青の中の記憶世界

本田玲臨

序章 半覚睡-はんかくすい-

00

 水が落ちるような音で、少女はゆっくりと目を覚ました。そして、半身を起こす。

 少女は何も無い、やや青みがかった暗闇の中に横たわっていた、らしい。意識はぼんやりと曖昧で、ここがどこなのか、どうやってこんな場所に来たのか、思い出せない。いや、むしろ、そもそも自分とはどのような人間だったのかも分からない。霧がかっているように、思い出せない。

 少女の目に映るのは、暗闇。色白の手がついている地面は、どちらかと言えば床に近い感触が手に伝わる。床は少女の体温よりも冷たく、ひんやりとしていた。光源は何もないに等しいのだが、周りの様子や少女の身体は見えるので、まったく無い訳では無いのだろう。

 少女は自身を見てみた。白い肌、白いシャツに黒のワンピース。髪は黒く、1つに結わえられていた。身体つきはほっそりとしていて、力仕事など到底出来そうも無いような華奢さだ。

 頭と身体が、まるで病み上がりのように重い。気分はどんよりと暗雲が立ち込め、動こうという気力も湧いてこない。このままここで、目を閉じて横たわっていた方が良い。そんな気がして、少女は再び目を閉じようとした。

 その時、バタンと扉の開閉音が聞こえた。

 驚いて辺りを見回す。先程と変わった様子は一切見当たらない。が、目がこの暗闇に慣れたようで、頭上の様子が見えるようになっていた。

「...............水?」

 少女は目を丸くし、思わず息を飲んだ。遥か上空には確かに水面があり、それはどこまでも続いていた。時折波紋が広がり、落ちた葉が水面に浮いてダンスを踊る。

 ここは本当に水の底なのだろうか。

 しかし、少女の身体はどこも濡れておらず乾いたまま。息苦しさも感じない。

 少女は立ち上がった。先程の扉の音を確認する為に。

 足が、否身体中が重い鎖で繋がれているかのように、動きにくい。だがそれは最初だけで、徐々に慣れてきたのか、それを感じる事は無くなった。

 しばらく進んで行くと、ポツンとそこに扉があった。暗闇と同化して非常に分かりにくいが、ドアノブだけが茶色く色ついてたので気付く事が出来た。少女はそっとドアノブに手をかける。


──本当に、開けていいの?


 不意に脳裏でそんな言葉が聞こえてきた。少女は僅かに顔をしかめたが、ドアノブを回して扉を開ける。

 そこもまた先程から続く暗闇と何ら変化は無かった。ある一点を除いて。

 そこは2人用の、頑張れば3人で座れそうな白いベンチがあり、1人の人間が読書をしていた。長い間、そこで本を読んでいるのかは分からないが、数冊の本が隣に積まれている。

 少女はその人物を観察した。年齢は十代半ばか後半くらいで、身体つきから察するに恐らく女性だろう。端正な顔立ちにやや不似合いな鋭い黒目で本に視線を向けている。髪型は両サイドの髪が他よりも少しだけ長い黒髪の短髪。服装は白いワイシャツに黒の膝丈のコートと黒のズボン。恰好だけだと男にも見える。

 少女が扉の前から1歩踏み出した時、女性が顔を上げて少女を睨み見た。

「あ、あの...えっと......」

「やっと目が覚めたか」

 少女の言葉を遮るように女性がそう言う。女性の声色は少し低めのハスキーボイスだ。自身の声とはまるで違う。

 女性は本を閉じて、傍らに積まれている本の上へ乗せ、手招きをする。少女は躊躇いつつもそこへ行った。

「気分はどうだ?」

「だ、大丈夫です。あの....、ここはどこですか?貴方は...、一体?」

 少女の問いに、女性は僅かに眉を寄せ、溜息を吐いた。それは残念そうというより、面倒臭そうという表現がしっくりくる。

「私は影流かげるという。ここは君の願いを叶える為に作られた世界だ」

「はい?」

 女性のとんでも発言に、少女は目を丸くする。だが、影流の表情は一切崩れない。仏頂面のままだ。

「私の願いを叶える世界、ですか?」

「あぁ、私は世界の狭間に迷い込んだ運の良い魂の願いを叶える仕事をしている。そこに君はやって来た。普通なら、代償を頂いてさっさと叶えられるんだが、君の願いは少々厄介で...。こうして君の願いを叶える世界が生まれた」

「私の願いって、なんですか?」

 少女が訊ねると、女性は肩を竦めて見せた。

「それは教えられない。それも含めての試練だから」

「試練...?」

「そう。願いを叶える為には、それなりの努力或いは犠牲が必要なんだ。それが君にとっては心象世界を歩いて記憶を回収する事、という訳だ」

「っ!それってつまり...」

「正解だ。私が君の記憶を奪った。察しが良くて助かる」

 影流は僅かに口元を緩め、満足気に少女を見た。

「ここで君のすべき事は記憶の回収。どの世界にも2個ずつ置いてある記憶を手に入れたらいい。それで君の願いは叶うから。何か質問あるなら、3つまでなら受け付ける」

「......こことは違う場所に行くの?」

「あぁ。世界にはその世界の住人がいる。その世界毎のルールもあるし、困っている住人もいる。あ、困っている住人が居れば、助けてやってもいい。助けたらお礼に何かしてくれるかもな。別に君の記憶回収にタイムリミットは無いから、のんびり見てもらって構わない」

「分かりました。記憶の回収は具体的にはどうしたら?」

「記憶は小瓶に入って、何処かに隠し置いている。瓶の蓋を開ければ、記憶を取り戻せる。まぁ、割ってもいいが、そこは君次第だ」

 少女の質問に影流は淡々と答える。最後の質問に少女は少し頭を悩ませ、

「影流さんは、その......、本が好きなんですか?」

 少女の言葉に影流の目は丸くなった。積まれた本はどれも装丁されていない紐で縛られた、薄く日焼けした紙の束ばかりだ。装丁されている物もあるが、洋書が2冊程度で、後は紙の束だった。表紙には墨で題名が書かれている。黒髪から察するに日本人であるはずだが、少女にはその文字は読めなかった。

 影流は視線を本へ落とし、先程開いていた本をパラパラとめくった。そこにもまた墨で文字が書かれており、活字では無いので少女には読めなかった。

「あぁ、好きだよ。洋書も小説も、こういう古書も。思い出を、思い起こさせてくれるから」

 ふふ、と影流は微笑む。その笑みはどこか儚い。

「...さて、質問は終わったか」

 影流はスッと真面目な顔をして、パチンと指を鳴らした。すると、少女の背後に扉が現れた。ここに入った扉と同じ、闇の中に溶け込んでいる。

「そこから行ける」

 さぁどうぞ、と。実に軽い調子で影流は扉の先へ行く事を勧めた。

 まだ自らの事もよく分からないのに、更にまた知らない場所へ飛び込めと言われたのだ。だが、少女にはそれをする理由がある。

 はっきりと覚えてない記憶の中で、願いを叶えたいという思いが、少女の胸中で叫び声を上げていたからだ。その願いを取り戻せば、自らを取り戻せると思った。

 自分という存在を作り上げるのは、過去。即ち記憶なのだから。

 ゆっくりと少女は扉に近づく。

「気を付けて」

 そして、ドアノブを回して、1歩踏み出した。その瞬間、視界が白一色に染まってしまったのだった。

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