第42話:見舞い

 ふわっ…


 ラベンダーの香りが部屋に広がる。

 部屋でアロマディフューザーから香り立つ空気を胸いっぱいに吸い込む。

『もらって。俺の気持ち』

 と言われて、受け取ったアロマ一式。

 帰ってすぐにセットして使ってみることにした。

 使わないエッセンシャルオイルは冷蔵庫にしまっておいた。

 これ、多分すごく高かったんだろうな。

 あたしの一ヶ月分のバイト代くらい。

 ふんわり優しく明かりが灯り、ラベンダーの香りでうっとりした気分になる。

「大事に使おう…」


 それにしても、また雪絵ゆきえだったんだ。

 あの力が無くなっても、誕生日は変わらない。

 結局初詣の時みたいにトラブルがあったけど、こうして気持ちを受け取ったら、どうでもよくなっちゃった。

 単純かな、あたし。


 あれから雪絵とは普通に接している。

 心の中を覗き込まれていたのは気持ち悪いと思ったけど、今はもう普通の女の子になって、彼氏…氷空そらくんとも続いている。

 多分、これから雪絵が関わってくるのは、過去の変わらないことに限られる。

 誕生日がまさにそう。

 知りたくなくても、知ってしまう。雪絵自身が望んでいなくとも。

 辛かったのは雪絵だと思う。

 耳が聞こえるなら、周りの会話が聞きたくなくても聞こえてしまう。

 それと同じことが雪絵に起きていた。

 見ただけでわかってしまう。

 特別であることは、決して幸せとは限らない。

 多分、あの能力で一番辛かったのは雪絵だろうな。

 心無い人の、声に出さない言葉まで全部感じ取ってしまって、心を閉ざしてしまったんだと思う。

 ユラユラと一回転しながら揺蕩たゆたうディフューザーの水を眺めながら、そんなことを考えていた。

 ほのかな明かりがディフューザーの容器を照らし、単調にゆらゆらする水面が様々な表情を見せてくれる。

 落ち着かない日々が続いてるけど、こうしてぼんやりと何も考えずにいると、穏やかに過ごしていた日が恋しくなる。


 パチ


 ディフューザーの電源を切って、眠りにつく。

「こまめにディフューザーのお手入れもしておかなきゃ」


 数日が経つ。

 あれから、石動いするぎさんはまた鳴りを潜めている。

 突然現れて、台風みたいに散々引っ掻き回して静かになる。

 この繰り返しをしている気がした。

 何をしてきても不思議じゃない。

 荒っぽいことも普通にしてくる。

 しょうだけじゃなくて、まもるに氷空くんも事情を知って協力してくれることになったけど、いつも一緒にいられるわけじゃない。

 もちろんあたしも警戒はしてるけど、それで防げることなんてたかがしれてる。


 朝は護が無言だけど一緒にいてくれる。

 今朝も護は一言も喋らず、駅まで隣を歩いていた。

 あたしと翔が自分の気持ちに気づかなかったから、こうなっちゃったんだよね。

 護と話をしたい。

 筆談じゃなくて、声を聞きたい。

 けど詩依しよはまだ許してくれない。

 護と無言の登校、いつまで続くんだろう…。


 どんっ


「あっ!」

 考え事をしていたら、駅のホームで通行人にぶつかってしまった。

 反動で護の側へ倒れかかる。


 ぽすっ


 よろけたところを、護が正面から抱きしめるように支えてくれた。

「あっ、ありがとう…」

 思わず言ったけど、返事はない。

 そっか…。返事しちゃダメなんだよね。

 あたしと護は気づくはずもなかった。

 この抱きとめられた一瞬の姿を、少し離れた場所からカメラに収められていたことに。


 最近、あたしは体調が少し崩れ気味だった。

 今のところ何事もなく過ごせているけど、街中でも常に周りに気を張って警戒しているから、気の休まる時間は少ない。

 加えて護と会話できないこともストレスになってる。

 同じクラスになったし、こうして一緒に登校してるけど、会話禁止にされて…護はあたしに一言も喋ってはくれない。

 それほどまでに、詩依が大切ってことなんだけど、まだ許してくれないところを見ると、詩依は内心穏やかじゃないみたい。


「翔、ちょっといいか?」

 護は翔のクラスまで行って呼び出した。

 やれやれと言いたげな顔で護についていく翔。

 その顔にはあきらかな疲れが見えている。

「ほんと、面倒なやつに目をつけられたもんだな」

「まったくだ。最近静かなのが余計気にかかる」

 おそらく翔も気の休まる時間が少ないのだろう。げっそりした声で返す。

「お前同様、緋乃もそろそろ気力の限界かもしれない」

「見ていてわかる。だいぶ参ってるようだ」

 護は壁に寄りかかり、足を投げ出す。

「多分だが、石動はそれが狙いなんじゃないか?」

