~終~


 長く御預けを食っていた渇きの嵩を御互いに見誤っていた。ニース迄の短い道中に満たされる筈はなく、かと言って其の儘ドーバーを渡る迄興じている訳にも行かない。結局観光の予定全てを明日以降に繰り下げて早々にチェックインを済ませると夜半までの延長戦に勤しんだ。


 夢にも見んかと思われた海岸の美景にすら目も呉れず過ごした初夜。けれどハネムーンと銘打つなら、自分達にとって此れが似合いの滑り出しと言えなくもないだろう。


 夕暮れを楽しめる様に西向きに作られた部屋は朝の陽光が強烈に射し込む事がない。だからと言う訳ではないけれど、あの人は何を意に介す事もない様に寝息を立てている。緊張の強いられていた月日も過去の事、血圧の数値はすっかり元に戻ってしまったらしい。


 もう暫し寝顔を堪能してやろうと身を乗り出した刹那首許の違和感に気付く。垂れ下がる其れの正体を確かめんと身を捩るが上手く行かない。ええい忌々しい。不自由な身体め、この人が殊更に愛してさえいなければ早晩何処ぞに投げている物を。


 傍らで蠢く自分に気付かないのを幸い伴侶の腹によじ登り胸の上に件の異物を垂らしてみる。


 漸く捉えた視界の先で、あの人の首からも同様に下げられた指輪が自分の其れと重なった。


―――――


 血圧の低さと明晰夢に関連が有るのかは知れたものでないが、私の場合に其れは少なからぬ因果を持つ様に思う。朧気乍らに捉えた、恐らく訪れたのだろう朝をこそ脳裏の更に端に置き、寧ろ夢と知れた在りし日を意識の中心に定め見据えようとしていた。


 「…其れは?」

 寝台に腰掛ける彼女は耳を掠めたらしい金属音の正体を問うてくる。


 「あぁ、遅ればせながら、だけど」

 手を取って胸元に寄せる。指輪の形を確かめる細い指が時折私の肌を掠める度、言い知れぬ切なさが触れた肌から背中まで突き抜けていく。


 「石はアメジストを入れたよ」

 言葉を紡がなければ胸に空いた穴から自身が崩れ去ってしまいそうな焦燥に駆られ慌てて口を開く。


 「『愛の守護石、気障りはお似合いでないと申しましたのに』」


 言葉面と異なり喜色を孕んだ声は、世に二つとない秀美な二重奏だった。


―――――


 声を掛ければ流石に起きるだろうかと試みたが、あの人は嘆息の様に鼻息を漏らすと其れ以降変わらぬ寝息を立て続けた。まぁ良いだろう、起きたら存分にからかって差し上げるとしよう。


 生意気な口の封じ方も、最近になって漸く心得て下さったようだから。


―――――


 「勿論お前の分も…」

 続く言葉が出ない、出せない。確かに懐に忍ばせた今一つが見当たらない。振り切った筈の焦燥が再び背後に迫ってくる。


 「…きっと、其れはね」

 穏やかな笑みを絶やさずに、彼女は寝台の傍らに据えられた揺り籠に手を伸ばす。まるで老婆の様に弱々しく震える様を見かね咄嗟に自身の手を添える。あぁ、君はそんなにも全霊を込めて、彼に命をくれたんだね。


 「その祝福は…きっとこの子にこそ相応しい」

 揺り籠の縁に辿り着いた手を一呼吸の間だけ其処に置き、名残惜しそうに手放した彼女が此方に向き直す。


 開かれた双眸、濁り切ってしまった筈の瞳は、今や見慣れてしまったオニキスの輝きに溢れている。


―――――


 寝相の悪さは自分も負けていないが、眼前で所在なさげに漂うあの人の腕は傍目にどうにも不気味だった。掴めない空を無理矢理手繰るような所作、胸の上に乗った自分が身の置き場に困る程縦横に無尽だ。


 顔つきも徐々に芳しくない其れに変わっている。そう言えば胸の上に物を置くと夢見が良くないらしいと何かで読んだ。低血圧が原因なら仕様も無いが、責任の一端が此方に有るとすれば話は違う。


 揺れる体の上を更によじ登り頬に口付け其の儘耳元に唇を寄せる。


 『「…もう起きましょう?」』

 寝起きの機嫌に因っては軽口を手加減して差し上げる事も考えよう。


 何と言っても、何よりこの人の心を守る事が僕の使命なのだから。


―――――


 起き抜け、訳も分からずに落涙してしまう事は誰にもある事だろう。程度を弁えず、事情の知れぬ伴侶を狼狽えさせる程にそう成るかと言えば話は別だろうが。


 「大丈夫…大丈夫だよ…」

 あぁ、何とも分からぬだろうに唯々穏やかに語り掛けてくれる君の慈愛が一層俺を涙の海に溺れさせる。


―――――


 人心地付き、呼吸を整えたあの人は其れでも抱きしめる手は離さない。自分も耳元に埋めた顔を上げる気には成らない。断じてもらい泣きした事を悟られない様にしている訳ではない。


 「…気に入ったか?」

 何をとは言わない、まぁ言うのも野暮ですが。


 「えぇ…嬉しい」

 当初の意に反して、現在の意に服従して思うままの感想が口を突いて出た。


 「着けてる所、良く見せてくれないか」

 あぁ、もう、そんな言い方をされては恥も外聞も埒外に飛び去ってしまう。胸の上に二の腕を突き上体を起こす。二つの指輪は微かな音を立てて再び重なった。


 もう良いだけは流しつくした筈の煌きがあの人の瞳に宿る。


 「あぁ、確かに―――――

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