211 吹き荒れる風

 七月二十日。

 第十四代征夷大将軍徳川家茂いえもち公が亡くなった。享年二十一才。

 良順先生懸命の処置により一度は小康状態を保ったものの、大坂城にて薨去こうきょ、死因は手足の痺れや浮腫むくみ、足元がおぼつかなくなり死に至ることがあるという奇病……江戸煩いだったらしい。


 江戸煩い……元の時代にいた頃何かで聞いたことがある。確か、都市部では玄米より白米を食べる人が多く、ビタミンB1不足に陥ることで引き起こされる“脚気かっけ”のこと。

 ビタミンB1は、お米を精米する時に取り除く胚芽部分に多く含まれているうえ、他で栄養を補おうにもお膳に並ぶおかずはそう多くない。だから、江戸へお務めに上がった武士らが疾患するも、国元へ戻り玄米食に戻すと症状が回復したりする……ゆえに“煩い”なのだと。


 大樹公薨去の報は七月が終わっても世間に公表されることはなく、朝廷にさえいまだ伏せたままなのだという。

 新選組内でも、知らされたのは幹部のみだった。


 まだ子供のいなかった大樹公は、徳川宗家の血統にも近い、自身の再従兄弟はとこに当たる人を後継者に希望していたみたいだけれど、まだ僅か四才の子供らしい。

 泰平の世であれば、それでも良かったかもしれない。

 けれど今は、迫る異国の驚異に国内では長州征討真っ只中。

 この多事多難に四才の幼子ではどうにもならないとなったのか、家茂公と将軍の座を争ったことのあるという禁裏御守衛総督の一橋慶喜よしのぶ公に白羽の矢が立った。


 とはいえ慶喜公にその気はないらしく、何度も説得してようやく徳川宗家の継承と征長総督の名代を承認させたのが七月の終わり頃。

 けれども将軍の職だけは、いまだ頑なに辞退しているらしい。

 そりゃそうだよね。今や幕府の権威は落ちていくばっかりだし……。


 それでも、征長総督の名代として自ら出陣することを朝廷に奏上、出陣のため遊撃隊と命名した銃隊を編成したりと精力的に動き、八月四日には朝廷から名代としての出陣許可も得たのだった。

 そんな中、新選組内でも近藤さんや土方さん、そして伊東さんがそれぞれ会津藩邸や関係各所などへ赴くなど、各々慌ただしく動き回っていた。






 八月の上旬。

 不安定な天気が続いて日に日に雨風も強まる中、今日は午後から斎藤さん率いる三番組とともに巡察に出ている。


 近頃は、“壬生狼みぶろ”以外にも“臆病者”とか“愚図”だとか、新選組が長州征討へ出陣しないことに対するいわれのない誹謗中傷まで追加されていたりする。

 もちろん、進んで戦争に行きたいだなんて思わないけれど、行軍録まで作って準備をしている土方さんたちのことを考えると、何だかちょっとイラッともするし複雑な気分になるから、生憎の天気で出歩いている人がほとんどいない今日の町は、とても静かで少しほっとした。

 けれどもついため息も吐き出せば、少し前から急激に強くなった風が一瞬でさらっていき、隣を歩く斎藤さんの少し冷たい手が、前触れもなく私の頬に触れた。


「相変わらず、表情が忙しないな」

「ひゃ!? び、びっくりするじゃないですかっ!」


 仰け反るようにして逃れるも、斎藤さんは何でもないことのように言い放つ。


「気にするな」

「なっ……気にしますからっ!」


 驚かせた張本人が言う台詞じゃないからね!?

 毎度毎度同じ手に掛かる私も情けないけれど……一旦それは置いて抗議しようとするも、視線を前へ戻した斎藤さんの方が早かった。


「言わせておけばいい」

「……へ?」

「俺たちの仕事は人気取りじゃない。土方さんもそう言ってるだろう?」

「それは……まぁ、そうですけど……」


 どうやら考えていたことはバレバレらしい。

 そんなにわかりやすいのだろうか……と両手で顔を触ろうとするも、それより早く、またしても斎藤さんの手が頬に添えられた。


「全部ここに書いてあるからな」

「っ!?」


 今度もすぐさま逃れ、さっきよりも距離を取って抗議する……はずが、後方からの突風に声はさらわれ咄嗟に視界を閉ざして身体を縮こめた。

 けれど、飛ばされないようにと踏ん張ったはずの身体はぐらりと大きく揺れ、慌てて目を開けるとなぜか斎藤さんの腕の中にいた。


「さ、斎藤さんっ!?」


 全く、油断も隙きもあったもんじゃない!

 今度こそ文句を言うべく強い眼差しで見上げれば、近くでドンッという大きな音がした。

 振り返れば、道の先にある塀の一部が壊れ、その真下には折れた大きな枝が転がっている。


「え……」


 ゆっくりと斎藤さんに視線を戻せば、間近で私を見下ろすその顔はいつになく真剣で、もしもあのまま突っ立っていたら……塀より先に私にぶつかっていたかもしれない。


「危なかったな」


 もしかしなくても、やっぱり助けてくれたらしく、腰に回された腕同様、いつものからかいだと疑ってしまった自分が恥ずかしい……。


「あ、ありがとうございます……」

「抱き寄せて礼を言われるとはな」

「違いますっ!」


 斎藤さんの口元は楽しげに弧を描いていて、やっぱりからかわれたのかと疑いそうになる。

 再びの短いお礼ととも密着した身体を押しのければ、案の定くくっと笑われた。

 今日だけで何度めかもわからない抗議をしようと思うも、相変わらず強い風と頭上で流れる雲の速さに、薄々感じていたことを口にする。


「これってやっぱり、台風が近づいてるんですか?」

大風おおかぜと言いたいのか?」


 ……ん? 大風? 意味は充分伝わるけれど……。

 この時期特有の嵐のことだと説明するも、斎藤さんが聞き慣れない単語を口にする。


「それを言うなら野分のわき颶風ぐふうだろう」


 どうやらこの時代、台風とは言わないらしい……。

 そんな話をする間も相変わらず風は強く、雨足もさらに強まった。これ以上は危険との判断で、少し早いけれど屯所へと戻るのだった。






 時を追うごとに強さを増す雨と風は、夜になっても静まる気配がなく、むしろ酷くなる一方だった。

 そのまま朝を迎えるも、雨戸を閉め切ったままでは行灯を灯しているにもかかわらず薄暗く、叩きつけるような雨と風は雨戸だけでは飽き足らず、建物全体を揺らすかのように吹き荒れている。