「いや、芽衣は前あったような荒っぽいことはしないはずだ。今動いてるのはおそらく剛三郎ごうざぶろうの側だろう」

「石動グループのボスか…」

 護の顔が僅かに動く。

「なんとか止められないのか?」

「この件は俺の親父まで同意していることだ。難しいだろうな」

「となると、こっちでできることは守りを固めることくらいか…厳しい状況だ」

「僕も微力ながら加勢させてもらうからね」

 にこやかな顔で姿を現したのは…。

氷空そら…お前…」

 その微笑みを裏付けるのは、揺るぎない実力であろう。

 黒服の大男を一撃で吹っ飛ばした実力は折り紙付きだ。

 あの後、翔は剛三郎に連絡をして、黒服たちを穏便おんびんに回収するよう伝えていた。

 剛三郎はとぼけていたが、特に反論しなかったところを見ると、暗に肯定していたと解釈してよいだろう。

「仮にも一度緋乃あけのちゃんに惚れた身だ。今大切なのはもちろん雪絵ちゃんだけど、黙って見過ごすわけにはいかないな」

 スタスタと二人のそばまで近づく。

「ああ、助かる。今は一人でも多くの協力者がほしいところだ」

「しかし驚いたよ。君が空手の師範代クラスの腕だったなんて」

「そういう護くんも、中学時代の噂は聞いてるよ。別名は黒帯の大旋風だっけ?」

 苦笑いする護

「やめろ。こっ恥ずかしい黒歴史な呼び名だからな」

「得意技は我流の山嵐」

「そういうお前は掌底だろ。手加減しなけりゃ病院送りになるほどの威力になるはずだ」

 そんな会話を聞いていた翔は、フッと一瞬だけ笑う。

「心強いな。二人とも。巻き込んでしまってすまないが、どうか俺と一緒に緋乃を守ってやってほしい。それぞれ彼女がいて大変だろうけど…」

「できる範囲でやるよ」

「同クラとして目を離さないでおく」

 翔は目尻を下げて顔を緩めた。

「頼む」


 放課後。

「緋乃、一緒に帰ろぉ」

「うん」

 翔と一緒だったけど、詩依と護も一緒なら心強い。

 ここのところ、気持ちがざわついててあまり休めていない。

「ちょっと待った」

 護が何かに気づいたらしい。みんなが進むのを制する。

「どうした?」

「あれを…」

 指差す先には、石動さんがいた。

 あたしたちは校舎の昇降口から出たばかりでグラウンドを挟んでるから、かろうじて見える程度。

「あっ…」

 校門を出てすぐのところにいた石動さんは、目の前に止まった車に乗り込む。

「あいつ…今は車で送り迎えされてるのか」

「前は普通に電車で登校していた。多分、剛三郎が何かを企んでるんだろう。近い内に何か動きがあるかもしれない」

 護の言葉につなげる翔。

 あたしの不安はますます大きくなっていく。


 最寄り駅で降りる。

「それじゃ、また明日」

 電車に乗ったままの翔と詩依を見送って、あたしは護と並んで歩く。

 隣にいても、無言のままでいるこの時間はかなりストレスが溜まる。

 あたしが何を喋っても、護は返事をしてくれない。

 一方通行の言葉。

 無言のまま、家に着く。

「それじゃ…」

 護はあいさつすら返事をしない。

 アイコンタクトで我慢するしかない。

 いつまで続くんだろう…こんな状態…。


 こうして、不安を拭えないままの日を過ごしていた。

 そんなある日。

「行ってきます」

 玄関を出れば、いつものとおり待っているのは…。

「あれ?」

 そこには、いつもにこやか氷空くんがいた。

「護は?」

「おはよう、緋乃ちゃん。今日は護くんが体調不良で休んでるから、代わりに来たよ」

 体調…不良…もしかして…。

 あたしは門扉を開いて、氷空くんの側まで行く。

「その…護の体調不良って…」

「緋乃ちゃんのせいじゃないって言ってた。ほら、遅刻しちゃうから行こう」

 氷空くんはそう言うなり、あたしの手を取って歩きだす。

 遠くからこの姿を捉えるレンズがあることに気づけなかった。

 それでも、何事もなく学校にたどり着く。


 離れた席にいるはずの護はいない。

 見るだけでホッとしたはずの顔がないだけで、こんなに不安な気持ちになるなんて…。

 最近のあたしの事情を知ってるのは翔、護、詩依、氷空くん、雪絵くらい。

 ここのところ姿を見ない翔の友人、俊哉としやは全く関わってない。

 翔は、俊也が知るとあらごとにされることを恐れて、あえて俊也には黙っているらしい。

 俊也も、最近はかなり穏やかになってると思うけど、付き合いの長い翔がそう言うんだから、きっとそうなんだろうな。


「あたし、図書室で勉強してるから、先に帰ってて」

 護はこくりと頷いて、背を向けた。

 詩依、どうしたら護との会話を許してくれるんだろう…?

