250 斎藤さんの帰還
十一月の上旬。
急な訃報が舞い込んできた。先月、江戸へ行った時に会った周斎先生が亡くなった、と。
周斎先生は天然理心流の三代目であり、近藤さんの養父でもある。
けれども局長という立場上、会いに帰る事すらままならない、なんて話をしたばかりなのに、結局会えないまま……。訃報を聞いた今でさえ、情勢を踏まえると帰るのは難しいという。
一報を聞いた時、近藤さんは一緒にいた井上さんとともに酷く落ち込み悲しんでいた。井上さんなんて、わき目も振らず涙を流すほど。
それでも近藤さんは、自身が一番辛いはずなのに井上さんの肩を叩いて慰め、新選組の局長として気丈に振る舞っている。
それから、周斎先生の訃報は沖田さんにだけはまだ伝えてはいない。病状に障ってはいけないからと、今はまだ伏せ、折を見て話すらしい。
夕暮れ時、久しぶりに斎藤さんからの文を受け取りに行った。
滅多にしない芸妓の恰好をしているし、先日まで江戸へ行っていたから本当に久しぶりで、いつも以上にからかわれる覚悟もしていたのだけれど……部屋に入った瞬間、どことなく普段とは違う空気を感じた。
斎藤さんの側で腰をおろし、すっと差し出された杯にこぼさないよう慎重に注ぐも、斎藤さんは口へ運ぶことなく微かに揺れる水面を見つめ続けている。
「こうして
「最後? 次からは普段の格好で来てもいいって事ですか?」
「いや。次はない。衛士から五十両を取って出て来たからな」
「……え?」
まさかの泥棒!? ……斎藤さんが?
冗談にしては少し質が悪いうえに斎藤さんらしくない。真意を探るべくじっと見つめるも、いつになく真剣な表情で見つめ返されてしまった。
「すまない」
「え……いえ、謝る相手は私じゃなくて――」
「いや、お前に対して言っている」
……なぜ?
全く意味がわからなくて思い切り首を傾げれば、斎藤さんは杯の中身を一気に飲み干した。そのままおかわりを要求してくるかと思いきや、杯はお膳の上に戻される……その姿からは、冗談もからかいも一切感じられない。
「"藤という芸妓に入れ揚げている"、衛士で俺はそう思われている。そんな俺が行方をくらますと同時に衛士の金が五十両も消えたとなれば、奴らはこう思うだろう。“衛士の金を勝手に使い込み、戻るに戻れなくなってそのままどこかへ逃走した”とな」
そこまでしてわざわざ逃走したと思わせるという事は、もうそこへは戻らないという事……?
「つまり……斎藤さんは役目を終えて、新選組に戻るって事ですか?」
視線だけを寄越し、黙って頷く姿に正直ほっとした。だって、危険と隣り合わせな任務からようやく解放され、今まで通り新選組で一緒に仕事が出来るという事だから。
けれども斎藤さんは、珍しく小さなため息をつき表情まで曇らせた。
「間者である俺が新選組に戻る。それがどういう意味かわかるか?」
「えっ、と……」
「今まで通りお前にただ文を託すだけでは済まない、重大な情報を得たという事だ」
「重大な、情報……」
「ああ。そしてそれは、おそらくお前が悲しむ結果をもたらすだろう」
そう言われて頭を過るのは、私の中にある伊東さんに関する記憶――
“近藤さんの暗殺を企むも逆に暗殺されてしまう”というもの。
間者として御陵衛士に潜入していた斎藤さんがもたらす重大な情報なんて、否が応でもその記憶と結びついてしまう……。
「本当に不思議な奴だな」
「え?」
俯きかけていた頭を上げれば、わざとらしく口角を上げた斎藤さんの片手が私の頬に添えられた。
「時々、お前は妙に勘がいい。今とて語らずとも概ね察したのだろう?」
「それは……」
正直、答え合わせなんてしたくない。
けれど、聞かないわけにもいかない。
視線を定められずにいれば、そんな私の葛藤を知ってか知らずか斎藤さんはそっと手を放し語りだす。
表向きは思想の違いで分離したはずの御陵衛士だけれど、どこへ行くにも元新選組という肩書がついて回るのだと。思うように活動が出来ず衛士の多くが不満を抱くなか、あるお酒の席で言われたらしい。
「本当にもう新選組と関係ないのであれば、“局長である近藤勇を討て”とな。そこまで出来るのであれば、信用に値するだろうと」
「そんな……」
「所詮は酒の席での話。相手にとっては、元新選組である衛士へ対する戯言に過ぎなかったのかもしれん。だが、一部衛士の間では、戯言で終わらせる気がないようでな」
伊東さんが提案した分離の真の目的は、“分離したと見せかけて薩長へ近づき、そこで得た情報を新選組へ戻す”だったっけ。
けれどそれを知っている人は限られていて、その実、衛士へ行ったほとんどは表向きの分離理由同様、新選組の思想や方針に納得がいかず自らの意思で出て行った人たちだ……。
思うような活動が出来ず、大政奉還すらなった今、提示されたそれを薩長側の信用を得る最短の手段と考える人がいてもおかしくはない……。
つまり……。
「近藤さんの暗殺を企んでいる、と……」
「ああ」
「それってやっぱり伊東さんが……」
「……いや。伊東さんとて馬鹿ではない。そんな事をすればどうなるかわかっている。故に、真意はどうであれそういった輩が暴徒と化さぬよう努めてはいる」
待って……どういうこと? てっきり、伊東さんが中心となって暗殺を企てるのだと思っていたけれど、違うの?
