秋の扇には早過ぎて

「あーあ……全然電話に出てくれないよ」


 どうしちゃったのかなぁ……湯飲みの縁を指でなぞる少女――一重トセ――は、向かい合って座る友人に謝罪した。


「ごめんね、京香ちゃん。もう閉店なのに……」


「いえいえ、一重さんが来てくれなかったら、もう暇で暇で大変でした」


 お代わり淹れますね、と立ち上がった友人――羽関京香――は、ガスコンロに小さな薬缶を置いて火に掛けた。鼻歌を歌う京香を見やってから……トセはテーブルに散らばった《黒札》の一枚を手に取り、気怠い目付きで眺めた。


「《どんつく》も二人でやるより、やっぱり多人数だよねぇ」


 そうですねー……京香の声が遠くから聞こえる。トセはスマートフォンに表示された「近江龍一郎」という文字を見つめ、深い溜息を吐いた。




 数時間前、夏期休業期間の課題をすっかり終わらせたトセは、恐らく暇であろう龍一郎を連れて《靖江天狗堂》へ遊びに行こうと決めた。


 気軽に誘っても良い仲だろう。「全くもう」と言いつつ来てくれる間柄であろう……。


 トセはそう自負していた。


 現在、龍一郎とはが続いている。


 どちらから告白するか――ちょっとした恋愛ゲームのような感覚が彼女の中にあった。「絶対に私達は好き合っている」という自信からくるそれは、一種の「縛り」を楽しむのに似ている。


 彼と付き合いたい。付き合いたいなら「好きだ」と言ってしまえば良い。でも――もう少しだけ、この甘酸っぱさを味わいたい。


 トセは分かっていた。分かり切っていたからこそ、両者の間で震える細い糸を指で弾き、弄ぶ行為を彼女は心底楽しんでいた。




 五手目に出来た《三光》を前に、ふと取り札を見やる。種札が三枚、短冊札が二枚。欲張ろうか、それとも降りようか……。




 技法こいこいにおける楽しさとは何か?


 駆け引き、起きる札のサプライズ、相手の出来役破壊……それらは種々あれども、以前トセはこの質問に対して「《こいこい》を宣言するかどうかを悩む事」と答えている。


 長年を賀留多と共に暮らして来た少女は、一六歳の青春を迎え……恋愛すらも「闘技」のように捉えていた。


 続行宣言こいこいは魔性の類いである。


 何度も宣言は可能かつ、成功する度に獲得文数は増加し、打ち手は止め処無い高揚感に襲われる。


 この高揚感が――本技法に悪魔の牙と黒翼を授けた張本人であろう。


 込み上げる面白さ、増えていく文数の金臭さに惚けている打ち手は、須く……手痛いしっぺ返しを喰らってしまう。


 仮に――相手が先んじて出来役を作った場合、打ち手は二つの罰を受ける羽目となる。


 一つは「相手の出来役代が倍になる事」。


 もう一つは――作り上げた出来役が「無くなる事」である。


 ある意味で、トセはという出来役を賭けて、「姿の見えぬ敵」と《こいこい》を打つ形となっていた。


 出来役の完成をより良く、より刺激的なものとすべく……彼女は「こいこい」を繰り返している。


 彼女は――恋愛事を




「そういえば、今度近江さんと旅行に行くんでしたっけ?」


 急須で横倒しの円を描く京香は、スマートフォンを睨め付けるトセへ言った。


「この前……花畑の近い岬に行く、と言っていませんでしたか?」


 あぁ、そこね……トセは《黒札》を切り混ぜた。何かを打つ訳では無い。唯、徒に札を混ぜる事を目的としていた。


「そこは……《姫天狗友の会》で行くんじゃないかな。まだ話し合っていないけどさ」


 何かあったのですか――そう問いたげな京香は、しかし口を噤み、静かに緑茶を啜った。


 半世紀近く前の壁掛け時計の秒針が、沢山の賀留多を包む小箱に反響し……トセの身体を突き回るようだった。


「京香ちゃん……」


 弱々しい声のトセは、上目遣いに京香を見つめた。


「リュウ君……私の事、本当に好きかな」


 コホコホと咳き込む京香は、目を見開いて「いきなりどうしたのですか」と弱気な友人を力付けた。


「一重さんらしくありませんね。私から見ても……むしろ『まだ付き合っていないんだ』って思うくらい、とても仲良しかなと」


 それなんだよね……生気の無い声が京香の言葉に呼応した。


「何だかさぁ……仲良しってだけで終わるんじゃないかって……最近思うんだよねぇ。私としては、いつでも一緒にいたい! って感じなんだけど、あっちはそうじゃないっていうか……」


「価値観の違い、というものですかね?」


 両手をエレベーターのように上下へずらした京香。トセは「そうそう」と頷いた。


「いや、付き合っていないんだけどさ……でもよく言うじゃない? 『価値観の違いで別れました』ーって」


「付き合う前から悩む事じゃないですよ」


 大丈夫ですよ――京香は微笑んだ。


「違うのは当たり前ですし、それをどう擦り合わせていくかが腕の見せどころ、ってものです」


「……京香ちゃん、恋愛に慣れているね」


「伊達にインドア派やっていませんから。『歩く少女漫画事典』って言われましたし」


 何だよそれぇ――トセは吹き出し、それから京香と笑い合った。


 黄色い声が響く店内に……突如、着信音が鳴り渡った。


「……りゅ、リュウ君だぁ!」


「良かったじゃないですか! さぁ出て出て!」


 ごめんね――トセは京香に断ってから、意気揚々とスマートフォンを耳に当てた。


「もしもし、リュウ君? ううん、こっちこそごめんね。いやいや、大した事じゃないんだけど……」


 ゆっくりと立ち上がった京香は、壁に立て掛けた箒を携え、店外へ出て掃除を始めた。


「うん、うん。あぁ、出掛けていたの? だったら……ううん、さっき課題を終わらせたからさ、靖江天狗堂で京香ちゃんと《どんつく》でもって思っただけ。そうそう、今は……玄関を掃除しているよ、でも一緒。うん。うん」


 トセはヒューヒューと鳴る風の音を、龍一郎の声に重ねて聞いた。


「まだ夏休みだし、うん、もし良かったら、京香ちゃんもおいでって言っているよ。課題、まだ終わっていないんでしょ? 私が教えてあげても……なんて、アハハ。もしもし? 風の音がうるさくて……」


 ガラス戸の向こうに立つ京香は、心配そうにトセをチラリチラリと見やった。掃除の進捗も芳しく無い。


「……あぁ、そこにいたんだ! ううん、そうだよね、無理しなくて良いよ。また今度もあるもんね。ねぇねぇ、夜景綺麗? 寒くない? そうだ、写真送ってよ、それで許してあげるから。嘘だよ、冗談冗談! でも写真は送ってね、お願いだよー。うん、うん、気を付けて帰りなよ? じゃあまたね。写真待ってまーす!」


 トセは耳からスマートフォンを離し……テーブルの上へソッと置いた。見計らったように京香も戻って来た。


「どうでした? 来るって言っていました?」


「ううん、今日は行けないってさ」


「あら……まぁ仕方無いですね。女だけで楽しみましょうか」


 そうだねぇ――トセが微笑んだと同時に、置かれたスマートフォンから短音が響いた。


 龍一郎が撮影した、「鶴見展望台」からの夜景……その写真が送付されて来た。


 奇しくも彼が撮影した位置は、海沿いの光がに見える位置であり……。


 年頃の少女、トセと京香を大いに感動させた。

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