呪われ豚令嬢の込み入った婚約事情

丘月文

呪われ豚令嬢の込み入った婚約事情

プロローグ



 眩しい朝日が差し込むヴィサンテオ公爵邸。それは素晴らしい一日が始まる―――そんな予感を抱かせる朝のひと時。

 を、ブチ破る怒声が。

「やってくれたわねぇっ! この色キチガイのクソ子息めがッ!」

「うるせぇぇぇ! 朝帰りくらいでぎゃあぎゃあ喚くな、このメス豚ァ!」

「あああああ、ブン殴る! 許可されてるもの! その顔、二目と見れない顔にしてやるわーーー!」

「やれるもんならやってみやがれ!」

「言ったわね!」

「って、ちょっ! 物を投げんのは反則だろッ?」

「うるっさーーーい!」

 ドガシャァァァンッ!

 と、何かが派手に破壊される音にも、しかし公爵邸の住人達は驚かなかった。

「うん。今日も朝から元気だね」

「まったくだ。毎日毎日、飽きもせず、よくやる」

「それはもしや、褒めてる?」

「ああ。ついに飛び道具を使うようになったんだぞ。あの娘は仕込みがいがある」

「あー、さっきの兄上の入れ知恵かぁ。どーりで」

 ドタバタと、今だに続いている騒音をとくに気にするでもなく、優雅に朝食を食べ続けるヴィサンテオ公爵家の面々だが、その表情は様々だった。

「いや、ほんと、彼女は見込みあるよね。あのメゲないところが素晴らしい」

 にこにこと愉快そうに喋っているのは、ヴィサンテオ公爵家の次男、アルベルト。おそらく公爵邸で一番にあの騒ぎを楽しんでいる人物だ。

「同意だな。あんな娘、そうそうはいない。ザックにはまったく丁度良い婚約者だ」

 顔の表情はまったく変えずに頷いているのは、まさかの長男。次期公爵であるハイルフォードだ。彼もまた、騒ぎを肯定的に受けとめている一人だった。

「お兄様達の人でなし。私はミュリエル様に同情いたしますわ。

 よりにもよって! あの! ザック兄様なのですよ? 普通のご令嬢でしたら耐えられません! お可愛そうですっ!」

 兄達の態度を非難するのは末の妹、リザベル。彼女は公爵家、唯一の女の子とあって、兄と婚約させられたご令嬢にひどく同情的だ。

「ミュリエル様は、普通のご令嬢の範疇には入らないかと思われますが」

 朝食の給仕をしながら、思わずというように執事のハヤトが呟く。それをリザベルはじろりと睨んだ。

「ミュリエル様のあの綺麗なお心が分からないの? 貴方、馬鹿なの?」

 途端に、「はぅっ!」とハヤトが悶絶した。

「お優しいお嬢様! ええ、そうですね。ミュリエル様の心痛を労わって差し上げなくてはなりませんよね!」

「そうよ! ミュリエル様は、あ・ん・な! ザック兄様の相手をされているのですもの!」

 しかし、リザベルのそれを遮るように、諌めるように、声が響いた。

「アイザックとミュリエル嬢の婚約は陛下がお決めになったこと。そこに当人達の意志は必要ない」

 重々しくそう言ったのは、上座に座っているアーゼル・ヴィサンテオ公爵だった。

 二人の婚約はもはや決定事項だ、と、彼の瞳は異論を認めない。

 そこに――――バァンッ! と、勢いよく扉が開かれる。

「とにかく飯だ! 食ってからお前との決着をつけてやる!」

「望むところよ! このロクデナシ!」

 見事な金髪に透き通ったアイスブルーの瞳。まさしく王子様のような姿を体現している美青年と。

 栗色の髪に、どこにでもいそうなハシバミ色の瞳。そして身体はぽっちゃりを通りこし、おデブと言わざるをえない巨漢をゆさゆさ揺らす女の子。

 今、もっとも社交界で賑やかに噂されている、その二人は。

 色気違いと名高い公爵子息のアイザックと、その婚約者、呪われた豚令嬢と呼ばれるミュリエル嬢だった。












第一章 呪われ豚令嬢と色気違いな公爵子息の婚約



 ジルベリア侯爵家のご令嬢であるミュリエルは、結婚をひかえた花も盛りの十七歳。

 よくある髪と瞳の色だったが、その若さと華奢な身体はむしろその色を親しみやすく感じさせていた。

 婚約者であるグラファス伯爵家のロバートとの仲も良好で何の心配もない。令嬢としての平凡な日々が約束されているかに見えた。

 いや、実際はそうだったのだ。ミュリエルの婚約が白紙となり、彼女が世捨て人になろうとするほど追い詰められるとは、誰も予想できなかった。

 ミュリエルは普通のご令嬢だった。

 そう――――――あの、呪いがかかるまでは。



 あの日の朝のことを、ミュリエルは一生忘れられないだろう。

 まず、眠りから覚めた時の身体の重さときたら。酷い倦怠感で、風邪をひいたのかと思ったくらいだった。

 だが鏡を見て、風邪どころではないとすぐに知れることになる。

「嘘でしょ?」

 ミュリエルは思わず自分の頬をつねってしまった。そしてその指に感じる弾力に絶望した。

 鏡のなかにいる女の子は、ミュリエルが知っている自分と類似する点はあるものの―髪の色だとか、瞳の色だとか、顔のところどころのパーツだとか―とても昨日までの自分とは思えなかった。主に、その面積の違いで。

「浮腫んでこうなった…………わけ、ないわよね?」

 二重顎どころか首がどこかも分からない程に急激に増えてしまった皮膚の下の脂肪。身体を揺すってみれば、全身がそうであることが分かってしまった。

 いったい一晩でどうしたらこんなことになるのか!

 そもそも、ここまでの脂肪は一朝一夕でつくものなのかっ?

 脳裏にそんな考えが駆け巡り、ミュリエルの導き出したファイナルアンサー。

「こんなの、あり得ないっ!」

 悲鳴を上げるだとか、泣くだとか、そうした行動には繋がらないご令嬢。それがミュリエルだった。

 さらにいえば、その導き出した答えは正解。彼女が一晩にしてオデブと化した原因は、通常では絶対にあり得ないものだったのだ。

「あり得ないとすると」

 ミュリエルはじぃっと鏡のなかの自分を凝視して考えた。

(これって、たぶん呪いってヤツよね? たぶん、だけど)

 このテの『あり得ない事象』について、ミュリエルも噂には聞いていた。隣国の姫が呪われて眠りっぱなしになってしまった事件は耳に新しい。

 だが何故、姫でもない、侯爵なんて微妙な身分のミュリエルが呪われねばならないのか。

 解せん! とは思ったが、ミュリエルは溜息を一つ吐いて思い直した。

(まぁ、ヒキガエルにされるよりはマシかも)

 こちらは古くから伝わっているお伽話だが、あれも酷いお話しだ。こうして体験してみて、さらに実感を深めたミュリエルだった。

 実はミュリエル、まだこの時はタカをくくっていたのだ。

 この現象は一時的なものだと。よしんば肥ってしまったのだとして、痩せればいいだけの話なのだ、と。話はそう簡単ではなかったのに。

 けれどミュリエルは楽観的にも、「何とかなるでしょ」と考えていた。

だからこそ、ミュリエルは家族に「見て分かると思うけど、呪われちゃったみたいなの」とあっけらかんと言ってしまえたのだが。

 肥ったミュリエルを見て、父のフリッツは「なんて姿に!」と号泣するし。母のソフィアはぶっ倒れるし。兄のグレナードは「敵討ちに行く」と言い出すし。

「お父様、しっかりして。まだ人間の姿を保ってる分マシでしょ!

 お母様はゆっくり休んで! 

 あと、お兄様! 私、死んでない!」

 てんやわんやになったジルベリア侯爵家だったが、呪われたミュリエル本人が落ち着いていたこともあり、冷静になるのは早かった。

 そしてジルベリア侯爵がまずした事といえば。この国の国王陛下に助けを求めることだった。

 というのも、この国、ドーハライドの王家は呪いを解くことに関してはピカイチの技術を持つ一族だったのだ。何故なら、大昔、王家が呪われたことがあったから。

 呪いを自らで解いた王家には『血聖』と呼ばれる血が受け継がれている。ちなみに、その呪いを解く技術は隣国の姫君達の呪いを解くことに役立ったとか、なんとか。

 そんなわけなので、ジルベリア侯爵はすぐさま娘の呪いを解くために行動したのだった。

 これがまた、裏目に出てしまうわけだが。

 結論からすれば、呪いは解けなかった。王子様のキスというお約束でさえ効き目ゼロ。ミュリエルのファーストキスはとてつもなく義務的に終わってしまった。

(皇太子様に初めてを頂いたと思えば光栄よね…………)

 そうミュリエルは自分を慰めたけれど。

 いっこうに解ける気配のない呪いに、さすがのミュリエルも、これは深刻な事態なのだと分かってきた。

 何しろ、ミュリエルの姿は変わらない。ずっと肥ったままなのだ。

 初めこそあっけらかんとしていたミュリエルだったが、その姿が一か月、二か月と続くと、だんだんに自分の姿を鏡で見るのが嫌になってきた。

 出かけることが大好きだったミュリエルだが、外に出れば好奇の視線に晒される。それも辛いことの一つだった。

 そして三か月を過ぎる頃には、ミュリエルにもとの明るさはなく、すっかり屋敷に引き籠る生活となってしまっていた。

 そんなミュリエルにトドメともいえる出来事が起こる。

 奇しくもその引き金になったのが、ミュリエルの呪いを解く方法が分かったことだというのが、また皮肉だった。

 ドーハライドの王家はミュリエルの呪いを解くことに躍起になっていた。何しろ、どんな呪いでも解けるというのがウリの国なのだ。国の沽券がかかっている。

 ミュリエルのかけられた呪いがどんな呪いなのか、ミュリエルは城にほぼ監禁状態で検査を受け、そこで判明した呪いの解き方が、

『彼女を心から―もちろん恋愛的な意味で―愛する男性からのキス』

 だったのだ。

 ある意味、お約束。王道中の王道だ。けれども実際のハードルはかなり高い。

 少なくとも、婚約をしていたグラファス伯爵家にとっては、たいへんに困った呪いの解き方だったようだ。

 想像してみよう。家の取り決めで結婚する予定の男女。はたしてそこに愛はあるのか? と、突き付けられたとしたら。

 それは逃げたくもなるだろう。

 婚約者のロバートが恐れたのは、おそらくキスをして呪いが解けなかった時だ。彼がミュリエルを愛していないことが、はっきりくっきり明白になってしまう。

(でも政略結婚なのよ…………いきなり心から愛するとか、難し過ぎでしょう)

 だから、婚約を解消したいと言ってきた伯爵家側の事情を、ミュリエルは痛いほどに分かってしまった。

「呪われたご令嬢と結婚するわけにはいかない」という伯爵家の言葉にも、もっともだ、とすら思ったほどだ。

(ロバート様は悪くない。だって、こんな姿なんだもの)

 この時ばかりは、鏡の前でミュリエルは泣いた。

 ミュリエルはロバートと結婚するのだと、この人と家庭を作り母のように立派な夫人となるのだと、当然のように考えていた。だがその未来が現実になることはないのだと、ミュリエルは思い知ったのだ。

 こうしてミュリエルのささやかな夢は粉々に打ち砕かれた。

 伯爵家とのごたごたが続く最中も、ミュリエルの身体はずっと肥ったままだった。痩せようとしても、これがまったく痩せる気配もない。

 書簡のみで婚約を解消し、けっきょくミュリエルは婚約者のロバートに会ってお別れを言うことすらできなかった。

(会いたい気持ちもあるけれど………でも、この方がよかったのかもしれない)

 変わり果てた姿を見せるより、少女らしい婚約者であったミュリエルを覚えていてもらえる方がずっといいのかもしれないとミュリエルは思った。

 もうこの頃には、ミュリエルの心はズタボロで、修道院に入って残りの人生を神に捧げようか、という気持ちになっていた。

 ミュリエルはすっかり自暴自棄になっていた。そんな彼女に「待った」をかけたのが、まさかのヴィサンテオ公爵家だったのである。

 それも持ちかけられたのは縁談。ミュリエルと子息を婚約させたいという、驚きを通り越して混乱するような提案だった。

 どう考えても身分違いの公爵家からの申し出に、ミュリエルは(絶対、無理! というか、何で婚約なのっ?)と半分パニックを起こして、修道院に駆け込む寸前だった。

 だがよくよく聞けば、ヴィサンテオ公爵に示された提案は実に奇妙なもので、ミュリエルは決断を思い止まった。

 なんとその婚約は、婚約解消を前提にした婚約だというのだ。

 困惑するジルベリア侯爵家に、ヴィサンテオ公爵、さらに陛下までもが婚約を推し進めてきた。この時点で、ミュリエルは(んんっ?)と怪訝に思ったのだが。

 その思惑の全容を知ったミュリエルは叫んだ。

「悪くない提案だわ!」と。

 このミュリエル言葉に父はまた泣き、母は寝込むことになる。

 というのも、ミュリエルの婚約者となる公爵家の三男、アイザックといえば、女性関係の派手さから色気違いとまで噂されている人物なのだ。

 下町に出入りしては、娼婦はもちろん気に入った女性はすぐ口説く。社交界で聞くのは悪い噂ばかり。そんな男だ。

 どう考えたって不良物件。公爵家と縁ができると考えてみても、あまりお付き合いはしたくない人物ではあるが、この提案は確実にミュリエルにとって悪いものではなかった。

 まず、ヴィサンテオ公爵家はミュリエルの呪いを分析することに深く関わっていた。王家が抱える呪い分析班にも公爵家の人間がいて、王家からの信頼も厚い。

 何より、ミュリエルの呪いを解く為に、その婚約を提案してきたということ。

「ミュリエル嬢の呪いは、ヴィサンテオ公爵家が必ず解こう」

 そう言ったヴィサンテオ公爵は、「その代わりといってはなんだが」と、例の婚約を説明した。

「我が愚息のお目付け役―いや、嫌がらせ役と言ってもいいのかもしれんが―貴方にはそうした者になってほしいのだ」

 ミュリエルの呪いを解く間だけ婚約者となり、ヴィサンテオ公爵家の問題児に圧力をかけてほしい、と。何故なら、ミュリエルの呪いを解く鍵がそのアイザックにある、ということらしいのだ。

 ヴィサンテオ公爵が「ミュリエル嬢との婚約は、アイザックがその呪いを解くまで続く」と言った時には、ジルベリア侯爵家一同はキョトンとしてしまった。

 だってミュリエルの呪いは『彼女を心から愛している男性からのキス』で解けるのだ。アイザックに呪いが解けるということは?

 つまり、愛しているのに、婚約を解消するということか? と、わけが分からなくなりそうなものだったが。

 だが、ヴィサンテオ公爵の言葉の、真の意味はまったく違う。アイザックには、その『彼女を心から愛している男性からのキス』以外の方法があったのだ。

 それが――――彼のなかにある『魔女の血』の力だった。

 アイザックが公爵の愛人、魔女であった女の息子だということは、もはや周知の事実。つまり毒をもって毒を制す。呪いを呪いによってなんとかしようという試みが、アイザックというわけなのだ。

 だが公爵家の三男は呪いを解くことに非協力的であるという。そこで考えられたのが、この婚約話だったというわけだ。

 端的にいえば、公爵は「婚約解消をしたければ、早くこの娘の呪いを解いてやれ」と息子を脅し、協力させようというつもりなのである。

 この全てを把握したミュリエルは婚約を受け入れた。この婚約は利害の一致だ。

(まったく、貴族らしい婚約じゃない!)と、ミュリエルは逆に喜んだ。

 心が荒みまくっていたミュリエルに、怖いものなどなかった。

(色気違いがなんだっていうの。愛なんてなくていいのよ!

 呪いを解く為に利用する! あぁ、なんて単純でさっぱりとした関係!)

 おそらく、この時のミュリエルの心は少々壊れていた。

 もちろん呪いが解ければ失ったものがもどるなんて、ミュリエルにそんな甘い考えはなかったけれど。それでも足掻いてみる価値のある提案だと思えたのだ。

 そんな経緯があって、めでたくヴィサンテオ公爵家のご子息と、ジルベリア侯爵家のご令嬢は婚約と相成った。とはいっても、仮初めの婚約関係ではあるが。

 その上で、呪いを解くという目的の為、ミュリエルはヴィサンテオ公爵邸で生活した方がよい、というのがヴィサンテオ公爵の意見だった。

 が、公爵様の真の狙いは、まさかの息子への嫌がらせ強化。聞かされた時には、ミュリエルも「へっ?」と奇妙な声を出してしまったものだ。

「アイザックには公爵家の者としての自覚が足りん。貴方には是非とも、ビシバシ根性を叩き直してもらいたい。むろん相手は男だ。多少の手荒い行動は許可しよう。

 さらにいえば、アイザックのことだ、呪いを解くことを面倒がってバックレようとするだろう。嫌がらせすることによって、婚約解消という餌にヤル気を出す可能性は大いにある。

 これは貴方のためでも、この公爵家の為でもあるのだ」

 重々しく語るヴィサンテオ公爵にミュリエルの顔は引きつった。

(父親にここまで言わせる息子ってどんななのよ?)とは思ったが。アイザックと初めて対面した時、ミュリエルは思い知ることになる。

 ヴィサンテオ公爵が、どれほどこの三男に頭を痛めているのか、を。



 かくして、ミュリエルはアイザックの婚約者としてヴィサンテオ公爵邸で生活することになった。

 もちろん、その真の目的はミュリエルの呪いを解くこと、だ。

(ふわぁっ! さっすが公爵邸! 広くて豪華!)

 永遠と続くのではないかと思わせる園庭にミュリエルは目を見張った。

(確かに、ここなら人目を気にせず生活できるかも)

 ヴィサンテオ公爵は引き籠っているミュリエルに、「我が屋敷に来れば、存分に外で活動できることだけは保障しよう」と言ってくれた。

 後で知ったことだが、ヴィサンテオ公爵は武道に精通し、「心身ともに鍛えるべし!」という精神の持ち主で、ミュリエルの病んだ状況をいたく心配してくれていたらしい。

 ミュリエルの兄、グレナードからは「なかなかスパルタなご家庭だと聞いている」と、妙に詳しい内情を聞くことになった。それによると、屋敷内の鍛練場があったり、娘に父親自ら武道を指導したりと、なんとも貴族らしからぬ家だということだ。

 ヴィサンテオ公爵の「ビシバシ根性を叩き直して」という発言を思い出し、ミュリエルは納得してしまったが。

 しかしまさか、その公爵様、アーゼル・ヴィサンテオ様自らがお出迎えしてくださるとは!

「よく来た、ミュリエル嬢」

 白髪交じりの煉瓦色の髪だが、けして老いた印象は受けない。がっしりとした身体つきの壮年男性が馬車から降りたミュリエルの手をとってエスコートしてくれる。その分厚い手の皮から、ずっと鍛練を積んできた人物だということがひしひしと分かった。

「着いて早々にすまないのだが、例の愚息に会っていただきたい」

「いえ、その為にここに来たのですから。お気になさらず」

 むしろアーゼルに「すまない」などと言われてしまっては、ミュリエルは恐縮しまくりだ。しかしそんなミュリエルにアーゼルは強く断言した。

「おそらく、不愉快な思いをするだろう。もし腹が立ったのなら、遠慮なく愚息をド突いてくれてかまわない」

「……………えーと、善処、します」

 苦笑いを浮かべたミュリエルにアーゼルは灰色がかった瞳を窺うようにむけると、それから重々しく告げた。

「そうなった場合は躊躇うことなどないのだからな、ミュリエル嬢」

 ミュリエルは心の中で叫んだ。

(だから、どんな息子!)

 色気違いという噂なのだから、手が早いのか。すぐに口説くのか。

(いや、でも、こんな姿の私を口説きにきたら本物よね。ある意味、感動するかも)

 なんてあれこれ考えていたら、いつの間にか応接間へと案内されていた。

 そこにいた一人の青年はどこか不貞腐れたような面持ちだったが、大人しくアーゼルの隣に立った。

「ミュリエル嬢、こちらにいるのが私の三番目の息子、アイザックだ」

 そう紹介されたのは、金髪にアイスブルーの瞳のキラキラ輝くまるで宝石のような青年。まだ大人になりきっていない十八歳という若さも、もしかしたら彼の武器なのかもしれない。

(これはうっかりヨロめいちゃうのも分かる)

 そう思ってしまうくらいには綺麗な顔だった。

 こんな男に言い寄られたら、どんな女の子も嫌とは言えないだろう。さすが、色気違いと噂されるだけはある。

 ついぼうっと見惚れてしまったミュリエルだったが、はっと気が付き挨拶をしようとした。

 の、だが。アイザックが口を開く方が早かった。

「すんげーブスだな、アンタ」

 その場が凍りついた。

(……………………は?)

 というか、ミュリエルは息をするのも忘れた。

「いや、ほんと、すげーわ。よくそれで生きてられるな。感心するわ、マジで」

 ミュリエルは、この時、静かにブチキレた。

 顔に出さずに、しかし確実に、ミュリエルのなかで何かがキレた。

(成る程。確かに不愉快ッ!)

 チャラい系無遠慮男、と、そういうことだったのかっ!

 むかいにいるアーゼルの、無言で親指を立てそれをクイと下げる仕草に、思わず親指を立てて了解の意を示してしまうくらいには、ミュリエルはキレていた。

 目の前のご令嬢と隣の父親とが、まさかの意志疎通を図っているとは思いもよらないアイザックは、愚かにも続けた。

「つか、呪い解かなくてよくね? 死ぬわけじゃねぇんだし。

 死にたくなる繊細さも持ち合わせてねぇみてーじゃん? もう、このままでいんじゃね」

 ミュリエルは躊躇わなかった。アイザックの前にゆらりと立つと、ありったけの力を込めてその腹を殴った。

 初めて人を殴った。痛かった。そんなミュリエルにアーゼルは真顔だった。

「ミュリエル嬢、殴る時に指を握りこんでは駄目だ。拳は軽く握れ。

 狙いをボディにしたのは賢明だが、できるならもう少し下の方がダメージは大きかった」

 淡々とミュリエルにアドバイスをする父親にアイザックが唸った。

「メテ…………このクソ親父」

 そんな息子を見てアーゼルはミュリエルに微笑んだ。

「次回は是非とも蹴りを入れてほしいものだ、ミュリエル嬢。よろしければ指南しよう」

「ご指導、ありがたくお受けします!」

 ぺこっ! と、頭を下げるミュリエルにアイザックは目を剥いた。

「ハァッ? 調子にのるんじゃねぇぞ、メス豚!」

 どうやら腹パンだけでは足りないようだ。

 アーゼルはちょいちょいと手でミュリエルを誘導すると深く頷いた。

「ミュリエル嬢、足をそのまま振り上げたまえ」

「はいッ!」

 指示通りに振り上げたミュリエルの足はアイザックの股にヒット。

 悶絶するアイザックを尻目に、ミュリエルはハキハキとアーゼルに言った。

「精進したく思います!」

「うむ。なかなかの蹴りだ。これからもよろしく頼むぞ」

「はいっ!」

 今後の婚約関係の基礎を作ったともいえる、ミュリエルとアイザックの出会いだったが。

 それを大爆笑してくれた人物がいた。

「あっはははははは! やるねぇ、ミュリエルちゃん!」

 響いた声に聞き覚えのあったミュリエルは驚いた。

「えっ? アルベルト様?」

 どやどやと応接間に入ってきた人物達の一人が、ミュリエルの見知っている城勤めの気の良い貴族青年だったのだ。

 彼はミュリエルの呪いの分析班の一員でもあり、兄と同い年ということもあって、とりわけミュリエルと親しかった。

「やっぱり気付いてなかったんだ。僕は公爵家の人間だよ。聞いてなかったかな?」

「あっ!」

 そういえば、そんなことをちらっと聞いていた。だがそれがまさかアルベルトだったとは。

 よくよく見れば、アルベルトの煉瓦色の髪も、灰色の瞳も、アーゼル譲りだということが分かる。といっても顔立ちは柔らかく、それほど父親と似ているわけでもない。

 なにより雰囲気が気安くて、ミュリエルはもっと身分が下だとばかり思っていた。

「これからもミュリエルちゃんの呪いを解くことには全面協力していくから、安心してここで生活するといいよ」

 呪いの分析中と変わらないアルベルトにミュリエルはほっとする。

「よろしくお願いします、アルベルト様」

 ぺこりと頭を下げるミュリエルにアーゼルが頷いた。

「アルベルトは私の二番目の息子だ。

 そしてこちらにいるのが、いずれ私を継ぐ長男のハイルフォード」

 そう紹介された男性は髪の色そこ亜麻色とアルベルトや父親と違っているものの、瞳の色は同じ灰色。アルベルトよりも若干鋭いその目といい、ハイルフォードは三人の息子のなかで一番父親に顔が似ているといってよかった。

「ハイルフォードだ。よろしく頼む、ミュリエル嬢」

「こ、こちらこそ、よろしくお願いします」

 無表情のハイルフォードに怖気づくミュリエルだったが。

「ザックに手を焼くようであったら、私も相談にのろう。アレはああ見えて根が単純だ。攻略方法を幾つか教える」

 真顔で言うハイルフォードにミュリエルは既視感を覚えた。

(親子だわ! この人、アーゼル様と同じ匂いがするっ!)

 それだけで一気に信頼度が増したミュリエルだった。

 最後にアーゼルはハイルフォードの後ろに目をやり、何やら手招きをした。するとそこから、ちょこんと女の子が顔を出す。

「最後になったが、私の娘のリザベルだ」

 確かヴィサンテオ公爵家のご令嬢はまだ社交界デビューしていない。十四歳だったはず。

 けれどミュリエルは確信した。

(これはいずれ争奪戦になるわ!)

 しなやかに波打ちながら腰までとどく亜麻色の髪。藍色の瞳は大きく、吸い込まれそうなほど。兄に負けず劣らずの美形になる気配がする。

「はじめまして、リザベル様」

 ずっと年下のリザベルだが、ミュリエルは腰を折って敬意を示す令嬢の挨拶をした。それは一人前のレディに対する挨拶だ。

 するとリザベルは、

「はじめまして、ミュリエル様」

 と、きちんと令嬢のお辞儀をしてみせた。それにはまだ幼さがあって、ミュリエルは心の中でひっそりと悶えた。

(無礼と分かっているけど! 可愛いっ! 可愛いわ、このご令嬢っ!)

 こんな綺麗可愛い公爵令嬢とお近づきになれるなんて、ミュリエルには奇跡といっていい。

 ミュリエルが思わずほわわ~んと笑顔で彼女を見つめていると、なんてことだろう! 彼女が微笑み返してくれたではないか!

 しかもリザベルはグッと拳を握り締めると――――。

「形だけとはいえ、ザック兄様の婚約者だなんて本当っに災難ですわね!

 もう、愚痴でも何でも聞きますわ! ええ! あんな色魔に負けないでくださいまし!」

 兄の嫌いぶりを、これでもかというくらいにミュリエルに教えてくれた。

 このご令嬢にも微かにだがアーゼルと同じ匂いを感じたミュリエルだった。

「が、頑張ります、ね」

 弱り顔で微笑むミュリエルに警戒心を解いたのか、リザベルはとびきりの笑顔を見せた。

「私、ずっとお姉様がいてくださったらよかったのにって、そう思ってきましたの。貴方が来てくださって、本当に嬉しい!」

 これにはミュリエルも思わず涙ぐんでしまった。

「リザベル様…………あの、本当に嬉しいです」

 ミュリエルの方が身分もずっと下であるのに、「お姉様」だなんて、こんな光栄なことがあるだろうか。

 温かなヴィサンテオ公爵家の歓迎にミュリエルがジーンと感動していると。

「どいつも、こいつも…………バカじゃねぇの?

 厄介な呪われ令嬢を押し付けられたんだろうが。やってらんねぇぜ」

 痛みから立ち直った様子のアイザックが吐き捨てるように言った。口は悪いが、その言葉は的を射ていて、ミュリエルの気持ちは一気に冷たくなる。

(そうよね、公爵家の人達にしてみたら、私は厄介者)

 しかし、そんなミュリエルを元気づけたのは、まさかのその人達だった。

「ああ、もう! こんな男の婚約者だなんて、本当にお可哀想なミュリエル様!

