Episode.12 Cold wind stroked the cheek of every human being, and gentle comfort.

「ただいまー」

 のんびりとしたマキの声が、玄関の方から聞こえてきた。ソーロに本を読んでもらっていたユイはパッと頭を上げる。それはひゅっとソーロの顎先を掠めた。

「お帰りなさいっ!」

「んふふ、ただいま、ユイ」

 二人は特に目立った外傷もなく、ケロッとした表情で帰って来た。マキはゴーグルを額へ押し上げ、マスクを顎下へ下げて、片手でユイの頭をポンポンと撫でた。シノはその後ろからついて来たソーロの方へ足を向ける。

「ユイの事、ありがと」

「いいって事よ。...大切にしてやれよ、あの子の事」

 ソーロの言葉にシノは目を丸くして、それから小さく微笑んで頷いた。

「今日のご飯、作らなくちゃね。ユイ、何食べたい?」

「え、えと...。マキさんの作ったもの...、何でも美味しいから」

「嬉しい事言ってくれるなぁ!」

 マキは嬉しそうに顔を綻ばせて、ユイの髪の毛をよしよしと撫でる。それからゴーグルとマスクを完全に取り外して、リビングのテーブルの上へ置いた。そして服の袖を捲り上げ、手際よく準備していく。

 ユイはその後ろ姿を見て、くるりとソーロの方を向いた。

「そ、ソーロさん、帰り...ますか?」

「うん?あー、そうだな。俺のお勤めは終わったわけだし、のんびりどっかで一人飯でもしてから帰ろうかなっとは」

 シノはユイの言葉の意図を何となく察し、「マキ」と彼女へ声を掛ける。野菜を切っていたマキは顔を上げて、疑問符を頭に思い浮かべながら包丁の動きを止めた。

「どうしました?」

「今日、いつもより少し多めに作ってもらえる?今日のお礼に、ソーロにここで食べてもらおうと思って」

 シノの提案にソーロとユイが反応する。

「いや、俺、別に気を使って欲しいわけじゃ」

「いいからいいから!」

 シノはにこにこと笑って、立ち上がろうとしていたソーロの肩に手を置いて、その場に座らせた。それからユイに視線を送って、小さくはにかんだ。

 その視線にユイはパッと顔を輝かせて、ユイは先程までソーロに読んでもらっていた本を彼の元へ持って行った。そして目の前に突き出す。

「つ、続き...!」

「ん?読んで欲しいのか?」

 こくこくとユイは頷く。ソーロはシノの方へ目を向ける。が、シノは微笑んだままで、ソーロに対して何の助言も与えない。

「......分かった。今日はここで食べる。んで、帰らせてもらうよ。マキ、俺酸っぱいもん嫌いだからな」

「作ってる人間に文句言うなら、自分で作ってくださいー」

 ケラケラと冗談交じりにマキは鍋に水を入れつつ、ソーロへそう言った。シノはマキの物も含めて自室の方へ片付けへ行った。

 ソーロは自身の足の間にユイを座らせ、時折ユイへ言葉の意味を教えながら本を読み聞かせていく。


 マキがシチューを作り終えたのは、シノが武具の片付けを終えてのんびりし、ソーロがユイへ読み聞かせを終えて二人で手遊びしているころだった。

「出来ましたよー、皆様ー」

 マキは深めの皿によそおって、リビングのテーブルに並べる。しかし椅子が足りていない事にすぐに気が付き、三人が居るソファの方へと持って行く。

「ここで食べましょ。溢さないようにしてくださいね」

 マキは各々へ手渡しで渡していく。そして最後にマキ自身のシチューを持ってすとんと腰を落としてから、シノが全員の顔を見回した。

「それじゃ、いただきます」

 シノの号令に合わせて、三人も合掌してからシチューを食べていく。


「マキ、お前料理上手いんだな」

「これくらいの事は普通に出来ますから。何ですかもう、私が料理下手なら...、この生活はきっと最悪ですよ」

 マキはくすくすとシノの方へ目を向けつつ、冗談を混ぜながらそう言った。シノは少し複雑そうな顔をしたが、言い返さずにシチューを食べる。

「美味しい...」

 ユイはほうっと息を吐きながら、にこりと微笑んだ。その笑顔は周りの三人の心を思い切り揺さぶらせる。

