高熱
カタカタカタとパソコンの音が鳴る。パチンと、エンターキーを押してから、ふぅと息を吐き出した。
目頭辺りをグッと押さえ、それからゆっくりと腕を伸ばす。年のせいだろうか、ボキボキという音が鳴る。
「あー......」
「一段落したの?」
横に座っているファッション・マスクが声を掛けてきた。いや、ファッション・マスク改め
「まぁ、一段落したわ」
「じゃ、ご飯食べに行こうよ。そろそろお昼過ぎになっちゃうよ」
時計を見ると、確かに一時半を過ぎようとしていた。なかなか根を詰めてやっていたせいで、時間の感覚がまるでなかった。
やっぱり営業回りの方が時間間隔がちゃんとするんだな。実感。
「おい、律」
「はいはい、先輩」
俺はそう言って先程まで打ち込んでいた資料の原案を保存しておき、ファッション・マスクの後ろをついて歩こうとする。
その時、R×Kの「愛、鎖」がポケットから流れ始める。柚月の好きなアーティストというのをきっかけにして俺もよく聞くようになった、二人組のアイドルユニットだ。若者からそこそこの人気を得ている。...っと、そういうわけでなくて。
すぐにスマホをポケットから取り出して、電話相手の画面を見る。そこには愛おしい恋人の名が。
だが、この時間に何でかけてきているのだろう。向こうも仕事中の筈なのだが、暇になったからかけてきた、という事だろうか。
「すみません、いいっすか?」
「柚月くんね。いいよ」
ファッション・マスクに許しをもらい、俺は電話に出る。
「もしもーし、どした?しご、」
『っ貴方がタカツキリツ?!』
切羽詰まったような女の声。フルネームで俺の名前を呼んだ。
なんだ、何で、女の声が柚月のスマホから...?
「お前、誰、」
俺の様子をおかしいと思ったのか、呑気な顔をしていたファッション・マスクは不思議そうに眉を寄せた。
『わ、私は柚月のモデル友達で、
柚月が倒れた、という言葉に俺はびくりと肩を震わせてしまう。
『朝から様子おかしかったんだけど、なんか薬で誤魔化してたみたいで...。今柚月の家に運んできたんだけど、私これからまだ撮影あって...。貴方、看病出来ないかなって...』
「...看病、って...。あぁ、そう、だな」
せつか、...柚月がせっちゃんって言っている友達だろうか。
俺はスマホを耳から外し、ファッション・マスクの方を見た。
「行っておいでよ。資料は俺が仕上げとく。あとで、埋め合わせして」
「っ!サンキュ」
再びスマホを耳に当てて、向こうの女に行けるようになった旨を伝える。
「...悪い、今度なんかする」
「当たり前だよ」
俺はすぐに職場へ戻り、急用が出来たので午後から休ませて欲しいと上司に伝えに行く。
本当に重要な会議がなくてよかった。
俺は急いで愛しい恋人の元へ走って向かった。
走って電車へ乗り込み、あいつの家へ行く時に使う駅で降りる。
電子カードを通すという動作も、信号待ちしなければならないという時間さえ、今の俺には苛立ちの要因にしかならない。
住んでいるマンションに辿り着くと、押しボタンを押す。
『はい、え、とタカツキさん?』
出たのは電話の声の女。俺が来るまでいてくれていたらしい。少しすると自動扉が開いて、俺は急いで中へ駆けこんで柚月の部屋へ向かった。
「よかったー。会社、休んでくれたんですね」
出迎えてくれたのは、背の低い女だった。いや、女にしては背が高いのかもしれないけど、俺よりは小さい。流石モデルというか、顔は確かに可愛かった。
彼女は安心したように表情を和らげ、ほっと一息吐いた。
「悪かったな。柚月、調子どうなんだ?」
「今は寝てますよ、残念ながら熱は下がってませんけど。え、と...。後は任せてもいいですか?」
「あぁ、その...。ありがとうございました」
「いいえ。柚月の事、大切にしてやってくださいね」
彼女はにこっと微笑んで、部屋から出て行った。
俺はすぐに彼女が出て来たリビングルームの方へ足を向ける。黒いソファの上で、ふぅふぅと荒く息を吐いて柚月は寝ていた。顔は赤くなっていて、顔は顰められている。身体には毛布がかけられて、額には冷えピタが貼ってあった。
「...おい、大丈夫か?」
声に応じる様子はない。眉を寄せて静かに唸っている。
頬に手を当ててみると、じんわりとした熱が手に伝わってくる。この時期にインフルエンザはないので、恐らく単なる体調不良の悪化だろう。
全く、一人で何とかしようとするから、こうなってるの分かってるのか。薬で抑えきれない熱なら、自分ですぐ分かんだろ。
文句を言いたくても言えないので、とりあえず起きた時に食べさせたり飲ませたりする物を作っておこうとキッチンの方へ向かう。
「...おいおい」
あいつ、飯食ってたのか。
食器が置かれていない。いつも遊びに来た時は、綺麗にしている時は置いていないが、突然行くとごちゃごちゃと食器が置かれている事が多い。今回は、何にも置かれていない。コップが一つだけだ。
恐らく、薬を飲むだけ飲んで仕事に行ったのだろう。
「起きたら、説教だな」