 早く呪いを解いて、お兄様を捨てちゃって! 幸せを掴んでくださいな!」

 リザベルはアイザックを睨むと、ミュリエルにさっと寄り添った。

 そして二人の兄もアイザックに辛辣だ。

「だったら、ミュリエルちゃんの呪いを解くことだね、ザック?」

「喚くだけで問題が解決するなんて、そんな甘い考えを持つ愚か者だったか、貴様?」

「……………………この、クソッタレ共め」

 なんとビックリな四面楚歌ぶり。

 これはアイザックの所為なのか、はたまたこういうお家なのか。ミュリエルは一抹の不安を覚えたものの。

(呪いを解く為よ! ええ、それだけの為の婚約者だものね?)

 よくよく考えれば、アイザックに嫌われることは想定済みだ。まあ、その予想から現実は斜めに逸れていったが、ミュリエルのやることは変わらない。

(ええ、そうよ! この男に嫌がらせをして! 一刻も早く呪いを解いてもらって! 婚約解消すればいいだけの話よ!)

 呪われたミュリエルが選べる道は少ない。このまま突き進むしかないのだ。たとえ不愉快で不毛な男が婚約者であろうとも!

 ヴィサンテオ公爵邸へとやってきたミュリエルは、初日からそんな覚悟を抱くに至った。

 そんな出会いなのだ。ミュリエルとアイザックの仲が良くなるはずもなく。アイザックとの喧嘩は日常茶飯事となり。

 さらに過去、騎士団に所属していたアーゼルの指導、長男のハイルフォードの入れ知恵と、ミュリエルの攻撃力はいや増すばかり。

 もともと身体を動かすことが好きなミュリエルだ。恥とか外聞? 何ソレ? もう関係ないわー、と開き直り全開で、ご令嬢にあるまじき蹴りをアイザックにかます始末だった。

 そんなミュリエルを非難するどころか、むしろ応援してくれるような、公爵家の人達にミュリエルは本当に救われた。逆に考えれば、アイザックがどれだけ公爵家の人達を困らせてきたのだか、ということになるのだが。それにしたって破格の待遇だった。

 アーゼルはミュリエルに外に出て身体を動かすことの喜びを教えてくれたし、最初こそ無表情のハイルフォードが怖かったが、今では心強い味方だと思っている。アルベルトは相変わらず気の良いお兄さんだったし、リザベル嬢はミュリエルのことを本気で心配してくれる優しいご令嬢だった。

 そうした環境もあって、ミュリエルの心はどんどんと明るくなっていった。

(やっぱり、あれね! 人間、外に出なくちゃダメよね!)

 よく身体を動かし、よく食べ、よく寝る。健康の秘訣はそれに限る。

 これは心の健康にも効くことだ、と、ミュリエルはアーゼルに教えらえた。

 そうやってミュリエルは公爵家にだんだんと馴染んでいくと同時に、心も癒されていったのだが。

 本来の目的を思い出させるかのように、ミュリエルの頭が痛くなるような問題が発生することになってしまった。

 もちろん、アイザック絡みであるのは言うまでもない。

 それが、

『アイザックが素行の悪い行いをした場合、ミュリエル嬢にもお仕置き』

 という、超! 理不尽なルールが追加されてしまったことだった!

 これは次男のアルベルトが言い出したことだった。

「ミュリエルちゃんにも必死になってもらわなきゃ」というのが彼の言い分だったが。事態をより面白くしたいだけに感じられなくもない声の響きは何故だろう。

 しかしコレが案外、ミュリエルを苦しめた。

 というのも、その罰とやらで、アイザックと一緒に屋敷の離れに閉じ込められることになってしまったからだ。

 アイザックと二人きりというのも耐え難かったが、何よりミュリエルの我慢がならなかったのが、閉じ込められるということそのものだったりした。朝のランニングやアーゼルから教えてもらう体術等、外で身体を動かせないということが、本当にミュリエルには辛いのだ。

 だらしない男の所為で自分の行動が制限されるだなんて冗談じゃない! と、ミュリエルは燃えた。何が何でも、あの色気違いをせめてまともな貴族生活のレベルにしてやる、と。

 こうしてミュリエルとアイザックのいがみ合いはエスカレートしていき、その果てに取っ組み合いを越えた、まさに格闘試合さながらの喧嘩へと発展することになった。

 こうなってしまったのは、もともとのミュリエルの素質か。アイザックの態度がそうさせるのか。はたまた助長させた、周囲の者達の所為なのか。

 おそらくその全てが原因なのだろうが、気付けば、まったく珍妙な婚約関係の二人ができあがってしまっていた。

 しかし、この時はまだ二人とも気付いていなかった。自分達の婚約にどんな意味が隠されているか。

 期限はミュリエルの呪いが解けるまで。

 仮初めの婚約は、まだまだ始まったばかりだった。












第二章 拗らせ子息とタフネス令嬢は拳で語り合う

 


 ミュリエルの教育指導が効いているのかいないのか。ここ数日間は大人しくこれといって問題も起こさなかったアイザックだというのに。ここにきて、まさかの朝帰りをやらかしてくれた。

 いったい下町で何をしてきたのやら。

 当然のように、朝っぱらからミュリエルと大喧嘩となり、あの騒ぎとなったわけである。

 そんな二人は朝食を食べ終えた後、執事のハヤトにとっ捕まることになった。

 黒髪に黒の瞳、どこか異国の雰囲気を感じさせるハヤトは、にこやかに言い放った。

「分かっているとは思いますが。お二人共、一週間は出せませんからね?」

 朝帰りをしたアイザックはもちろん、派手に公爵家の調度品を壊したミュリエルを、ハヤトは有無を言わせず公爵邸の離れにブチ込んだのだ。

 ハヤトはいつものように笑顔を崩さず、しかし容赦なくその扉を閉めた。

 衣食住は事足りるとはいえ、ほとんど監禁に近いのだが、これがアーゼルの課したアイザックへの罰だった。そしてそれは、もれなくミュリエルにも課せられる。

 無情にもガチャンッ! と閉められてしまった扉に、ミュリエルは心底悔しそうに叫んだ。

「あぁぁぁぁ、今日は古武道を教えてもらえる日だったのにぃぃぃぃ!」

「そのワザを俺に使おうってか。つか、豚と閉じ込められるとか、どんな拷問だよ」

 ハンッとアイザックが鼻でそれを笑った瞬間。

「フンッ!」

 ミュリエルの拳が唸った。

 が、アイザックはパシィッとそれを綺麗に手でいなして、ゲンナリという顔をする。

「デブで俊敏で体術ができてって、お前はいったいどこを目指してるんだ?」

「黙りなさい! というか、早く貴方が呪いを解かないのがいけないんでしょう!

 私が傍にいるのが嫌っていうのなら、さっさと解くべきだわ!」

 鼻息も荒く言うミュリエルにアイザックは溜息を吐いた。

「できるもんならとっくにやってるっつーの。

 お前にかかってんのは、とんでもねぇ呪いなんだぞ? 『血聖』すらきかねーって相当だ。ま、だから親父や陛下はやっきになってんだろうがな。

 こんな呪い、滅多にお目にかかれねぇよ。珍獣のドラゴン並み」

「見世物になれっていうの?」

「てか、実際はそーなんじゃねぇ? 憐れだな」

 くくっと嫌な笑いを浮かべてアイザックがミュリエルを見る。

「お前、遊ばれたんじゃねぇの? 呪いから殺意は感じねぇもん。

 感じるのは、強烈な悪趣味ってくらいの嗜虐心ってカンジ」

「最悪。そう言ってくる、貴方もね」

 ミュリエルはアイザックを睨みつけた。

「で、貴方も便乗して私を弄ぼうって魂胆なの?」

「まさか! 俺、ブスに興味ねーもん。遊ぶなら綺麗なお姉さんか可愛い女の子だね」

「じゃあ、とっとと解いて」

「だから、それができりゃ世話ねぇっての。ほんと頭の悪い」

 やれやれと肩を竦めるアイザックに、ミュリエルは「フンッ」と跳んだ。

 習ったばかりのドロップキックを繰り出すミュリエル。突然のそれを回避できなかったアイザックは脇腹にモロにくらって悶絶した。

「くぉぁぁぁっ! ほんっと、何で俺がお前のために骨を折らなきゃなんねんだぁ。理不尽だぁぁぁぁっ!」

 叫ぶアイザックの胸ぐらを掴み、ミュリエルは笑顔で言った。

「つべこべ言わずに、やりなさい? 理不尽に思っているのは貴方だけじゃなくってよ?」

 睨み合うこと、しばし。

 先に目を逸らしたのはアイザックの方だった。

「チッ、けっきょく解くしかねぇんだよな。あーあ、メンドくせ」

 アイザックはミュリエルの手を押しやって立ち上がると、離れの奥に足を進めた。

 ミュリエルも当然のようにその後に続く。

「一週間か。ま、実験するには十分だな」

「また怪しげなまじない?」

「片っ端等から試せば、何か反応するかもしれねぇだろ」

「今まで、ロクな結果は出てないけどね」

「誰の為にやってると思ってんだ」

「……………私の為だわ。アリガトウ」

「そこまで心がこもってない礼って初めて聞いたわ。ドウイタシマシテ」

 もはやこの程度の応酬は日常会話だ。

 正直にいえば、アイザックは始終この調子なので、婚約者というよりは手のかかる弟のような、悪友のような、そんな気分にもなるミュリエルだ。

 つまるところ、こうやって離れに二人きりで監禁されたとして、まったく色気のある展開になりもしないし、イケメンも人格が残念だとこうもときめかないものかと、ミュリエルは新たな発見をするくらいだった。

 それに、なにより。

 二人が足を踏み入れた部屋はまさに「不気味」の一言といっていい。薬草、昆虫、瓶詰めのミミズに、何の動物だか分からない骨。魔女の部屋に相応しい、グロテスクな様相だ。

 こんな場所で恋愛どうこうするほど、ミュリエルはイカレていないつもりだ。

「あー、ホコリっぽい」

 ミュリエルは慣れたもので、長い棒で器用に部屋の天窓を開けると、部屋を出て廊下の突き当たりの窓を全開にした。

 こうすると一気に風が通り抜けて、ホコリっぽさが激減する。

「しかたねぇだろ。日光に当てられないモンばっかりなんだから」

 ガサゴソと部屋で作業を始めるアイザックの手元を覗き込み、ミュリエルは「それ、何よ?」と首を傾げた。

「ユニコーンの角なんだと。嘘か本当か知らねぇけど」

「下町に出かけたのは、それを手に入れる為だったの?」

 アイザックはニヤリと笑って机の上にざらっと目ぼしい材料を並べた。

「他にも色々と用があったんだよ。可愛い子に会いに行くとか」

「あー、そう」

 アイザックのそれに怒る気にもなれないミュリエルだ。

 そもそも朝帰りをしている時点で、どこかに泊まったんだろうということはとっくに分かっている。

「お? それは怒らねぇのな」

「言ってもムダだもの。あと、婚約者でも解消する婚約者だし」

「だな。お前のそういうハッキリしているとこはいいよな。うるせぇのは嫌いだけど」

「はいはい」

 良くも悪くも、素直に何でも言いあえる関係ではある。そこに愛はないが。

「さて、んじゃ、作るか。ん? 鍋どこだよ?」

「キッチンに陰干ししたわよ。貴方、ちゃんと洗わないんだもの」

「じゃ、とってきてくれ。あと、ついでに木匙とナイフも」

「私、貴方の助手じゃないんだけど」

「どーせやることねぇだろ。手伝えよ。あと、誰の為だと」

「はいはいはい。鍋と、木匙とナイフね」

 ミュリエルは素直にキッチンへと足を向けた。毎度この離れに閉じ込められるので、すっかりここに慣れてしまった。

 初めてあの部屋を見た時は息もしたくないと思ったくせに。慣れって恐ろしい。

 鍋に木匙とナイフを入れてミュリエルがアイザックのところに戻ると、彼は材料を計りながら次の指示を出した。

「水も頼む」

「はぁい」

 二人の、呪いを解くという目的は一致している。ミュリエルもそれに関してだけは、アイザックに協力すると決めているのだ。

 だがこんなグロテスクな部屋で、自然とアイザックの助手のような役割をするようになったミュリエルは、やはり公爵家の男性陣が言うように「そんじょそこらにはいないご令嬢」だったのだろう。

 呪いを解く為だったらヒキガエルとキスできるようなご令嬢、それがミュリエルだ。気持ちの悪い虫でも必要とあらば触れるミュリエルを、アイザックはこれ幸いとコキ使ってくれる。

 二人してこの離れに閉じ込められるようになってからというもの、もっぱらここはミュリエルの呪いを解く実験場と化していた。

「水、持ってきたわよ。次は?」

「これ、すり潰してくれ」

「はいはい」

 ある意味において、二人の関係は良好と言えるのかもしれなかった。共同研究者として、という、よく分からない関係で言えば、だが。

 そうして作業すること数時間。

 鍋にできたのは―――――グツグツと煮えるナゾの液体。それを覗き込んでミュリエルは顔をしかめた。

「毎度、思うけど。これって飲んで大丈夫なの?」

「だから毒味してやってんだろ。俺が倒れたら飲むなよ?」

「飲むわけないじゃない! で、炭だっけ? 飲ませるのって?」

「いや、お前の応急措置、何か怖ぇし。万が一があったら、とりあえずハヤト呼んでくれ」

「万が一を考えなきゃならないのが、また嫌ね」

「文句言うな。早く婚約解消したいんだろうが」

「そうね。何とかは皿までって言うものね」

「いや、毒じゃねぇ!」

 言い合いながら、アイザックはショットグラス二つに液体を少量ずつ注ぎ入れる。

 そしてそれを机の上にコトンと置くと、ふぅーっと息を吐き――――アイザックは液体を一気に口に流し込んだ。

「ッ、くッあ! マッズ! 臭いヤバッ! ぐぁ! マッズ!

 ―――――けど、死ぬたぐいじゃねぇな、うん」

 悶絶しながらも、妙に冷静に判断するアイザックをミュリエルは恨みがましく思った。

(どうしてそういうトコだけ真面目!)

 いい加減に手を抜くかと思いきや、アイザックはミュリエルの呪いを解く実験に関しては真面目ときていた。おかげでミュリエルも逃げるに逃げられない。

 目の前に置かれたショットグラスにミュリエルは冷や汗をかいた。

 できるならこんなもの飲みたくない。けれど先に身体をはって試飲しているアイザックに、そんなこと言えようか。いいや〜、と反語。つまり、飲むしかない。

「前回より格段にマズい。息すると臭いが鼻に抜けてヤバイ。気を失わないようにガンバレ」

「知りたくもない情報をアリガトウ」

 アイザックの目が「はよ飲め、コノヤロウ」と言っている。

 ミュリエルはじっとグラスを見つめると、深呼吸をしてグッと液体をあおった。

「×△××○△◇?!」

 あまりの味に口を閉じていても悲鳴が漏れる。

「落ち着け。ほら、ごっくん。口のなかに留めてても意味ねんだから。飲んじまえ」

 言っていることは正しいと分かるが、素直に従えないクソ不味さ。これ、本当に飲んで良いシロモノなのか、というか口に入れていいモノなのか!

 涙目でミュリエルはアイザックを見るが、吐き出すことを彼が許すはずがない。

 ニヤァと笑うとアイザックはすっとミュリエルの口元に手を寄せた。

「俺の手に吐くか? 吐けるのかよ? なぁぁ、ミュリエル嬢?」

 ミュリエルは心底、思った。

(このクソ男めがぁぁぁぁぁっ!)

 これを吐き出してアイザックの手を汚すなんて、ミュリエルにはできない。てか、何なんだ! その変態発想は! ふざけんな!

 ミュリエルは怒りでもって、何とかごくんと液体を喉の奥に飲み込んだ。そんなミュリエルにアイザックは妙に満足そうに頷く。

「よしよし、飲んだな………………クソ、変化なしかよ。いや、遅効性かもしんねーし」

 ミュリエルは堪らず叫んだ。

「水!」

 しかし無情にもアイザックは許さない。

「ダメだ。まだ飲むな。効果が薄まったらどーしてくれんだ」

「口ゆすぐくらい、いいでしょっ?」

「ッチ、根性ナシめ」

 アイザックは渋い顔でコップに水を注いで差し出す。

「ぜってぇ飲むなよ? 飲んだらさっきのヤツ、ろうとで流し込むからな?」

 なんて脅しだ! ミュリエルは必死でこくこくと頷いて、コップに口をつけた。なるべく少量で口をゆすぎ、水を吐き出す。一滴も飲み込むわけにはいかない。

 その間にアイザックはミュリエルの姿をざっと確認する。

「見た目に変化はねぇけど、計測はしとくか」

「見た目に変化がないなら、しなくていいと思う」

 自分の重みが変わっていないことが分かるから、よりひしひしと計測の不毛さを訴えたいミュリエルだ。しかしこれまたアイザックは許さない。

「少しでもっつー切実な気持ちはないのか?」

「変化があるんなら、すぐにでも確認したくなるんだけど」

「変化がないって確認も必要なんだよ。だいたい、その身体は本来のお前の身体じゃないだろーが。とっとと測らせろ」

 ミュリエルはため息を吐いて両手をバンザイするように上げた。

 アイザックはそんなミュリエルを毎度のごとくきっちり測っていく。容赦なく、正確に。いつもと同じに。

「変化なし、と。数時間したら、また測るからな」

 かりかりと几帳面にミュリエルの体型を書き記し、アイザックは釘を刺した。

「はいはい、分かってます」

 屈辱この上ないが、ミュリエルの体型は、トップ、ウェスト、ヒップと、アイザックに完全把握されていた。もちろん、体重もだ。だがこれも呪いを解く為のこと。ミュリエルは我慢するしかない。

 溜息を吐いているミュリエルをアイザックは当然のように無視して感心したように呟く。

「つか、本当に驚異的な維持力だよな。あれだけ運動してても脂肪が落ちねぇんだから、とんでもねぇ呪いだな、マジで」

 アイザックがつくづくと眺めているのは今しがた計測した、常にまったく変わらない数字だ。

「本当よね…………」

 ミュリエルは心底同意した。

(太らせる呪いじゃなくて、姿を変える呪いってところが、また嫌よね)

 ミュリエルにかけられた呪いの厄介なところはそこだ。

 太っただけならば、ダイエットをすれば元にもどる。しかしミュリエルの容姿は何をどうしても変わらない。走り込みや体術訓練をしていたとして、体力及び攻撃力は増すのだが身体はずっとこの巨漢を保ったままなのだ。

 自然の摂理を捻じ曲げる。それもまた呪いというものか。

(理不尽だわ!)

 しかし世の中、理不尽なことというのは起こり得るものなのだ。ミュリエルはやり場のない怒りをなだめて、とんでもなく不味かった薬の後片付けに気を向けた。

 と、そのミュリエルの後ろから、呑気にも思える「ふぁぁあぁ」という欠伸が。

「あー、眠ぃ。俺、ちょっと寝るわ」

 計測をまとめ終えて気が緩んだのだろう、アイザックがふらふらとソファーにむかっていく。

 アイザックがここで寝る気なのだと気付いたミュリエルは急いで進言した。

「ベッドで寝なさいよ。また首を痛めるわよ?」

「いや、あれはお前の飛び蹴りをくらったからだろ。メンドいし、ここで………」

 散らかりまくったソファーに寝転がろうとするアイザックにミュリエルは厳しく言った。

「ダメ! ここの片付けするんだから。たった三つむこうの部屋でしょ!」

「ウルセェなぁ」

 とは言いつつ、アイザックはベッドに行く気になったようだ。眠気でふらつく足取りで方向転換をしてくれた。

 出て行く間際、アイザックはミュリエルを振り返った。

「あ、分かってると思うけど」

「鍋のなかみは冷まして瓶詰め。鍋は洗って陰干し。ナイフと木匙は煮沸消毒。でしょ?」

「おう。それと、そこの本とか荷物、動かすなよ」

「はいはい」

 ミュリエルはもう手慣れたものだ。テキパキと片付け始める彼女の姿に、アイザックは「じゃー、あと頼むわ」と、欠伸をしながら寝室へとむかった。

 そんなアイザックを見送って、ミュリエルはやれやれと散らかった部屋を見渡した。

(可愛い子に会いに行ってきた、なんて言ってたわりには眠そうなのよねー)

 その可愛い子が寝かせてくれなかった、という場合もあるけれど。

(ユニコーンの角に薬草が数種類。あと、何かしらね? この怪しげな本は)

 下町でアイザックが仕入れてきた物を眺め、ミュリエルは自分と婚約させられた彼の一面に複雑な気持ちだった。

 ミュリエルとアイザックの間にはもはや遠慮も何もない。素直に何でも言い合ってしまえる―貴族あるまじき―関係になってしまった。そんなミュリエルだからこそ、アイザックという人物の本質が、分かり過ぎるくらいに分かってしまったのだ。

 単純に言ってしまえば、公爵家の三男は父親その他の家族にむける感情を拗らせている、それだけだった。

 色気違いの噂の出所すら、なんとなーく分かってしまったミュリエルは、アイザックの自暴自棄ぶりにほんの少しだけだが、同情するまでになっていた。だからといって、あの口の悪さを許容する気はちっともないが。

(自棄になる理由は、分からなくもないのよね。でも)

 部屋を眺めてミュリエルは改めて思う。

(こうなっちゃったのは、『魔女の血』の所為なのか、拗れてる所為なのか)

 異様なまでの呪いづくしの部屋に、ミュリエルは(両方の所為かもね)とひっそり思った。

 何にせよ、噂として広まっている「色気違い」のアイザックからは遠い光景だ。

 ま、噂などしょせんは噂ということか。いや、むしろ、あの噂でこの怪しげな諸々をカモフラージュしている可能性すらある。

 だが冷静に観察していればすぐに分かることだ。

 アイザックは確かに態度は軽いし、口を開けば人の神経を逆撫でするようなことばかりを言うし、面倒臭がりですぐ逃げようとするけれど。本質的には真面目なのだと、ミュリエルは見抜いていた。

 ミュリエルに危険がないように、呪いは必ずまず先に自分に試すし、呪いを解くための分析は怠らない。何より、ミュリエルがあれだけの攻撃をしかけても、アイザックから反撃されたことは一度もなかった。

(捻くれ者なのよね)

 ブスだの豚だの、好き放題言うくせに、扱いは丁寧だ。それが分からないほどミュリエルも馬鹿ではない。

 アイザックがあんな風になってしまった原因は、おそらくアレ、母親のことが大きいのだろう。不義の関係の果てにできた子供、というのは、今のアイザックを形作る要因ととなっていることに間違いない。

 この離れに閉じ込められる度に、それとなくアイザックが漏らしてきた言葉からそれを察してしまったミュリエルは悩んでいた。

(どうしたものかしら)

 呪いを解く為にアイザックと婚約したミュリエルだったけれど。もしかしたら、アーゼルがミュリエルに望む役割は「嫌がらせ役」とも少し違っているのかもしれない。

 怪しげな部屋のなか、ついついそんなことを考えてしまうミュリエルだった。



 アイザックの拗れ具合にミュリエルが気付いたのは、初めてこの離れへとブチ込まれた時だった。

 彼はミュリエルを睨んで釘を刺したのだ。

「言っとくけど、俺はこの家の恥。愛人の子供なんだからな?

 俺との婚約で良い目をみれるなんて思うんじゃねぇぞ?」

 わざわざそう言ってくるアイザックに、ミュリエルは(あら、これは?)と予感はした。

「そんなこと思うほど馬鹿じゃないから。というか、私は呪われ令嬢で、言っちゃえばもう傷物だし。そもそも貴方とは婚約解消してみせるし。

 むしろ…………ヴィサンテオ公爵家には多大な恩ができるくらいだわ」

 自分はお荷物、周りに迷惑をかけている方で、公爵家を利用しようだなんておこがましいと十分承知している、と、ミュリエルは主張した。

 それにどこか安堵したように見えるアイザックの顔に、ミュリエルは(あ、やっぱり、この人は公爵家が大切なんだわ)と確信した。

「そういう態度なら、呪いを解くことに協力してやらないこともない」

 可愛げもなく偉そうに言ったアイザックだったが、初日のその発言通り、ミュリエルの呪いを解くことに関して、彼は本当に真面目だ。

 そしてその『自分の家は大切だがそうと表に出せない』拗れ具合を知ってしまえば、あの先制攻撃ともいえる「すんげーブス」発言も納得できてしまったミュリエルだった。

 アイザックはおそらく、貴族令嬢というものが嫌いなのだ。

「ご令嬢ってのは、ロクな生き物じゃないからな。噂好きだし、人は陥れるし」

 ぼやいたアイザックにミュリエルはピピンときた。

「貴方、ご令嬢にすげなくしたこと、あるでしょ」

「公爵家の威光をかすめ取りたいってオーラ見え見えなんだよ。付き合ってられっか」

「そういう態度をしてたから、あることないこと噂されて、ついには『色気違い』って称号を得た、と」

「別にかまやしねぇもん。実際、可愛い女の子も綺麗なお姉ちゃんも好きだしな。

 つっても、貴族のフリルだらけの女より、下町の子の方が相手していてずっとマシだけどよ」

「……………あんまりやり過ぎると、まともな女の子が来なくなっちゃうわよ」

「それな。ほんと、お前みたいな女がくるなんてな。自重しときゃよかった」

 あの時はとりあえず拳を唸らしたミュリエルだったが。

 アイザックが嫌っているのは、どうやらご令嬢というよりも貴族社会そのものにあるらしいということも分かってきた。

 それに加えて、どうやらアイザックは父親にも許せない部分があるらしい。

「本当にイカレてやがる。婚約解消を前提にした婚約とか、あのクソ親父め」

「それは貴方が呪いを解くことに協力しないからでしょう」

「そもそも、何でウチが呪いを解かなきゃなんねぇんだよ? 利用されてるだけじゃねぇか」

「でも、陛下の命令なのよ。アーゼル様は良き家臣のお手本のような人よ」

 そんな会話の時に、アイザックはケッと吐き捨てるように言ったのだ。

「本妻に愛人の子を育てさせるような男が、良き家臣ねぇ。クソッタレめ」

 ミュリエルはもうこの屋敷にはいない、ヴィサンテオ公爵夫人を思い浮かべた。

 肖像画を拝見しただけだが、リザベルに似た、たおやかな女性だった。どうやら身体が弱かったらしく、リザベルを産んで亡くなってしまったと聞いているが。

 彼女はいったい愛人の子であるアイザックにどう接していたのだろう。

「お義母様に虐められたりとか、したの?」

 戦々恐々と聞いたミュリエルにアイザックはけろりと答えた。

「いや、フツーに育ててくれた。距離はおかれてた気はするけどな。そりゃ、当たり前だよな」

 お伽話で聞くような陰湿なお仕置きとかは受けなかったようだ。

 そのことにほっとしたミュリエルだったが、逆にそのあっさり具合に、アイザックが拗れてしまった原因が分かった気がした。

 たぶん、憎まれた方がアイザックにとっては良かったのだ。

 不義の子供なのに、受け入れられて、兄達と同じように教育してもらい、同列に考えられる。それが彼をここまで拗れさせた、一番の原因のような気がミュリエルはした。

(きっと、愛情の裏返しなのよね)

 本当は家族を大切に思っているのだ、アイザックは。

 何不自由なく育ててもらったこと、息子として家族として受け入れてもらえていることに、感謝している。だからこそ―――――自分の存在がことさら腹立たしいのだ、彼は。

(完全なる空回りにしか見えないんだけど)

 アーゼルがアイザックに向ける態度は、他の者に向けるものと変わらないようにミュリエルには見える。あの「愚息」と口にする時の彼の顔は父親以外の何者でもない。

 兄達だって同じだ。ちゃんとアイザックを公爵家の人間だと認めた上での、あの態度なのだ。

 もうそういうところが分かってくると、アイザックが独り相撲しているように見えてしかたがない。なんてもどかしい! ああ、もう! 「素直になりなさいよ!」とアイザックにツッコンでしまいたい!

