春霖

あぷちろ

雨声がささやく

 雨音がしとしとと、石畳を打つ。さめざめと、少女たちの啜り声が教室に反響している。

 篠突く雨が桜の花弁を散らして水溜まりに波紋が広がる。重苦しい暗雲が空に重なり、暖かな細雨が降りしきる。

 私は少女たちの中で独り、私は涙を流す事が出来なかった。目を赤く腫らす娘たちの中で私だけが瞳から雫を流すことなく、立ち尽くしている。茫然として輪の外から彼女たちを眺める。

 誰も気づかず、誰も気にも留めない。私は透明人間だ。

 そろりと教室から抜け出して廊下へ出る。足音を忍んだのは、少女たちを慮ってか、私にも判らない。ひときわ大きく、春霖の噪音が周囲に響く。塗炭の屋根が緩急をつけて啼いている。

 振り向いてみるも誰も追ってはこない。私は上履きを鳴らしてその場から動く。窓ガラスの向こうでは水煙が上がり、水溜まりが曇天を映す。

 暫く誰にも会うことなく、校内を行く。渡り廊下の最中さなかで私の足が止まる。軒先から落ちた雨雫が地面を跳ねてプリーツスカートの裾を汚した。

 渡り廊下には壁がない。一歩、踏み出せば雨に打たれるだろう。

 一歩踏み出せば、私も彼女たちのように瞳に雫を溢せるだろう。対価として、胸に差したカーネーションも形を失ってしまうだろうが。

 喫水線に立った。白い上履きを茶色に汚し、紺のプリーツにまだら模様を残す。

 そういえば、このプリーツスカートを履くのも今日で最後だ。

 そういえば、と言ってしまうくらい私は卒業したという自覚がなかった。学校生活でも特筆すべき事柄なんてものはなく、世間の潮流にながされるまま。そしてこれからも特筆すべきモノは無いだろう。

 雨音に思考がかき乱される。

 私は木と年月によって形作られた箱の中で哀しみと希望を背負って語らう少女たちと同じになりたいのだろうか。

 そうして、顔も覚えられない大人と、オトナに成りかけの娘たちからおめでとう、と心の上辺だけを満たす言葉を掛けられたいのか。

 私は一歩、足を踏み出した。

 ビーズよりも小さな雨粒が紺の制服にシミを作る。今の私は透明人間だ。透明になっても、雨は透けてくれないらしい。空を見上げる。

 おめでとう。瞳に雫を溜めた私は箱の中の彼女たちと同じ権利を得られただろうから。

 おめでとう、と声を掛けてもらえる権利を得られただろうから。

 私は、誰かに祝福して貰いたかったのか。数多の雫に打たれ、頭が冷えて思考が纏まる。

 私は冷たい雫を瞼から溢す。カーネーションを模った造花が雨粒に濡れ、力なく萎れる。

 私は箱の中の彼女たちのように、拠り所から飛び立ちたかったのだ。私は級友たちのようにおめでとう、と祝福し、祝福されたかったのだ。

 そうしてやっと、私はおめでとうと、心から言えるようになるのだろう。

 私もおめでとう、と言いたかったのだ。


 逡巡する。今戻れば私もあの輪の中に入れるだろうか。

 首をかしげ、否定する。戻ったところでもうあの木製の箱には私の場所はない。私はもう飛び立ってしまったのだから。

 雨声に耳を傾ける。

 言葉なき声が、私を祝福する。私も、彼/彼女を祝福した。

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春霖 あぷちろ @aputiro

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