私の記憶違いなら、この先の未来も違ってくる……? 伊東さんが亡くならないのであれば、藤堂さんだって……?
だけどそんな淡い光が差したのは一瞬で、斎藤さんの低くていつも以上に抑揚のない声が、ろうそくを吹き消すかのごとく私を再び暗闇へと落とした。
「伊東さんが抑えているとはいえ、奴らの一部が暴走する可能性は捨てきれん。衛士の中にそういった事を企んでいる輩がいると分かった時点で同じ事。行動に移す移さないはすでに問題ではない」
「そんな……」
「疑心暗鬼に陥れば、失うものはあれど得るものは何もない。手遅れにならぬうち手を打つ事になるだろう。そうなれば、禍根は残すべきではない」
それはつまり、新選組が御陵衛士を……? そのためにトップである伊東さんを……?
けれど、その質問は口に出せなかった。戻るぞ、と着替えを促されたせいもあるけれど、たとえ明確な言葉が出なくても、あの会話はそれに等しく思えたから……。
着替えて外へ出れば、今日はまだ日付をまたいですらいないのに空はすっかり暗かった。そんななかを、冗談の一つもなく一緒に歩く。もう少しで屯所が見えてくるという頃、突然斎藤さんが足を止めた。
衛士を出たばかりですぐ新選組に戻っては、間者であったとバレかねない。だからしばらくは、このまま身を隠して指示を待つのだと。
もしかして、私を送るためだけにここまで一緒に来てくれた……?
そう訊ねようとするも、土方さんに渡せ、と文を手渡された。
「先刻、お前に話した内容が書いてある」
それじゃ……もしこれを渡さなければ……。
私も口をつぐめば、衛士の近藤さん暗殺の企ては新選組に伝わらない。伝わらなければ、伊東さんも藤堂さんも死なずに済むかもしれない。他の多くの衛士だって……。
……でも代わりに、命がけで潜入していた斎藤さんを踏みにじる事になる。それだけじゃない。もし衛士が暴走してしまったら……? 何も知らないまま近藤さんを危険にさらす事になる……。
受け取った文をじっと見つめていたら、突然伸びてきた手に文ごと私の手を強く掴まれた。驚いて見上げた顔は、いつものからかいが微塵も浮かんではいない。
「いっそ、このまま俺とどこか遠くの地へ行くか?」
「……え?」
「何もかも捨てる事にはなるが、お前を苦しませるしがらみからは解放してやれる」
解放……されたいのかな。こんな風に誰かの命が危険にさらされる事ばかりから……。
頷いてしまえば、これ以上誰かが死ぬところだって見なくて済むのかもしれない……。
けれど、捨てる事になる
……それだけは出来ない。
――新選組の行く末を、その目で、お前自身でしかと見届けろ!――
救う事が出来なかった芹沢さんの願いを、約束を、ここで捨てるわけにはいかない。赦されない。絶対に。
それにこれは、きっと斎藤さんなりの励まし方……そう思ったら、緊迫した雰囲気にもかかわらず吹き出してしまい鼻をつままれた。
「冗談を言ったつもりはないんだがな」
「ふぇ……?」
……って、反応を見るなりくくっと喉を鳴らすとか! やっぱりからかわれている!?
慌てて振りほどくも、それでも斎藤さんなりに背中を押そうとしてくれたのだと思うから……。
「ありがとうございます。私なら大丈夫です。それに、斎藤さんからの文を届けるのは私の役目ですし」
「……そうか」
はい、と頷けば、頬に斎藤さんの手が触れた。
「すまんな」
「……いえ。斎藤さんこそお気をつけて」
まだ心配させてしまうような顔だったのかな……。
ではな、と踵を返す背中が暗闇に消えたあと、両手で頬をパンっと叩いた。
これは斎藤さんが命懸けで得た情報だ。近藤さんを危険な目にもあわせたくはないから、この文は必ず土方さんに渡す。そもそも今日だけ渡さないなんて、どう考えても怪しまれるしね。
だから私が足掻くのはこれを渡してから。
正直、現時点で最善の解決策なんて何一つ浮かんでいないけれど、それでも話し合う事で見つかるかもしれない。
だから、私がすべきは渡したうえでの説得だ。
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