さよならの向こう側

青咲あやの

さよならの向こう側

【1】

「…………おい、大丈夫か?」

 突然の問いに我に返った。友人の倉田が心配そうにこちらを覗き込んでいる。そして妙な感覚に襲われる。彼はこんなに大人っぽい顔つきをしていただろうか。

「大丈夫。少し考え事をしてただけ」

 彼を安心させるために笑顔で答えた。

「ならいいけど。ひょっとして話が面白くなかった? 瀬戸さんてあんまりアニメとか興味なさそうだからさ。話を変えようか」

 いや全然そんなことないよと言ってみるが彼には聞こえなかったようですでに話題は移っていた。

「今は、どのサークルに入ろうか迷ってるんだ。そう言えば瀬戸さんは確か文芸サークルだっけ?」

「あー、去年の末に辞めちゃった。今はどこにも入ってないよ」

「どうして?」

「まあ、人間関係とか色々」

 言葉を濁す。もう、そんな季節なんだ。春が来て新しい出会いに世間が輝いているというのに、まるで私だけ別世界にいるようだった。

「……そんなことよりさ、最近どう?」

「どうって、何が?」

「今の大学にはもう慣れた? 勉強とか、友達とか……」

「まあまあだな。勉強は楽しいよ。もともと専門的なことがしたくて来たわけだし。ただ友達ができるのには時間がかかるだろうな。瀬戸さんの大学が同じ市内にあってうれしいよ。また以前みたいに会って話ができるしね」

 倉田は高校三年の時に精神を病んで受験に失敗した。地元の小さな国立大の理工学部で学んでいたがその後も密かに受験勉強を続けていたらしい。何故か文転したものの市内の難関国立大学に合格し、少し遅めの大学生デビューを果たした。

まあ私としては、気の置けない友人がすぐ会える距離に来てくれて嬉しかったけれど。しかし私は倉田があまり喜んでいないようなのが気になった。 

「そろそろ店を出ようか。久しぶりに話せて楽しかったよ」

「うん。じゃあね」

 倉田は手を上げた。私もそれに応えて会釈する。

 店を出たとき私はそれを見てしまった。通りの向こう側を一組の男女が歩いている。その男性のほうに見覚えがあった。遠くからでも彼だとわかる。あの鞄も靴も、細かい特徴まで覚えていたから。

「どうしたの?」

 倉田が私の目線の先を見る。

「誰、知り合い?」

「ううん、知らない人。そうだ、倉田の新しい下宿ってどこだっけ? 送ってくよ」

「必要ないよ。瀬戸さんはそこのバス停から帰るんだったよね。バスが来るまで一緒にいるよ」

「ありがとう」

「……ねえ、一つ聞いていいかな」

 急に冷たい風が吹く。

「瀬戸さんさ、大学に入ってから僕のこと避けてたよね? どうして急に会ってくれるようになったの?」

「え、避けてなんていないよ」

「この前に遭った時、好きな人ができたって言ってたよね。その人に振られたとか?」

 ナイフのように鋭い言葉。何もかもお見通しというわけだ。

「さっきすれ違った人、君が所属してるサークルのブログに掲載されてる写真にいたよね。彼なの? たしか、葛城くんだっけ?」

「……もう、終わったことだよ」

「そっか。これ以上は聞かないよ。じゃあね」

足早に去っていった。





【2】

 教室で私はいつも一番前に座る。ごちゃごちゃした話し声や人の視線が気にならないのはここだからだ。そしてすぐに教科書を開いて周りをシャットアウトする。友達なんて必要ないと言い聞かせて。事実私は空きコマのほとんどを自習に費やしていて、その結果成績はそれなりにいいほうだと自分で勝手に思っている。

 やがて教授が入ってきて出席を取りはじめた。

 教授が葛城の名前を呼ぶ。葛城は低い声で「はい」と応えた。勉強に集中していて気づかなかったがいつのまにか来ていたようだ。まあ、少人数授業なので来ないと単位がないのだが。

 教授は用事があって途中で帰ったので、今日の授業は自習だった。再来週に行うディベートの授業で葛城と私は同じグループだ。そろそろ準備しなければならない。ものすごく気まずいが教授の裁量で決まったので仕方ない。葛城は私に気づかないふりをして帰ろうとした。後ろから声をかける。

