第8話 通り抜ける

「だいや!だいやーー!!」


 すでに下駄箱を一段上がった廊下にいた優太が、大きな声を上げ、その声を聞きつけた大也の一番上の兄、雅也が1年生の下駄箱に飛び込んできた。


「大也!大也!先生、大也……」


 弟の名前を呼ぶ雅也の声は、大きく不安そうだった。そしていつの間にかその隣に大也の真ん中の兄の哲也もきていた。


「うん、保健室に連れて行くから大丈夫よ。お兄ちゃんたちもみんなも自分の教室に行って。大丈夫だからね」


 次々と登校してくる子たちで下駄箱がいっぱいになり、


「ほらほら、止まらなーい。みんな教室に行ってー」


1年の主任、波多野のよく響く大きな声で、子供たちがそれぞれ教室に向かって行った。


 ひと声で子供たちが動くとは、さすがだなと大也を抱え上げそちらに視線を向けていた。すると、


「せんせ……」


「大也さん、気が付いた?大丈夫?具合悪いかな?保健室に行こうね」


 手を出して「それ預かるわ」という波多野に大也のランドセルを渡し、保健室に向かい歩き始めたとき、大也の気が付いた。


「せんせい、おこってる」


「ん?先生は怒っていないよ。どうしてそう……」


「ちがう、せんせいじゃなくて、ふわふわさんがおこってる」


「ふわふわさん?おこっているの?」


 その言葉を聞いて、治まっていた鳥肌がまた全身を覆った。なんだか嫌な予感がした。


「ふわふわさんがおこって、ぼくのなかをとおりぬけた」


 ギョッとした。けれど、その気配を大也に感づかれないように、しれっとした顔で答えた。


「そっか、通り抜けたんだね。ふわふわさんはそれからどうしたの?」


「わかんない。どっかいった」


「ふわふわさんが通ってビックリしちゃったんだね。もう大丈夫だから、保健の先生にみてもらおうね」


 その言葉に頷いた大也をベットの上に寝かせると、養護の大野を待った。


「大也さん、今日みたいにふわふわさんが怒ったのははじめて?先生にはわからなかったんだけど」


「うん、いつもふわふわしてるだけ。こわくない」


「どうして怒ったんだろう?」


「わかんない。さっきみさきちゃんのなかからでてきたときには、もうおこってた」


 美咲ちゃんの中から出てきた?


 それを聞いて、またもや全身を何か冷たいものが通り抜け鳥肌が立ち、目頭が熱くなった。なんということだろう。どんなものがこの子にが見えているんだろう……いや、本当に大也には何かが見えているのだろうか……


 わからない。わからないけれど、さっき見た美咲の顔を思い出し、漠然としていた嫌な予感はその形を表しつつあるような気がしていた。


「ごめんごめん、遅くなっちゃって」


 そう言いながら、養護の大野が保健室に入ってきた。


 沙絵は大也が寝ているベットのカーテンを引き、大野が机に大きな荷物を置いているところへ行くと、


「おはよう友井先生、大也さんが倒れたって?」


「大野先生、おはようございます。もう気が付いてはいるんですけど、さっき一瞬気を失ったような状態になったんです」


「そう、ちょっと診てみるわね」


そう言ってカーテンを開け、


「大也さん、おはようございます」と声をかけると、


「おはようございます」と、大也も挨拶を返してきた。


「大也さん、ちょっとお熱を測ろうね」


そう言って差し出した体温計を大也の脇に挟むと、


「頭は痛くないですか?」「いたくない」


「気持ち悪くないですか?」の問いには首を傾げ頷いた。


「今朝は何を食べましたか?」


「う~んと、ごはんとおみそしると、ウインナーとタマゴ……ぎゅうにゅうものんだよ」


大也は横になりながらも視線を上に向け、指を折りたたむようにして食べたものを口にした。


「そっか、いっぱい食べて偉いね」


そう言われてニッコリとし嬉しそうに頷く大也は、どこか具合が悪いようには見えない。


「友井先生、とりあえず1時間はこのまま寝かせてみるけど、熱もないし、視線もしっかりしているし、どこも悪そうには見えないんだよね。一応、状況を教頭に伝えて校医と連絡を取ってみるわ。気を失ったってところが気になるし。あっ、頭を打ってはいないんだよね?」


「はい、私に向かって倒れ込んできたので、すぐに抱えたのでどこかに身体を打ち付けることはなかったです」


「了解。じゃあ1時間目が終わったら覗いてみて」


「わかりました。よろしくお願いします」


そう大野に挨拶を済ませ、大也に声をかけた。


「大也さん、1時間目はお休みして、ここで保健の先生のいうことちゃんと聞いてね。わかりましたか?」


 不安そうに頷く大也に、笑顔を返すと、沙絵は職員室に向かった。大也の家に電話を入れるためだ。


 電話を受けた大也の母親は、気を失ったという言葉を聞いた途端、パ二くってしまった。そうならないように言葉を選んだつもりだったが、どう選んだとしても、気を失ったという事実を端折はしょるわけにはいかないのだ。


 ほんの一瞬のことだと説明する私の言葉など耳に入っていないかのように、電話口の向こうで、


「えっ、えっ…なんで?…なんで?えっ……」


と、繰り返している大也の母親に、


「田ノ上さん、落ち着いてください。もう気が付いていて元気はありますから。養護の先生が校医に連絡を取ってくださるので、もしかしたら病院に連れて行っていただくかもしれませんが、その場合はよろしくお願いします。校医と連絡が取れたら、またご連絡させていただきます。その時は私ではなく、教頭か養護のほうから電話が行くかもしれませんから」


 相変わらず、あ…とか、え…とか、言葉にならない返事ばかりだったが、最後まで言うと、「はい」という返事が返ってきたので、一旦電話を切った。


 沙絵は今までの経過を教頭に話すと、いつもの朝とは少し遅れて教室に向かった。


 教室に入ると、級外の吉野が朝の会を開いてくれていた。吉野に礼を言い教壇に立つと、待ってましたとばかりに、優太が立ち上がった。


「せんせい、だいやは?」


「はい、優太さん座ってください。今朝、見てた人もいると思うけど、大也さんが気分が悪くなりました。保健室に行って、今は寝ています。でも、もう元気になっているので、大丈夫ですよ。朝の会を続けます」


 優太はまだ何か言いたげだったが、沙絵は朝の会を進めた。


 沙絵はその最中も、全体を見渡すようにしながらも美咲を目に捉えていた。美咲の様子はいつもと変わらず、朝に見た私を睨みつけるような顔は見られない。


 いったいあれは何だったのか……




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