心にそう決め、早速冷蔵庫から粥を作るのに必要そうな材料を取り出す。料理に関しては俺よりは柚月の方が上手いが、今の状況ではそうも言っていられない。
さくさくと卵粥を作っていく。一応、栄養価が少しでも上がるようにニンジンも加えておく。
「ん......?」
ふと、耳に小さな声が聞こえた。唸り声じゃない、何かに気付いたような声だ。
ソファの方へ足を向けて覗き込むと、ぼうっとした黒目を見せている柚月が目に入る。彼はうろうろと視線をゆっくりと彷徨わせ、それから俺を視界に入れたのか、大きく目が見開かれた。
「......り、つ...?」
「おう。身体の調子はどうだ?」
「うん...?あ、そか、おれ、...たおれた、のか.........」
ぼうっとした顔から見るに、まだはっきりと覚醒しきっていないようだ。
「ったく、薬で誤魔化して人に迷惑かけないようにしよう、って思ったんだろ?ほんと、人に迷惑云々じゃねぇんだよ。ちゃんと連絡して休んで、自分の身体を大切にしろ、馬鹿。苦しいなら頼れよ」
そっと頬に手を伸ばす。柔らかな弾力の頬が俺の手に伝わってくる。先程まで冷水で作業していたせいか、心地よさそうに柚月は目を細めている。
あんまり話聞いてないな、こいつ。
だが、すぐに予想を打ち消すように身体を勢いよく起こした。
「ッ、りつ、しごと!」
「あー。午後から休んだ。元々有給は割と余ってるし、それを消化できたと思えてっから気にすんな」
よしよし、と起き上がっている彼の頬を撫でてやる。柚月は申し訳なさそうに、眉を寄せて顔を顰めている。
ソファにもたれかかるようにして、柚月は文句なく俺の手を受け入れている。猫のようだ。
「あ、そう。粥作ってるんだけど、食う?食えるだけの力あっか?」
「おかゆ...、つくってくれたの?」
「おー、まぁ。お前最近ろくに食べてないだろ。少なくとも昨日の晩は食べてないよな」
どうやら図星だったようで、ぎくりとしたように身体を震わせた。
「だって...、おなか、すいてなかったから」
「はいはい。とにかく、食うんだな?」
「うん。りつの、たべる」
ぽんぽん、と頭を撫でてから、キッチンへ足を運んで皿に盛りつけて持っていく。
「ごめん、もってこさせちゃって......」
「いいよ。病人は甘えとけ」
「んー」
皿と匙を手渡して、俺はソファの下のカーペットに腰を下ろして、ソファに頬杖をついて珍しく俺が柚月を見上げる。
柚月はふぅふぅと匙の上の粥に息を吹きかけ、はふはふ言いながら頬張っている。美味しそうに目を輝かせている姿は、愛おしさが込み上げてくる可愛さだ。
「美味いか?」
頬をハムスターみたいに膨らませたまま、コクコクと頷いた。
「おいひい!」
「よかったよ。食べられるだけ食べとけ。んで、薬な」
「ん」
これで熱が下がればいいけど...。
俺は特にする事もなく、下から覗き見るように柚月の整った顔を観察する。
粥を美味しそうに頬張る姿は可愛い。というか、そもそも風邪を引いているせいか、白雪のような肌の赤らんだ様や汗で首に張り付いている黒髪、やや濡れている長い睫毛とか...。もう、目に毒過ぎる。
風邪とかじゃなかったら、襲ってますねこりゃ。
「ん、おなかいっぱい...」
満足そうに柚月は腹を撫でている。
「よく食べたな」
褒めてやると、嬉しそうにする。
「薬持って来てやっから」
空になった食器をもらい、代わりに水の入ったコップと薬を持って来てやる。
「飲め」
「うん」
柚月は素直に薬を飲む。そのコップも受け取り、それをキッチンの流しに置いてから、柚月の身体を押し倒して毛布をかける。
すると、じたじたと柚月は嫌がり始めた。
「やだ、もっとりつとはなす」
「いいから寝ろ。身体休めときゃ良くなる。一緒に居てやるから」
子どもか、と突っ込みたくなったが、俺の言い分にすぐに納得したようで、唇を尖らせつつも素直に横になった。
「......ね、りつ」
「ん?」
柚月は少し身体をくねらせて、それから口元を毛布で隠したままごにょごにょと何か言う。よく聞き取れない。
「もっかい言って。よく聞こえなかった」
「......て、にぎってて、ほしい......。うつすかも...、しれないけど......」
あぁ、もうこいつは...。
「気、使いすぎ。もっと自分のしたいように甘えとけ。ばーか」
白くて細い手を手繰り寄せ、指と指を絡ませて握る。すると恥ずかしそうな安心したように目を細める。
「ありがと...。うれし......」
「ん、ゆっくり寝ろ。側にいてやるから」
俺が笑いかけてやると、柚月はへにゃっと表情を緩めてから目を閉じた。
少し時間が経つと、規則的な寝息が耳に届くようになる。これで少しでも回復してくれればいいのだが。
そっと、反対側の手で頬を撫でてやる。
その緩み切った顔に思わず眉を寄せてしまって。口元も何故だか緩くなってしまって。
あぁ、これはきっと移ったな。
「早く治せ、馬鹿」
そんな事を思いながら、俺も背中をソファに預けて瞼を閉じた。
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