「資料、集めといたから」

 彼は立ち止まり「何?」と観念して振り向いた。分厚い紙の束と数冊の本を無理やり押し付ける。

「一番上の紙が論点をまとめたやつ。他は色々役に立ちそうな論文とか。とりあえず読めばわかるはず」

「ありがとう。よくこんなに集めたな」

「まあね。これで何とかなると思う。判例では負けてるけど少数意見付きだし……」

 自信のなさに声が小さくなる。そしてここまでお互いの顔も見ずに会話を続けている。とても気まずい。

 不意に、遠くから誰かの鋭い視線を感じた。

「瀬戸さん、はやくして。今日の当番は瀬戸さんでしょう」

 同じ授業を取っている朋美がせかしてくる。言われるまで忘れていたが今日私は教授の手伝いとして資料を配る係を任されていた。

「あ、ごめん。考え事をしてて気が付かなかった」

 朋美は注意をして気が済んだのか何も言わすにくるりと背を向けた。

 後ろの席のほうで、朋美と葛城が会話しているのが見えた。私だって馬鹿じゃないから朋美が葛城に好意を寄せていることくらいわかる。

 私は面倒くさくなって葛城の背中を睨んだ。授業終了のベルが鳴ると同時に足早に教室を去る。

 ずいぶん前に朋美から聞いた話が頭から離れない。

「「そういえば彼、あんたの小説のこと狂ってるって言ってたよ。頭がおかしいって」」

 心臓のあたりがチクリと痛む。彼はそんなことを言うのだろうか。いや、言うのかもしれない。私の知らない面が彼にはある。思うに、心底嫌いな人間を振り払うために自分でも驚くようなひどい言動を取ることなんてよくある。良心の呵責さえ隠れて見えなくなって……。

 いけない。またぼーっと立ち止まったまま考え事をしていた。頭の中の考えを振り払うかのように再び早足で歩き出す。





【3】

「俺には未来がないんだ」

 それは入学してすぐのことだった。サークルの新歓の飲み会で、突然葛城はそう言った。どういう意味だろう? よくわからない。冗談にしか聞こえなかった。笑顔で言っているからなおさら。

「そうなんだ。それは大変だね」

 私は適当に話を合わせる。というかそれ以外の返しを知らない。いつだって私は、型にはまったテンプレ通りの台詞しか喋れないのだ。

 しかし彼は私の舌足らずな喋り方を気にせずに続けた。

「だから、最後まで楽しんで生きるんだ」

 よくわからないけど、吹っ切れているんだなと思った。同時にその言い方はどことなく儚げで。変な人。でも面白そう。それが彼の第一印象だった。

 やがて、彼とは授業などで顔を合わせるようになった。でも特段仲が良いわけではなかった。十数人いるサークルの同期の一人。それは彼にとっても同じだっただろう。

 あるとき、先輩と帰り道が一緒になった時のことだった。「葛城、今日も高木の話に付き合わされてたよな」と先輩は言った。

高木というのはサークルの先輩だ。とてもよく喋る人で、周囲からは面倒な人だと思われている。

「え、そうなんですか?」

「ああ。最近いつも相手してる。大変だよな」

 思い起こしてみればそうだった。彼は怪訝な顔をすることもなく、その胡散臭い人の話に付き合っていた。

 それは、彼自身共感することがあったからなのだろう。きっと彼はどんな人でも受け入れる心の広い人なんだろうと思う。ひょっとしたら彼自身、過去に周囲と違うことで疎外感を覚えたことがあったのかもしれない。同時に、そんな彼を受け入れてくれる人たちがいたのだろう。心が温まるのを感じた。

