父の日と母の日は、元虐待児だけ非国民扱い

家族主義国家日本では、父と母は尊敬されるものという大前提がある。

尊敬できない人間は、子供扱いとなる。

尊敬できるようになって「大人になったね」と言われる。

これが私には、幼い頃からずっと苦痛だった。

いったいどんな人生を送ったら、そんな発想が生まれるのか……、私には全く理解できない。


なぜ、大人は子供を作るのか?

私の答えは、子供を暴力で服従させることによって快感が得られるから……、加えて、「子供のため……」と言えば、たとえ育児放棄をしていても家族主義国家日本では各方面から承認が得られるから……、また、老後の孤立を防ぐための道具としての期待や、将来の介護用ロボットとしての期待など、その用途が多岐にわたるし、使い勝手がいいから……。

ただ、虐待や育児放棄を食らい続け、成人年齢(求人年齢)まで、ずっと奴隷という立場を強制され、自分の意見が言えない人間にさせられたにもかかわらず……、なぜ、国家や社会に親への感謝を強制されるのか……、私にはそれがわからない。

それをしなければ、なぜ、子供扱いされるのか……、私にはわからない。


誰もが親や監護者に愛されて育っているわけではない!


就職・結婚など、人生の節目を、いちいち親に報告したり承認を得なければならない行為も、私にはさっぱりわからない。

それが家族主義国家日本の流儀であり、常識であるという世界観を知ったとき、私には、生涯、恋愛や結婚は無い……と悟った。

事実、できなかった……、命を懸けてもね。

家族観があるか・ないかは、この国で生きる私の年代では、命取りになるか・ならないかの選択となる。

私は、生まれた瞬間に詰んだと思っている。

これは、私と同じ世界観で生きていないとわからない……、家族観のある人間に話せば、努力・我慢・行動・ポジティブ・ネガティブ・前向き・後向き・プラス思考・マイナス思考・諦める・諦めない・強い・弱い……という薄っぺらい問題として処理されてしまう。

それは心を抉られるほどの誹謗中傷でしかないが、そいつらにはそれがわからない。

この国の人は、恵まれた環境でヌクヌクと生きてきた被害妄想者と、不幸の背比べをして意地でも勝とうとしたがるクソガキしかいない。

家族観の無い世界を知っている人間が限りなく少ない……。

父の日・母の日を、虐待や育児放棄を食らって生きてきた人間がどう思うか?なんて、誰にわかるだろう?

大半の国民には関係のない話だ。


私が、どれほど嘘をついてきたか、わかるだろうか……。

私が、どれほどそういう人間(この国で生きるための人間)を演じてきたか、わかるだろうか……。

当たり前のように、父の日・母の日の定義を振りかざし、ギフト商戦を展開するこの国の国家観と、それを認容する社会が、私にはあり得ない。

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