 そんな中、文を書き終えたらしい土方さんが筆を置き、ガタガタと音のする雨戸の方を見た。


「今日は慶喜よしのぶ公が節刀せっとうを賜るらしいが、こんな天気じゃ幸先良くねぇな」

「節刀?」

「権力を委任する証として、天子様が出征する者に持たせる刀のことだ」


 天子様自らが任命したという証で、しるし太刀たちとか標剣しるしのつるぎとも言うらしい。

 一時的に貸し与えるだけなので、任務終了後にはきちんと返還しなければならないのだとも。

 とはいえ、随分昔に廃れた習わしらしい。


 ところで……。

 ここまでくると明らかに台風だとわかるけれど、今現在、どの辺りを通過中なのだろうか。

 正直、悪天候の最中の節刀がどうこうよりも、台風で屯所が壊れたりしないか……とそっちの方が心配だったりする。


 何よりも……。

 薄暗い部屋で、時折すきま風に揺れる灯りと建物が鳴るというコラボレーションは、夜でもないのにちょっとホラーで怖い……。


「台ふ……颶風ぐふうって、今どの辺にあるんですか?」

「どこって、今こうして吹き荒れてるじゃねぇか」

「いや、まぁ、そうなんですけど……」


 天気予報なんて便利なものはないし、いつ上陸したとか現在どこを通過中とか、リアルタイムで逐一報告してくれる人もいない。

 気象衛星ひまわり……可愛い名前なのに、改めて凄いんだなと思う……。


「向日葵がどうした?」


 ……って、どうやら声に出していたらしい。

 ずっとずっと高い空から常に日本全土を見ていて、同時に雲の動きも見ることで天気の予測をするのだと大雑把に説明してみも、イマイチぴんとこないのか若干バカにしたように笑い出した。


「お前の時代の向日葵は空を飛ぶのか。そいつはすげぇな」

「向日葵が飛ぶわけないじゃないですか! “ひまわり”は名称であって花の向日葵とは全くの別ですから!」

「そうかそうか」


 そう軽く流す土方さんを納得させるべく、持っている知識を総動員して説明すること数分、ようやくある程度の理解を示してくれた。

 くれたけれど……。


「ったく、どんな生活してたんだよ……」


 結局、いつものお決まりの台詞で締めくくられるのだった。






 翌日。

 昨日とは打って変わって静かな朝で、雨戸が取り除かれた障子はいつも以上に明るく眩しかった。

 青く晴れ渡る空は雲一つなく、まさに台風一過だ。


 幸いこの屯所は特に大きな被害もなかったけれど、川が氾濫した場所や亡くなった人までいるようで、どうやらかなり大きな台風だったみたいだ。

 みんなで出来る範囲の手助けをするも、またすぐに天気が不安定になった。

 雨が降ったり止んだり、日に日にまた風も強まる一方で……どうやらたて続けに台風が近づいているらしかった。

 こればっかりは仕方がないけれど、予定されていた慶喜公の名代出陣も延期となってしまったのだった。


 ……とはいえ、天気が悪かろうが出陣を延期しようが、西の地では今も戦は進行中。相変わらず、幕府軍の士気は低く戦況もよろしくないという……。

 そんな中、今回の荒れに荒れた天気と相次ぐ敗戦報告に嫌気がさした……かどうかはわからないけれど、節刀拝受後に“長州を恭順させてみせる!”とまで豪語したという慶喜公が、出陣を断念したらしい。


「節刀まで授かっておきながら何を今更……。さすがは二心殿にしんどのか……」


 そう、土方さんが愚痴った。

 二心殿とは、慶喜公のあだ名らしい。態度を二転三転させることが多く、約束でさえも反故にすることがあるところから付いたあだ名なんだとか。

 ちなみに豚肉が好きらしく、豚一公ぶたいちこうなんてものまであるという。どちらも陰口のようなものに変わりはないみたいだけれど……。


 大樹公の薨去後、実は会津公も藩兵を率いて自ら出陣しようとしていたらしい。

 けれども京都守護職という重要な立場だけに、京の警備を放り出すわけにはいかず、断腸の思いで断念されたのだと。

 そんな会津公からしたら、胸中はどれほど複雑だろうか……と土方さんが悔しそうにこぼした。


 そして、今回のことは天子様含む、朝廷側も相当お怒りの様子らしい。

 長州征討はよくよく考えたうえで出した勅命であり、任命の証である節刀まで授けた立場なのだから、突然止めたとなってはやっぱり何をいまさら!? と思うのが普通だろう……。


 それを治めるためなのか何なのか、大樹公が亡くなってから丁度一月が経過した八月二十日。ようやく世間にも大樹公薨去の報が発せられた。

 これにより朝廷も停戦を命じることとなり、迎えた八月二十二日……二度目となる今回の長州征討は、勝敗がつかないまま停戦となった。


 けれど……。

 誰が見ても幕府の大敗とも呼べるものだった。

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