 が、ミュリエルは仮初めの婚約者だ。婚約解消を目指しているような女が、よそのご家庭事情に首を突っ込むのも気が引ける。

 アーゼルからは「アイザックの性根を叩き直してほしい」とは言われているが。果たしてどこまで踏み込んでいいやら。

(それに私の呪いも…………解ける気がしないのよねー)

 思わず遠い目をしてしまうくらいに前途は多難だ。

「えぇい! ダメでもともと! とにかく試すっきゃない! だわ!」

 ミュリエルは自分を励ますために呟いた。

 呪いのことも、アイザックのことも、まだまだ足掻く余地はある! そう信じてミュリエルはパァンと両手を打ち鳴らした。

「よし! まずは――――片付けよ!」

 太ったのはどうやら腹まわりだけではないらしい。呪われた豚令嬢は精神も図太くなりつつあるようだった。



 そんなこんなで、アイザックの朝帰りからはや四日。

「くそぅ、何にも反応なしかよ。ほんと、何なんだよ、この呪い…………」

「散々ね……………貴方も、もちろん私も」

 ぐったりとソファーに座り込んで、アイザックとミュリエルは虚ろな目で天井を仰ぎ見ていた。呪いを試せるだけ試したというのに今回も収穫がゼロだ。

「どう考えても俺の方が悲惨だろ。無関係なんだぞ」

「私は被害者よ。…………だいたい何で侯爵令嬢なんて狙うのよ。普通はお姫様でしょうに」

 重々しいため息を吐いたミュリエルにアイザックは力なく言った。

「たまたま選ばれただけに感じるんだよな、マジで。

 嫌がらせってより、長く生かして観察しときたいってカンジの」

「怖いこと言わないでよ。愉快犯ってこと?」

 あんまり想像したくないが、これが愉快犯だとしたらなんて力の無駄遣いなのか。

 いったい何の目的があってこんな呪いを、誰がミュリエルにかけたというのか。本当にさっぱり分からない事件だ。

「その可能性はなくはねーけど…………ここまで強固にする理由がホント分かんねぇ。

 あと、犯人の痕跡がなさすぎ。十中八九、相当ヤバイ魔女がこの国に入り込んでやがる」

「でも、そんな魔女が、何で私なんかを狙うのよー」

「だーかーらー、それが分かれば、親父や陛下もこんなに焦ってねぇんだっつーの」

 今日は言い争いにも覇気がない。

 四日間のあれこれが全く効かないとなると、ヤル気だって低下するというものだ。

 ソファーの肘掛けに顎を乗せてミュリエルは不貞腐れた。もう無作法だろうと、みっともなかろうと、隣の男には見られたってかまわない。だいたいアイザックも机に両足を乗せてふんぞり返っているのだからお互い様だ。

「いつ呪われたのかも、よく分からないままだものね」

「普通は接触があるはずなんだよ。けど侯爵家は調べ尽くしたし、婚約してた伯爵家も空振り。

 いったいどこで呪いをかけられたんだか。これじゃお手上げだ」

 ボヤくアイザックにミュリエルは目を丸くした。

「伯爵家まで調べたのっ?」

「当たり前だろ。疑わしい所は全部調べたっつーの。とはいえ、やろうと思えばすれ違いざまにだって呪えるからなぁ」

 口にした物、触れた物、聞いた言葉。どこからでだって、魔女が呪う準備さえ整えていれば、呪いをかけることができてしまう。

「本当に、心当たりはねぇよな? お前のその性格で恨み買ってたりとか」

「……………ない、とは、断言できない」

 知らぬ間に恨みを買っていたりするのが貴族というものだ。

 親同士が早々に婚約を決めてしまったので、ミュリエルは社交界の場に出る機会は少なかったが、伯爵家の婚約者というだけで妬みそうなご令嬢がいることも確かだ。

「これだからクソ面倒なんだよな、貴族ってのは。イカレたヤツばっかりなんだからな」

「そういう貴方は公爵子息でしょう」

「俺は愛人の子だから別枠」

 そんなことを言うアイザックをちらりと見て、ミュリエルは眉を下げながらも言ってみる。

「少なくとも、貴方のお父様はそう考えていらっしゃらないと思うけど」

「……………かもな。けど、周りはそう俺を見る」

 アイザックが鼻で笑った。

「まったく、何が淑女だよ。人を情夫扱いしやがって」

「えっ?」

 驚いたミュリエルにアイザックは口を歪めた。

「すげーだろ? もう、あからさまに誘ってくるんだぜ?」

「それは、貴方の『色気違い』って噂を真に受けたからなんじゃ」

 と言いつつも、ミュリエルも酷い話であることは分かっていた。アイザックは貴族社会のなかで軽んじられ嗤われてきたのだろう。

 アイザックはククッと笑いを漏らすと首を傾げた。

「何、お前、詳しく知りてぇの? 教えてやろうか、『色気違い』の公爵子息の姿」

 その妖艶な仕草は、アイザックがそうした役に慣れているだろうことを感じさせたが。

「バカッ! 教えてもらうわけないでしょ!」

 生憎、ミュリエルは御免こうむる。

 アイザックとそうした情事を楽しめるはずもないし、第一、とんでもなく不毛ではないか。

 いずれ婚約解消をしようと思っている男と、そうした関係になるなんて馬鹿げている。

「ま、お前はそーゆー女だよな! 色気も何にもない、豚令嬢!」

 どこか愉快そうに言うアイザックだったが、この時は妙に腹が立たなかった。

「てゆーか、貴方って、実際に色気で苦労してそうだものね」

 色んな女性に言い寄られ、上手く対応できなければ酷い噂を立てられ、あげく身体を求められたりするなんて。

「憐れむのかよ」

 思っていた反応と違った所為か、アイザックの顔は微妙だった。

 ミュリエルは迷って、それに首を振った。

「憐れむも何も、想像もできないし。単なる事実? 思っていたことが口から出ちゃっただけよ。大変そうだなぁって。

 不愉快にさせたのなら謝るわ。ごめんなさい」

 ミュリエルはアイザックを憐れんだわけはなく、どちらかと言うと労いたかったのかもしれない。貴方も大変ね、と。

 呪われたという、理不尽な運命に翻弄されているミュリエルだからこそ、そう感じるところがあった。

 そんなミュリエルをアイザックはじっと見つめてから、「ハハッ」と笑い声を上げた。

「変なご令嬢だよな、お前って! 

 あれだな、ちゃんと愛されて、しっかり育ててもらったからなんだろーな」

「そうなのかしら」

 確かに比較的ミュリエルの意志を尊重してくれる家であるとは思うけれど。ピンときていない、というミュリエルの顔にアイザックは目を細めた。

「ジルベリア侯爵にも会ったけど、本気でお前を心配してたからな。

 びっくりだぜ。あんな貴族もいるんだな」

 アイザックが父と会っていたことも驚きだが、そうした感想が出てくることにもミュリエルは驚いた。

「そうね…………すっごく良い家柄ってわけじゃないし、男爵家みたいなハングリー精神もなくて、ほどほどだからじゃない?

 確かに、公爵家からしてみたら人間関係がのほほんとしているのかも」

「羨ましいこって」

 アイザックの声には本当に羨望の響きがあって、ミュリエルは口籠もった。

(根が悪いヤツってわけじゃ、ないのよね)

 むしろ逆に根が素直だからこうなってしまった可能性もなきにしもあらず、だ。

 何とも解決の難しい拗れ具合にミュリエルは眉間にしわを寄せた。しかしアイザックはそんなミュリエルの内心など気付くこともなく肩をすくめた。

「ま、無い物ねだりしたってしょうがねぇや」

 考え込んでいたミュリエルはついつい本音ダダ漏れ状態になってしまう。

「貴方はどちらかといえば、欲しくもないものばかり持っていそうだけど」

「…………まぁな」

「無駄に良い容姿とか」

 言った途端にアイザックが顔をしかめてミュリエルを見た。

「時々思うんだが、お前って本当に令嬢の教育をうけてるか?」

「貴方のせいですっかり口が悪くなってしまったの」

「嘘つけ! どー考えたって素だろーが!」

 実はミュリエル、小さな頃からお転婆で両親の頭を痛めてきただとか。腕力で勝てない兄に一泡吹かせたくて、口が達者になっていっただとか。そんな過去を持っていたりするが。

(うん、この男には知られたくない)

 ミュリエルはアイザックから目を反らした。

 途端にアイザックの眼差しが胡乱なものになった。

「おい、こら、こっちむけ」

「嫌」

「可愛くねぇな、ほんと!」

「貴方に可愛いと思ってもらおうだなんて、一ミリも思っていませんので」

 つんと顔を背けるミュリエルにアイザックは「あー、可愛くねー、可愛くねー」とまるで子供の喧嘩のように言うし、それに返すミュリエルの言葉もどんどんと幼稚なものになっていく。

 もう今日はこのままグダグダと言い合いを続けようか、という勢いの二人に。

「なんだかんだで、仲がよろしくなってきてますよねー、お二人って」

 急に背後から声がかけられた。

 いつ入ってきたのか、まったく分からなかった。一切、気配を感じさせずに真後ろまで接近していた執事のハヤトに、しかしアイザックは驚くこともなく「何の用だよ?」と慣れたように視線をむける。

 ミュリエルはこの得体のしれない異国風の執事が少し苦手なのだが、公爵家の人達は特に気にすることなく彼を野放しにしているようである。

 ハヤトはにこにこと話を続けた。

「ほら、喧嘩するほど仲が良いって言うじゃないですかぁ。

 私はお二人のこと、けっこうお似合いだと思うんですよね」

 アイザックはため息を吐いた。

「んなこと聞いてねぇ。さっさと本題を話せ」

「えぇっ! 私はお二人を応援しているんですよっ? きっと面白、いえ、良いカップルになられると」

「…………ハヤト?」

 低い声で名前を呼ばれ、公爵家のアイザック付き執事はぴしりっと姿勢を正した。

「グラファス伯爵家に動きがありました」

 そこでハヤトは何故かミュリエルをちらりと見た。

「え? 何? 私と関係があるの?」

 というか、「動き」って何だ。この執事は伯爵家を張り込みしていたということなのか? まさか彼は東方にいると噂で聞く忍者というヤツなのかっ?

 挙動不審になるミュリエルにハヤトは少し困り顔をした。

「いえ、ないのですけど。ミュリエル様には気持ち良い話ではありませんので」

 それでアイザックは事態を察して舌打ちをした。

「もう別の令嬢と婚約する気か」

 ハヤトはそれを肯定した。

「そのようですね」

「相手は?」

「去年あたりから羽振りが良くなった、ガートランド男爵家のご令嬢です」

「ガートランド? 羽振りが良くなったって、何で儲けたんだ?」

「主に貿易ですね。東からの布関係かと。良い絹を仕入れるとかで、有名ですよ」

 しばらく考えてアイザックが唸った。

「臭ぇな」

「はい」

 笑顔で頷くハヤトにアイザックが指示を出す。

「ガートランド家が関わっている商会を洗い出せ」

「了解」

 さらっと言うハヤトだが、あっさりそんな仕事を引き受けるあたり、もうこの執事はただの執事なはずがない。

(これ、オカシイって思っていいわよね? このお家がヘンなのよね?)

 ドーハライドの上層貴族がこんなのばかりだったら…………。

(うん、そんなわけない、このお家がヘンなだけ)

 ミュリエルは若干の不安を持ちながら、そう思ったりした。

 その間にも、ハヤトは「では、お二人でごゆっくり〜」と含みのある言葉を残し、部屋を出て行った。

「ゆっくりも何も、出られねぇつーの」

 忌々しげに呟くアイザックにミュリエルもため息を吐いた。

「行いを改めればいいのに」

「うるせぇ。俺の勝手だろーが」

 相変わらずの調子のアイザックをミュリエルは窘めた。

「それでも、やっぱり貴方は公爵家のご子息なのよ。貴方は嫌でしょうけど」

 いつもと違ってほんの少しだけ真面目なニュアンスを含んだミュリエルのそれに、アイザックはフンと鼻を鳴らす。

「んなこと、言われなくても分かってら。でもあるだろ、どーにもなんねぇ感情って。

 お前だって犯人が分かったら、それこそ、呪い返したいとか思うんじゃねぇの?」

「…………えっと」

 アイザックに問われてミュリエルは考えた。

 こんな忌まわしい事をした人間が分かったら? ミュリエルはその人物を、どうするだろう。

「とりあえずは殴ると思う」

「………………ああ、うん、そーゆー女だよな、お前は」

 何故か毒気を抜かれたような顔のアイザックだったが、ミュリエルは考え込んだ。

 こんな風になるよう、自分を呪った人物が見つかったとして、果たして「同じように呪われろ!」と願うだろうか、と。

「いや、呪わないわね。怖いし。あと、呪い解かせなきゃいけないし」

 ミュリエルにとって大事なのは『呪いが解けること』であって復讐ではない。

 それ相応の報いは受けてほしい気もするが、一発殴れたら、それでもういい気がする。

「お前って…………案外にタフだよな」

 妙に感心したようにアイザックが言うのでミュリエルは肩をすくめた。

「だって、人を呪わば穴二つ、って言うでしょ? 墓穴を掘るなんて馬鹿らしいじゃない」

 呪いが解けたのであればなおのこと。グズグズと引きずるなんてミュリエルは嫌なのだ。

「…………そりゃそーか」

 アイザックはそう言うと、勢いよくソファーから立ち上がった。

「んじゃ、ま、お前が好きなだけ犯人ボコれるように、呪いをちゃっちゃと解いちまうか!」

「え、何でそんな物騒な話になってるのよっ?」

「いや、物騒だから、お前。人間凶器だぞ? 拳で人が殺せるようになるぞ、マジで」

「その口の悪さ、本当に改めた方がいいと思うわよ!」

「やだね。つうか、拳を向けるさきが違ぇだろうが。

 ―――――ぜってぇ、ボコってやれよ? 目にもの見せてやろうぜ」

 ニヤッと笑うアイザックに、ミュリエルもふぅと息を吐き出して立ち上がった。

「そうね。呪いをかけたことを後悔させてやるわ」

 ミュリエルが浮かべた笑顔はアイザックのそれに引けを取らない凶悪さで。

 結論として「この二人は実のところ相性が良い」というのが他の面々の出した答えであるのだが。この時の二人は知るよしもなかった。



 そして一週間の監禁もあけ、ミュリエルは離れを出て、大きく伸びをした。

「あー、外っていいわね。身体を動かしたくなるわ。走ってこようかしら?」

 ミュリエルはずいぶんと鈍ってしまった身体をゆさゆさと揺らした。

 この重さも慣れてしまえばどうというものではない。というか、重さに耐えられるようになっていくものなのだ。人間の身体って本当によくできている。

「だから、お前はいったいどこを目指しているんだ…………」

 呆れたようなアイザックの視線も、自由になったミュリエルの浮かれた心は気にしない。

「こんな身体だもの! 運動しなきゃ良くないに決まってる!」

 という建前のもとに、ミュリエルは好き放題に公爵邸を動き回っている。

 淑女教育が始まってからというもの、「走ってはダメ」だの「腕を上げてはダメ」だのと言われ、窮屈極まりないと思っていたところに、この「どんどん動いて良し!」の状況だ。

 アーゼルが指南してくれる体術なんて興味深々。嬉々として訓練をしに行くミュリエルだった。

(くっ、そういえば、貴重なご指導の機会を棒に振ってしまったんだった)

 アイザックの朝帰りの所為で、せっかくの機会をふいにしてしまったことを今更に思い出す。

「うん、やっぱり走ってきましょ」

 ミュリエルは青空を見ながら頷いた。モヤモヤする時は身体を動かして、すっきりするにかぎるのだ。

 アイザックは思わずといったようにツッコンだ。

「だから、それはご令嬢としてどーなんだよ」

「あら、私、呪いが解けたからって元の生活にもどれるなんて思ってないもの。だったら楽しんだもの勝ちだわ」

 あっさり言うミュリエルを眺めて、アイザックはつくづくというように呟いた。

「神経も太ぇ〜」

 そのアイザックにミュリエルは素早く蹴りを繰り出す。

「っと! あっぶねー」

「………まだまだぁっ!」

 瞬時に回避したアイザックにミュリエルは身体を捻りながらの二撃目の蹴りをしならせた。

 だがアイザックはスパァンッとそれを自らの蹴りで相殺して叫ぶ。

「だからっ! どこを目指してるんだって話だっ!」

「むぅ。貴方って実はけっこう強いわよね? さすがはアーゼル様の息子!」

「感心するとこが違ぇ!」

 そこに割って入ったのは、神出鬼没の黒い執事だ。

「ははは、放蕩息子でもみっちりしごかれてますからねぇ。

 いや〜、拳で語りあうまでに! 仲がよろしくてけっこう!」

 アイザックとミュリエルはぴたりと動きを止めた。

「いつもながら、気配がないわね」

「ハヤト、お前も、どうしたいんだ」

 突如現れた執事を、二人はそろって胡散臭げに見つめた。

 いったい身分という概念をどこへやったんだ、と言いたいくらい、ハヤトはここぞとばかりに『仲が良い説』をゴリ押ししてくる。

「お二人の息ぴったり具合に憧れてしまいますね〜。羨ましいなぁ」

 明らかにミュリエルとアイザックが嫌がっているのを分かっていて、そう言っていやがる執事もどきに。

「ハヤト? 早く用件を言わないと口にゲロマズな薬を突っ込むぞ?」

 かなり本気の声音でアイザックが脅した。途端に執事は爽やかな笑顔で本題を口にした。

「ガートランド男爵家が布を下ろしている仕立て屋を調べたところ、ジルベリア侯爵家、ミュリエル様がご利用していた店が浮上しました」

「仕立て屋か。呪いのドレスでも着せられたか?」

 ハヤトが頷いた。

「可能性は大ですね。ミュリエル様、結婚式用のドレス選びをなさったでしょう?」

 ミュリエルは「あっ!」と思い当たった。

「ドレスの型を選ぶのに、幾つか試着させられたわ。まさか、そのなかに?」

「婚礼用のアクセサリー類って可能性もあるな」

「ですね。ガートランド男爵家ならば、紛れ込ませることは可能かと」

 アイザックは心底うんざりという顔をした。

「けっきょく、ご令嬢の蹴落とし合いかよ」

 ミュリエルは慌てた。

「待って。私はガートランド男爵令嬢なんて知らないわよ?」

「むこうは知ってんだろうよ。何せモノにしたい伯爵家の婚約者だったんだからな」

 つまり男爵令嬢が婚約者であったミュリエルを排除したかった、と。そう推測もできる。

 しかしそれにハヤトが口を挟んだ。

「あ、それについてなんですが。

 ガートランド男爵令嬢とグラファス伯爵子息が婚約するという噂は、デマのようです」

「ん? しないのか?」

 怪訝な顔になったアイザックにハヤトも「不可解ですよねぇ」と首を捻る。

「これが奇妙でして。どうも、ガートランド男爵が渋っているみたいなんですよね」

「ガートランド家がジルベリア家をハメたってことじゃない、のか? ご令嬢の単独暴走とか」

「あー、男爵令嬢がミュリエル様を妬んで、というのはありそうですね。

 逆に家自体の謀だった場合は、狙った伯爵家が火の車と知って計画を中断した、とか。

 でも玉の輿を狙うなら、下調べくらいしそうなものですけどねぇ」

「けど、ガートランド家の仕立て屋から調べていくのは、アリだな」

 ハヤトとアイザックは呪いをかけた犯人を探る方法を相談しはじめたが、ミュリエルはそれよりもハヤトの発言に驚いていた。

「グラファス家が火の車って、そんな状態だったのっ?」

 ハヤトはそのミュリエルの叫びに「おっと、これは失敬」と苦笑いした。

「ミュリエル様はご存知ではなかったんですね。すみません。

 ですが伯爵家の現状は、ジルベリア侯爵様も承知の上でしたよ。ミュリエル様のご結婚は融資込みという話でしたから」

「ええっ?」

「グラファス伯爵領は負債を抱えていましたからね。といっても、ミュリエル様が嫁いで、そのミュリエル様に幾つかの権利を譲渡する、みたいな約束をしていたようですよ。

 あの家、婚約解消なんかして、大丈夫だったんでしょうかね?」

 まさかミュリエルの結婚にそんな計画が含まれていようとは。まあ、貴族の政略結婚だ。あってもおかしくはないけれど。

 アイザックはハヤトのそれに同じく不審を感じたらしい。

「確かに奇妙な話だよな。そもそも切羽詰まっているはずのグラファス家が、何で婚約解消なんかしたんだ?」

「ミュリエル様が呪われたにしても、謎ですよねぇ」

「でもって、何でこのタイミングでガートランド家のご令嬢との婚約話が噂されているのか、だな」

 しばらく考え込んだアイザックがハヤトに聞いた。

「噂の出所は、調べたのか?」

「あー、まだ確証はないですが。おそらくはグラファス家の方かと」

「………………ますます分からねぇな」

 眉間にしわをよせたアイザックが嫌々ながらという声でハヤトに聞いた。

「どっか潜り込めそうな夜会ってあるか?」

「そりゃもう! アイザック様とミュリエル様は今、最も社交界で注目されているカップルですからね。招くところはわんさとありますよ」

 アイザックがちらっとミュリエルを見る。ミュリエルはアイザックが何をしようとしているのかが、だいたい分かった。

「お互い苦痛だろうが、一晩だ。我慢しようぜ?」

 アイザックは夜会に出席して情報を集めるつもりなのだ。

「いいわ。どうせ好き勝手に噂されているんだもの。笑いものにされたって今更だわ」

 ふんっと鼻を鳴らすミュリエルにハヤトは拍手を送った。

「頼もしいお言葉です、ミュリエル様。では、融通のきく方の屋敷にロバート様とリリアナ様を揃えましょう。あ、お二人が出席する噂も流しますからね」

 だから、この執事は何者なのだ、まったく。

 と、そこでミュリエルは聞いたことのない名前が出たハヤトに尋ねた。

「ねえ、そのリリアナ様っていうのが、ガートランド家のご令嬢なの?」

「そうですが? ご存知で?」

 ミュリエルは首を振った。

「ううん、聞いたこともない名前よ。でも、知っておきたいじゃない」

「ボコる前にか?」

 ニヤッと笑って聞いてくるアイザックにミュリエルは言い返した。

「女の子にはビンタよ」

「……………あんまり変わらねぇと思うぞ、それ」

 そうは言うものの、アイザックのにやけ顔は崩れない。

「けど、ま、一発かましてやるくらいじゃなきゃな」

 何せこんな面倒なことになっているのだ。アイザックにしてみたら、「ご令嬢だろうが殴ったれ!」くらいの勢いだろう。

 それにミュリエルは微笑んだ。

「でもまずは。事実確認をして、呪いを解く方が先よ」

 鉄拳制裁はその後に、だ。

 そうしてミュリエルは晴れやかな気分でアイザックと婚約解消をする。

 はず、だった。少なくとも、この時点では。

 人生というのはどう転がっていくのか、分かったものではない。

 二人の婚約は神様のイタズラのごとく、その行方を変えていくのだった。












第三章 豚でも踊るし恋もする



 ミュリエルとアイザックが情報収集の為、夜会に出席をすると決めて間もなく。

 融通のきく貴族の屋敷に噂のメンバーを揃えた夜会を催す、という、何とも都合の良い機会をセッティングしてしまえるのは、やはりヴィサンテオ公爵の力なのか。

(でも、やっぱりこれを見るのはダメージくらうわね)

 久しぶりに着飾った姿を鏡に映して、ミュリエルは少しだけ落ち込んだ。

 この体型になってから作ったドレスだ、似合っていないこともない。肌の露出を控えた、深緑のドレスは落ち着いた印象だった。

 しかし地味。そして、どうしたって体型に目がいってしまう。

(この姿じゃ、どんなに着飾ってもね)

 まさに豚に真珠。呪いにかけられて、自分はつくづくお洒落とは縁遠い人間になってしまったのだとミュリエルは思った。

「醜いわね」

 鏡のなかの自分にミュリエルは呟いた。呪われてから何度そう呟いたことか。

 醜い身体。醜い顔。でも何より辛いのは――――その醜さを恨んでしまう自分の心。

 呪いはミュリエルの姿だけでなく、心も卑屈に変えてしまう。

(って、ダメ! 心が折れちゃったら、それこそ終わっちゃうわ!)

 全てから逃げ出そうとしたミュリエルに、諦めては駄目なのだと、チャンスをくれ、折れそうな心を支えてくれたヴィサンテオ公爵家は、そうしたネガティヴな心がいかに不毛であるかを教えてくれたのだ。

「まだ諦めるところじゃない」

 ミュリエルは鏡のなかの自分に言い聞かせた。

(呪いを解くのよ。こんなふざけたものに、私の人生を台無しになんかさせない)

 呪いによって変えられてしまったものが全て元にもどるなんて、ミュリエルは考えていなかった。それでも呪いを解きたいと願うのは、己の心を守りたいからだ。

 これ以上、醜くなりたくない。自分を取り戻したい。ミュリエルは理不尽な呪いに屈したくないのだ。

 コンコンっと扉がノックされる音が響く。

「ミュリエル様、お支度は整いましたか?」

 ハヤトの声だ。おそらく他の仕度は整ったのだろう。

「……………ええ。今、いくわ」

 今一度、ミュリエルは自分の姿を確認すると、鏡に背を向けて扉を開けた。

「何とか着られてよかったわ」

「よくお似合いですよ、ミュリエル様」

 廊下で待機していたハヤトにミュリエルが微笑むと、公爵家の有能な執事はにこにこしながらミュリエルを褒めた。

 しかし。

「着飾っても豚は豚だな」

 廊下の壁に背をもたれかけさせ、これでもかと美形オーラを出しているアイザックの言葉がミュリエルに容赦なく刺さる。

 正装をしたアイザックは文句なしのイケメンだった。色気違いの噂に違わぬ、怪しげでいて艶のある立ち姿に、ミュリエルの押し込んだ闇がじわりと吹き出しそうになった。

(中身は残念、中身は残念。外面が王子なだけのダメ男よ、コイツは)

 けしてカッコイイとか、綺麗だとか、思ってはいけない。それはミュリエルの心の傷を広げてしまうから。

 ミュリエルはネガティヴになりそうな気持ちを抑え込み、ついとアイザックから顔を逸らした。

 だいたいこの姿では、いつものように暴れるわけにもいかないのだ。

「おい? どうした? 何か変なもんでも食ったか?」

 常とは違って大人しいミュリエルにアイザックは怪訝な顔をした。

 アイザックの態度は通常運転だ。むしろ過敏になっているのはミュリエルの方だという自覚はあった。

「食べてないわよ。ほら、早くいくわよ、この顔面詐欺師」

 ミュリエルは平静を装ってスタスタとアイザックの前を通り過ぎた。それにアイザックは舌打ちしながらも後ろに続く。

「あー………、かったりぃな」

「一晩でしょ。我慢しなさいな」

「それでも面倒だ。愚痴くらい言わせろよ」

 アイザックは本気で夜会に出席するのが嫌そうだ。

(ま、私も嫌だけど)

 周りが自分達をどんな目で見るか、おおよその見当はつく。楽しい気分になれるはずがない。

「けれどお二人を餌に、んっ、失礼。まあ、ほら、情報を集めませんとね」

 有能だけれど不穏な言葉をチラつかせる執事をアイザックがゲンナリと見た。

「テメーも働けよ?」

「もちろん。お二人の努力を水の泡になどいたしませんよ」

 半眼で睨むアイザックに笑顔で応えるハヤト。そんな二人にミュリエルはつとめて建設的な意見を言った。

「それぞれのできることをしましょう。それが一番近道のはずだもの」

 今夜の目的は情報収集。それ以外の雑事は頭から追い出すことにミュリエルは決めた。

「素晴らしい考えです、ミュリエル様」

「……………ッチ、面倒クセーが、その通りだな」

 三人は今一度、今夜の目的と行動を確認し合い、用意された馬車へと乗り込む。その夜会へと向かう道中で、ミュリエルはアイザックに聞いた。

「ウォルター伯爵様ってどんな方?」

「親父の部下。だからけっこう無茶がきく」

「何か分かるかしら」

 ロバートとリリアナ嬢は本当にミュリエルのこの呪いと関係があるのか。情報収集の為とはいえミュリエルは複雑な気分だ。

 アイザックは淡々とやるべきことを口にした。

「俺はガートランドのお嬢様を探る。お前は元婚約者の方を探れ」

 ミュリエルは顔をしかめた。

「なかなかの試練ね、それ」

「一晩の我慢、だろ?」

「はいはい」

 だがロバートに探りを入れる自信なんてミュリエルにはない。ともすれば、泣いて謝ってしまいそうだ。なんという無茶を言うのか。

 恨めしげにアイザックを睨めば、彼は真剣な顔でミュリエルを見てきた。

「必ずガートランドから情報を引き出してやる。だから―――――我慢してくれ」

 まったく、こんな時だけ真面目だなんて。

(ズルいわね)

 そんなことをちらっと思ったけれど、ミュリエルは「そうね」と頷いた。

「呪いを解いて、早いところすっきりさせてしまいましょう」

 ミュリエルのそれにアイザックはしばらく口籠もったが、それから「だな」と頷き返した。

 ウォルター伯爵邸に着くと、驚いたことにアイザックはミュリエルの手を取り完璧なエスコートをしてみせた。

 うっかり頼もしく見えてしまったアイザックに、ミュリエルは若干の棘を含んで呟いた。

「やっぱり詐欺」

「うるせー」

 そんな二人を遠巻きに見る人の群れ。ほとんどの人が興味津々といった様子だ。

(仕方がないわね。婚約者として初めて出席する夜会だもの)

 それこそ、今晩は見世物になる、なんてのは承知の上だ。

「外野は気にすんな。お前は元婚約者だけを探してろ」

「…………分かってるわ。そっちは男爵令嬢なんでしょ。頑張って。『色気違い』の公爵子息様」

「お前って、本当に可愛げねぇよな」

 こそこそと小声でやり合いながらも、ミュリエルとアイザックはまずウォルター伯爵とその夫人のところへ挨拶にいった。

「今夜はお招きいただき、ありがとうございます」

 形式的とはいえ丁寧に腰を折ったミュリエルに、夫人は気遣わしげに声をかけてくれた。

「控えのお部屋も用意してありますからね。

 困った事があれば、すぐ近くの給仕の者に声をおかけになって」

 夫人は心からミュリエルを心配してくれているようだった。それにミュリエルの心は少しだけ軽くなる。味方がいるのといないのでは大違いだ。

「お心遣いに感謝いたします」

 ミュリエルが微笑めば、夫人は「礼儀の正しいお嬢さんねぇ」と人の良さそうな顔で笑ってくれた。

 しばらくそこで談笑をしていると夜会の始まる合図が鳴り響く。そうなれば全員がダンスフロアに移動しなくてはならない。

 アイザックはウォルター伯爵に小さく頷くとミュリエルに囁いた。

「一曲踊ったら、俺は離れるからな」

「え…………踊るの?」

「一曲だけだ。我慢しろ」

 ダンスホールへと移動しながら、ミュリエルは内心で困っていた。

(踊れるかしら…………)

 一応、ミュリエルも侯爵令嬢だ。ダンスの心得くらいはある。が、呪われてからこの方、殿方とはもちろんのこと、ダンスは踊ったこともなかった。

 失敗せずに踊れるのか。しかも相手はアイザック。ミュリエルは冷や汗ものだ。

「お前の運動神経なら問題ねぇよ。リードすっから、ついてこい」

 ふいにそう言われ、ミュリエルはアイザックを覗き見た。

「貴方、リードなんかできるの?」

「俺を誰だと思ってんだよ? 『色気違い』の公爵子息だぜ?」

 ニヤリと笑うアイザックは自信満々だ。

「ふぅん。じゃあ、豚令嬢を躍らせるなんて、わけないわね?」

「あったりまえだろ」

 二人はダンスホールに進み出て、踊るカップルの輪に交じる。

 途端にものすごい数の視線が二人に注がれた。というか、そうなるのは分かっていた。

(ええぃ、女は度胸よ!)

