Episode.final
「.........痛いな」
静かな彼の声は、小さな暗闇の部屋に響いた。
そこにあるのは、布団とタオルと水の張られた桶、そしてユイの身体。
男に触れられ、汚れてしまった身体を濡れタオルで擦りすぎた為か、白い細腕はほんのりと赤みを帯びていた。
静かな声なのも、喘ぎ過ぎて声が枯れてしまったからだ。
ここへ来てから、ガラッと昔の生活へ変わってしまった。
三人での暮らしを知ってしまったせいか、あの頃には知らなかった痛みを、ユイはひしひしと理解してしまっていた。
「.....泣くな」
シノの大きな手の平。マキの小さな手の平。優しく撫で、時には冗談半分で乱雑に撫でられ。三人で囲んだ温かな食卓の風景も。
もう二度と、戻って来ないのだろう。
「...っふ.......」
泣くな、泣くな、とユイは首を振るいながら心の中で懸命に唱える。しかしその意に反して、目の奥から涙はゆっくりと溢れてこようとする。
『ユイ』
「.....っシノぉ.......」
低くて落ち着く温かい声。その声に甘える事も。
『ユイっ』
明るく楽しそうに呼んでくれる声。その声に安心する事も。
「マキぃ......」
もう、叶わない。
止めどなく溢れてくる涙を何度も何度も拭いながら、ユイはその場でしゃくり上げる。シノとマキが居るならば、二人は心配して寄って来るだろう。そして「大丈夫」と声を掛けて――。そんな妄想に脳内を浸らせていた時だった。
こんこん、と小さな音が耳を掠めた。それは少しずつ、しかし段々と大きくなっていく。
ユイは目の下を擦り、辺りを見回す。音の出る場所なんて三ヵ所しかない。扉と壁と窓。その音は扉からでも壁からでもなく、窓の方から聞こえて来ていた。
「お......と......」
ゆっくりゆっくり床を這って、それから腰を浮かせて立って、痛む身体を引きずるように少しずつ窓の方へと近付く。そして、カーテンをゆっくりと開けて、格子の付いた窓の外を見ようとする。が、曇りガラスなのか、何も映してはくれなかった。
ユイはそうっと、恐る恐る指先で窓をコンコンと叩いた。
「......離れて」
ユイは目を丸くして、しかし従順にその窓から離れた。そして布団の置いてある床の方へ這いずり、薄布の毛布を手に握りしめた。
窓を叩く音がコンコンからトントンという音へ変わり、ドンドンと強く叩かれた。が、ユイは窓から離れろという言葉を守り、毛布を握り締めて近付こうとはしなかった。
音が止む。
そして、銃声が轟いた。一発ではない、何発も。その窓ガラスが割れる音と混ざり合い、ユイの静寂な部屋を煩くする。
パラパラと窓ガラスの破片が落ちる。その破片は月明かりを浴びてキラキラと光っていた。
ユイはゆっくりと顔を上げ、割れた窓の方へ目を向けた。冷たい夜風が、ユイの熱い頬を撫でる。
「...............シノ......」
「...ユイ」
彼はいつも通りの仕事の恰好をしていた。黒いマスク、黒い服、黒塗りの拳銃。その光景は、ユイにあの日の光景を思い出させた。
シノは少し目を動かしてから、すぐにユイを見つけ、黒マスクを顎下へと下ろした。ユイは掠れた震え声で呟く。
「...シノ、なの」
「うん、ユイ。俺だよ」
「来て...くれたの?」
「当たり前だろ。俺達は、『家族』だろ?」
シノはにっと満面の笑みを浮かべて、窓の枠から部屋の中へと降りた。そしてパリンパリンと窓ガラスの破片を踏みながら、ユイの居る場所へ近付いて行った。
「ね、ユイ。ついて来てくれる?俺...頼りないかもしれないけどさ。でも、君を大切にしたいっていう気持ち、誰にも負けてないって思うから」
シノの姿がぼやけて見えた。ユイは目を何度も擦り、鼻水が出そうになって鼻をすする。シノは困ったように眉を下げて苦笑いし、ユイの身体を優しく抱き締めた。
太陽のように暖かい彼の身体に抱かれて、ユイは涙が止まらなくなってしまった。
「ユイ、泣きすぎだよ...。前にも言ったでしょ、目が腫れちゃうよ」
「っん...っふ...だ...、ってぇ...っうう...」
シノは優しく涙を拭い、ユイの顔を上げさせる。
「で、ユイ、返事が欲しいな」
「っん...」
ユイはまた溢れてきた涙をグイッと拭い、シノの首に思い切り抱きついた。シノは少しバランスを崩しそうになるが、何とか正す。
答えなんて、決まっていた。
「っい、一緒がっ...いい........っ!」
耳元で言われるにはあまりにも大きな声量であったが、シノはその言葉がじんわりと胸へ突き刺さるように感じた。
シノはユイの身体をそのまま抱き締め、窓の方へと近付いていく。
「帰ろっか。マキが家でトマトスープを作って待ってるからね」
「...三人で食べられる?」
敬語の抜けた彼の言葉にシノは一瞬目を白黒させて、それから「勿論」と確かな声音でそう言った。
窓枠に足をかけ、そのまま地面へと降りて『家』へと帰って行く。
割れた窓から月光が差し込み、誰もいなくなってしまった部屋の中を、ただただ静かに照らし続けていた。
まるでそれは、幽冥へ誘うように。
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