 ユイはしばらくシチューの味を楽しんでいたが、三人からの視線に気が付き不思議そうに首を傾げた。

「...シノ」

「......ん、何?」

「ユイ、可愛すぎじゃね?」

「狐目さん、それ当たり前ですから」

「かっかわっ!?」

 真顔でユイの可愛さを議論しているのを見て、当の話題の中心人物は顔を林檎のように真っ赤にしていた。

 それから更にユイの話へと話題が移行していき、ユイは恥ずかしさと照れを混ぜ合わせた顔をして、ドキドキと心音に高鳴らせて。後半のシチューの味はあまり覚えていない。


 シチューを食べ終え、ユイが全員の皿とコップを洗いに行く。シノはユイの手伝いをする為に、彼の後を追った。

「んじゃ、そろそろ俺は帰るかな」

 ソーロは腰を上げ、ある程度身の回りのものを片付けてから、玄関の方へ向かう。

「あ、じゃあ、私がお見送りしますよ。"Knight Killers"がついていると思ったら、物騒な夜の街でも安心でしょ?」

「あー...。じゃあ頼む」

「ん、少し待ってて」

 マキは自室の方へと駆けて行った。少ししてから黒マスクをして、軽く装備を整えた彼女が来た。

「すぐに戻りますね、先輩」

「うん」

「行ってくるね、ユイ」

「は、はい!」

 マキとソーロは外へと出て行った。


「拾ったんだってな、あの子」

「あぁ、ユイから何か聞いたんですか?」

 外に出てすぐ、ソーロはマキへそう訊いた。マキは意外そうな顔をして、ソーロの隣に並ぶ。

「シノに助けてもらったってな。...ユイの事、しっかり守ってやってくれよ」

「...そうですねぇ。今はとても、そう思います」

「前は違ったのかよ?」

 マキは小さく微笑んだ。

「そうですね。半人前の私や先輩じゃあ、ユイをちゃんと育てていけるか心配だったんですよ。だから、どこか別の場所へ預けるべきなんじゃないかって、思ってました。犯罪者の家に住ませてるわけですし、教育だって満足に与えられない。そんな環境に彼を縛り付けているんじゃないだろうかって、心の片隅のどこかにそう言っている自分が居ました」

 いつだって不安だ。シノが仕事に行っている時、市場で物を買う時。自分のかかわりが分からない場所で何かが蠢いているようで、〈蒼月の弓矢〉が消滅したあの日の事を想像してしまう。あの悲劇を繰り返したくないと思う反面、シノや他の人を自分のコントロール下におけない事の理解もある。葛藤。

 どうしようもない、裕福層から見れば大した事のない不安なのかもしれない。けれど、マキにとっては確かに重要なものであった。

「でも、ユイと深く関わって、その大きさを知ったんです。手放す気なんて、さらさらないですよ」

 どこか楽しそうに、マキは笑う。その笑顔にソーロも嬉しそうに笑う。

 柔らかで穏やかな雰囲気が、二人の間に流れる。マキはふふふと楽しそうに笑い、ぴたりと足を止めた。

「.........マキ?」

「狐目さん。少し付き合ってくださいね」

 マキは笑顔のままそう言って、腰のポーチから数本の針を取り出して、背後に身体を捻って力いっぱい投げ飛ばした。

 カンカンカン、と弾かれる音がした。ソーロは僅かに怯えたようで喉の奥から声を出した。マキは眉を寄せて、針のように細いドライバーのようなものを取り出す。ナイフの代わりとしてよく使う、彼女の愛用武器だ。

「......どうも、ユキ先輩のチームメイトか何かですかね?」

 暗闇に立っていたのは、背の高い青年。きらりと、その彼の左耳が赤く光った。彼をマキは見た事があった。

「...あー、あの時の彼ですか。お久しぶりですね、っと」

 マキは少し後ろへ下がり、ソーロの片手を握る。青年の胸辺りに狙いを定めて、ゆっくりと後ろへ下がっていく。

「っマキっ!」

 マキはソーロの切迫した声に首を傾げ、目を後ろの方へ向けた。そこにも男が居た。

 恐らく目の前に立つ黒髪の青年の仲間―つまりユキの仲間なのであろう、黒いハンチング帽をかぶった薄茶髪の青年である。将来、ユイが成長したらなり得そうな可愛らしくも整った顔立ちの、やや背の低い男である。

