花札学徒鉄火録~遥恋篇~(旧版)

文子夕夏

遙恋篇

序章

廊下にて

 左山梨子さやまりこが書類を抱え、職員室のドアを叩いたのは一六時半を過ぎた頃だった。


「遅くなりました、二年六組のアンケート用紙です」


 椅子の背もたれを軋ませながら、学年主任の教員が笑顔で振り返った。


「おぉ、もう整理してくれたのか。全員の名前があるかどうか確かめるから、ちょっと待っていてくれ」


 教員は額に掛けていた眼鏡を定位置にまで下げ、ペラペラと書類を捲り始めた。




 全国津々浦々の高等学校で行われる、汗と涙とほろ苦い思い出を混ぜ合わせた一大イベント「学校祭」。


 当然、梨子の通うにも存在する。


 夏期休業期間を終え、九月の半ばに行う学校祭――仙花祭せんかさいにて、目玉の一つである生徒主体の「出店」は、各クラスが開きたい業態の意見を集約、その中から「公序良俗を乱さず、心身両方に危険が及ばぬ業態」を生徒会監査部が抽出し、再びクラスに差し戻して最終決定をさせる。


 梨子の属する二年六組は四〇名、その内の三〇名が手作りの小物カルタを販売したいとアンケートに記していた。


「うん、うん……良し、全員分あるな。ありがとう、助かったよ左山。六組以外は無記名、出席番号順の無視……その雨霰だったからな」


 左山がいれば、六組は問題無いな――教員は笑い掛け、辺りを見渡してから俯く梨子に「なぁ」と問うた。


「……本当に、は左山が関わっているのか?」


 教員は気まずそうな表情で続けた。


「俺の立場でこんな事を言ってはいけないんだが、どうも左山は校則違反を犯すような生徒に思えないんだ。……もし、誰かに虐められているとか、そういうのがあったらすぐに言えよ。もうじき夏期休業だ、抱えている問題は今の内に――」


 ありがとうございます、と梨子は囁くように言った。


「……でも、私は虐められていたからとか、強制されたとか……そういうのではありません。どのような理由があったとしても、最終的には自分の意思で――大見良さんの《無尽講》に参加していましたので……」


 失礼します――怪訝な顔をする教員に一礼し、梨子は足早に職員室を退出した。


 鞄は自分の教室に置いたままであった。梨子は廊下の窓から射してくる夕日、これが作り出す影の中をゆっくりと歩いた。遠くからは運動部の掛け声が、また別の方からはじゃれ合うような声が……無意味に反響するようだった。




 あの日も、こんな感じだったな。




 梨子はふと、立ち止まって後ろを向く。誰もいなかった。


 脳裏では――途方に暮れて泣いていた自分を、後ろから追い掛けて来る年下の少年の姿が、繰り返し繰り返し……思い出されていた。


 少年は彼女の置かれた境遇に憤激し、「自分に任せてくれ」と言い切った。


 友人だと思っていた人間に欺され、搾取され、元々築いていた友情の輪から外された自分を……少年だけは不憫だと言ってくれた。


 そして――少年は花ヶ岡に伝わる紛争解決手段である《札問い》に、左山の代わりに挑み、勝利した。


 風の噂では、少年は近頃「途轍も無い大勝負に勝った」らしい。


 それを耳にした時、梨子は「彼なら有り得る」と一人微笑んだ。


 だが……少年の思いを裏切った事を、彼女は今でも悔やんでいる。


 馬鹿だったな、私――梨子は内心で呟き、格子状の影の中を過ぎて行く。「いつかお礼をする」と手紙を書き、彼の下駄箱に投函してはいたが……。


 未だに梨子は、一つとして「お礼」を出来ていない。


 誰もいない教室に着き、机のフックから鞄を引き上げた時……梨子は勢い良く顔を上げた。廊下の向こうから……「少年」の声がしたのだった。


 コッソリと引き戸から顔を覗かせ、長い廊下の奥から奥まで見やる。果たして少年の姿はあった。何を喋っているかは分からないが、誰かと一緒にいるのは確からしい。


 元気そう、良かった――梨子は口元を緩ませ……。


 俄に目を見開いた。




 少年の後ろを楽しげに歩く、の姿を認めた。




 途端に喉元が苦しくなり、梨子は首を引っ込めた。引き戸に背中を預け、鞄の持ち手を強く握った。やがて少年の声はしなくなった。


 梨子は目を閉じた。瞬時に「女子生徒」の姿が蘇り、彼女を挑発するように幾度も左右へ過った。




 当たり前、当たり前でしょ。がいたっておかしくない、むしろいない方がおかしいもの。




 彼女の心奥、その更に奥……世間体も理性も感知しない「本性」が、低く、しかし響くような声で言った。




 私が隣を歩けたら――。




 溜息を吐き、梨子は夕日に染まる校舎を出た。


 夏期休業期間はもうすぐである。それは高校生達に等しく与えられる「青春」の時間であった。

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