?」

「こんなのカッコ悪いじゃん」

 希原さんは髪を掻き揚げると、

「めんどくさい先輩は嫌いです」

「じゃあやっぱり……」

 にらむ。希原さんはそれに構わず俺の袖を取り起そうとする。

「だったら乱取り稽古で良いところ見せてくださいよ。ほら行きますよ」

 希原さんは畳の真ん中に陣取った。希原さんは早くと急かす。考える暇もなく、乱取りが始まった。相手は一年生の六階堂隼人(ろくかいどう はやと)だった。六階堂は薄笑いを浮かべていた。六階堂にすばやく体をさばかれると組手争いを制された。あっという間に背負い投げを決められた。やっぱりとそう思った瞬間だった。

「先輩! きちんと相手を崩して下さい!」

 どこからか声が飛んで来た。崩す?

「どうやって崩すんだよ」

 その間にも背負い投げを決められた。必死になって読んだ本を思い出す。

 組手

 崩し

 組手

 その時だった。一瞬、組手をする時に、相手両足の丁度真ん中の所に隙があるのを見つけた。必死になって右足を両足の間に差し込むと、襟を持って右にひねった。六階堂の身体がよろめく。今だ。引手を目の前の高さまで持ち上げ、身体をひねり、相手の胸を自分の背中にくっつける。六階堂の身体が浮く。そしてそのまま六階堂を畳に叩きつけた。背負い投げだ。六階堂はしばらく呆気にとられていたが、

「糞野郎が!」

 と叫んだ。すぐさま立ち上がると、組みついて来た。お互いに体をさばく応酬。いつの間にか辺りに物音が聞こえなくなった。六階堂の身体が浮いた。

 もう一回、背負い投げをするが、決まらずに身体を戻した時だった。すくい投げで六階堂に吹っ飛ばされた。投げられる瞬間、時間がコマ送りのようにぎこちなく過ぎて行った。

 身体が畳に叩きつけられた。六階堂に

「先輩、甘いんだよ」

 と捨て台詞を吐かれた。そして襟を掴まれて無理やり立たされると、何度も投げられた。必死に応酬する。六階堂が息切れしてきたのか、少し力が弱まった。


クルリと身体を反転させて、もう一回背負い投げを放つ


が、こらえられた。そしてそのまま突き飛ばされてしまった。身体が転げる。起きようとするが、筋肉が悲鳴をあげ、力が入らなく、動けなくなってしまった。六階堂が立ち上がると吠えた。

「甘えんだよ」

そういう六階堂も座り込んでしまった。こんなにも俺は弱かったんだ。涙がとめどなくあふれてくる。

「悔しいのか? 後輩に負けて……」

 部長が遠くを見つめながら語りかけて来る。いつの間にか部長と希原さんが傍らにいた。気が付けば部員たちがみんなこちらを注目していた。

右袖で目を覆う。部長が静かに語りかけてくる。

「お前、まだ悔しがるほど柔道やってないだろ?」

 当たり前の事を言われただけなのにすごく恥ずかしかった。その時、部長が一言言った。

「お前にとって柔道って何だ」

 しばらく黙っていると、沈黙が続く。

「今なら分かるだろ!」

「まだ分からないよ……でも……」

「強くなりたい」

 涙が頬を伝う。

「こんな無様な姿を人に見せるのはもう沢山だ……」

 その時、手をぎゅと握られた。柔らかく、温かみのある手だった。希原さんの手だった。

「強くなろ! 一緒に」

 希原さんの手にさらに力が込められる。

「突きぬけるほどの稽古をやろ!」

 希原さんも泣いていた。

「出来るよ。蒼切先輩なら!」

 希原さんの顔はぐちゃぐちゃだった。

「信じてくれるの?」

「うん」

俺が「ありがとう」と言うと、希原さんはまた泣き出した。ドラマとかならそこで抱き締めたりもするんだろうが、俺には恥ずかしくて出来なかった。

俺は袖で涙を拭いて立ち上がり、部長に礼をした。

「これから稽古よろしくお願い致します」

 部長は一言、「おう」と言った。そうして頭を小突かれた。

「もうさぼるんじゃねえぞ。信じてくれる人を裏切るなよ」

 部長はそういうと、十分休憩と号令をかけた。希原さんは泣きはらした目をうるうるさせて俺を見ていた。

また涙が止まらなくなって、トイレに駆け込んで……


 泣きに泣いた……

 完

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