「ふぅん。挟み撃ちって感じですか」

 マキは前と背後を交互に見る。完全に力関係で言っても、不利なのはマキ達の方である。

「...クロ、分かっとるな」

「勿論、レオさん」

 やはり、同じ仲間であるらしい。

 マキは少し足を止め、それからソーロの手を一気に引いて、レオと呼ばれた薄茶髪の青年の方へ駆けた。それを見てクロと呼ばれた高身長の青年が、マキ達の方へと駆け寄って行く。それはとても速い速度で。

「どいて!!」

 マキはレオへ一喝し、針を振り下ろす。レオは少し身を倒すが、マキは腕を伸ばしてその頬へ長い傷をつける。そして彼の横を二人は走り、路地を左へと曲がって行った。

「レオさん!!」

 クロは心配そうな声を上げて、慌ててマキではなくレオの元へ駆け寄った。

「...こんくらい平気やってーの」

 彼はそう言って、頬に滲む血を拭った。

「追うぞ」「うん!」

 二人の後を追うレオの琥珀色の瞳の瞳孔が、縦長になっていた。


「誰なんだあいつら!!お前の知り合いか?!」

「黒髪の方は顔見知りです。この間仕事中に出会って殺そうとされて。ま、逃げ出したんですけど」

 マキはソーロの手を引くのを止め、その場で止まった。ソーロは少し歩みを進めてから、その足を止める。

「おいっ、マキっ!」

「そこからすぐでしょう、狐目さんの家!今日はユイの事、ありがとうございました」

「マキっ」

 ソーロの声も聞かぬまま、マキは来た道を戻って行ってしまった。伸ばした手は何も掴むことは無い。ただ、ひやりとした空気が握られて熱くなっていた手を冷ます。


 マキは走る。すると、案の定追いかけて来ていた二人の青年と上手く出くわす。

「おい、もう一人のお仲間はどうしたんだよっ!」

 クロはナイフを片手に持ち、レオは液体の入った小瓶を手に持っていた。マキは少し顔を顰め、手に持つ針を握り締めた。

「あの人、関係ないんで。んで、ユキ先輩に何言われたんですか?それとも、〈黄昏の夢〉のお仕事ですか?」

「両方、やね。伝言、預かっとんのよ、ユキから。本当は本人から伝えたかったらしいんやけど、他のメンバーと仕事してるから。今日暇な俺と、お前の顔を知っとるクロで、こうやって来てるわけや」

「不思議な口調ですね。...北の異民族か何かですか?軍が張り付いてるのに、よくここへ来ましたね」

「お前、レオさんを馬鹿にしてんのか?」

 ひゅっと冷えた空気に、マスクの下の飄々としたマキの笑みは消えた。

 クロの紅色の瞳は、苛烈な炎のように怒りに震えていた。その視線だけで人が殺せそうなほど、彼の瞳はマキの心臓へ狙いを定めていた。

「......ふぅん。その人の事、よっぽど大事なんですね。私達がユイの事を大切に思うのと、同じなのに」

 マキは背を低くし、二人の目を見る。クロが臨戦体制を取り、レオは静かに溜息を吐く。

「ユキから。そろそろ迎えに行くから、どうするのか考えておくように...やって」

「了解、先輩に伝えておきます」

 マキはそのままの姿勢で、前に切りかからずに後ろへ駆けて行った。あまりにも早い尻尾の巻きように、レオもクロも想定外だと目を丸くする。

 自分の実力はよくわかっていた。彼ら二人には恐らく勝てない。そうだと知っているのなら、もうここに長くとどまる必要もない。伝言を聞くだけで充分だった。

 逃げ足だけは速かったようで、二人の姿は見えなかった。


――それにしても、




――あの薄茶髪の人、怪我を負わせたはずなのに...、何にも傷がついていなかった。どういう事なんだ?

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