第26話 そこにいる



 あの夏の日のあと、志保は高熱を出し、お腹の大きな伯母のいる家にいないでくれとばかりに、すぐに連絡を受けた父の実家にいた両親が迎えに来てくれ、その夜遅くには家に連れて帰られてきた。


 父も母も、迎えにきた時に上がり框に荷物と共にいた熱のある私を、布団に休ませるでもなく待たせ帰らせたことを酷く怒っていたことを今でも覚えているくらいだ。


 志保はその高熱でうなされている間も、ぼんやりとマー君のことを考えていた。


 一緒に川で遊んだマー君、山に行ってセミや木の実を取って遊んだマー君、お菓子を分け合って食べたマー君、あのマー君はどのマー君までが生きていたマー君だったんだろう?


 いつのマー君までが、生きてたマー君だったのだろう?


 混乱する記憶の中で間違いなくハッキリしているのは、その年のマー君だけは、もうそこにいるはずのないマー君だったということだ。


 ただ、不思議なことにその年に黒枠の写真のマー君を自分の意識にしっかりと取り入れてからは、その後は二度とマー君の姿を自分の目で捉えることはなかった。



 そんなことがあってから、それまで全く気にしていなかった「何か」を意識して感じるようになっていた。


 それは姿形がハッキリしていることはなく、モヤっとした何か揺らめく空気だったり、黒っぽい煙のような蠢くものだったり形は様々さまざまで、それは他の人には見えていないんだということも、その時に周辺にいた人の状況から見て取れた。


 それは見えても志保にはどうにもしようのないことだったので、見て見ぬ振りとでもいうのか、気付かない振りしてやり過ごしていた。


 ただ、不思議と怖くはなかった。


 そういうものに気づくきっかけがマー君だったからということも影響していたかもしれない。


 そんな志保が、それらをちゃんと「人だった」とわかる形で見えるようになったのは、志保が15歳の時だった。


 その日は朝から冷たい雨が降っていた。


 1月も終わりの近づいたその日は、高校生になってから始まった自転車通学にも慣れてきて、雨の日のいつもの学校指定のクリーム色のレインコートを着て、頭にもそのレインコートのフードを被って走っていると、道路の先に見える駅に向かう途中の国道の信号が、赤から青に変わり、その青で渡りたかった志保はスピードを上げ走り抜けようと急いでいた。


 信号が変わるギリギリで、すぐ横を並走してきた車が止まったことが目の端に映りこみ気づいたが、志保はまだギリギリ間に合うと、なんとか国道を渡り抜けようとしたその瞬間から記憶がない。


 いや、正確には記憶にないと思ったのは、目が覚めたあとだった。


 夢を見ていた。


 朝、いつも通りに家を出る前に靴箱の上にある顔が全部映るほどの大きさの鏡に顔を映し、その日2度目の髪型をチェックする。


 今日も髪型はOKだなと、厳しい校則に照らし合わせ確認し、ああそうだ、雨だから急がなきゃと玄関を出た。


 その場面からいきなり交差点を走り抜けようとする瞬間に場面となり、右目のすぐ目の前に車が見え、あっ、危ない!


 そしてまた場面が変わり、志保は見たことのない白い部屋に寝ている自分の姿を上から見ていた。


 寝ている志保の横で母が志保の名を呼びながら、「起きて、起きて」と眠っている志保に声をかけていた。


 母の向こう、志保の足元には白い服を着た人がいて、『誰だろう?』そう思っていると、部屋のドアが開き、どういうわけか志保の担任の先生が入ってきた。


『あれ?先生まで登場しちゃった』


 上から見ている志保はそう思いながら、そうしている間も志保の名を呼ぶ母の声が耳に届いていた。


 その声に導かれるように、『ああ、もう朝か。起きなきゃ』と、そこで意識が覚めた。


 意識が覚めたとき、上で見ていた志保は消え、寝ている志保の中にいた。


 なんだか変な夢を見ちゃったな。何時だろう、もう明るいな、起きなきゃと瞑ったままの目でも明るさを感じ、目を開けた途端、身体中に傷みが襲ってきた。


 そして目を開けた志保の目に映ったのは見覚えのない白い天井で、テレビドラマで「ここはどこ?」というセリフと共に観る場面と全く同じだと、ぼんやりとそんなことを思いながらも、口から出た言葉は、「ここ、どこ?」だった。


 自転車ごと車に撥ねられた志保は、学校に戻るまで1ヶ月かかった。頭をしこたま打っていたので、1ヶ月で戻れたのは奇跡のように早いことだと主治医に言われた。


 子供の頃から身体が柔らかいうえに、中学までバレーをやっていたので転ぶことに慣れていたのか、咄嗟の受け身が上手かったのか、一瞬のことで、その辺りの記憶が全くないのでわからないが、どこも骨折することなく打ち身で済んだことが幸いしたのだ。


 そしてその間、不思議なことが何度となくあったのだ。


 入院して最初の一週間はほとんどベットで過ごした。頭を打っていたので、検査の結果が出るまで動かないようにと言われていたのだ。


 検査やトイレは車椅子での移動で、看護士さんがいつもそれを押してくれていた。


 その日は脳波の検査に行く途中だった。


 その病院は病棟と検査棟に分かれており、上から見るとアルファベットのHのようになっている建物だった。


 志保は病棟にある病室を出て検査棟のある棟へと向かうHの字の真ん中の棒に当たる部分の通路を車椅子で渡っていたそのとき、検査棟の入り口にお婆さんの姿が見えた。


 志保はそのお婆さんと目が合い、通り過ぎるときに「こんにちは」と声をかけた。


「えっ?」


 看護士さんの言葉に振り向くと、


「今、こんにちはって言った?」


「あ、はい。言いましたけど」


「誰に?」


「そこのお婆さんに……」


 志保が指さす方を見てキョロキョロしている看護士さんには、そのお婆さんが見えていないようだった。


 お婆さんはうつろな目でこちらを見ていた。


 志保たちが通り過ぎても、検査棟の廊下をしばらく進んで振り向いても、その場からお婆さんが離れることはなかった。


 そして検査を終え、来た道を戻るように行くと、そこにはさきほどの姿のままのお婆さんがいて、それに気づいて車椅子を押す看護士さんに目を向けると、看護士さんは志保を見ることもなく、キリっとした目で真っすぐ前を見、無言で、少し速足で車椅子を押して病室に向かったのだった。


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