 家に帰ると、いろいろなことを思い巡らせてしまう。

 学校にいるだけで、ある程度は考えずに済んでいる。

 集中できると言うか、気が散りにくくて取り組めると言うか。

 あたしは教科書とノートを広げて、できるだけ他のことを考えずにいた。


「すっかり遅くなっちゃった…」

 あたしは学校を後にして、駅へ向かう。

 歩行者側の赤信号で待つ。

 この道路はほとんど車の通りは無いけど、そこそこ広いのと見通しの悪い部分があって、ちょっとした事故が多く発生しているらしい。

 青になったのを確認して、横断歩道を渡るため、足を踏み出す。


 キュイイイッ…。


 電気モーターの音が耳に入ってくる。

「えっ!?」

 薄暗い空の下、ライトも灯けずに猛スピードで迫ってくる車を認識した瞬間、とても目の前でまれそうにない速度であたしに突っ込んでくる。

「ひっ…!」

 足がすくんで動けない。

 もうあたしの身長ほどの距離もないところまで車が近づいている。

 避けられないっ!!


「緋乃っ!!」


 どんっ!

 声とともに背中を強く押され、あたしは反対側の歩道まで足をもつれさせながら、ようやく止まる。

 振り向くと…翔が…


 宙を…舞っていた


 どさっ


 舞った翔は地面に落ち、車はブレーキランプすら灯らず、構わずそのまま走り去っていった。

 倒れたまま動かない翔を見て、あたしはぐわっと瞳孔が開いた。


「翔………い………いや~~~~~~っ!!!」




 タワーマンションの一角。

 そこで言い争いが起きていた。

「パパッ!翔が緋乃を守って入院したって聞いたわ。どういうつもりっ!!?」

「方法は任せる。お前はそう言ったはずだが」

 翔が入院したという報せを聞いて、芽衣めいが剛三郎に食って掛かる。

「バッカじゃないのっ!!?緋乃に万一のことがあったら、あたしは翔に殺されたって文句言えないわよっ!!」

「効率を重視したまでだ。ずいぶんと甘いなお前」

「何もそこまでやれなんて言ってないわっ!それに無理やり緋乃を奪えば、翔は絶対未練を残して、より執着するっ!!自殺だってしかねないわよっ!!」

「そこはお前の努力次第というわけだ」


 はぁ。


 期待はずれのあまり、がっくり肩を落としてため息をつく芽衣。

「なら…オーダー変更よ。あの二人には決して触れてはならない。誰の手を使ってもダメ。あくまで翔が自ら緋乃に別れを告げるように仕向けて」

 ハッハと笑う剛三郎。

「実に非効率で面倒極まりないが、まぁいいだろう」

 ジロッと芽衣を見る。

「ただし、お前にも動いてもらうぞ」

「もちろん、外野で指をくわえて見てるだけなんてしないわよ」


 某所病院内。

「命に別状はありません。頭を打って、少々出血しただけです。意識はまだ戻っていませんが、じきに目を覚ますでしょう。検査のため退院は早くても明後日の見込みです」

「…はい。ありがとうございました」

 あたしは担当医に深々と頭を下げる。


 ぱたん


 ドアが閉まり、あたしは寝ている翔を見る。

「あたしのせいで…翔が…」

 あれは完全に狙われてた。

 もし翔が助けてくれなかったら、今頃あたしは…。

 寝ている翔のベッド前で膝をついて、その手を取る。

「ごめんなさい…翔…あたしのせいで…」

 思わず涙がこぼれてきた。

「ごめんなさい…ごめんなさい…」

 翔は、そろそろ石動が動くと踏んで、緋乃の近くで様子を見ていたことなど、あたしが知るはずもなかった。


 どれくらいそうしていただろうか。

 看護師が部屋に入ってくる。

「あの、面会時間は終わりです。そろそろ消灯します」

「…はい」


 ずっとそばにいたい。

 あたしを守って、倒れてしまった翔のそばに…。

「あした、また来るね」

 返事するはずもない翔に向かって、そう言い残して病室を出る。

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