 ミュリエルは手の震えがバレないように、アイザックの手をきゅっと掴んだ。すると意外だったのかアイザックは少しだけ目を見張ったが。何を思ったのかアイザックがさっとミュリエルの腰に手を回し、密着するように引き寄せたではないか!

「ちょ、ちょっと」

 思わず小声で文句を言おうとしたミュリエルに。

「せっかくだから、楽しめよ?」

 アイザックが囁いて。直後にワルツがダンスホールに鳴り響いた。

 流れるワルツのリズムに乗って、カップルが優雅に踊り出す。アイザックとミュリエルもその流れに乗ってステップを踏んだ。

(くっ、本当に頼もしいリードだわ)

 自信満々なだけはある。アイザックのリードは正確かつフォローも完璧という、何とも嫌味に感じるくらいのものだった。

(中身は残念なのにっ! こーゆーとこだけ、ちゃんとした『公爵子息』なのよね!)

 さすがはアーゼルの教育というべきか。

 憎たらしくなってミュリエルが睨めば、アイザックがニヤニヤと笑いながら見下ろしてきた。

「な? 豚を躍らせるなんて朝飯前だろ?」

「…………足の小指あたりを踵で踏み抜きたくなるわね」

「やるなよ? しゃれにならねぇからな?」

「あら、そこもうまくリードしてくださらないと」

「ああん? んじゃ、本気出すからな? ちゃんとついてこい」

 アイザックがステップを踏む速さを上げた。

「ちょっと!」

 足がもつれたらどうしてくれる! というか、ついていくのがやっとという速さに、ミュリエルは小声で悲鳴を上げた。

「ほらほら、俺の足を踏み抜くんだろうが」

「なッ! 言ったわね? 後悔するんじゃないわよ?」

 ミュリエルは優雅さをかなぐり捨てて、情熱的とも感じられる―実情は足を狙った攻撃の―ステップをお返しにとばかりに繰り出した。

「おい、本当に狙ってくるな!」

「ごめんあそばせ。つい力が入ってしまいましたの」

 日頃の鍛練の成果なのだろう、ミュリエルのステップは体重を感じさせない軽やかさだった。確かにアイザックのリードにちゃんとついていけている。その実感がミュリエルの緊張を少しずつ溶かしていった。

 そうして一曲踊りきる頃には、周りの目も変な気負いも、ミュリエルからはすっかりとなくなっていた。

「ま、そこそこに楽しめたな」

「……………そうね。リードしてくれて、ありがと」

 認めるのは悔しいがアイザックのおかげでずいぶんと気持ちに余裕ができたことは確かだ。

 ミュリエルが素直にお礼を言うとアイザックはニヤリと笑った。

「お? 素直じゃん」

「貴方ほど捻くれていないから。私はね」

「どこがだ」

 小声で言い合いをしつつも、二人はダンスフロアから離れる。そして周囲の視線が薄れたところでアイザックが耳打ちした。

「じゃ、俺は行くからな。お前もやることやれよ」

 ここからは別行動ということだ。ミュリエルが「分かった」と小さく頷けば、アイザックはすっとその場を離れた。

 ウォルター伯爵夫人は全て心得ているとばかりに、ミュリエルの相手をしてくれた。だが主催者がずっと一人を相手にしているわけにもいかないだろう。

 ミュリエルはきりの良いところで夫人に「飲み物をいただいてきます」と微笑んだ。夫人は心配そうな顔をしたけれどミュリエルは「すぐに戻りますわ」と言ってその場を離れた。

 本音では、ミュリエルはガートランド男爵令嬢を見てみたいという気持ちがあったのだ。かつての婚約者、ロバートと婚約が噂されているご令嬢を。

 だがミュリエルが辺りをそれとなく覗いてみても、それらしいご令嬢はおろかロバートさえ見つからない。招待されているはずなのだが、どういうことだろう。

 内心で首を傾げたミュリエルだったが彼女を見つけることは諦めて伯爵夫人のところへ戻ることにした。あまり長く離れてしまっていては、夫人にも迷惑をかけてしまうだろう。

(モメごとはあまり起こしたくないんだけど…………)

 だが、ミュリエルは気が付いていた。自分の背後に張り付いている気配に。それはあまりにバレバレで、しかも拙いものだったので。

 だからミュリエルはギリギリまで引き付けて、それが自分を突き飛ばそうとした瞬間に、くるんっと方向転換をしてやった。

「きゃぁっ!」

 背後にいたご令嬢は見事につんのめって床に手をついた。

(というか、この方、全力で突き飛ばそうとしたわね?)

 可愛らしい淡いレモン色のドレスに身を包んだ少女はミュリエルとそう歳が違いそうにない。

「まぁ、大丈夫ですか?」

 ミュリエルは心底心配そうな顔で彼女の顔を覗き込んだ。もちろん演技だ。

 そんなことは彼女も分かっているだろう。彼女はものすごい形相でミュリエルを睨んでいた。

 ミュリエルは溜息を吐きたくなった。これほどあからさまに嫌がらせを仕掛けてくるだなんて、とんだご令嬢もいたものだ。

(いったい、どこのご令嬢の取り巻きよ?)

 こんなに素直に顔に出すなんて、この少女が主犯でないことは明白だ。そもそも実行犯は下っぱと相場は決まっている。

 ミュリエルはぐるりと視線を滑らせ周りを見渡した。好奇の視線が注がれるなかで、群衆のなかからミュリエルは目ぼしい人物を発見する。

(あの方、確か伯爵令嬢じゃなかったかしら)

 婚約者のいたミュリエルはさほど社交界に熱心ではなかったけれど、それでも彼女の顔を知っているくらいには有名な家のご令嬢…………なはず。残念ながら、名前を覚えていないので確かじゃないけれど。

(後でハヤトに確かめましょ)

 おそらくあの執事ならば調べられるはずだ。

 ミュリエルは視線を目の前の令嬢にもどして声をかけた。彼女はちょうど立ち上がったところだったのだ。

「よろしければ、お手を見せてはいただけません? 怪我があっては大変ですもの」

「…………怪我などありませんわ」

 ミュリエルは自分を睨んでいるご令嬢にすっとハンカチを差し出した。

「痛めているといけません。これをお使いになって。水で冷やすと楽になりますから」

 驚いた顔をしたご令嬢にミュリエルはにっこりと微笑んだ。

「こんな素敵な夜会ですもの、つまらないことで台無しになってしまってはもったいないでしょう?」

 彼女の手をとってミュリエルは半ば無理やりにハンカチを手渡した。

「それでは、お気を付けになって」

 そして背中に突き刺さる視線を無視してミュリエルは歩きだす。

(これからどうなるかは彼女しだいだけれど、もしかしたら)

 好奇の視線に交じって自分を観察するような、奇妙な視線があることをミュリエルは気付いていた。

(罠を仕掛けているつもりが、逆に利用されているような気になってくるわね)

 穿ち過ぎだろうか。ミュリエルは不安を払うように足を進める速度を上げた。

(早く夫人のところにもどった方が良さそう)

 しかしそんなミュリエルを止めたのは、思ってもいなかった人物だった。

「ミュリエル! ちょっと待ってくれないか!」

 聞こえた声にミュリエルは思わず足を止めてしまった。

(えぇっ? 嘘でしょう?)

 まさか彼からミュリエルに話しかけるだなんて!

「ロバート様?」

 信じられない気持ちでミュリエルは振り返って彼を見た。ミュリエルに声をかけたのは、確かに彼、ロバートだった。

 そしてさらに信じられないことに、ロバートは前とまったく変わらぬ様子でミュリエルに近づいてきていたのだ。

「君にこんな風に接する資格もないと分かっているけど」

 そう言うロバートの顔は真剣だった。

「きちんと君と話がしたい。――――いいかな?」

 ミュリエルの心が揺れた。

 アイザックはどこにいるのだろう? ガートランド男爵令嬢のところだろうか。

(勝手なことをしたら怒るかしら)

 だがミュリエルはロバートの言葉を無視できなかった。

(だいたい、ロバート様の相手をしろと言ったのは、あっちだし)

 アイザックの綺麗な顔と憎たらしい言葉を思い出してミュリエルは覚悟を決めた。

「ええ。お聞きいたしましょう」

 頷いたミュリエルにロバートは微笑む。それは婚約者だったころと変わらない笑顔だった。

「じゃあ、いこう」

 呪われる前とまったく変わらない態度でロバートは人が少ない庭園の方へと足を向ける。ミュリエルは少しだけ躊躇ったが、けっきょくはロバートに誘われるままに歩きだした。

 それはロバートの態度が以前と変わらないように見えたから。

(もしかしたら、ロバート様にだって、私に言いたいことがあるのかもしれないし)

 婚約を解消する時、ミュリエルがロバートに会ってお別れを言いたかったように。

 都合の良い考えだとはちらっと思ったが、ミュリエルはそれなりにロバートを慕っていた。彼を信じたい気持ちがミュリエルにはやはりあるのだ。

 人気の少ない庭園の、さらに奥の東屋ともなれば、これはもう密会と言っていいだろう。

(ますますよろしくない噂が立ちそう)

 そう分かっていても、引き返すことができない。

(それに、どうせ一夜のことだもの)

 情報収集の為、と、ミュリエルは自分を無理やり納得させる。一連のことを考えるに、ロバートだって怪しいのは事実だ。

「まるで間男みたいですね?」

 からかうようにミュリエルが言えばロバートが苦笑いを浮かべた。

「みたいもなにも、そのものだろう。君には……………婚約者がいるんだから」

 そんな風に言われるとミュリエルも後ろめたくなる。

 アイザックとはそういった関係ではないと断言できるけれど、世間的に見ればこの逢瀬はミュリエルにだって非があるだろう。

 それをロバートが自覚しているというのも、何だかミュリエルを落ち着かない気分にさせた。

「それでお話とは? 人に聞かれたくない話なのでしょう?」

 単刀直入に聞いたミュリエルに、ロバートは少し迷った風ながらも口を開いた。

「婚約の、ことなんだ」

 ミュリエルの心臓の音が急に大きくなった。

 喉がきゅっと締めつけられたように苦しくなる。だからミュリエルはロバートより先にそれを口にした。

「ロバート様は、ガートランド男爵家のご令嬢のリリアナ様と、婚約されるのですよね?」

「やっぱり……………知っているんだね」

 どこか落胆したような響きのある声にミュリエルはドキッとした。

「ミュリエル、それは間違いだ。僕はガートランド男爵令嬢とは婚約しない」

「えっ?」

 首を振ってリリアナ嬢との婚約話を否定するロバートにミュリエルは混乱した。

 どういうことだろう? ガートランド家との婚約は親が決めたことで、ロバートはそれに反対しているということなんだろうか。

(でも、それを何で私に教えにきたの?)

 いぶかったミュリエルにロバートがぽつりと言った。

「君は優しい」

「ロバート様? 何の話です?」

 身に覚えのない賛辞にミュリエルは驚いた。ロバートはそんなミュリエルの手に手を伸ばし、そっと触れる。

「さっき、ご令嬢を気遣っただろう」

「あれは…………単純に手が痛いだろうにって、そう思っただけで」

 確かに実行犯を押しつけられた彼女に同情した、というのはある。だがあのハンカチは、気遣いというより牽制の意味合いの方が強い。

(あれで優しいと褒められるのは…………ちょっと微妙よね)

 だがロバートには優しい行為に見えたのかもしれない。実際はかなりの勘違いなのだが。

 しかしロバートは不審そうなミュリエルには気付きもしないように話を続けていく。

「あんなに近くにいたのに、僕は君の優しさに気付かなかった。いや、その優しさに慣れてしまっていたんだな」

「あの、ロバート様? 手が」

 ロバートはミュリエルの手を握ったままだ。これはいったい何だろう?

 この元婚約者は、いったいどういうつもりでここにミュリエルを引っ張り込み、手なんぞを握っているのだか。

 ミュリエルには疑問でしかない。

(まさか私、口説かれてる?)

 頭をよぎった考えをミュリエルすぐに否定した。

 そもそも婚約破棄をしたのはグラファス家の方だ。ロバートが口説きにくるなんて、どう考えたっておかしいだろう。

(ええと、だとすると、この状況は何?)

 疑問のループに陥ってしまったミュリエルなどお構いなしに、ロバートは距離を詰めてくる。

「ミュリエル、すまなかった。どうか僕を許してくれ」

「えぇと、ロバート様? 許すも何も貴方は悪くありませんし」

 ミュリエルをじっと見つめるロバートの瞳には、かつてと違って肥太った豚のような令嬢が映っている。だというのに、ロバートは何一つ変わったことなんかないように話してくれる。

 それがまた、ミュリエルの鼓動をおかしくするのだ。

(お、落ち着くの。そう、ロバート様と会話する。なるべく長く。それが私の役目)

 ロバートが何を言いたいのかは分からないけれど、とにかく会話を続けなくては、とミュリエルは混乱したままに考えていた。

 そこに、さらに意味不明な言葉が降ってくる。

「まだ巻き返せる余地があるって、そう思ってもいいのかい?」

「…………………はい?」

 本気で、ロバートが何の話をしているのかミュリエルには分からなかった。

(巻き返すって、何を? ロバート様はいったい何と競っているの??)

 きょとんとしたミュリエルにロバートが微笑んで言った。

「こうする権利は、まだ僕にあるのかなって」

 手を引かれロバートの腕のなかに閉じ込められたミュリエルはド肝を抜いた。

(待って、待って、待って! 何これ? 何でこうなるの? 誰か! 説明してーーーーーーーーッ!)

 ミュリエルの脳内は完全にパニックになった。

 ロバートは黙ったままのミュリエルを都合良く解釈したのか、耳元に口を寄せて囁く。

「君の婚約は解消を前提にしているんだって?

 呪いが解けたら、君と公爵子息との婚約がなくなるっていうのは、本当?」

「…………え、えぇ」

 ミュリエルの思考は空回る。

 だって! 婚約者であった時ですら、ロバートとこんな距離になったことなんかない!

(どっ、どっ、どーゆーことっ?)

 まさか、とは思うが。これはヨリを戻したい、とかいうアレなのか。

(いやいやいや、そもそもロバート様とはこんな関係じゃなかったわよね、うん。婚約者だったけど。お慕いは…………してたけど。何か違うわよね?)

 と、ミュリエルは思うのだが。顔が熱くなって身体が思うように動かない。

 そこに、トドメとばかりの言葉が囁かれた。

「だったら――――僕のキスで呪いが解けたのなら、君は僕のものになる?」

「………………はいッ?」

 ロバートの発言は、完全にミュリエルの理解できるキャパを越えていた。

(キスで呪いが解ける? うん? 心から愛している者のキスでないと解けないんだけど?)

 ミュリエルの頭のなかはパニックだった。

(いやいやいやいや、しないでしょう、この状況でキス!)

 もし今ここで、彼のキスで呪いが解けるのなら、何故グラファス伯爵家が婚約破棄をしたというのか。…………いや、後にロバートが自分の心に気付いたってこともあるけれど。

 だが、それにしても。

(何か、変じゃない? これ?)

 とんでもない急展開は不審そのものだ。

 けれどミュリエルはロバートから顔を背けることができなかった。

「本気…………ではないですよね? 私にキスするなんて」

 驚くべきことにロバートはきっぱりと言い切った。

「本気だ。君に――――キスさせてほしい」

 ミュリエルの身体が固まった。

(ほ、本気っ? 本気って、本当にキスするつもりってこと? え? ………えっ?)

 顎にロバートの手が添えられてもミュリエルは動けなかった。その間にもロバートはどんどんと距離を詰めてくる。

(ほ、本気、なのっ)

 思わずきゅっと目を瞑ってしまったミュリエルは――――柔らかなそれをしっかり唇に感じることになって。

(嘘、でしょう)

 ミュリエルは愕然とした。

(本当に、キス、した)

 しかし聞こえてきたのは愕然とした響きのあるロバートの声だった。

「何故だ? どうして解けない?」

「……………え」

 目を開いたミュリエルは気付いた。自分の呪いが解けていないことを。

 そして困惑しているロバートの顔を見ることになる。

(どういう、こと?)

 何が何だか分からない。

 残念なような、泣きたいような、でも嬉しいような。ぐちゃぐちゃの気持ちのままにミュリエルは「ロバート様」と彼の名を呼んだ。

 そこに。

「悪いが、邪魔させてもらうぜ?」

 ミュリエルにとって一番に、この時に聞きたくない憎たらしい声が響いた。

(何でここにいるの!)

 それも最悪のタイミングで!

 ミュリエルとロバートの目の前に、夜風に金髪を揺らしながらアイザックが姿を現した!

 まさに修羅場! 現婚約者に不倫現場を押さえられた! の図だっ!

(こ、これって、どーなるのっ?)

 いったい何が起こっているんだか! そしてどんな展開になるかミュリエルには見当もつかない。

(でもたぶん! これってコイツの手の平の上ってことよねっ?)

 こうして待ち構えていたということは、アイザックはこうなることを想定していたということだ。だというのに。

(でも何でそんな顔してんのよっ?)

 近づいてきたアイザックは何故か眉間にしわを寄せていて、そして手荒くミュリエルの腕をつかむとロバートからひっぺがしたのだ。

 そしてアイザックは不機嫌な顔のままにロバートに問いかける。

「どうやら呪いは解けないみたいだな?」

 ミュリエルを東屋から追い出して、アイザックは呆然としているロバートを苛立ちの交じった目で見ていた。

「で、でも、解けると、そういう呪まじないだと」

 そのロバートの呟きにミュリエルは目を見開いたが。

「ロバート様? どうしてミュリエル様と一緒にいるの?」

 後ろから聞こえてきた可愛らしい声にミュリエルはさらに驚いた。だがロバートはミュリエル以上に驚いたようだ。

「リリアナ? 何故、君がここに」

 そのロバートの口調にミュリエルは分かってしまった。ロバートはリリアナと関係があったのだ。それなりに、親密な。

 アイザックが歪な笑顔でロバートに教えた。

「俺が連れてきたんだよ。真実を知らしめようと思ってなぁ?」

「なッ? これはお前の仕業なのか?」

「これってのは、リリアナ嬢がここにいることか?

 …………それともミュリエル嬢の呪いが解けないことか?」

 探るようなアイザックの目にロバートは押し黙った。

 そのロバートの前に、アイザックはご令嬢二人を後ろにして東屋の入り口に立つ。

「何を焦っているんだ? 全てはアンタの計算通りのはずじゃないか。

 だってアンタは―――――ジルベリア侯爵令嬢との結婚に反対だったんだからな」

「えっ?」

 思わず声を上げてしまったミュリエルをアイザックは一瞬、困ったヤツを見るような目をむけたが、すぐに視線をロバートにもどした。

「金銭面で伯爵家は侯爵家に借りを作ることになるからな。アンタはそう偉そうにできる立場じゃなくなったはずだ。

 もっとも、グラファス伯爵もアンタの散財には頭を痛めてた。ミュリエル嬢はちょうどいい首輪ってわけだ。派手な遊びでもすれば、そこにいる女は黙っちゃいないはずだもんな。

 それを知ってたアンタにとって、ミュリエル嬢との結婚は都合が悪かった、と」

 アイザックのそれにミュリエルは眉間にしわを寄せた。

 そりゃあ、不審なお金の流れがあったり散財を見つけたら、ミュリエルは突っ込んで話したとは思うけど!

 その言い方に悪意を感じるっ!

(それじゃ、私がド恐い嫁になるみたいじゃない!)

 いや、実際になっていたかもしれないが。それは否定できないが!

 ざっくりとミュリエルの心にナイフを突き立てながらアイザックは続けた。

「それもタイミング良くガートランド男爵家のご令嬢とお近づきになったしな? 

 アンタはミュリエル嬢と縁を切る方法を模索しはじめたってわけだ」

 つまりロバートは、尻に敷かれる可能性の高いミュリエルよりも御しやすく金もあるリリアナの方に乗り変えたかった、と。

(ねぇ、それって、まさか)

 ものすごく嫌な推測しかできないアイザックの話に、ミュリエルは嫌な汗がでる。

(私の呪いの原因って)

 そこでリリアナが震えた声でロバートに訴えた。

「私の為だって。私を愛しているから、ミュリエル様と別れる為にって。そう、おっしゃったではないですか!」

 その声の必死さにミュリエルは解ってしまう。

 男爵家の娘が伯爵家の子息に声をかけられたのなら、きっと舞い上がってしまうだろう。ミュリエルだって覚えがあった。それも愛を囁かれたりなんかしたら。

 結ばれたくて、言いなりになってしまったとしておかしくはない。

 ズキンとミュリエルの胸に痛みが走った。

(リリアナ様の気持ちが分かるわ)

 きっと、恋をしていたのだ。リリアナも。ロバートに。

「ところがガートランド男爵は予想外に頭の切れる男だったってわけだ。

 娘がしたことに薄々気付いて、伯爵家との婚約をつっぱねた。娘ごと切り捨てて、な。アンタは大焦りだったよな?」

「でたらめだ!」

 ロバートがものすごい形相でアイザックを睨んだ。

「じゃ、これは何だ?」

 アイザックは懐からネックレスを取り出し、シャラリと掲げてみせる。

 ロバートがバッと胸の内ポケットを確認し「手癖の悪いガキが」と唸った。

「これ以上、ミュリエル嬢の呪いをややこしくされるなんて御免だからな。いったいなんの呪いだよ、これ」

 ネックレスを胡散臭そうに見やってアイザックは肩を竦める。成る程、そのネックレスには何らかの呪いがかけられているのだ。

 しかしロバートはアイザックのそれを鼻で笑った。

「それで彼女の呪いが解けるというのに。そんなことも分からないのか?」

 そして彼は訴えるようにミュリエルに顔を向けた。

「ミュリエル、ここにいる男が君の呪いを解く邪魔をしたんだよ。あのネックレスがあれば、君の呪いは解けたんだ。信じてほしい」

 その心底ミュリエルの呪いが解けると信じ切っているロバートの表情に、アイザックは顔を歪めた。

「クソッタレめ! ミュリエル嬢を呪ったのはアンタじゃないんだな?

 こんな紛い物で呪いを解こうとしてるくらいなんだからな! そうだろうよ!」

 アイザックはくるりとロバートに背を向け、ミュリエルに首を振った。

「このネックレスで呪いは解けねぇ。むしろお前の呪いをややこしくするだけだ!