 最初はそんなふうに、他人に向けられた彼の優しさをただ見ているだけだった。それに前期はなかなか話す機会なんてなかった。彼はあんまりサークルに来なかったからだ。

 後期に入ってイベントなどで徐々に話すようになって、ようやく仲良くなれた。あの頃は楽しかった。



 でも、そんな日々は長くは続かなかった。

 ある日の夕方、サークル終わりに葛城と一緒に帰った時のことだ。隣を歩いていた彼が突然「危ない!」と叫んだ。一瞬何が起こったのかわからなかった。衝撃が走り、地面に叩き付けられる。やがて、自分が車に轢かれたのだと気づいた。その後救急車で運ばれ何とか一命を取り留めたものの、腕と顔に深い傷を負った。傷跡は今でもうっすらと残っている。鏡を見るたび右の頬に白い線が浮かぶ。後で知ったのだが、あのとき葛城は私を助けようと強く引っ張ってくれたそうだ。それがなかったら死んでいたかもしれない。

 退院して学校に復帰してから、急に葛城は私を避けるようになった。否、正確に言うと避けているのではない。私と一緒にいると辛そうなのだ。何故かはわからない。前のように普通に話すことができなくなっていた。

 やがて私はサークルを辞めて、彼と会うことはほとんどなくなった。そして今に至る。




 

【4】

 また今週も少人数授業の時間が来た。

でも今日は違った。教授が葛城の名前を呼んでも彼は返事をしなかった。

「誰か葛城君と連絡を取れる人はいませんか」

 それ以来、授業で葛城を見かけなくなった。サークルにも来ていないらしい。朋美も一か月ほど前にみんなで飲み会に行ったきり会っていないと言っていた。バイトで忙しいんじゃないかな。まあ、そのうち来るでしょう。言いながら朋美も確信が持てないようだった。ディベートも結局一人で挑んだ。何の連絡もよこさず、電話もつながらない。あまりにも突然に何も言わずに消えてしまった。

それでも日常が変わるわけじゃなく、ただ時だけが過ぎていく。教員に論述問題を添削してもらったり、図書館で勉強したり。

 月に二回ほど、倉田と食事に行くようになっていた。

「瀬戸さん、最近なにかあったの? ずーっと上の空だから……」

「葛城のこと。突然いなくなってもう二か月以上経つんだ。誰も連絡が付かないらしくて」

「またそのことか。それで片想いの人を心配してるってわけね」

「そりゃ心配するよ突然学校にこなくなったらさあ」

「でも長いこと会話もしてないんだろう」

「……そうだけど」

「よくそんな人に恋するよ。うまくいくわけないだろう?」

 そう、初めから何かが間違っていたんだ。普通に会話もできないのにどうやって付き合うつもりだったんだろう。そんなこと心の中ではとっくに理解していて、すでに半分諦めていたのかもしれない。

「全く倉田の言う通りだよ。本当そうだよね。もっといろんなこと話したかった。彼のこと何も知らない。好きな人のことだったら欠点もカッコ悪いところも全部知りたいのに」

「じゃあさ、瀬戸さん。逆に君はどうなんだよ? 自分の欠点なんて知られたくないだろ。少なくとも僕だったら知られたくないね」

 倉田の言葉に息を呑んだ。彼は正しい。私は他人の気持ちなんて考えてもいなかったんだ。

「もういい。そろそろ帰ろう。でも一つ言っておく。君はたまに暴走しすぎるから、気をつけたほうがいい。見ていて怖くなるよ。その葛城君のことも、実は全部君の作り話なんじゃないかってね」

 倉田はそれだけ言い残して去っていった。私は彼がいなくなった後もぼんやりと座っていた。



 偶然葛城の秘密を知ってしまったのはその直後のことだった。

「彼、長くないんだって」

 久しぶりに授業で再会した朋美がそう言った。

「え、どういうこと?」

「病気でもうすぐ死んでしまうって。結構悩んでたみたい。学校に来なくなったのもそれが原因かも」

 家に帰って、ネットで検索した。不治の病らしい。よく考えてみれば、今までも思い当たる節はあった。けれどもまるで彼の秘密を覗いているような罪悪感から、ずっと調べることを避けてきた。だって誰にだって知られたくないことはある。

