弱い人間の定義とは?

「あなたは弱い人間だ」と言われたことがある

「あなたは強い人間だ」と言われたこともある。

見る人によって、私の印象は違う。


なぜ、それほどまでに違うのか?

その理由は多数存在するが、大まかに言うと……、いつ、どこで、どんな状態のときに私と接したかによって違うのだろう。

私の弱い側面しか見ていない人はそう思うだろうし、逆に、私の強い側面しか見ていない人はそう思うのだろう。


人は、持って生まれた能力(外見・性格・身体的能力・知能指数(IQ))と、親や監護者に、どういう環境でどう育てられたかという他者啓発で決まる。

本人が自分の力(努力・我慢・行動など)だけで勝ち取ったと思っているものは、ただの錯覚に過ぎない。

それを錯覚だと気づいている人もいれば、気づいていない人もいる。

気づいているにもかかわらず、あえて、それを自分の力で勝ち取ったことにしている人もいる。

人を見て、その人が強いか?弱いか?の判断は、判断する側のそういう土台の部分と、そいつが、今、どういう環境で、どう生きているかによっても変わってくる。

これは、主観的判断(判断する側の人生経験に基づくもの)による一方的な断定であり、判断される側の人生を全て知った上で判断しているわけではないのである。


私は、自分が好きだった人に「あなたは弱い人間だ」と言われたことがある。

ショックだったね。

今も引きずっている。

その人は、私がこの世で独りの人生を送っていることを知っていた。

どんな言動や行動が、そう映ったのかは知らないけど、この家族主義国家日本で、独りで生きるということが、どれほど過酷なものかがわからないから、そうなったのだろうと思っている。

独りの場合、競争に勝ち抜けるレベルの才能があれば切り抜けられるけど、そうでない場合は詰む。

なぜなら、努力・我慢・行動・ポジティブ・前向き・プラス思考・諦めない・強い……といった思考は、生きる意味・気力・目的・希望を失った時点で無くなるからだ。

では、なぜ、生きる意味・気力・目的・希望を失うのか?となるのだろうけど、これに関しては、独りで生きたものにしかわからない。

言っても伝わらない。

こっちもそういう人生経験をしてくださいとしか言いようがない。


私の人生経験では、日本人は自分さえ良ければ他人がどうなろうが知ったこっちゃない民族で、恵まれた環境でヌクヌクと生きてきた被害妄想者と、不幸の背比べをして意地でも勝とうとしたがるクソガキしかいない。


私の人生経験に基づく『弱い人間の定義』とは?

答え……、相手に「弱い人間だ」と指摘した奴が、恵まれた環境でヌクヌクと生きてきた被害妄想者で、不幸の背比べをして意地でも勝とうとしたがるクソガキだということ。

そもそも、弱い人間も強い人間も、相手の一部分のみを切り取って主観的に判断するものなので、『言ってきた奴が薄っぺらい人生経験のクソガキ』という以外に、定義は存在しない。

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