 お前を助けたいって気持ちが少しでもアイツにあることに賭けたんだがな。とんだクソ野郎だったってわけかよ、あぁ、胸糞の悪ぃ!」

 忌々しげに吐き捨てたアイザックはリリアナにも冷たい目をむける。

「そこのバカ女も自分が何をしたか自覚なしときてるし。本当に貴族ってのはキチガイばっかりだな!」

 リリアナは「そんな! 私はロバート様の力になりたくて!」と、まるで悲劇のヒロインばりの様子で必死にロバートに言い募った。

「たとえこの身一つになったとして、私と一緒になってくださると言ったのは、嘘だったのですかっ?」

 だがロバートは彼女に冷笑を向けた。

「無一文の君に何の価値がある?」

 リリアナは絶句した。同時にミュリエルにもはっきりと分かってしまった。

(これがロバート様の本性なのね…………)

 だというのに、ロバートはこんな状況下でもミュリエルに微笑むのだ。

「ミュリエル、僕なら君の呪いが解けるよ。その呪いを作った魔女を知っているからね。

 君さえ大人しくしていてくれるなら、元の身体にもどしてあげる。

 醜い姿でいるのは嫌だろう? 僕の言う通りにするのが、君にとっての最善だよ?」

 今までミュリエルが見てきた、知っていた彼は、上辺だけのものだったのだとミュリエルには分かってしまった。

 けれど揺れるものがミュリエルの心にはあって。それが堪らなく辛い。

 黙ったままのミュリエルにアイザックが鋭く言った。

「その野郎に呪いは解けないぞ。このネックレスは紛い物だ。

 遊ばれているだけなんだよ、ソイツもな」

 ミュリエルはアイザックとロバートを見比べて、ロバートに尋ねた。

「私に呪いをかけたのは、ロバート様なのですか?」

「いいや、そこにいるリリアナ嬢だ。彼女の暴走が今の事態を招いた!」

「ロバート様はリリアナ様と恋仲だったのですか?」

「違う! 彼女が一方的に僕に迫ってきてたんだよ」

「ロバート様は、本気で私の呪いを解くつもりで、キスしてくださったの?」

「そうだ! なのに、そこの男が邪魔をしたんだ」

 ロバートの言い分を聞き終え、ミュリエルはアイザックを見つめた。

「この状況下で、私の呪いは解ける?」

 アイザックは一瞬だけ唇を歪めて―――――力なく首を振った。

「悪ぃ。俺には解けない」

 ミュリエルは深く息を吐いてから言った。

「私はロバート様を選ばない。……………この二人を取り調べて」

 あの執事は必ず近くに潜んでいるだろうと予想して、ミュリエルはそう言った。

 途端に。

「―――――はい」

 いつもと同じように気配なく現れたハヤトと、ウォルター伯爵家の従者達が、あっという間にロバートとリリアナを囲んでしまった。こうなったら後は彼等に任せてしまった方がいいだろう。

 無言でその場を離れようとするミュリエルをアイザックが「おい」と引き留めた。

「アイツ、殴らねぇの?」

 ロバートのことを言っているのだろう。だがミュリエルは力なく首を振った。

「―――――疲れた。帰りたい」

 そんなミュリエルを一瞬アイザックは怪訝そうに見た。だが、「だな」と同意してアイザックはミュリエルと一緒に歩き始めた。

 後ろでロバートがまだ何かを喚いていたが、ミュリエルはもう聞きたくなかった。一刻も早くそこを立ち去りたかった。

 揺れる心を押し殺して。ミュリエルは足早に庭園から離れたのだった。












第四章 二人のキスと秘密の力



 ウォルター伯爵に退出を告げ、二人は帰宅の馬車に乗り込んだ。散々な夜会だった。

 馬車のなかは何とも言えない沈黙で満たされた。

「あんなクソ野郎、殴ってやりゃよかったのに」

 外をぼんやりと見つめているミュリエルにアイザックは呆れたように言った。

 ミュリエルはそれに熱もなく呟いた。

「ロバート様を問い詰めたところで、どうせ私の呪いは解けないんでしょ」

 アイザックはそれに躊躇ったがけっきょく肯定した。

「ガートランド男爵令嬢が言うには、彼女がしたのは仕立て屋にあの男が紹介した女を紛れ込ませただけって話だ。

 ただ、あの男はネックレスで呪いが解けると信じきってた。たぶん、その女から渡されたからだろ」

 つまりロバートをそそのかした誰かがいるわけだ。

「ロバート様もリリアナ様も、上手く使われたのね」

「違うね。二人共、利己的に動いて自滅したんだ。だいたい婚約破棄したくて呪いをかけたくせに、予定狂ったらヨリもどそうとか、考えがクズすぎんだろ」

 アイザックの言うことは正論だ。冷静に考えれば、ロバートは怪し過ぎる。

 だがもし、あの場でロバートに呪いが解けたのなら? ミュリエルはロバートを受け入れてしまっていたかもしれない。いや、今も。

(ダメ。それ以上は考えない。考えたらダメよ)

 ミュリエルは自分の思考を停止させて、ひたすら外を眺めた。

 そんなミュリエルにアイザックは声を荒げた。

「おい、何だよ、お前! いつもオレに食って掛かる勢いはどこいったんだよっ?」

 しかしミュリエルはけしてアイザックに顔を向けようとはしなかった。ただ暗闇に目をやるだけだ。

「ちょっと黙ってて」

「あのなぁっ!」

 そこでアイザックは気が付いた。ミュリエルの身体が震えていることに。その理由に、アイザックは気付いてしまった。

「……………泣くとか、マジかよ」

 アイザックの声に驚きの響きがあって。ミュリエルは悔しくなった。

(何で気付くのよ。てか、黙ってなさいよ)

 本当にこの男は無神経だ。だから、きっとミュリエルのこの涙の理由だって馬鹿にする。

 それが容易に想像できてしまうから。

「ほっといて」

 ミュリエルは知られたくなかった。

 アイザックには、絶対、絶対、知られたくなかったのに。あっさりと彼は暴くのだ。

「あいつのこと好きとか……………どんだけチョロイんだよ」

 無神経に暴かれて、ついにミュリエルはアイザックにむかって怒鳴った。

「アンタには分かんないわよ!」

 アイザックを睨むミュリエルの瞳からは、ぽろぽろと涙がこぼれていた。

「……………何だよ、それ」

 呻くように言ったアイザックにミュリエルは続けた。

「そうよ! 好きだったの! ロバート様のことが好きだった!

 婚約者だったし、優しかったもの! ロバート様のこと未来の旦那様だって思ってた!」

 こんなことなら、知らないままでいたかった。

 ロバートのことも、リリアナのことも――――自分の気持ちも。

 知らずにいれば、自覚なんてしなければ、こんな風に傷つくこともなかったのに。

 それもこんな無神経な男の前で泣くなんて、みっともないことをせずにすんだのに。

 でも、もう無理だった。ミュリエルに取り繕える余裕なんかない。

「バカだって言えばいいわ。でも期待したのよ。呪いが解けるかもって。ロバート様のキスで解けたらいいのにって。えぇ、バカよね? ありえないもの!

 それに貴方にしてみたら、たかがキスくらいで泣くなんて信じられないでしょうよ!」

 ミュリエルは叩きつけるようにしてアイザックに叫んだ。

「アンタに分かるわけがない! だからもう、ほっといてよっ!」

 すっかり感情をブチまけて、ミュリエルはまた窓の外を見ようとした。

でもそれは―――――できなかった。

「分かりたくもねぇよ!」

 アイザックがそう叫びながら、ミュリエルの両頬を掴みやがったからだ!

 がっちり顔をアイザックに固定されて、ミュリエルはアイスブルーの瞳を間近に見た。

 その苛立ちに満ちた瞳を。

「好きだっただぁっ? あんなクソ男を? ふざけんなっ!」

「なッ」

 言い返そうと口を開きかけたミュリエルだったけれど。

「たかがキスだろーが!」

 ミュリエルが何かを言う前に、その唇にアイザックが噛みつくようなキスをした。

「んんっ! ぅ、」

 さすがは色気違いと噂されているアイザックだ。キスも手慣れ過ぎている。

 ミュリエルの唇のなかまで侵入しようとするアイザックに、ミュリエルは思わず目の前にある彼の胸を力いっぱい押しのけた。

 突き飛ばされて退いたアイザックは、しかし妙に満足げだ。

「ッ、調子が出てきたじゃ――――」

 のだが、そこで何故だかアイザックは固まった。

 そして目を見開いてまじまじとミュリエルを見つめると。

「嘘だろ?」

 呟いて―――アイザックはいきなりミュリエルの頬に手を伸ばしそれをつねった。

「痛! 何すんのよ!」

 痛みにアイザックの手を振り払ったところで、ミュリエルも気付いた。自分の腕が細くなっていることに。いや、身体の全体が―――――。

 ミュリエルがバッと馬車の窓を見れば、そこに映っているのは華奢なご令嬢の姿だった。

(嘘。呪いが……………解けた?)

 自分の頬に手をやりミュリエルは今度は自分でつねってみた。

「痛い」

 さっきアイザックがつねった時と同じ痛みだ。と、いうことは。これは現実。

(でも待って。呪いが解けたのって―――――まさか彼のキスで?)

 ミュリエルは思わずアイザックに視線をもどしてしまった。

 呪いを解くのは――――心から愛する者のキス、だ。

 呆然とするアイザックと目があった。

「違う!」

 アイザックが叫んだ。それにミュリエルも即座に叫び返す。

「まだ何も言ってない!」

 するとアイザックはミュリエルから目を背けて顔を両手で覆うと、自問自答するようにぶつぶつと呟きだす。

「何かの間違いだ。こんなこと、起こるはずがない。起こるはずがないだろ?」

 それはミュリエルもそう思う。まったくその通りだと思う。けど。

(こ、心から愛する?)

 そのフレーズがミュリエルの頭をぐるぐると回ってしまう。

(違う。違うって! そんなわけないでしょっ?)

 アイザックが? ミュリエルのことを?

(ないないないないないっ! 絶対に、ない!)

 だがミュリエルの顔は真っ赤に染まっていった。

「な、何の呪いなの? 貴方、何かしたんでしょ? だから解けたとか。

 あ、あのネックレス! アレが本当に呪いを解くアイテムだったりして!」

 早口でそんなことをミュリエルは喋った。もう、わけが分からない。

 とにかく何か話して、いつも通りの罵詈雑言のやり取りをしたかった。

「ネックレスならハヤトに預けた! オレは何もしてない!」

「でも、だったら何で!」

「オレが知るか、よ…………」

 そこで顔を見合わせてしまって。二人して固まった。

 だって――――お互いに顔が真っ赤なのだ。

 アイザックの瞳には本来のミュリエルの姿が映っていた。

 少し勝ち気な小顔の少女が。ハシバミ色をした可愛らしい瞳が、アイスブルーの瞳を覗き込んでいる。

 一呼吸の後。

「ぜってぇ、何かの間違いだッ! 解けるわけがねぇッ!」

 アイザックが絶叫した。

「ないないないッ! ありえな―――――は?」

 しかしアイザックはまたも驚愕する。

「え? いや、待て。何が起こってる?」

「何を―――」

 困惑しているアイザックにミュリエルはまたバッと窓を見た。すると、そこにいるのは呪われた豚令嬢。

「えっ? どういうこと?」

 先ほど見えたあれは、幻だったのだろうか。

(違う。本当にもどってた。…………でも、またこの姿になってる)

 中途半端に呪いが解けた、ということなんだろうか?

 次々に浮かんでくる疑問に考え込んでしまったミュリエルの隣で。

「いや、うん、これはアレだ。間違いってことだな」

 アイザックが何やら一人で納得したようなことを呟いた。

「は? どういうこと?」

 顔をしかめるミュリエルにアイザックは大きく頷くと力強く言い切った。

「さっきのはノーカウント。ナシだ、ナシ。よっしゃ!」

 そしてアイザックはグッとガッツポーズをする。

「………………はあぁぁぁぁぁっ?」

 ミュリエルは思わずアイザックの胸元に掴みかかってしまった。

 そのミュリエルの腕は見事にハムのようなむっちりで。身体に感じるのはお馴染みの重量。

(ほんと、どーゆーことよっ?)

 呪いは解けたのか、解けなたならば何が理由なのか、そして再びこの姿に戻ってしまったのは何故なのか。

 おそらくあれだ、アイザックのキスが原因だ。というか、タイミング的にあれしかないだろう! でもって、こうなってしまったのも、絶対にアイザックが原因なのだーーー!

 ミュリエルはがっくんがっくんアイザックを揺らしながら怒鳴った。

「ちょっと、ちゃんと解きなさいよっ?」

「はぁッ? さっきのは何かの間違いだ! 誰がお前なんか!」

「じゃ、も一度キスしなさい!」

「ぜってーヤダ!」

「たかがキスなんでしょ! しなさいったら、しなさい!」

「断固拒否だ!」

「あっ、コラ、口を隠すなぁーーーーー!」

 馬車のなかで暴れに暴れる二人がハヤトに叩き下ろされるのは数十秒後。

 ハヤトにたっぷりと嫌みを言われ、二人が休戦を約束し、ヴィサンテオ公爵邸へと帰りつく頃には。

 ミュリエルは失恋したことなんか、すっかり忘れてしまっていたのだった。



 そんなこんなが起こった、夜会の次の日。

 ヴィサンテオ公爵邸のアーゼルしか使えない私室に、彼の二人の息子は集められていた。

 しかし集めた当の本人が不在ときている。しかたがないので二人の息子はソファーに座って待つしかない。

 と、長男のハイルフォードがぽつりと呟いた。

「成る程。親父殿は陛下とご相談、か」

 視線を上げて部屋に入ってくる者を見るハイルフォードに、アルベルトも、やっとその存在に気が付いた。

「ええ。説明を任されてしまいました」

 音も気配もなく入室していたのは神出鬼没の執事。

 ハヤトは二人の前までくると、にこりと笑って言った。

「旦那様はお屋敷にはもどられません。その方が合理的なのだそうで」

「合理的、か。丸投げと言っていいと思うのだが」

「それだけ、お二人を信頼しておいでなのです」

「都合がいいなぁ、その言葉」

 眉を下げるアルベルトとは反対にハイルフォードは視線を鋭くした。

「何か動きが?」

「はい。はっきりと『魔女』の痕跡が確認されました」

「やっとか」

「仕方がないですよ。何しろ、相当な術者なんですから」

「その厄介な『魔女』の侵入を許したのだろう? 我が国は」

「まぁ、そうなります」

「で? その目的は何だ?」

 ハイルフォードはハヤトに鋭い目をむけた。

「尻尾の毛くらいは手に入れたんだろう?」

 ハヤトは少しだけ苦笑いをしながらも頷く。

「何とか素性くらいは分かりそうですがね。…………目的がどうにも。

 陛下も旦那様も、そこを計りかねているようですから。とはいえ、『魔女』は本来、気まぐれな災害のようなもの。目的などない可能性もありますが」

「悪戯のわりに、手が込んでいるように思えるけどね」

 アルベルトのそれにハヤトも同意はする。

「私もそう感じます。今回のことは『協定』に違反している場合がありますからね。ですが…………『魔女』は一括りにできるものでもありませんし。いくら『協定』があるとはいっても、例外はありますから」

 ハイルフォードは目を細めながらずっと考えていたことを二人に確認した。

「となれば、やはりこちらの切り札はザックか」

「だろうねぇ」

 兄の意見に同意しながらもアルベルトは溜息を吐くしかない。

「どう考えても、アイツが自覚するしかないんだけど。陛下はまだ隠しておけと?」

 それにハヤトは実にイイ笑顔で二人に告げた。

「陛下も旦那様も、お二人を信頼なさっています。

 真実を上手く誤魔化し、尚且つアイザック様を使えるようにしてくれ、とのことです」

 ハイルフォードとアルベルトはしばらく沈黙した。

「……………オマエのことといい、よくよく陛下は我が家に無茶を押しつけてくださる」

「ええ! 陛下と旦那様にはいくら感謝してもしたりませんよ」

 ハイルフォードはぎろりとハヤトを睨んだ。

「だったらもっと働け、東の鴉が」

「狩りは狐の仕事でしょう?」

 睨みあうハイルフォードとハヤトを横目に、アルベルトは「無茶言うよ」とぼやいた。

「誤魔化せと言っても限界ってものがあるよ。そのうちザックは気付くだろうし。というか、今だって疑ってるからね、アイツ」

「だろうな。アレは馬鹿ではないからな」

 厄介な、と顔をしかめる二人に、そこはハヤトも同意した。

「おそらくずっと真実を隠し通すのは無理でしょう。

 けれど今は、アイザック様にご本人の出自を気付かれることは得策ではありません」

「まぁねぇ。ただでさえ、厄介な身の上だもんね。殿下は」

「ああ。ザックには今しばらく、我らが愚息という身分でいてもらわねば困る」

 そこでアルベルトがハヤトに確認するように聞いた。

「そういえば、ミュリエルちゃんの呪いは一時的とはいえ、解けたんだよね?」

「はい。ほんの少しの間でしたが、解けていたことは事実です」

 御者台にいたのが呪いに精通したハヤトでなければ気付けなかっただろう。ほんの僅かな時間に起きた、特別な呪いの気配には。

 ミュリエルの呪いが解けたことは、真実を知っている人間達にとっては、特別な意味を持っていた。

「ザックが『魔女の血』の力だけではなく、『血聖』の力を併せ持っていることの証ということか」

「おそらく、ね。まだ何とも言えないけど」

 ミュリエルの呪いは『血聖』の力では解けない。しかし、『魔女の血』の力だけでも、おそらくは無理だ。

 アイザックでなければ――――その『血』を両方受け継いだ、彼でなければ。

「あの『血』の力を思うままに使うことができれば、ザックはこの国の切り札となる、か」

「使えるならば、だけどね」

 その二つの血は相反するもの。そして本来ならば、その二つを併せ持つなどあり得ない。

 しかし、そのあり得ない存在が、アイザックなのだ。

 それはアイザック本人にすら隠された真実。

 秘されたそれは、彼がヴィサンテオ公爵の本当の息子ではないということ。彼の本当の父親は、この国の王弟であるということだ。

 アイザックは隠されなければならなかった。国を出奔した王弟が、ふらりと連れ帰ったその赤子は。

 本来ならば生まれるはずのない、相反するはずの魔女との間にできた子供であったから。

『血聖』と『魔女の血』の両方を受け継いだその子の存在を、むやみに知られるわけにはいかなかった。

 だが今は、その力こそ、この国に必要なのかもしれないのだ。

「前途は多難そうですけれどねぇ」

 アイザックの力の不確定さを思い出して苦笑いを浮かべるハヤトに、アルベルトはとびきりの笑顔で言った。

「そこはミュリエルちゃんに期待じゃない?」

 それにハイルフォードが深く頷いた。

「彼女は思わぬ掘り出し物だ。あんな娘がいるなら早く知らせろ、アル」

「いやぁ、あそこまで根性据わってるなんて思わないじゃない。

 それにグレナは良い友達だし。ウチのゴタゴタに巻き込むのも気が引けたしね」

 ミュリエルの兄、グレナードと学友の間柄だったアルベルトはミュリエルにも内緒で現在の状況を彼に伝えていたりして。そして妹の変わりようを聞く度に呻く彼を目の当たりになんかしていたりする。

「次期ジルベリア侯爵には期待しよう。長い付き合いになりそうだ」

「あー、そこらへんはもう覚悟したみたいだよ。

 ああ見えて、良いお兄様だからね、彼。妹を大切にしてる」

 遠い目で「妹を頼むな」と言っていた友人には悪い気がしなくもないアルベルトだったが、もうどうにもならないだろう。腹をくくってもらうしかない。

 方向性はすでに出た。

 三人は顔を見合わせ、最後の確認をする。

「では我々は、今後ともミュリエル様に頑張っていただけるように尽力しましょうか」

「そうだな」

「賛成~」

 こうしてアイザックとミュリエル、つまり色気違いの三男坊と呪われた豚令嬢の婚約が、このまま続行されることが―本人達の意思などまったく皆無のなかで―決定したのである。



 さて、婚約続行が決定され、次にヴィサンテオ公爵邸で敢行されたのが。

 まさかの『本当にアイザックのキスで呪いが解けるか実験』だった。

 しかも何故だか、ヴィサンテオ公爵家の人達に見守られながら、の。

「ちょっと待て! これは何の拷問だっ?」

「わ、私も、これはいくらなんでも、問題があるかと!」

 だがそのアイザックとミュリエルの抵抗発言も虚しく響く。

「ミュリエルちゃんの呪いを解く糸口でしょ。やってもらわなきゃ困るよ」

「二人の婚約の、真の目的を思い出してもらおうか」

「ザック兄様だけミュリエル様の本当のお姿を知っているなんてズルいわ!」

 アルベルト、ハイルフォード、リザベルが口々に反論してくる。

 三対二、いや正確に言うならば、アーゼルと執事のハヤトもそこに加わるので五対二。多数決では不利な状況だ。

(いやいやいやいや! でもおかしいわよねっ? 何でこんなに見物人がいるのっ?)

 こう、もっと配慮とか! 尊重とか! あってもいいのではっ?

 というミュリエルの思いは、しかしどうやらこの三人には通用しないようだ。

「見世物じゃねぇ!」

 叫ぶアイザックにハイルフォードが相変わらずの無表情で頷いた。

「むろん見世物ではない。これは今後の方針を固める重要な案件だ。

 ということで、さっさとキスをしろ」

「正論言えば丸めこめると思うなよ? このクソ兄貴」

「えー? でも、せめて僕は確認しないと困るんだけど。

 こう見えて、陛下からミュリエルちゃんのことを頼まれてるし」

「ウルセェ! そこのクソその二! 嘘の報告なんかするか!

 俺はとっとと呪いを解いて、この女と婚約解消したいんだっ!」

 喚くアイザックを、この時ばかりは応援したくなるミュリエルだった。

「あのぅ、本当に皆様の前で、その、キスしなくちゃ駄目ですか?」

 そりゃあ確かに、皇太子様とキスをした時だって、分析班の人達や陛下に見守られてのキスだったが。

 しかしあの厳かな雰囲気とこれでは、なんというか、言っては悪いが野次馬感があまりに強過ぎて、ミュリエルも微妙にキスをしにくい。

 しかも相手はアイザックなのだ。余計にやりにくい。

(あ、でも、二人きりでキスとか逆に嫌かも?)

 奇妙な雰囲気になるだろうことは間違いない。それはミュリエルには歓迎できないことだった。

「私達がいては、お嫌ですの? ミュリエル様」

 うるうるとしたリザベルの瞳にミュリエルは思わずたじろぐ。そこに畳み掛けるようにリザベルは手を組み合わせ懇願するのだ。

「私、ミュリエル様の本当のお顔を拝見したいのです。呪われたその姿を脱ぎ捨てた、ミュリエル様の真のお姿を。

 あ! 今のミュリエル様がいけないというわけではないのです! この姿のミュリエル様だって私、とても好きです!

 でも、やっぱり! 真のお姿を知ってこそ、今のミュリエル様が輝いて見えると思うのです!」

 どうしてだろう、可愛い公爵令嬢の秘めた何かをうかがわせるような、そんな発言のような気がしてならないミュリエルだったが。

 しかしやっぱりというか、この美少女にミュリエルは弱かった。

「わ、分かりました。大丈夫です! そう、実験ですもの! 立会人は必要ですよね!」

 ぐっと拳を握り締めて叫んだミュリエルにリザベルは歓喜の声を上げる。

「ミュリエル様! しっかり見届けさせていただきますわっ!」

 アイザックが抗議の声を上げた。

「リズまで、ふざけてんじゃねぇぞ!」

 しかしその抗議はしっかり却下される。…………三人に。

「あら、私は真剣ですわよ? ザック兄様。ミュリエル様の本当のお姿が見られるかもしれないのですもの!

 ええ、その為ならキスなんて些細なことです。さっさとおすませください」

「ほらほら~、ミュリエルちゃんも覚悟を決めてくれたことだし。ザックも早く呪いを解いてあげたいんでしょ。ちゃちゃっとキスしちゃいなさいって」

「お前のことだ。キスの数に入らないだろう。早くしてやれ」

 妹、兄達からのそれに、頬を引きつらせたアイザックだったが。

「テメェら……………クソっ! もう、さっさとすませるぞ!」

 そこで完全拒否、逃亡を図らなかったのは、アイザックの真面目さのあらわれか。はたまた隙なく扉の前に控えているハヤトに観念したのか。

 アイザックはずんずんとミュリエルに近づくとそのむっちりした腕をがしっと掴んで引き寄せた。そして手馴れたようにミュリエルの顎―もちろんそれは二重顎―に手を添えて下を向けないように固定する。

「顎に指が食い込んでるんだけどっ?」

「うるせぇ! 黙ってろ!」

 双方眉間にしわを寄せながらも、だんだんと近づく顔。

(うわ。これ、緊張する)

 やっぱり周りに人がいてよかった。でないと、うっかりヨロめかないとも限らない。

(これは実験。コイツは私のことを、好きでもなんでもない!)

 透き通ったアイスブルーの瞳にドキドキしないようにミュリエルは自分に言い聞かせた。

「ッチ、目くらい瞑れよな」

 忌々しそうなアイザックの声にミュリエルはハッとしたが、その時には目を瞑ったアイザックの顔が迫っていた。

 そして柔らかな感触がミュリエルの唇にあたる。

 ちゅ、と音を立てて離れた、それは。

(あああああああ、やっぱ、恥ずかしい! 何でこんな!)

 目を瞑るなんて動作、している余裕なぞあるか!

 もう全身真っ赤になって固まってしまったミュリエルだったが。

「戻ったな。本当に」

「わーお。可愛い!」

「素敵! なんて素敵なの!」

 三人の歓声に我に返って、ミュリエルはバッと用意されていた姿見に振り返った。

(もどってる!)

 そこにいたのは、自分でも忘れかけていた呪われる前の、ごくごく普通のご令嬢だった。

 サイズのあっていないドレスが肩からずり落ちそうになっているその姿に、ミュリエルはジィンと感動した。

(というか、前よりほっそり? というか、しなやか? になってない?)

 首から肩にかけてのラインなどこんなに綺麗だっただろうか?

 思わずぼぅっと自分の姿を見つめていたら、後ろからいつもの調子の憎まれ口が飛んできた。

「呪いが解けたら解けたで、平凡なのな」

 成る程、肥っていてもいなくても、アイザックの口の悪さは変わらない、と。

「キスしたら絶世の美女、っていうお約束が外れてごめんなさいね」

 くるりと振り返ってミュリエルがアイザックを睨むと、アイザックはぷいと横をむいてしまった。

「お前にそんな期待なんかしてねぇから、安心しろよ」

「あら、それはよかった。でも私だって、貴方に期待なんかしていなかったから、おあいこね?」

「……………うるせ」

「だから―――――ありがとう」

 素直にお礼を言えば、アイザックは何故だかとても渋い顔をした。

「何よ、その顔」

「お前に、ここで礼を言われると、微妙だ」

 本当に複雑そうな顔で言葉を区切りながらアイザックが言うものだから、ミュリエルは可笑しくなった。

「だって、これ、前進したってことでしょ」

「………………まぁ、そーなんだが」

 ミュリエルにも分かっていた。これは呪いが解けたわけではないことが。

 それでも、この姿にもどれたということは、大きな前進には違いない。

 アイザックは渋い顔のまま呻いた。

「で、こーなる、と」

「分かりきってたことでしょ」

「まーな」

 そうこうしているうちに、ミュリエルの身体はもとの豚令嬢にもどっていた。

 しかしこれは想定内の現象だ。こうなるだろうことを予想していたミュリエルはそう落胆することもなかった。

「だいたい三十拍くらいですかね」

 ミュリエルがもとにもどっていた時間を計っていたハヤトが呟く。

「この現象は『魔女の血』によるものだろう。だとするなら、ミュリエル嬢がもとの姿でいる時間は伸びる可能性がある、か」

「父上と陛下が考えていた通り、『魔女の血』には呪いを制御する力があるみたいだね。解く力でなくて、変質させる力なのかな?」

「完全に呪いを解くんじゃなくて、変質させるっつー方法か。

 でも、根本の解決にはなってねぇじゃん」

 一応はミュリエルの呪い問題を何とかしようという気のある兄弟だ。

 ああでもない、こうでもないと、言い合っていたが。

「でもこのキスの現象については、もう少し調査してみないとねぇ」

「そうだな」

 アルベルトと杯フォードの話の流れに、ミュリエルは嫌な予感がした。

「おい、待て。その調査ってのは、あれか? キスし続けろってことなのか?」

 アイザックの質問にアルベルトがしれっと答えた。

「そうだね。とりあえず、キスの効果が分かるくらいは」

 すかさずアイザックが叫んだ。

「お断りだっ!」

「私も嫌です!」

 さすがのミュリエルもアイザックと同時に叫んでいた。

 これほど嫌がっている男性にキスを強いるなんて、女としてそれはどうなのだ? と思わずにはいられなかったからだ。

 だというのに、ミュリエルのそれに驚きの声を上げたのは何故かアイザックだった。

「お前が言うのかよっ?」

 不本意だというような非難の響きがあるそれに、ミュリエルは食ってかかった。

「言っちゃ悪い? だって、貴方は嫌なんでしょう?

 それを無理してまで、キスしてほしいなんて思わないわよ!」

「ハアァァッ? こっちがどんな思いでいると!」

「だから! キスしなくていいって言ってんでしょ!」

 ぎゃあぎゃあと喧嘩を始めだした二人に割って入ったのはアルベルトだ。

「ええーっと、ミュリエルちゃん、落ち着いて。ザックも一回、口を閉じて」

 掴み合いまで発展しそうな二人を引きはがし、アルベルトはミュリエルをリザベルの方へ、アイザックをハイルフォードの方へと押しやった。

 リザベルはミュリエルの手をとると、真剣な眼差しでミュリエルに言った。

「ミュリエル様、あんなバカな兄のことなど気にしないで。ご自身のことを一番にお考えになってくださいまし。

 だいたいザック兄様のキスの価値なんて、ゴミ同然ですわよ。そこらじゅうの女の子としているのですもの。ぽいっと記憶から捨ててしまえば大丈夫ですわ!」

 そんな辛辣極まりない妹の力説に、さすがのミュリエルも「ゴ、ゴミは言い過ぎじゃないかしら」とか呟いてしまう。

「ザックも、何を今さら嫌がることがある? キスなど挨拶代りくらいにしてきた男が。

 それとも何か? ミュリエル嬢は特別な女性だと、そういうことなのか?」

 ハイルフォードのそれにアイザックは猛反論する。

「んなわけねーだろーが!」

「だったら嫌がる理由もないだろう」

「だからっ、そうやって丸め込もうとすんなーーーー!」

 叫ぶアイザックに「やれやれ」と肩を竦め、アルベルトはミュリエルに向き直った。

「ミュリエルちゃん、君にかけられた呪いはドーハライドで初めて『血聖』で解けなかった呪いなんだ。

 これはね、脅威なんだよ。この国にとってのね」

 まずはミュリエルを説得する気なのだ。だがアルベルトの主張はもっともなものだ。

「でもって、その呪いの解決の糸口が『魔女の血』にあるのなら、僕は何としてもそれを確立しなきゃならない。それが僕の仕事だからね。そして、我が家の役目でもある。

 これはもう、二人の問題じゃないんだよ」

 さすがのミュリエルも「うっ、それは…………分かりますけれど」と言うしかない。

 アルベルトはくるりと向きを変えると、アイザックをちろりと見る。

「ザックも公爵家の者として、ミュリエルちゃんの呪いを解くことに協力すると言ったよね?

