林檎

本田玲臨

第1話

「咲宮くん、君はきっと天才なんだと思うな」


 窓から夕日が差し込む研究室内で、顧問である雪城先生は微笑んでいた。

 流石、校内でファンクラブが出来るだけの美人だからか、その姿はまるで一枚の完成された彫刻のように見える。

 そんな彼女の目の前の長机には、一枚の絵が置かれている。俺の絵だ。

 真ん中に男とも女ともとれる中世的な顔立ちの人物が、その手に首に身体にぐるぐると赤い糸を巻き付けて、その箇所から薄っすらと血を滲ませて蹲っている。その人物の上に赤い糸を握った異形の存在がある。

 自分でも分かる。気分の悪くなる絵だな、と。

「君は人をよく見てる。良い面も、悪い面もね。その長けた観察眼がこういった絵を描かせるんだろうね。そこは褒めるよ。でもコンクールの明るい感じとはそぐわないわけだ」

「なら、一年と同じ花でいいですか」

 俺がそう言うと、彼女は首を振るった。

「君が人を主題にするのが苦手なのは理解している。でも、苦手は克服しなきゃ、ね?締め切りに間に合いそうにないなら考えるけど」

 先生はにこりと笑う。普通の講義の先生にこう言われたら嫌な顔をしてしまいそうだが、雪城先生だからまだ許せる。

 不満は残るが。

「さて、今日の呼び出しのお話は終わり。今日も由良ちゃんと帰るんでしょ?待たせてるかな?」

「いえ、事情は言ってるから、大丈夫だと思います。あの、じゃあ、また次の部活で......」

「うん、ばいばい」

 先生はひらひらと手を振ってくれた。俺は頭を下げて、研究室を後にした。


 咲宮玲央。それが俺の名前。そこそこの偏差値を有する私立大学の二年生で、美術部に所属している。

 そして今、美術部では県のコンクールに向けて、各学年ごとに定められた課題の範囲内で、各々が自由に筆を走らせている。今年は一年が花を、二年が人を、三年は建物を、四年は画材の指定以外は自由といった具合。

 俺の描くべきモチーフは人なのだが、昔から人は全く描けなかった。デッサンはまだしも、自分の空想を含めてしまうとどうしても恐ろしく気味の悪い絵になってしまう。

 先程指摘されたあの絵も、納得して提出していたわけではない。

「はぁ......」

「あ!玲央くん!」

 前方からの声に、俺は長い前髪を振るって分け、声の主を見る。見なくても誰かは分かっているけど。

 そこには俺の従妹であり、シェアルームをして、同じ部活に所属している咲宮由良だ。友人というものを持っていない身としては、唯一心の赦せる存在だ。

「ごめん、待たせてるな」

「んー、いいよ。玲央くんにはいつもお世話になってるし!で、どうだった?ユキ先生からの反応は?」

 俺が横に首を振ると、彼女は眉を下げて「そっか」と一言言った。

「玲央くん、絵は上手いのにね。合格もらえなかったかー。前描いてた内臓丸出しスプラッターくんよりはマシだと思ってたんだけど」

「お前、あれにそんな名前付けてんのかよ」

「見たまんまだけど。あれのテーマ、腹黒だったっけ?」

「...そう、だけど」

 今回提出した絵の前に描いていた没作品。人の腹を裂いて、その中の臓器を黒く塗った絵。流石に駄目だと言われると予想して、提出するのは止めておいたわけだが。

「でぇ、どうするの?もう凝らずにデッサン出す?私モデルするよ?」

「いや...いいわ」

 俺が申し出の礼を込めて頭を撫でる。由良は嬉しそうに目を細めた。

「じゃ、カフェの近くいて。美術室に荷物置いてるから」

「ついて行こうか?」

「お前が往復する事になるからいいよ。もう少し待ってて」

 由良はパッと手を挙げると、階段の方へと歩いて行った。その黒い後ろ頭が見えなくなってから、早歩きで美術室へと向かう。


 美術室は好きだ。部員以外滅多に寄り付かないし、人の目を気にしなくていい。基本、講義の入っていない暇な時間にはここに居る。

 ガラガラと滑りの悪い扉を開けると、ぶわりと風が頬を撫でた。窓を開けたまま退出した記憶はないので、部員の誰かがいるのか?

 顔を上げると、俺が荷物を置いていた机の前に男が座っていた。漆黒の髪は開け放たれた風で弄ばれ、夕日で薄っすらと朱色に色付いている。きらりと左耳の小さな赤い丸ピアスが光った。彼の目は...、俺のスケッチブックに注がれている。

 彼の事は知っている。生徒内で有名なイケメン、清川黒乃だ。雪城先生にもファンクラブがあるが、彼にもあるらしい。噂なので本当かどうかは知らないが。

 だが、問題はそこではなく。何故、恐らく運動部かあるいは無所属の人間が美術室に居る?

 俺が扉を開けた音で気付いたのか、彼はパッと顔を上げる。俺は少しドキリとしながら、荷物を取るべく彼の目の前に立つ。

「っそれ、俺のスケッチブック」

「...これ、君のなんだ?」

 頷くと、見ていたスケッチブックを閉じて、俺へ渡してきた。


 この中身、見たのか。

 描いた本人でも引くような絵が、ここには描いてあるのに。

 猫の死体、人の眼球、内臓など。

 一度由良に見られた時には、精神病院に連れて行かれそうになった。


 そう、普通の感性からすると、気持ち悪いのだ。この人もきっと、そう言うに決まっている。


「上手いね。俺、結構好きだった」

「は?こんな絵のどこを...。気持ち悪い、だろ...」

「気持ち悪くないけど?.........ね、名前教えてよ」

「なんで...」

「いいから!」

 にこっと彼が笑う。その無邪気なきらきら笑顔は無下にも扱えず、思わず下を向いてしまう。

「咲宮、玲央だけど」

「咲宮玲央、か。うん、覚えた。俺の事は言わなくても知ってるでしょ?」

 小首を傾げる彼に、俺は目も合わせずに頷く。

「ん。じゃあまたね!」

 彼はそのまますたすたと美術室を出て行った。


 初めてだ。

 由良以外で初めて...、絵を好きだって言ってくれた。



 何故か、胸の奥が熱くなった。

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