 未来がない、とはそういうことだったのだ。ショックだった。冗談だと思っていたが彼は本気で言っていたんだ。

 そこまで考えて、私は自分の無力さに呆然とした。私が彼にしてあげられることなんて何もない。あったとしても彼は拒絶するだろう。





【5】

 それから何週間か経ったある日、葛城が見つかったという知らせを聞いた。葛城はバイクで事故を起こし、市内の病院に運ばれたそうだ。かなり飛ばしていたらしい。法定速度を大幅に超え暴走していたところ曲がりきれずにガードレールにぶつかって彼は放り出された。命は助かったが意識不明の重態。それがニュースで聞いたことのすべてだった。

 私は、彼に会いたかった。でも会いに行っていいのだろうか。結局私は何の力にもなれない。むしろ、倉田の言う通り私の存在は彼にとってマイナスなんだろう。

 やがて、彼の意識が戻ったという話を朋美から聞いた。朋美は頻繁にお見舞いに行っているようだった。

 ある日、私は葛城が入院しているという病院に行ってみた。でも結局、病室の近くまでいったのに引き返してしまった。次の日も、また次の日も同じことを繰り返した。そんなことを続けるうちに二週間が過ぎた。

 この日も、廊下から様子を窺っていた。部屋に入る勇気もないし、今日も帰ろう。結局私には声を掛けることすらできないんだ。そんなことを考えながら後ろを振り向くと、彼が立っていた。

「あ……」

突然すぎて声を失う。目の前に現れた青年が葛城だとわかるのに数秒かかった。彼は全身に包帯を巻いていて痛々しかった。

 彼は私を見て驚いたように目を見開き、でも次の瞬間には目線を逸らして私の横を通り過ぎた。私を避けるように。本当は走りたかったのかもしれない。でも怪我をしている足ではそれはかなわないようだった。

「待って」

 葛城の動きが止まった。ゆっくりと振り返る。

 話したいことはたくさんあるのに言葉が出てこない。彼は目を合わせずに下を向いていたが、少しだけ顔を上げた。そして言った。

「どうして来たんだよ、帰れよ」

 その声は怒っているようにも涙をこらえているようにも聞こえた。

「お前を見てるとむかつくんだよ。いつもいつも善人のふりして」

 私は何も言わずにただ聞いていた。 

「俺がこんな風になったのを見て満足か? もういいだろ、そっとしといてくれよ‼」

 彼は私を怒鳴りつける。いつもの無邪気な笑顔もどこかへ行ったまま。

「それに、いまさら何なんだよ。どうして、逃げたんだ」

 激しく非難するような目。彼が、私がサークルを辞めたことを言っているのだと気づいた。そう、あの時私は逃げた。せっかく私と向き合おうとしてくれた彼を置いて居なくなったのは私自身だった。

「あの時は……怖くなったんだ。あなたに嫌われるのが。本当はもっと他愛のない話がしたかった。好きなゲームとか、小説とか。君が他の子と普通に話してるのが羨ましかった。でも君は私といると苦しそうで。いや、本音を言うとうれしかったよ。だって苦しそうにしている間は私のことを考えてくれてるんでしょう?」

 なぜなら、喧嘩してるときや本気で私を嫌ってるときには苦しそうな様子じゃなかったからだ。彼は、私が怪我をしたことに対して感じる必要のない罪悪感を覚えていた。そうとしか思えないのだ。 

葛城が遮ろうとするのを無視して話し続ける。

「でも、そんなのは良くないよ。罪悪感に縛り付ける関係なんて。本当はここにだって来るべきじゃなかった」

 なにもかも私のせいだった。あんなに明るかった人に、本来なら知る必要のない苦しみを植え付けてしまった。

「とりあえず、最後に会えてよかった。私が怪我したとき、いつもは早く帰るのに心配して学校に遅くまで残ってくれてありがとう。嬉しかった。さよなら、元気でね」

 早口でまくしたて、葛城の顔も見ずに部屋を飛び出し早足で遠ざかる。涙が止まらない。

 建物の外まで来て足を止めた。ここまで来たら、もう彼も追いかけてこないだろう。もうこれで本当にお別れなんだと、意外なほど冷静に受け止めている自分に驚いた。



 彼の余命がどのくらいなのかなんて知らない。ただ私はきっと、彼が死んだ後も生き続ける。私を嫌っているくせに、私が死んだら悲しんでくれるであろう人より先には死なない。絶対に。

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さよならの向こう側 青咲あやの @ayanoooon

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