 もちろん、この家を捨てるっていうのなら、僕達は諦めるしかないんだけど?」

 ハイルフォードの瞳がすいと細められた。

「この国を捨てて出て行くと、そういう心づもりならば今ここで言うことだ、ザック」

 三人の兄弟はしばし睨み合った。が、その沈黙を破ったのはアイザックだった。

「………………分かった。キスでも、それ以上でも、何でもやってやらぁ」

 ヤケクソ気味に吐き捨てたアイザックの台詞にぎょっとしたのはミュリエルだ。

「以上のことはしないわよっ?」

 そしてミュリエルはひやひやしながら、顔色を変えることにないハイルフォードを見た。

「しない、ですよね?」

 ハイルフォードは眉一つ動かさず、端的に答えた。

「もちろん、そのような行いは許可しない。強いたりもしない。

 恋人になれというわけではないのだからな」

「ですよね。よかったぁ」

 心底ほっとして呟いたミュリエルに、アルベルトが何故だかニヤニヤとした笑みをアイザックに向けて釘を刺した。

「と、いうわけだからザック? ちゃんと自制しなよ?」

「自制って何だよっ? どういう意味だよ!」

「どうもなにも、手を出しちゃダメってこと」

「出さねぇよ! 出すかよ、こんなメス豚に!」

 それを聞いたアルベルトはミュリエルにウィンクしてみせた。

「だってさ、ミュリエルちゃん。

 変なことにはならないし、させないから。安心しててよ」

「は、はぁ」

 つまりはキスだけということだ。それも実験的で、感情など排除した。

 リザベルはミュリエルに寄り添うと気遣わしげに言ってくれた。

「ザック兄様の不満は私に言ってくださいね、ミュリエル様。愚痴でも、悩みでも聞きますわ。

 きっと解決方法があります。ですから、こんなことに負けないで」

「リザベル様…………」

 自分を見つめる紫紺色の瞳に、ミュリエルはついうるっときてしまった。

 もちろんミュリエルは呪いに負けない気持ちでいるが、応援してくれている人がいるというだけで、こんなにも心強く感じるなんて。

 リザベルはミュリエルに嬉しそうに微笑んだ。

「でもこれって、つまりは、ミュリエル様はまだまだ我が家にいてくださるということですわよね?」

 アルベルトが「そういうことだね」と頷くと、リザベルは極上の笑顔のままにミュリエルにお願いをしてきた。

「でしたら、そのぅ…………ミュリエル様のことはミリィお姉様と呼んでもよろしいでしょうか? できましたら、私のことはリズと、そう呼んでほしくて」

 なんて可愛いお願いだろう!

(はうっ! 倒れるっ!)

 なんてこった! 美少女は拳なしで相手を昏倒できるっ!

「ダメ、ですか?」

 上目使いのこれを断れる人はいないだろう。ミュリエルは断れない。

「いいえっ! 光栄です! リザベル様!」

「まぁ! ミリィお姉様ったら! リ・ズ、ですわ」

「あっ、はい、リ、リズ………様」

「えぇ~~~、様も不要ですのにぃ」

「そ、それは、さすがに」

 という二人の仲睦まじい様子に、公爵邸の男共は。

「お嬢様…………なんて美しい光景………………天国のようです」

「いや、俺達は何を見せられてるんだ?」

「いーじゃない。可愛いじゃない。女の子の会話だねぇ」

「立場上、リズはあまり外に出られないからな。友人ができることは貴重だ」

 女子の世界を遠巻きに眺めるしかない。

 こうして呪われ豚令嬢と色気違いな公爵子息の婚約関係は、いっそう複雑になっていくのだった。













第五章 変わったモノ、変わらないモノ



 ミュリエルの呪いは、今まで通り解く方法を探しつつ、『魔女の血』の力で呪いを緩和させていく、という方向でいくことが決まった。わけだが。

(なんかねぇ? 本当にキスの価値が下がるわね、これ)

 もう何度目なのか覚えていられないアイザックとのキスの後に、ミュリエルはつくづくと思った。

(慣れって怖いわ)

 もはや事務的な唇の接触に、ミュリエルの心は順応しつつあった。

 もっとも、そこまでキスしまくったおかげか、元の姿でいられる時間は徐々にだが長くなってきている。

 ちなみに、キスしている長さは呪いの緩和にまったく関係なかった。

 ミュリエルの呪いを一時的に緩和しているのはやはりアイザックで、彼が意識的に呪いに集中している時、一番にその力は発揮される…………らしい。

「さて、今日はどのくらいこの姿なのかしら?」

 本来の姿にもどったミュリエルは、体型が変化しても調節できる服装のリボンを絞りながら首を傾げた。今の体型にピッタリにしてしまっても豚令嬢の姿になった時に苦しいから、あくまでも調節するだけだ。

 そのミュリエルの隣で、自身の力で呪いを緩和させているはずのアイザックも、どのくらい呪いを緩和できているのだか把握できていないようだ。

「分かんねぇ。でも、だんだん呪いを感知できるようにはなってきたな」

 何度かミュリエルとキスする中で、アイザックは近頃になってやっと自分のなかにある『魔女の血』の力を自覚するに至ったようだ。

 もともと呪い関係への嗅覚が鋭かったのも、そこに起因していたらしいのだが。これまでアイザックは、自分が『魔女』の子供という稀な存在であるなんてことは、深く考えもしなかったようなのだ。

(愛人の子っていうのは気にするくせにねぇ)

 繊細なのか頓着がないのか。それとも自分の出自を考えたくなかったのか。ここにもまた、彼の拗らせ具合を感じてしまったミュリエルだった。

 しかし今回の騒動で、アイザックもそうした己から目を逸らせなくなってきているのだろう。

(あぁ、私の立場って、どんどん複雑になっていってる気がするわ…………)

 今更にミュリエルは、最初にアーゼルに頼まれた「愚息のお目付け役」という言葉にずっしりとした重みを感じていた。

 もちろんミュリエル自身の呪いをなんとかするという目的は変わらない。けれどアイザックのこの力を未解明のままにしていいとも思えないのだ。

 そんなミュリエルの心配などちっとも知らぬ顔で、アイザックは不思議そうな顔で自分の手を眺めていた。

「今まで気にもしてなかった筋肉を使ってるみてぇだ」

「何よ、それ」

「そんだけ微妙っつーこと」

 自分の持つ力には興味があるのだろう、あれだけ嫌がっていたわりに、いざキスの効果を実験しはじめれば案外普通の態度のアイザックだった。

 いや、普通というよりむしろ淡白というべきか。記録と分析に徹底して、感情やらは一切排除している様子だ。

(まあ、自分の力のことだし、アーゼル様からの命令でもあるしね)

 ミュリエルがアイザックとのキスに慣れたのも、彼のその淡々とした態度があったからこそでもある。二人のキスは実験。ただの接触に過ぎない。そう思ってしまえば握手するような感覚にもなってくる。

(実際、恋愛的なアレじゃないし。相手だってそんなの嫌だろうし。てか、私も御免だし!)

 この考えは危険だ。蓋をしておこう。悩むだけ不毛だ!

 ミュリエルはキスと恋愛感情との関連性について、アイザックだけは除外することに決定した。した以上は、もう考えない!

(それに! 気になることは他にもあるしねっ?)

 ミュリエルは自分のほっそりとした腕を眺めた。豚令嬢の時は強固な脂肪に覆われて気がつかなかったが、その腕には確かにバランスよく筋肉がついている。

「ねぇ、少し前から感じてたんだけど」

 ミュリエルは呟きながら拳を突き出した。

 シュッという空気を切る音に、アイザックの掌はそれを綺麗にパシッと受け止めた。流石の反射神経だ。

「脈絡なく殴りかかるな!」

「貴方なら平気でしょ。でもやっぱりというか。速くなってるわね、私の攻撃」

 呪いを緩和させる実験をする度にミュリエルが感じていたこと。

(身体が軽くなっただけじゃなくて…………俊敏に動けるようになってる)

 これはあれか。日頃の鍛練のたまものなのか?

「考えれば、当たり前のことだがな」

 呆れ顔のアイザックにミュリエルは「そうよね」と頷いた。

 なにしろいつもは十キロ以上の重りをつけているようなものなのだ。となれば。

「ちょっと計測してみていい?」

 この元の姿の能力が俄然気になってくるミュリエルだ。

 そうして、ぴょんぴょん跳んでみたり走ってみたりした結果。

「わ、すごいわ! ここまで跳べるのよ? え、何、ぜんぜん息切れしないんだけど!」

 ミュリエルが驚異の身体能力を身に着けていることが判明した。

「今なら貴方に勝てそうな気がするっ!」

 素早いステップでミュリエルはアイザックに三段蹴りを放った。だがそれは惜しくもかわされる。

「だから! いきなり攻撃してくるなっ!」

「だって、いつも防がれるんだもの! 悔しいのよっ!」

「張り合うな! クソ親父に毒され過ぎだっ!」

「アーゼル様の教えは偉大よ! みて、こんなに動けるんだものっ!」

「だぁぁぁ、クソったれめ! 誰も彼もコイツに余計な入れ知恵しやがってっ!」

 計測は一変して手合せとなってしまった。

 今まで難なくミュリエルの攻撃をかわし防いできたアイザックだったが、速度の上がった今のミュリエルの動きには僅かだが遅れをとっている。

「常に養成ギプスをつけているようなものですからねぇ。その上で、あれだけの鍛練をしていたら、まあ、こうなりますよね」

 ミュリエルの多角的な攻撃に、計測を手伝っていたハヤトがしみじみと呟いた。

 アイザックはそんな彼に怒鳴った。

「冷静にっ、分析してねぇで! コイツを止めろっ!」

 しかし有能な執事のハヤトはにっこりと笑う。

「これも計測の一環ということで」

「ふっざけんな!」

 持久力も上がっているミュリエルの攻撃は途切れることがない。

「でも分かったわ! この姿じゃ攻撃が軽くなっちゃうのよ!

 やっぱりダメージを負わせるにはウエイトって必要ねっ!」

「待て待て待て待て! 戦うことが前提にある時点でおかしいっ!

 普通の令嬢にもどれ! 普通の令嬢にッ!」

 攻撃を何とか受け流しつつ叫ぶアイザックにミュリエルは不敵な笑みを浮かべた。

「あら、覆水盆に返らずという言葉を知らないの?」

「お前は盆を叩き割ろうとしてるって話だぁーーーーーーっ!」

「そうね! いっそ一から器を作る気持ちになるべきよねっ!」

 嬉々として身体を動かすミュリエルにハヤトはアイザックに進言した。

「アイザック様、ミュリエル様を普通のご令嬢にもどすのには、もはや手遅れでは」

「そうだなぁっ?」

 ミュリエルは二人を睨んだ。

「手遅れってなによ?」

「いや、自覚しろよ、お前。女としてヤベェって、危ぶめ!」

「ミュリエル様、自覚は持った方がよろしいですよ」

 まさかの意見の一致にミュリエルはこめかみを引きつらせた。

(でも…………もとのご令嬢になんて、もどらないんだからっ)

 元の淑女にもどれるなんて考えは、ミュリエルには欠片もなかった。

「女として、だなんて……………そんなもの、私のなかにあるはずがないじゃない!

 ええ、ないの。ないったらないの。だから、さっさと呪いを解いて自由気ままに生きていくのよ! この拳一つでっ!」

 叫んだミュリエルが素早く繰り出した拳は。

「あ」

 ドスッと良い音をたてて、見事にアイザックのみぞおちにめり込んだ。

「油断しましたねぇ」

 綺麗に入ってしまった一撃にアイザックは床に膝をついて悶絶する。

その大打撃にミュリエルも少しだけ慌てた。

「ご、ごめん。そこに入れる気はなかったのよ? 本当よ?」

 自分の速さがそこまでだとは考えていなかったのだ。

 蹲ったアイザックが「ふ、ふはははは」と、何かキレたような笑い声を漏らす。

「ごめんってば」

 謝るミュリエルをアイザックはジト目で見ると―――――。

「よぉっく分かったぜぇ、このメス豚ァ!」

 半ば本気の蹴りを繰り出した。

「絞めてハムにしてやらぁっ!」

「上等よっ!」

 かなり高等な体術の応酬。しかもガチンコで喧嘩を始めた二人に。

「あぁ、ますます仲良くなって…………。感無量ですねぇ、旦那様」

 ハヤトはただ窓の外の空を眺めるだけだった。



 そんなキスと喧嘩試合を重ねること、数日。

 夜会に出席したことからの、ちょっとした発展がミュリエルに訪れた。

「ミュリエル様、夜会に出席した際に接触したご令嬢を覚えておいでで?」

 ハヤトに尋ねられてミュリエルは頷いた。どこかで予感があったから。

「覚えているわ。私を突き飛ばそうとした子。あの子がどうかした?」

「彼女はアーシュレー侯爵令嬢のハンナ様というようで。

 ミュリエル様にお会いになりたいそうです」

「やっぱりね」

 そうなるかもしれないと思っていたが、考えていたより彼女の行動が早い。

(わざわざ豚令嬢の私に会いたいって、絶対、何かある)

 それもあの時の直観を信じれば、あの場に居合わせた伯爵令嬢に関して。

 それを裏付けるようにハヤトが追加の情報をくれる。

「さらに。前に私に調べてほしいと仰っていたご令嬢は、ディマエル伯爵令嬢のミランダ様というお方でした。ハンナ様のご友人です」

「ご友人、ねぇ。でも、対等ではないのでしょう?」

「はい。ディマエル伯爵家はかつてアーシュレー家が仕えていたとされているようです。

 ディマエル伯爵家は歴史も古い名家ですからね。二人の間にもそれらは反映されていると考えるべきでしょうね」

「ああ、もぅ、誰かさんじゃないけど、貴族社会って本当にこういうとこが厄介ね。しがらみだらけ」

 うんざりしたように言うミュリエルにハヤトは苦笑いした。

「そういうミュリエル様だって、今では公爵家三男の婚約者であらせられるのですよ?」

「……………婚約解消して、いつか護衛もできるメイドになってみせるわ」

 据わった瞳でミュリエルは決意を語った。するとハヤトは「おや」と、驚いたような声を上げた。

「そんな野望がおありでしたか。

 確かに今のミュリエル様でしたら、王宮からでもお声がかかるやもしれませんが」

 優秀な執事であるハヤトからそんなことを言われ、ミュリエルはすっかり嬉しくなった。

「本当っ? 貴方にそう評価してもらえるだなんて、ちょっと安心できるわね。

 女騎士と迷ったんだけど、現実的に考えたら要人護衛の方がむいているだろうなぁって思ったのっ」

「本当にたくましいお方ですね。素晴らしい」

「もちろんよ! 絶対に婚約解消して、一人で生きぬいてやるんだからっ!」

 アイザックに宣言していた心に嘘はない。

「しかし、その目的の為には、まずは呪いをなんとかしなくてはなりませんね」

「うっ、相変わらず厳しいこともガンガン言うわね。だからこそ信用できるんだけど!」

 ハヤトは「ありがとうございます」と目を細めると、それから励ますように言った。

「リザベル様やアルベルト様達と同様に、私もミュリエル様を応援しております。頑張ってください」

 ミュリエルはハヤトを眺めながら思っていたことをつい口にした。

「貴方って不思議な人ね。ふざけているようで、しっかり味方してくれるのだもの」

「ふざけているように見えますか? 私はいつだって真剣ですが」

「そういうとこが、ふざけているように思えちゃうんだけど。でも、そうじゃないのよね?」

 首を傾げるミュリエルに、ハヤトは含みを持たせるように答えた。

「もちろん。ヴィサンテオ公爵家とこの国には恩がありますので。全ては旦那様の為にございます」

「それは、私の応援も、ってこと?」

「はい」

 はっきりとしたその姿勢に、ミュリエルは少しだけハヤトの強さを垣間見た気がした。

(うぅん、底が知れないわね)

 いったいこの執事はどういった経緯でヴィサンテオ公爵家に仕えているのだか。

(知りたいような、知りたくないような…………)

 謎めいた異国の青年をじっと見つめると、彼は常と変らない様子でにっこりと微笑んだ。

「では、ハンナ様との面会の手はずを整えておきます」

「うん。よろしくね」

 何にせよ、ハヤトがヴィサンテオ公爵家を裏切ることだけはなさそうだ。

(どうにも危なっかしいのは、むしろアイツの方よねぇ)

 実際のところ、公爵家で一番に厄介で不安定要素があるのはアイザックだったりするのだ。

 仮初めとはいえ、己の婚約者がこの家を傾かせかねない存在だとは頭が痛い。

(そのお目付け役って)

 年端もいかない女子には、ちょっと荷が重すぎなんじゃないだろうか。

(でも、ずっとってわけじゃないものね! 呪いを解くまでよ!

 アイツが自分の力を使いこなせるようになるまで……………よね?)

 きゅっと拳を握り締め、そんなことを考えているミュリエルとは裏腹に。

 扉一枚を隔てた先で、ハヤトがほんの少しだけ本音を吐露していた。

「本当に真っ直ぐでお強い、清しい気のお方だ。

 だからこそ――――ヴィサンテオは貴方を手放したりしないと思いますよ? ミュリエル様」

 笑みもなく諦観めいた光を瞳に浮かべて、ハヤトは少女の行く末を思い描いたのだった。



 有能な執事の仕事は早い。数日もしないうちにハンナと会う機会が整えられた。

 ヴィサンテオ公爵邸の応接間でミュリエルと向かい合ったハンナは、開口一番に言った。

「まずは、これをお返ししておきますわ。あの時はお気遣い、ありがとうございます」

 すいっとテーブルの上に出されたのは、あの夜会でミュリエルが彼女にわたしたハンカチだ。

 ミュリエルはそれを受け取ると微笑んでみせた。

「たいしたことでもありませんでしたのに。ご丁寧に、ありがとうございます」

 しかしこれが建前の用事に過ぎないことなんて分かり切っている。ミュリエルは単刀直入に聞くことにした。

「それで? わざわざ豚令嬢のところに会いに来た本当の目的は何でしょう?

 ごめんなさいね、私、身分が低いものだから礼儀を知らなくて。まだるっこしい駆け引きなんかしているより、さっさと本題を話してしまった方が建設的って考えなの」

 ハンナはほんのちょっとだけ怖気づいたようだが、それでも真っ直ぐにミュリエルを見つめ返すと口を開いた。

「貴方にお聞きしたいのは――――――姿を変える呪いのことです。

 まったくの別人に変身するという呪いは、存在するのでしょうか?」

 彼女の質問をミュリエルは怪訝に思ったものの、素直にそれに答える。

「私のこの姿は本来のものではないわ。ただまったくの別人かといえば、そうでもないの。ただ肥ったというだけ。体型は変わっても、目や鼻、髪の毛なんかは、もとのままよ。

 でも、そういう呪いもあってもおかしくはないと思う。

 それで、貴方は何故そんなことを聞くの?」

 ハンナはそこで顔を曇らせた。

「私の友人、ミラが……………呪われたかもしれないのです。誰も、お父様もディマエルの小父様も、信じてはくれないのですが。

 けれどミラは怯えていました。私にだけ、打ち明けてくれた。呪われるかもしれない、と」

「ご友人というと、ディマエル伯爵令嬢のミランダ様ね?

 確認なんだけど、あの夜会で貴方に私を突き飛ばすように指示したのは、彼女よね?」

 ミュリエルのそれにハンナはキッと眼差しをきつくした。

「ミラは本来そんなことを言う人じゃない! どうして、あんなことを言い出したのか」

「ちょっと待って」

 一気に雲行きが怪しくなった話にミュリエルは顔をしかめた。

「貴方はご友人のミランダ様が呪われるかもしれないと、そう危惧してこうして相談にこられたのよね?」

 しかしハンナは首を振り、そうではないのだというように話す。

「あの夜会の数日前から、ミラは人が変わったようでした。それこそ、まったくの別人のように」

「それって、まさか」

 だんだんとハンナが相談したいことの真相がミュリエルには見えてきた。

「貴方は、あのミランダ様が別人だって、そう疑っているの?」

 ハンナは深刻そうな顔でこくりと頷いた。

「奪ってやる、と、ミラは言われたようです。貴方の何もかも、と。

 ただの脅しではないかもしれないって、ミラは怯えていた。私にだけ、話してくれた」

 確かにその台詞はそっくりとって代わってやるという意味にもとれる。

「ミランダ様が誰に脅されていたか、貴方は知ってる?」

「はい。ミラが打ち明けてくれましたから。グリゼン男爵令嬢のマリル様にそう言われたようです」

 ハンナはじっとミュリエルを見ると、貴族令嬢の間にある不穏な雰囲気をありのままに語った。

「私達、貴方の、豚令嬢の呪いのことを知っていました。

 今やご令嬢達は皆、呪いに怯えています。ミラもそうでした。呪われるんじゃないかって」

「でしょうね。そうなっても不思議じゃないわ」

 なにせ平凡な侯爵令嬢のミュリエルがぽんと呪われ幸せから転落してしまったのだ。自分にもそうした災いが降りかかるかもしれないと、そう怯える令嬢は出てくるだろう。

 しかし、ミュリエルの後、ドーハライドで呪いの被害にあったという噂は聞かない。なのに何故、このハンナは友人が呪われたなどと疑うのか。

「穿ち過ぎ、というわけじゃあ、ないのよね?」

 用心深くミュリエルがハンナに尋ねると、彼女は自信がなさそうに視線をさ迷わせた。

「分かりません。父も、ミラのお父上も、私のこの不安を馬鹿げていると仰っておりました。

 けれど今のミラが彼女だとは、私には思えないのです」

「どうして、そう感じるの?」

「ほんの些細なことです。約束を覚えていなかったり。思い出話をしてみても、返ってくる言葉が食い違っていたり。

 それらが積み重なって違和感になっているのだと思います」

 自身の考えが間違っていたことをミュリエルは悟った。

「貴方とミランダ様は、本当のご友人だったのね」

 二人には確かな絆があったのだ。でなければこんな相談をハンナはしたりしないだろう。

 ハンナは苦笑いしながら頷いた。

「私達は家柄もあって、どうしても主従関係に思われがちです。けれど、ミラと私は、ずっと一緒に育ってきた幼馴染み、親友なんです」

「そうだったの」

 ミュリエルは真剣な眼差しでハンナを見つめると敬意を表した。

「貴方が私に相談したいことの大方は把握できたわ。

 私に会いに来ること、さぞかし勇気がいることでしたでしょう。貴方はすごい人だわ」

「ミュリエル様…………」

 ハンナのミュリエルを見る目も変わっていた。

「大丈夫。私は貴方の、いえ、貴方達の味方になる。貴方の不安が解消されるまで、私は貴方に協力するわ」

「……………私の言うことを信用なさるのですか?」

 おそらくこれまでハンナはその自分が抱える疑いを否定され続けてきたのだろう。

 ミュリエルはハンナが安心できるように微笑んで頷いた。

「少なくとも、私は貴方が言っていたことをありえないとは考えないわ。だって私自身、呪いってものに直面しているのだもの。

 それに、もしかしたら私の呪いに関係するかもしれないことだし」

 ハンナは身体の力が抜けたようにほっとした顔をした。

「ありがとうございます、ミュリエル様」

 張りつめていたものが切れたのだろう、瞳に涙さえ浮かべているハンナにミュリエルは力強く言った。

「もし呪いでなかったとして、ミランダ様が変貌してしまった原因があるはず。

 それが何か分かれば、きっと問題は解決できるわ。貴方が彼女を思っている限り、絶対に彼女を元にもどせるはずよ」

「……………夜会の時にも思いましたけれど、ミュリエル様は本当にお強い人ですわね」

「そうならざるをえなかったのよ。でも、貴方だって素質があおりよ?」

 茶目っ気を含んでミュリエルが言えばハンナはくすりと笑った。

「ええ。そうなりたいものです」

「それなら、一緒に稽古なんてどう? ヴィサンテオ公爵様じきじきに、護身術を教えてもらえるの!」

「それは、ご遠慮しておきますわ」

 半ば本気で誘ったのに断れてミュリエルはがっかりと肩を落した。そんなミュリエルにハンナは逆に誘い返してくれた。

「でも………ミュリエル様とはまたお会いしたいですわ。ミラにも会っていただかなくてはなりませんし。お茶会にご招待してもかまいませんでしょうか?」

「もちろんよ!」

 呪われて以来、外部の人とこうやって親しくなることなどなかったミュリエルはほんの少しの不安もあったが、やはりハンナの好意は嬉しかった。

「では後日、招待状を送らしていただきます」

「その時に、ミランダ様も紹介していただけたら嬉しいわ」

「そうですね。もっとも、今のミラは私達の関係を怪しむかもしれませんけれど」

「……………そうなっては、都合が悪いかしら」

「いいえ。以前のミラであったのなら、私の紹介する人に失礼な行いなど、したりはしませんでした。今のミラを見極める機会になりますもの」

 ミュリエルはふふっと笑ってハンナを見やった。

「やっぱり貴方って素質がおありだわ」

「貴方とご一緒していたら、いっそう磨かれそう」

 言い返すハンナにも笑みが浮かんでいる。応接間には張り詰めた空気がすっかりなくなっていた。

(仲良くなれるかしら)

 返されたハンカチを視界に入れて、ミュリエルはそんな風に思った。


 

 ハンナを見送った後、ミュリエルはくるりと振り返ると、そこに控えていた執事のハヤトに言い放った。

「盗み聞きしてたでしょ」

「なんのことでしょう」

 しらばっくれるハヤトをミュリエルは厳しく追及する。

「貴方だけじゃないわね? てゆーか、貴方の気配は分からなかったけど、もう一人がバレバレなのよ!」

 廊下の向こうにわざと怒鳴ってやれば、金髪の頭がちらっと見えた。

「出てきなさい。作戦会議するから」

 そこにいるだろう人物にミュリエルは声をかける。と、ひょこりとアイザックが廊下に姿を現した。

「あんなの盗み聞きしたくなるだろーが。てゆーか、してて正解だろ? 俺らが分かってた方が良い話だろーが」

 アイザックが悪びれることなく言った。

「お行儀が悪いわ。それに、女子のお茶会話を聞くとイロイロと幻滅するわよ」

「ご忠告、どーも。ゲンメツならしょっちゅうしてるから問題ないな」

「それはお可哀想に。男子は女子に夢を持ってるくらいがちょうどいいわよ?」

「俺は御免だね。頭に虫でもわいてそうな女子に夢なんか見る、脳内花畑の男になるなんてのはな」

 口の減らないアイザックにミュリエルは「まあ、今回は説明する手間がはぶけたから良しとするけど」と肩を竦めると、単刀直入に聞いた。

「それで? 貴方達はハンナ様の話、どう思った?」

 アイザックとハヤトはどうやら同じ結論だったようだ。

「全部が胡散臭ぇ」

「アーシュレー侯爵令嬢のハンナ様を含めて、呪術の気配がします」

 ミュリエルは目を見開いた。

「ハンナ様を含めて? 彼女が嘘を言っているってこと?」

 アイザックが確かめるようにハヤトを見る。ハヤトは難しい顔をしてミュリエルに説明した。

「ハンナ様がおっしゃっていたことの真偽については、判断しかねます。しかし、彼女からは確かに何らかの呪いの気配が感じられます」

 ミュリエルに嫌な予感がよぎった。

「ねぇ、その気配って、私と呪いと同じだったりする?」

 すると予想外に、ハヤトはそれには首を振った。

「いいえ。ハンナ様から感じる気配はミュリエル様の呪いとは別の系統のものです。それゆえ、ディマエル伯爵令嬢のミランダ様のお話は、看過できぬものでありますが」

「だな」

 同じように感じたのだろう、アイザックはハヤトのそれに頷いた。

 呪いの気配に敏感なこの二人が言うのだから、ハンナが何らかの呪いに関与していること、そしてそれがミュリエルの呪いとは別件であることは間違いないのだろう。

「でも、呪い関連ではありそうなのよね? ミランダ様とハンナ様のことは」

「ええ。ですが…………準備もなしに出向かれるのは危険です。お茶会に招待される前に対策を整えおきましょう」

「分かった。任せるわ」

 そしてミュリエルはちろりとアイザックを見た。

「で、貴方はお茶会についてくるなんて言わないわよね?」

「行くわきゃねーだろうが、んなメンドクセーの。お守りはハヤトの仕事だ」

「なら良かった。貴方の毒に当てられる女の子を二人も減らせたわ」

「わざわざ豚令嬢と仲良くしようなんてご令嬢は胡散臭すぎて近寄る気にもならねぇな。

 ……………………気をつけるこった」

 アイザックの最後の一言がずしりと重い。ミュリエルは顔をしかめながらも頷いた。

「警戒は怠らないつもりよ」

「どーだか。あーんなクズ男にほいほい騙されてたくせに」

「だから、気をつけるってば!」

「んじゃ、ま、頑張れや」

 ひらひらと手を振るアイザックを睨みつけ、ミュリエルは「言われなくても!」と意気込んだ。

「貴方の力に頼らなくても解決できる糸口があるかもしれないし! それにハンナ様のことだって、彼女が疑わしいってことでもないし! できることをするっきゃないわ!」

「さすがです、ミュリエル様。その意気です」

 目に見えて変化したもの、まったく変化していないように見えるもの。その実、変わってきているもの。

 呪いは、見えないところにも作用する。

 二人の変わったところ、変わらないところ。それはキスの呪いの作用だろうか。

 目的は初めから一つだけだったはずだ。

 すなわち、ミュリエルにかけられた呪いを解く。ただそれの為だけの関係。名ばかりの婚約者だったはずだけれど。

 キスの呪いは、ほんの少しずつ二人を変えていた。

 本人達の自覚もないほどに、ゆっくりと。












第六章 軽いキスのさきには不穏な空気



 ハンナは約束通り、ミュリエルにアーシュレー家のお茶会の招待状を送ってよこしてきた。もちろんミュリエルもすぐにそれに応じ、再びハンナと会うことが決まった。

 しかしミュリエルの想定外の事態は、むしろお茶会へ行く日の早朝に起こった。

 新品のクリーム色をしたドレスに身を包んだミュリエルは、満足そうに自分を見つめる公爵令嬢に詰め寄った。

「リ、リズ様! これ、いつ用意したんですかっ?」

 まさかヴィサンテオ公爵家がこっそりミュリエル用のドレスを作っていたなんて!

 後々のことを考えたのならドレスがあった方が良いことは分かるが、どうやらこのドレスはリザベルが独断で用意していたもののようなのだ。

 リザベルはしれっと答えた。

「いつって、夜会に出席された時にですわ。

 だってミリィお姉様ったらドレスが少ないのですもの。着飾ったお姉様も素敵ですのに!」

「す、素敵? ええと、リズ様、私を褒めてくださるのは嬉しいのですけれど、この姿でのドレスは、ちょっと素敵とは言い難いような……………」

 いつもながらミュリエルを本気で褒めているリザベルにミュリエルは顔を引きつらせる。

 どうしてリザベルはこうもミュリエルを高評価するのだろう。ミュリエルにはいつも疑問だったが。

「ええっ? ミリィお姉様、何を言っておられますの?

 ああ! ご自分ではお気づきになられていらっしゃらないのね!」

 リザベルは頬を紅潮させ、断言した。

「ミリィお姉様は素敵ですわ。だってその身体、脂肪ではなくて筋肉なのですもの!」

「えっ! そ、そこですかっ?」

「もちろんですわ! その重量でありながら、優雅で機敏な動き! 並大抵の努力で身に着けられるものではありません! 素敵ですわ!」

 どうやらヴィサンテオ家唯一の女子は独特の趣味をお持ちだったようだ。

(そういえば、リズ様って稽古にも熱心だったわ)

 リザベルが公爵令嬢らしからぬと言ってもよいほどの―父の教育の賜物とも考えられるが―気概あるご令嬢であることはミュリエルも薄々気がついていたが、まさかの肉体美に魅せられていたとは。しかも彼女はどうやら、女性の肉体にことさら美しさを感じてしまうらしい。

「ミリィお姉様の筋肉は見えないところに隠されているのが美しいのです!

 一見肥っているように見えて、その実、健全なる肉体! なんて美しいのでしょう!」

 嬉々として語るリザベルに若干の冷や汗をかくミュリエルだったが、そこにいつもの憎たらしい声が割って入った。

「やい、そこの筋肉好き。変態語りはそのへんでよしとけ」

 どうやらミュリエルが身支度を整えるのを待っていたらしい。まさかとは思うが、単身でお茶会へ行くミュリエルを気にかけてくれたのだろうか。

(そんなわけないわよね?)

 いったい何の用があってアイザックが見送りにきたのか分からず、ミュリエルは内心で首を傾げた。

 リザベルは現れた兄に「フン」と鼻を鳴らして言い返す。

「私は美しいものが好きなだけです。ザック兄様と違って、真に美しい女性が好きなのですわ」

「お前の言う『真に美しい』って、筋肉だろうが」

「筋肉がついていれば良いというわけではありません! つくべき所に程よくつく。これが最上です!」

 興奮気味に力説する妹をアイザックは半眼で見て本音をこぼした。

「心底、どーでもいい」

 しかしアイザックの後ろに控えていたハヤトはまったく逆のことを呟いた。

「さすがはお嬢様……………正しい審美眼をお持ちです」

「テメーの変態度合も大概だよな、ハヤト」

「美しいものは正義。これは真理でございましょう」

「アホか」

 これまた半眼で執事を見るとアイザックはハヤトに命じた。

「んなこと言ってねぇで、さっさと本題に入りやがれ」

「そうですね」

 やはり、それなりに用事があったのだ。納得したミュリエルに、ハヤトがすいとビロード張りの小さな箱を差し出した。

「ミュリエル様、これを」

 ハヤトが恭しく開けた小箱のなかには透明な石のついた指輪が入っていた。

「何、これ?」

 戸惑うミュリエルにハヤトは指輪の石を指さして説明する。

「呪いに反応するように加工してある水晶です。反応して、石がくもるようになっております」

 ハヤトが紋様の描かれた紙を指輪に近づけると、透明だった石が途端に擦りガラスのようにくもった。

「わ! すごいわね。あ、これで呪いを察知しろってこと?」

「はい。直に触るもの、口にするものは、全てに指輪で確認してください」

 成る程、これが言っていた対策というわけだ。

「分かったわ。ありがとう」

 だがミュリエルが指輪に手を伸ばすと、ハヤトは何故だか箱をミュリエルから遠ざけた。

「えっ? つけるんじゃないの?」

「もちろん、つけていただきます。

 しかしですね、ミュリエル様、ご令嬢が贈られた指輪をご自分でおはめになるのは礼儀に反するものかと」

「え」

 確かに、この指輪はヴィサンテオ公爵家からの物ということになろうけれども。

(贈り物の範疇では、ないわよねっ?)

 だがハヤトは真剣な顔で重々しく言うのだ。

「淑女は殿方に指輪をはめてもらうのが、正しい作法ですよ」

「何よ、それ。面倒臭いわね」

「……………ミュリエル様、先日、私は淑女としての自覚をお持ちになった方がよろしいと、そう進言させていただいたばかりですが」

 ハヤトの苦言にミュリエルは顔をしかめながらも「はいはい、分かりました」と了承する。

「ほら、さっさと貴方がはめてちょうだい」

 しかし、早くとばかりに手をつき出したミュリエルを、ハヤトは心底呆れたように見るのだ。

「本当に、貴方様はもう少し色々とものをお考えになるべきです。私が貴方様に指輪をはめてさしあげるなど、できようはずもないことですのに。

 はめていただくなら、この指輪を加工した張本人である、貴方様の婚約者様以外にいらっしゃるはずがないでしょう」

「えっ!」

 ミュリエルは驚いて指輪を見、そしてアイザックを見た。

 アイザックはハヤトを睨みながらも唸った。

「テメェ、後で覚えてろよ」

「何を言いますか! アイザック様のこの健気な思いやりをミュリエル様に知っていただきたいと、私はそればかりの一心なのですよ!」

 にこやかに言うハヤトをアイザックが蹴った。が、ハヤトはひらりとそれをかわして、ずいと指輪の入った箱をアイザックに押し付ける。

「ささ、アイザック様、ミュリエル様に指輪を」

 思い切り渋い顔をしているアイザックにミュリエルは大急ぎで叫んだ。

「やっぱり、自分ではめるっ」

 それを予想していたのか、すかさずハヤトが言った。

「おや、アイザック様にはめてもらうのはお嫌だ、と?」

「そういうことじゃない! ないけどっ!」

 ああ、この執事は本当に厄介だっ! そんな言い方をされたら自分ではめにくくなるじゃないか! それが狙いだろうけどっ!

(何で、この人は私とコイツの距離を近づけようとするのよー? あからさま過ぎるわよっ?)

 呪いを察知する為には指輪が必要だ。それは確かだ。でもわざわざアイザックにはめてもらう必要なんてないはずなのにっ。

 だが驚くことにアイザックが無言でつかつか近づき、ミュリエルの手首をむんずと掴んでしまった。

「……………言っとくけど、贈り物じゃねぇからな? 安全装置だ。お前の呪いをややこしくさせない為の対策だからな?」

「大丈夫。分かってる!」

 念押しするようなアイザックの言葉にミュリエルも言い返す。

 なるべく意識しないようにと思っているのだが、触れるアイザックの指がどうしたって感じられてしまう。

「ほらよ」

 驚くほどぴたりと右手の人差し指にはまった指輪に、ミュリエルはドキッとしてしまった。

(違う。この指輪はそういうのじゃないってば。それにコイツは私の体型をくまなく把握してるのよ。指の大きさなんて知ってて当然よ)

 よくよく考えれば恐ろしいことではあるが、アイザックにはミュリエルの頭のてっぺんから足のつま先まで、この豚令嬢の姿はしっかりと把握されてしまっているのだ。

 唯一の救いは呪いが解けた姿の計測をされていないことだった。

(うんうん、コイツが知っているのは豚令嬢の体型だけ。私じゃない、私じゃない)

 呪いの解けたミュリエルを平凡と評したアイザックだ。本来のミュリエルには興味なんかないのだろう。…………そう思うとちょっとだけ落胆しそうにもなるが。

(婚約解消するんだから問題なし! 本来の私の体型を把握されてても嫌でしょ!)

 ミュリエルはその感情を誤魔化してアイザックに言った。

「安全装置をありがとう。帰ってきたら、返すべき?」

「その指輪の大きさじゃ、お前しかはめられねーよ。もっとけ」

「それはそうね」

 豚令嬢専用の指輪というわけだ。

(なら、返すのは呪いが解けた時だわ)

 ミュリエルはそう考えてじっと指輪を見つめた。そのミュリエルの後ろからハヤトが心強い言葉をくれる。

「本日は私が常に控えておりますので。少しでも違和感がおありでしたら、必ずお呼びください」

「ありがと。頼りにしてる」

 振り返ってハヤトに微笑めば、彼は何とも言い難い微妙な顔をした。

「え? どうしたの?」

「いえ、少し、なんといいますか、不憫で」

「誰が?」

「…………………やはり私は、もう少し自覚を持っていただきたく思いますよ」

「はい? 何の自覚?」

 きょとんとするミュリエルに、ハヤトは彼女の後ろに視線をやって苦笑いを浮かべた。

「拗ねないでくださいね、アイザック様」

「誰が拗ねるか!」

 ミュリエルは顔をしかめた。

「ちょっと、なぁに? 貴方、やっぱりついてきたかったの?

 女子のお茶会なんて、殿方には退屈だと思うけど。それとも女の子と知り合える機会は多ければ多い方がいいってこと?」

 ハヤトが憐れむような目でアイザックを見ているのは何故なのか。ミュリエルには分からない。

「んなわきゃねぇだろうが! あー、もう、さっさと行っちまえ!」

「言われなくても、もう行くわよ」

 しっしっとまるで虫でも追い払うかのようなアイザックに、ミュリエルは「はいはい」と頷いた。

「では、参りましょうか、ミュリエル様」

 鈍感なご令嬢と素直になれないご子息に、ハヤトはそれ以上口出ししなかった。指輪に守護の呪いをアイザックが施していることは分かっていたが。

 優秀な執事は空気を読むものだ。ハヤトは生温かな目で二人を見守ることにした。



 アーシュレー家でのお茶会はごく少人数で、それもアーシュレー侯爵夫人が取り仕切る、ご夫人達のお茶会だった。

「お招きいただき嬉しく思います」

 淑女の礼にのっとり夫人へと挨拶したミュリエルを、アーシュレー夫人はまるで探るように見た。

「先日はハンナがお世話になったようで」

 娘とミュリエルの関係を快く思っていないのかもしれない。それとも、ハンナのあの疑問をアーシュレー家では問題視している、とか。

「いいえ、こちらこそ。ハンナ様のおかげで楽しいひと時を過ごせました」

 怪しまれないように無難な言葉を返すミュリエルのところに、ハンナが急ぎ足でやってきた。

「よくおいでくださいました、ミュリエル様。さあ、こちらに」

 母親から引き離すようにハンナはミュリエルを屋敷のなかへと案内した。

 そして周りの人には聞こえない小さな声でハンナが囁いた。

「ここのところ私もミラも様子がおかしいから、お母様達は警戒しているみたいなの」

「当然のことよ。良いお母様ね」

 娘が不安定に見えるこの時に、よりにもよって呪われたご令嬢と親しくなるだなんて。親としてみたら心配でたまらないだろう。

(ハンナ様だって怪しいんだものね)

 ハヤトやアイザックが言っていたことを思い出し、ミュリエルは彼女に気付かれないようにしながら彼女に指輪を近づけた。

(……………くもったわ)

 やはりハンナには呪いが発動しているのだろう。

(ハンナ様も呪いに巻き込まれている? でも、どんな呪いに?)

 考え込んでしまったミュリエルだったが、長くはそうしていられなかった。

「ハンナ、どうしてその方がここにいるの?」

 サロンに案内されるや否や、目的の人物にさっそく声をかけられたからだ。

(この人がミランダ様)

 ふんわりとした薄茶色の巻き毛に色白の小顔。淡い青色のドレスがとても清楚に見える。夜会で見た時も思ったが、ご令嬢然とした気品のある女子だ。

(でも嫌がらせを命じたりするのよね)

 それもまた貴族令嬢らしいといえばそうなのだが。本来の彼女はそんなことはしないと訴えていたハンナを思い出す。

(さて、どうなるかしら)

 注意深くミュリエルはミランダの行動に注視する。ハンナは自然を装ってミランダに言った。

「機会があって、親しくなったの。ミラにも紹介したくて」

 その機会はミランダが与えたものだ。彼女だってそんなことは分かっているだろう。

(これは気付いてるわね。夜会の時に目があったこと)

 あの夜会でハンナからうけた嫌がらせを誰が彼女に指示したのか、ミュリエルがそれを見抜いていることを、ミランダはきっと分かっている。

 アーシュレー家のお茶会にミュリエルが招かれていることを当然、不自然に思っているはず。

「ミラ、こちらはジルベリア侯爵令嬢のミュリエル様。噂のヴィサンテオ家、アイザック様の婚約者の方よ」

「紹介されなくても知っているわ。有名な人ですもの」

 何が有名なのか、あえてはっきり言わないところが陰険だ。もっとも、そんなものに動じるミュリエルではないが。

「お見知りおきいただき光栄です、ミランダ様」

 面の皮なら負けるはずがない!

 ミランダはそんなミュリエルを一瞥するとハンナに冷たい視線を向けた。

「ハンナ、貴方、何をしているか分かっているの? その人の境遇を知っているのでしょう?

 そっとしておいて差し上げたらいいじゃない。人が大勢いる場所に招待するだなんて、残酷だわ」

 ハンナを責めているようで、実際はミュリエルを貶めている。

(すっごく嫌な感じだわ。なんていうかイジワル令嬢そのもの! って初対面の私には思えちゃうけど)

 ハンナを見れば、彼女は不信感をあらわにミランダを睨んでいた。

「ミュリエル様は私の友人よ。侮辱しないで」

 その『友人』という言葉にミュリエルは少しだけ勇気づけられた。ハンナの心は今のミュリエルの比ではないくらいに不安だろうに。ミランダに言い返したのだ。

 ミュリエルはハンナに微笑んだ。

「お気遣いありがとうございます、ハンナ様。でも…………」

 そして視線をミランダにもどすと、彼女の言葉など何も気にしていないというようにミュリエルは言った。

「ミランダ様は侮辱するつもりでおっしゃったのではないのでしょう。そうですよね?」

「ええ。もちろんですわ、ミュリエル様」

 目を細めて頷くミランダだが笑ってはいなかった。

(あれが侮辱のつもりでないなら相当な無神経ってことになるけれど…………まあ、完全っていっていいくらい、悪意があったでしょうね)

 なんて本心はお首にも出さず、ミュリエルはついとミランダに左手を伸ばす。

「ミランダ様、お髪に何かが絡んでいますよ」

「え?」

 もちろんミランダの髪に絡んでいるものなどない。ハンナは一瞬不思議そうな顔をしたが、ミュリエルの行動を見守ってくれた。

 ミュリエルはミランダに伸ばした手の指輪を凝視していた。

(くもった! じゃあやっぱり、ミランダ様には呪いがかかっているの?)

 ミュリエルはミランダに触れそうだった手を慌てて引っ込めた。そして訝しんでいるミランダにすまなさそうに謝罪する。

「ごめんなさい、見間違いだったようです」

 ミランダはあからさまに不愉快な顔でハンナに告げた。

「ハンナ、友人は選んだ方がよくてよ? もっとも、貴方にはお似合いの友人かもしれませんけど」

 本当にこれが親友にかける言葉だろうか。

 どうにも、ハンナから聞いていた関係が二人にあるようにはミュリエルは感じられなかった。

「その人とお喋りしようだなんて私は思えないわ。ハンナだけでお相手してちょうだいね。私は小母様達のお喋りに付き合ってくるから」

 ミランダは吐き捨てるように言ってくるりと背を向けた。そんなミランダの背中を見つめながらハンナが呟いた。

「ミラはあんなこと、絶対に言わないわ」

「ハンナ様」

 不安げに揺れるハンナの瞳にミュリエルも彼女達の関係をなんとかしてあげたくなってくる。本当に仲が良かったというならば、ミランダのあの態度はあんまりだ。

(それに呪いの気配は確かにあるんだもの)

 ハンナはミュリエルを窺うように見る。

「ミュリエル様、どうですか? 何か分かった事はありますか?」

 その必死な顔に呪いのことを教えてあげたいが。

(でも馬鹿正直に、お二人共に呪いの気配があります、なんて言えないわよね)

 それにまだどんな呪いなのかも分からない。呪った犯人もだ。そんな状況下で曖昧な情報をハンナに伝えるわけにはいかない。

「まだ何ともいえないけど。ハンナ様がミランダ様があのような人でないというのなら、それを信じたいわ。貴方が嘘を言っているようには思えないもの」

 答えることができる精一杯をミュリエルはハンナに伝えた。

「私の呪いを解くことに協力してくれている人達がいるの。その人達に相談してみるわ」

「本当ですか? ありがとうございます、ミュリエル様!」

 表情を緩めるハンナにミュリエルは気を引き締めた。

(二人には絶対に何かある)

 それも呪い絡みの何かが。それを確かめるまでは、ミュリエルもこの件から手を引くつもりはない。

(呪いに負けてたまるか!)

 ミュリエルの原動力である、呪いに対する闘志が燃えていた。



 アーシュレー家でのお茶会はミランダとの接触の後は特に変わったこともなく普通に終わってしまった。呪いの気配もハンナとミランダ以外からはしていないようだ。

 ヴィサンテオ公爵邸へと帰りついたミュリエルは即刻、ハヤトとアイザックを集めて現状を整理した。

「それで。ハンナ様とミランダ様なんだけど、二人に指輪を近づけたら水晶がくもったわ。

 他は全て問題なし。家具もお茶もお菓子もカップにも、呪いの気配はなかったよ」

「確実に、あのお二人にはなんらかの呪いが発動しています」

 ハヤトの断言にミュリエルは「でもねぇ」と眉間にしわを寄せた。

「それにしては、本人達はいたって平気そうなのよね。

 で? グリゼン男爵令嬢の方は?」

 当然調べているだろうとハヤトに聞けば彼はサクッと回答する。

「行方不明です」

 アイザックが「うげ」と嫌な顔をした。

「すっげー怪しい」

「まったくね」

 ミュリエルもそれらの情報に嫌な予感しかない。

「ねぇ…………ミランダ様が男爵令嬢と入れ替わっているって、本当にあると思う?」

 姿をそっくり入れ替えるだなんて、そんなことが可能なのだろうか。

 しかし呪いに詳しいハヤトはあっさりとそれはできることだと肯定した。

「なくはないでしょうね。問題は、中を入れ替えたのか、それとも外を変えたのか、ですが」

「どういうこと?」

 ハヤトが難しい顔をした。

「もしも魂が入れ替わっているとしたら厄介だという話ですが……………」

「た、魂? 魂って入れ替えできるものなの? というか身体から出して大丈夫なのっ?」

 恐ろしい話にミュリエルの声は震える。だがアイザックはそのテの話は慣れているのか、特に驚く様子もなくハヤトの懸念に異論を唱える。

「魂の入れ替えはかなり難しいぞ? 変えるなら外側だろ」

「ですがミュリエル様の呪い完成度を考えると、魂を入れ替えることも可能かと」

「けどこの件は、明らかに豚令嬢の呪いとは術者が違うだろ。まずは外側が変わっているかどうか確認すべきなんじゃねぇの」

 とはいうが、それを確認することだって容易ではないだろう。呪いを解くにも、何の呪いだか分からない現状で、どうしろと。

「でも、確認って。どうやって暴けばいいのよ?」

 考え込んだミュリエルにハヤトがたいへん重要なことを思い出させてくれた。

「どんな強固な呪いも解ける方法なら、一つありますよね。一時的にですが」

「……………あっ!」

 ミュリエルはバッとアイザックの顔を見る。彼はすでにその選択に思い当たっていたようだが、自分で口にしなかったところをみると乗り気ではないのだろう。

 しかし、アイザックの力を使えば、たちどころに呪いは緩和されて事の真実が分かる。

(つまり、コイツがミランダ様にキスすればいいってこと?)

 思わずミュリエルはじっとアイザックを見つめてしまう。

 アイザックは渋い顔でかなり嫌そうに言った。

「何だよ。俺にキスしろってか」

「ええ。できますよね? なにせ、キスなんてアイザック様には挨拶代わりです」

 にこやかに断言するハヤトにアイザックは「チッ」と舌打ちしながらも頷いた。

「まあ、それが一番手っ取り早いわな。あー、メンドクセー」

 嫌々ながらも「キスは挨拶代り」の言葉通りにする気のようなアイザックに、ついミュリエルは言ってしまった。

「本当に、貴方にとってキスって『たかがキス』なのね」

「お前にとっても、もうそうなってんだろうが」

 ミュリエルは顔をしかめた。

「貴方と同じにはなりたくないわ」

「ほー。じゃあ、何か? お前のキスは重いってか」

「実質、重いわよ。真実の愛があれば呪いが解けるキスだもの。…………………貴方っていう例外はなしにして」

「俺は例外、ね」

「それはそうでしょ。貴方は規格外っていうか、もう、範囲外の対象だもの」

 この男のキスが自分にとって価値があるなんて、絶対に思いたくないミュリエルだった。

「貴方のキスの価値って、もうすっごく軽いわよね。すっかすかよね」

 アイザックはウンザリといった顔で肩を竦めた。

「重いキスなんざしたくねぇな。女との付き合いなんて、遊びで十分だ」

「それ、最低の台詞よ? 分かって言ってたら最悪な男だし、分かってなかったらとんだ馬鹿者だからね?」

「どっちでもかまやしねぇよ。………………どうせ俺は色気違いだ」

 不貞腐れているような響きがないでもないアイザックの台詞に、ミュリエルは(あぁ、自棄になってるってわけね)と納得した。

 色気違い、愛人の子、と噂され、アイザックはそれ通りに振る舞っているだけだ。

 拗れに拗れてしまったヴィサンテオ公爵家の三男は、自分でもそのイメージに嫌気が差しつつも逃れられない、負のスパイラルに嵌ってしまっているのだ。

(根はどちらかと言うと誠実だものねぇ)

 ミュリエルの呪いを解こうとする態度を考えるに、彼の本質は真面目であるのだ。だがいかんせん、環境から性格が拗れてしまっている。

(素直になったら、絶対に性格良いご令嬢と上手くいくと思うんだけど)

 それを考えたらほんの少し胸が痛む気もするけれど、将来きっとアイザックにはお似合いの淑女が現れるだろう。それを祝福したい気持ちがミュリエルに確かにあるのだ。

 ミュリエルは「もう!」と声を荒げてアイザックに詰め寄った。

「そんな噂を本当にしてどうするのよっ? 良縁がなくなっちゃうわよ!」

「……………は?」

 ぽかんとするアイザックにミュリエルは力説した。

「貴方が女の子にゲンメツする気持ちは分かるわ。でも、そんな子ばかりじゃないのよ! ってゆーか、そういう真面目な良いご令嬢ほど今の貴方から遠ざかっちゃうのよ!

 可愛いお嫁さんがいた方が絶対に人生明るいわっ! これ間違いないわよ! 貴方なんて顔は良いんだから、真面目に探したらきっと素敵な子が見つかるはずよ。

 だから、その子の為にも、もうちょっとマシな生き方しなさいよね!」

 まるで世話焼きのおばさんよろしくこんこんと諭すミュリエルに、横で聞いていたハヤトが何とも微妙な顔で口を出した。

「あー………ミュリエル様。現時点での婚約者に良縁を願うというのは、少し的外れでは」

「的外れ? だって、私とは婚約解消するでしょ。

 そりゃ、私だってこんなこと言うなんて変だって思うけど」

 ミュリエルだって婚約者であるアイザックに、性格の良いご令嬢と上手くいってほしいなんてことを言うことは非常識だとは分かっている。

 けれどミュリエルはどうしても我慢がならなかったのだ。

「けど貴方ってば、自分で自分の人生を台無しにしそうなんだもの!」

 意識してか無意識なのか、アイザックが不幸な道を選ぼう、選ぼうとしているようにしかミュリエルには感じられないのだ。

 それが―――――どうにも、もどかしく思えて。

 ふんっと鼻を鳴らすミュリエルにアイザックは言葉を失ったようだ。

「ふ、くく、く」

 ハヤトは我慢できずについに笑い出した。

「はははははっ、なんて人だ! すごい、すごいですよ、ミュリエル様。本人を目の前にして、ここまでズバッと指摘してしまえるなんて!」

 何がそんなに面白かったのだろう? ハヤトは腹を抱えて大爆笑している。

 その横でアイザックの顔は苦虫を噛み潰したようなものに変わっていった。ハヤトはそんなアイザックを見てまた笑いが込み上げているようだ。

「アイザック様、言われてしまいましたねぇ。ミュリエル様は本当にアイザック様の急所を突くことがお得意だ!」

「………………ハヤト、お前、もう黙ってろ」

「いいえ、黙れませんよ、こんなこと! いやぁ、アイザック様に心強い婚約者ができて、私は感無量です!」

「だから、コイツは婚約解消する婚約者だって言ってんだろーが!」

「ははは、それは、今後のアイザック様の頑張りしだいでは」

「何を頑張って、どうなろうってんだ! ふざけんなっ!」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐ男性二人にミュリエルは首を傾げた。

(私、そんなに変なこと言ったかしら?)

 いや、変な発言ではあったのかもしれないとは思う。しかしアイザックの自暴自棄を何とかしたいと思っているのは本音ではあったし。

 考え込んでしまったミュリエルにハヤトがようやく笑いを引っ込めて―目には涙をためていたが―言った。

「ミュリエル様、貴方はそのままでいてくださいね。そして、できれば、このアイザック様を見捨てないでやってください」

「は、はぁ……………」

 ちらりとアイザックを見れば彼は何とも言えない、何かに怒っているような、それでいて参ったような、どうにも収拾がつかない気持ちのような顔でミュリエルを見ていた。

「ごめんってば。逆鱗に触れちゃったなら、謝るわ」

「………………違ぇし。お前な、ちょっと、なんつーか」

「何? お節介した自覚はあるのよ、これでも」

 じぃっとアイザックを見つめていると、何故だか彼はぷいと横を向いてしまった。

「あー! もう、どうでもいいわ。やっぱ、どうでもいい。キスなんて!」

 何故そこでキスの話になるのか。

 きょとんとしてしまったミュリエルにアイザックは早口で言った。

「つーか、俺がディマエル伯爵令嬢とキスするのが、呪いを暴くのに一番手っ取り早いって話だっただろーが」

「…………………そうだったわ」

 話が逸れに逸れていたことにミュリエルはやっと気がついた。

「でもそれをするとなると、不自然なくミランダ様に近づく必要があるわよね」

 どうすれば、と考えたミュリエルにハヤトがすんなり解決案を提示した。

「そこは公爵家の力を使えば簡単でしょう」

「あ、前回と同じ手を使うのね」

 つまり夜会の時と同じだ。

「ええ。彼女達は前もウォルター伯爵家の夜会に出席していましたから。おそらくディマエル伯爵家は招待に応じるでしょう。たとえ彼女が嫌がったとしても」

「で、貴方が接近して……………キスをする、と」

「呪いで姿が変わってたんなら、本来の姿に変わるはずだし…………万が一、魂が入れ替わっていたとして、本来のディマエル嬢から事情が聞けるはずだ」

「そうね。方法としてはそれが最善かも」

 だがアイザックは微妙な顔でミュリエルに聞いた。

「お前、それでいいのかよ?」

「ん? 良いも何も。貴方が言ったんじゃないの。キスなんてどうでもいいって」

「……………そーかよ」

 がりがりと頭を掻くアイザックは、もしかしたらミュリエルの言ったことを考えているのかもしれない。

(本気で真面目になる気があるってことなのかしら)

 だとしたら、アイザックの性根を叩き直すことがそれなりに重要であるミュリエルにとって、喜ばしいことなのだが。

 拗れたものを解くというのは、本当に難しい。それは呪いのようなものだとミュリエルは感じていた。

(でも、きっと解決できるはず)

 ミランダとハンナのことも。アイザックの態度も。自分の呪いも!

 ミュリエルはとことん真っ直ぐでタフなご令嬢なのだった。



 前回と違い、今回ウォルター伯爵家で催されたのは晩餐会だった。

「豚令嬢にはぴったりだな」

「そうね。そんな豚令嬢が婚約者だもの、浮気したって誰にも責められないわよ、きっと」

「だろうな。どうせ面白可笑しく話されてお終いだ。気にしないでいこーぜ、お互いにな?」

「ええ、その通りよね!」

 皮肉の応酬をしている間にウォルター伯爵邸へ着いてしまった。さすがに二度目の場所だ。ミュリエルも緊張することなくウォルター夫妻の前へ行くことができた。

「本日は本当に…………その、お招きくださりありがとうございます」

 前回といい、ウォルター伯爵にはお世話になりっぱなしだ。

「いいえ。これも仕事のうちですから」

 穏やかに微笑むウォルター伯爵だが、先の夜会で起こったあの出来事を、他の招待客に漏らすことなく内々に素早く処理した人物だ。

(この人、アーゼル様の部下なのよね)

 さすがとしか言いようがない。むろん彼は、今日の目的もしっかり把握しているのだろう。

「アイザック様、存分に我が家をお使いください」

 言われたアイザックは「助かる」と頷いた。

「ではこちらにどうぞ」

 ミュリエルとアイザックはウォルター夫人に案内され、他の招待客より一足先に歓談室へと通される。

「今日はダンスはないのよね?」

「なんだ、踊りたかったのかよ?」

「違うわよ。ちょっと安心してるだけ」

「別に悪かなかったぞ、お前のダンス」

「………………次こそ貴方の足の指を踏んでみせるわ」

「趣旨が違ぇよ」

 小声で夫人に聞こえないように囁き合っていたのだが、その様子に夫人はどんでもない誤解をしてくれたようだ。

「前の夜会の時も思いましたけれど、本当のところはお二人とも仲がよろしいですわねぇ。色々な噂がありますけれど、私はそう感じますわ。アーゼル様も一安心でしょう」

 のほほんと言われミュリエルは内心で冷や汗をかいた。

(でも今日この男は、婚約者とは別の女性にキスするんですけど)

 その計画を夫人は知らないのだろう。

「いいですわねぇ、若いって」

 にこにこと人の良さそうな笑顔で言う夫人にミュリエルは「えぇと」と言葉を濁す。

「………………これまで散々落ち着かないことをしてきましたが、彼女と出会って女性観が変わりました」

 アイザックが真顔で言うのでミュリエルはぎょっとした。

(女性観が変わったって、どの口が言えるのっ?)

 しかし夫人はいたく感激したようだ。

「まあまあまあっ! アイザック様がそんなことを言うなんて! 本当に素敵な女性に巡り合えてよかった!」

「まったく、こんな女性に巡り合うことになるなんて、夢にも思っていませんでしたよ」

 別人かと思うくらいの爽やかなアイザックに思わずミュリエルは背中を小突いて囁いた。

「心にもないことを言ってると舌が馬鹿になるわよ?」

「あながち嘘でもねぇだろ。お前みたいな女がいるなんて、想像もできなかったもんな」

「本当に! 貴方の口が馬鹿になって少しでも静かになればいいって思うわ」

「馬鹿になったら、さらにダダ漏れになるぜ? 聞かせてやろうか?」

 ああいえばこういうとはこのことだろう。アイザックを黙らせる術のないミュリエルは、効きもしないと分かっているが彼を睨みつけるしかない。

「ま、馬鹿になる気はねぇから、安心しろよ」

 くくくっと笑うアイザックにいつものように蹴りを入れることができたらどんなにいいか。ミュリエルは歯噛みしながらアイザックの隣を歩いた。

 案内された歓談室でしばらく夫人との会話を楽しんでいると、次々と招待客がやってきた。今夜の招待客は晩餐会であるので当然のように夜会の時よりも少ない。

 何組かの招待客が訪れて、比較的ゆったりとした雰囲気のなかでアイザックとミュリエルはソファーでミランダ達が現れるのを待った。

「現れたぞ」

 アイザックが小さく言った。

 ミュリエルはそちらを見はしない。ほとんどそちらを無視するような形でアイザックに聞いた。

「で? どうするの」

 目的はミランダだったが、彼女の父親もハンナの父親も招待されている。このなかでアイザックが堂々とキスできるとはミュリエルだって考えられない。

「連れ出しゃいーんだろ。ようはクドけばいいってこった。

 お前は………………アシュレー家のご令嬢とご歓談でもしてろ」

「そうね。さすがに婚約者の前じゃ、やりにくいものね?」

 アイザックはミュリエルを苦い顔で見やると「とか言って」とぼやいた。

「どうせお前、覗き見する気だろ」

「見たくはないけど、さすがにハンナ様は気にするだろうし。覗き見ることになると思う」

 あっさり肯定したミュリエルにアイザックは呆れたような顔をしたけれど、結局諦めたように肩を竦めた。

「覗いていてもいいけどよ、周りには注意しろよ?」

「貴方こそ、連れ込む場所を間違えないようにね」

「誰に言ってんだ。俺は『色気違い』な男なんだぞ? 場所を選ぶくらいの経験はあるんだぜ?」

「…………………それ、自慢できないから。役に立つ経験かもしれないけど、最低だから」

「当たり前だ。自覚はあるから安心しろ」

 ミュリエルはほんの少し驚いて、それから笑った。

「自覚があったのね」

「そこまでイカレてないっての」

「だったら、最低は取り消しておくわ」

 アイザックはじぃっとミュリエルを見つめると何故だか深いため息を吐いた。

「何よ? 文句あるの?」

「……………………ねぇよ。ただちょっと、まぁ複雑だ」

 だがそうは言いながらもアイザックはすっと立ち上がった。

「じゃ、やるからな」

「分かった。私はハンナ様のところにいくわ」

「ん」

 アイザックがその場を離れるとミュリエルも夫人に一言断りをいれて、アーシュレー家が歓談しているところへと足を向けた。

「こんばんは、ハンナ様」

 一度お茶会に招待されているのだ、ミュリエルがアーシュレー家に挨拶をしてもそう不自然ではないだろう。

(って、ミランダ様はめちゃくちゃ睨んでいるけど)

 それに気付いたハンナはさっとミュリエルに近寄った。

「こんばんは、ミュリエル様。今夜はミュリエル様も招待されていましたのね」

「ええ。またハンナ様に会えて嬉しいです」

 ミュリエルが今日ここに来ることをハンナは知っている。完全な茶番だったが、ハンナはそれなりに上手くこなした。

「ねえ、ミュリエル様、むこうでお話ししません? お父様達のお話ったら退屈で。

 いいですわよね? お父様」

「………………失礼のないようにな」

 アーシュレー侯爵はミュリエルに渋い顔をしたが止めはしなかった。

 ミランダはミュリエルとハンナを睨み続けていたが、そこはもう無視して二人は離れたソファーへと移動した。

「それで今夜、ミラの正体が暴けるかもしれないと、そうお知らせくださりましたけど。いったい何をするつもりなんです?」

 さすがにアイザックのキスのことまではハンナに伝えられなかった。だいたい説明がとてつもなく面倒だ。

「ええとぉー、簡単に言ってしまえば、私の婚約者が確認してくれますので……………」

「ミュリエル様の婚約者様というと、ヴィサンテオ公爵様のご子息のアイザック様ですわよね」

「ええ。……………その、彼の噂はご存知で?」

 ミュリエルが聞けばハンナはバツの悪い顔をした。

「有名な噂でしたら、ちらほら」

「でしょうねぇ」

 ミュリエルも苦笑いしてしまう。これが普通のご令嬢の反応だろう。

「その噂はあながち間違いでもないのですけど。今回はミランダ様の呪いを確認するという目的がありますので、ご容赦ください」

「は、はぁ。つまり、アイザック様がミラ本人であるのかを探ってくれる、と、いうことなんですの?」

「大雑把にいえば、そうなります」

 不審そうなハンナに内心冷や汗もののミュリエルだ。

(今から彼は貴方のご友人にキスします、なんて言えるわけないって!)

 できればハンナにはその現場を目撃してほしくないのだが。

「あっ! ミュリエル様! 今、ミラに話しかけたのがアイザック様ではなくて?」

 目ざとく見つけてしまったハンナがミュリエルに耳打ちする。

「ええ、そのようね」

「でもアイザック様はどうやって暴く気なのでしょう。あっ! 移動するみたいですわ!」

 腰を浮かせたハンナにミュリエルは思わず聞いてしまった。

「あのぅ、このままここで結果を待っている、という気持ちには…………ならないですよね、やっぱり」

 するとハンナは「えっ?」と驚いたようにミュリエルを見た。

「ミュリエル様は気になりませんの? 二人が何をするか。私は見届けたいです」

「えーと」

 ごもっともな答えにミュリエルも口ごもる。

「ミュリエル様?」

 ハンナは心底不思議そうな顔だ。

(それはそうよねー。気になるわよねー)

 ハンナはもう覗きに行く気満々なのだ。仕方がない。ミュリエルは渋々ながら立ち上がり、二人はこそこそとアイザック達の後を追いかけた。

 アイザックとミランダは歓談室から遠ざかり、どうやらバルコニーへ行くようだ。物陰に身をひそめ、バルコニーにいる二人をミュリエルとハンナは見つめた。

「距離が、ものすごく近く見えますが。アイザック様の噂って」

「ですから言ったでしょう。間違いでもないって」

「で、では、そうした術を駆使してミラから聞き出すとっ?」

「近いものではあります」

 というか、もうこの時点でクドいているのだから、噂は真実である。

 ハンナはちらっとミュリエルを見ると、「今更ですけれど」と前置きして尋ねた。

「婚約者のこういう場面を見るのは、お辛くはありませんの?」

「……………本当に今更ですね。でも、まあ想定内なので」

 平静な表情のミュリエルにハンナは感心した顔をした。

「ミュリエル様はアイザック様のああしたところも許されているのですね。なんといいますか、本当に心がお広いわ」

 だがミュリエルはそれを真顔で否定した。

「許したりなんてしませんよ? あんな不誠実なこと」

「えっ!」

 驚くハンナにミュリエルは微笑んだ。

「あんな誰彼かまわずクドいて女の子と遊んで回るような、どうしようもない男は婚約者にすべきではないですね」

「えぇっ? そ、それでは、その、ミュリエル様とアイザック様の関係は」

「破綻しているようなものです」

「そうなのですかっ?」

 ミュリエルは心の中で付け足すように呟いた。

(破綻というか、もともとそんな関係じゃないものね)

 だからアイザックが女の子をクドく場面を見ようと、誰とキスしようと、何の問題もない。

(私とアイツは婚約解消する関係よ)

 だから、ミランダに迫っているアイザックに傷つく必要なんか、ミュリエルにはこれっぽっちもない。ないったらないのだ。

「ミュリエル様!」

 ハンナの声にハッと視線をアイザック達にもどせば、彼らは今まさにキスしようというところだった。

「えっ? えっ! キス? キスしてます? ミュリエル様っ!」

「あー、してますねぇ」

「本当に冷静ですわねっ?」

 あわあわしているハンナと違いこの展開を前もって知っていたミュリエルは静かに重なる二人の姿を見つめていた。

 その視線の先で―――――。

(姿が変わった!)

 アイザックの腕の中でミランダの姿が変容した。

(ってことは、ミランダ様の姿に誰かが成り代わってたってことで確定ね)

 真の姿が露わになった女性は驚愕の声を上げる。

「ど、どうしてっ? どうして呪いが解けるのっ?」

 ダークブラウンのちぢれ髪に平凡な顔。まったくミランダと似ても似つかない少女。ミュリエルはその少女の名前に心当たりがあった。

「貴方っ! やっぱりミラに呪いをかけたのね!」

 堪えきれなかったハンナが少女とアイザックに詰め寄った。

 アイザックは顔をしかめたが、ミランダの正体を暴いてしまった今ならどうせミュリエルとハンナが登場したところで支障はないだろう。

「貴方、男爵令嬢のマリル様よね?」

 心当たりの名前を口にしてミュリエルも進み出た。

「ご家族が心配されているわ。本当の家族のところにお帰りなったほうがよろしいのではなくて?」

 するとミランダであった少女はギッとミュリエルを睨みつけ吐き捨てた。

「あんな家になんか帰りたくないわ! 本物じゃない! 私は本当の貴族の家に生れるべきだったのよ!」

 なんとまぁ、呆れた言い分だろう。ミュリエルは彼女の妄言を一蹴した。

「産まれてくるお家は誰も選べないわ。そこだけは皆、平等よ。産まれ育ったそこが、貴方の本当の家なのよ。

 しかも人の人生をそっくり挿げ替えるなんて、正気の沙汰じゃないわよ、貴方」

「呪いに手を出してる時点で、正気なんて吹っ飛んでんだ。言うだけ無駄だぞ」

 冷たいアイザックの言葉にミュリエルはちょっと笑った。

「貴方が言うと説得力があるわね」

「嫌味かよ」

「正気におもどりなさいって、そういう意味」

「ッチ、お節介め」

 舌打ちするアイザックとの会話は切り上げて、ミュリエルはマリルに告げた。

「貴方の計画は露見したわ。もう諦めなさい」

 だが彼女は金切り声で叫び続ける。

「何よ、何よ、何よ! こんなの聞いてない!」

 そしてハンナをキッと睨むと憎々しげに罵声を浴びせた。

「アンタね! 邪魔したの! 何でこんな呪われた女となんか仲良くするのよ!

 ああ、もうっ! こんなことなら自分でやればよかった! 伯爵令嬢が身分の下の豚令嬢に嫌がらせしたっておかしいことなんかなかったんだから!」

 ミュリエルはそのマリルの言葉に顔をしかめた。

(んん? この人、初めから私に嫌がらせする気だったの? でもこの男爵令嬢と私って接点はどこにもないし、どういうこと?)

 いったい何故、この女性から嫌がらせをされなくてはならないのか。疑問が頭を過った時、アイザックが低い声で彼女に問いかけた。

「それが、条件だったのか?」

 いったい何のことを言っているのか分からなかったミュリエルだが、次のアイザックの台詞に戦慄した。

「豚令嬢に嫌がらせすることが、ディマエル伯爵令嬢の姿になる条件だったんだな!」

 そして恐るべきことに、マリルは何の疑問もないように、するりとそれを肯定する。

「そうよ! ほんのちょっと嫌がらせするだけでいいって! あとは伯爵令嬢として楽しく暮らせばいいって話だったのに!

 なのに、そこの女を巻き込んだばっかりにこんなことになっちゃったのよ!」

 ここにきて、何だか一気にミュリエルの呪いとの関係性が怪しくなってきた。

「何だ、これ。すっげー嫌なカンジだ」

「そうね」

 とてつもなく不吉な話の流れに感じられるのだが。

 しかし、ハンナの震える声が、別の不穏な事柄を気付かせる。

「ねぇっ? ミラは? ミラは今どこにいるのっ?」

 そうだ。ここにいるミランダが男爵令嬢であるのなら、本物のディマエル伯爵令嬢のミランダはいったいどこにいるのだろう?

「…………………知らないわ」

 口うるさくしていたマリルが一変し、大人しくなった。だんまりを決め込むつもりなのだ。しかしアイザックは冷たい声でマリルに断言した。

「いいや、アンタは知ってるはずだ。彼女の口を封じる為にな」

 ぞっとする考えだが、もしやマリルは。

「まさか! 貴方、ミラを!」

「殺した、の?」

 ハンナはほとんど半狂乱に、ミュリエルは慎重に、マリルに詰め寄った。

 殺人の疑いをかけられたマリルは血相を変えた。

「違うわ! 殺してなんかない! 出られない場所に閉じ込めてあるだけよ!」

 その必死さにミュリエルはほっとする。

(って、監禁も十分にヤバイけど! でも、ミランダ様、死んでなさそうでよかったぁぁぁぁ)

 アイザックがハンナに急いで聞いた。

「アーシュレー家のお嬢様! ミランダ嬢が好きに扱える屋敷か別荘か、そういうものに心当たりは?」

「………………ミラのお気に入りの別荘! つい先日もそこに行っていたと聞いてます!」

 すると見るからにマリルの顔色が悪くなった。

「この様子じゃ、当たりらしいな?」

「なっ!」

 マリルは否定しようとしたようだが、アイザックはもう彼女に背を向けていた。

 そして周囲に潜んでいたウォルター家の使用人に端的に命じる。

「すぐにディマエル伯爵を呼んでもらおうか」

「承知しました」

 すぐにハンナの言っていた別荘の捜索の許可を取る気なのだ。この状況下では、おそらく伯爵は拒否しないだろう。

 動き出す周囲にミュリエルも続きながら、けれどアイザックの背中についぽつりと呟いてしまった。

「本当にキスは挨拶代りなのね」

「何が言いてぇんだよ」

「べつに。やっぱりお上手ねって、褒めただけ」

 分かっていたことだったけれど、アイザックの手馴れぶりを直に見て。どうにもモヤモヤしてしまう。

(きっとこれまでも色んな女性とキスしてきているはずよね)

 躊躇いもなくミランダにキスしたアイザックを思い出すと、何だか腹が立つようなやるせないような、胸が痛むような。

(って、私には関係ない話よ。うん。コイツが誰とキスしようが、私には関係ないったら)

 そうミュリエルが自分に言い聞かせている最中に、アイザックがまた余計なことを言った。

「嫌な言い方だな。俺がこういう男だって、お前も知ってたんじゃねぇかよ」

 だからついついミュリエルも棘のある言葉を返してしまう。

「ええ、ええ。分かってました。最低な色気違いですもんね」

「お前な!」

 怒鳴りかけたアイザックだったがふいに黙り、しばらくしてからぽつりと爆弾を落としてくれた。

「もしかして、お前、妬いてんの?」

「は?」

 ミュリエルは間抜けにもぽかんと口を開けてしまった。それほどに、アイザックの言葉は衝撃的だった。

(妬いてる? え、誰が誰に?)

 そんなことを考えて。考えて、ミュリエルは動揺した。

「――――――バ、バッカじゃないのっ? 妬くわけないでしょ?」

 自分でもそんな考えはちっとも浮かばなかった。―――のに。

 言われて、ほんのちょっとだけ、当たっているかもなんて。

(だ、ダメダメダメダメ! 何ソレ! 妬くとか、私、頭おかしくなっちゃったっ?)

 こんなに無神経で、女の敵のような男だというのに!

(違う、違う! 私はただ、あんな風に誰とでもキスできるって、そう! 不潔だって感じたんだわ! 単にコイツの行動に不愉快になっただけよ!)

 ミュリエルは混乱したままに叫んでいた。

「私が貴方に好意なんて抱くはずがないじゃない! 貴方みたいな最低男、近くにいるのだって嫌なくらいよ!」

 叫んでしまってから、ミュリエルはハッとした。これはさすがに言い過ぎだ。

(で、でも、こんなのいつものことよね? 喧嘩ばっかりしてるもの、私達)

 売り言葉に買い言葉。いつもと同じだ。そのはずだ。

 けれどアイザックは黙ってしまって。

(えええぇ、どうしよう? もしかして、これって、まさか)

 雰囲気が違うアイザックに内心では大慌てなミュリエルだったが、どうにも意地が邪魔して訂正できない。

「………………こっちだって、お前の近くなんか願い下げだ」

 アイザックがいつもの勢いもなくぽつりと言って、ミュリエルに背を向けた。それがまた恐い。

 いつだって彼はなんのかんの言いながらも、ミュリエルの相手をし続けていたから。

(私、やっちゃった?)

 散々アイザックの地雷を踏んでいる自覚がミュリエルにもあったが、ついに本格的に怒らせてしまったか。

 不穏な空気は呪いの所為なのか。公爵子息の軽いキスはミュリエルの心にさざ波を立て続けていた。











第七章 魔女の呪いと婚約の行方



 事情を説明されたディマエル伯爵、そしてアーシュレー侯爵はすぐに顔を青ざめさせた。

 何しろ証拠が目の前にあるのだ。信じざるを得ない。

「なんて………………ことだ」

「ああ! ミランダ!」

 悲痛な声を上げる二人にハンナが叫ぶ。

「お父様! 小父様! すぐにミラの捜索を!」

 ディマエル伯爵はそれにハッとアイザックを見る。そんな彼にアイザックは高圧的に言った。

「ミランダ嬢が使っていたという別荘を調べたい。ただし、これは呪い案件だ。外野は引っ込んでいてもらおう」

「なっ! ミランダは私の娘だぞ!」

「はっ、娘が別人になっていても気がつかない父親がよくも言う。とっとと案内しろ。

 早くしないと、それこそ娘がどうなるか分かったもんじゃないぞ?」

 ディマエル伯爵はぐっと言葉につまる。睨み合う二人に割って入ったのは、まさかのハンナだった。

「アイザック様! そんな風に小父様を責めないでください!」

「ハンナ」

 こうして証拠を突きつけられるまでハンナの言い分に耳を貸そうとしなかったというのに。

 それでもハンナはミランダの父を責めたりはしなかった。

「小父様、ミラが危ないんです。お願いします!」

 これにはディマエル伯爵の心も動かされたようだ。

「……………分かった。ヴィサンテオのご子息殿、娘の捜索をよろしくお願いします」

「ああ。貴方の娘は必ず見つける」

 ディマエル伯爵から別荘の位置を教わり、アイザックは足早に屋敷の外へと向かった。

 その彼の後をミュリエルも大急ぎでついていく。

「ちょ、ちょっと待ってよ! おいていく気?」

 アイザックがぴたりと足を止めてミュリエルに向き直り、思いきり苦い顔をした。

「まさか、お前、ついてくる気かよ」

 ミュリエルは噛みつくように言った。

「当たり前でしょ! 私の呪いに関係あるかもしれないんだから!

 それに、もしかしたらミランダ様は、私の呪いの所為で呪われたのかもしれないし…………」

 マリルの言っていたことが気にかかる。ミュリエルに嫌がらせをすることが、あの呪いをかけてもらう条件だったとか。いったいどういうことだろう。

「アーシュレー家のご令嬢だってここで待機なんだ。お前も待ってろ」

「でも! 私の呪いに関係があるなら、行かなくちゃ。

 大丈夫よ! 私、強いもの。貴方だって知ってるでしょ!」

 必死で食い下がるミュリエルにアイザックは顔をしかめたままだったが。

「ッチ、仕方ねぇ」

 アイザックがつかつかとミュリエルに近づいてぐいと肩を掴んだ。

「え、何」

 いきなり縮まった距離にギクシャクする。と、いうか。先ほどの微妙な雰囲気を引きずっているミュリエルは固まった。

 そこにアイザックはぼそりと言う。

「多少動きがマシになるんだから、元の姿にもどっとけ」

「えっ」

 つまり―――――キスして豚令嬢の呪いを解いておけ、と。

(さっきのアレ、怒ったんじゃないの?)

 けれど、間近に見るアイザックの表情はいつもと違っているような。

 何かにイラついているような、けれどそれを抑えようとするような、そんな瞳でアイザックはミュリエルを覗き込んでいた。

「……………………ここでキスするのが嫌なら、連れていかねぇ」

 しかめっ面で言われミュリエルはくっと顎を引いた。

「いいわ。貴方のキスは挨拶と同、んっ!」

 言葉の途中でアイザックに無理やりキスされた。しかも若干長い。

(好意なんかない。好意なんかない! これは気持ちのない、ただの口と口との接触!)

 唇が離れる頃には、すっかりミュリエルは身軽な身体にもどっていた。

「行くぜ」

「…………………ええ」

 ちょっと乱暴だとか、何でそんな長くキスする必要が、とか。そんな疑問は一切無視して、ミュリエルはアイザックの後に続く。

 屋敷の外に出るともうすでに馬車が用意されていた。

 それに乗り込もうとしたミュリエルだったが、馬車の傍で控えていたハヤトがカッと目を見開いた。

「ミュリエル様!」

「何よ? 貴方も止めようっての?」

 怪訝な顔をしたミュリエルに、ハヤトは大真面目でとんでもない質問をぶつけた。

「お止めはしません。ただ―――――いったい何時、肉をお脱ぎに?」

「…………殴るわよ?」

 低い声と共にギロリとミュリエルに睨まれ、ハヤトは「えーと」と冗談を誤魔化すような半笑を浮かべた。

「あぁー、もしかしてアイザック様と何かありましたか、ミュリエル様?」

「ないわよ?」

「…………………そうですかー」

 ハヤトはミュリエルの返事に笑うときっぱりと言った。

「なら、二人きりで行ってもらってもかまいませんね!」

「は? え? ハヤト、貴方、来ないの?」

 驚いたミュリエルにハヤトはこくりと頷く。

「ええ。ここの後処理がありますし………………お二人だけでも捜索はできるでしょうから」

 あっさりハヤトはミランダの捜索に自分が加わらないことを伝えた。

「ミランダ様のことはお二人にお任せします」

「貴方、執事なのにそれっていいの?」

 ミュリエルは半眼でハヤトを見つめる。ハヤトは乾いた笑いでまた誤魔化した。

「ははは、お二人を信頼してこそですよぅ。それに、旦那様からは優先度の高い仕事からこなせと指示が出ておりますので」

「行方不明者の捜索って、それなりに優先度は高いと思うんだけど」

「しかし、マリル様のことがあります」

 確かにマリルの呪いは一時的に解いただけだ。もう馬車に乗り込んでいるアイザックがハヤトに言った。

「いいぜ。あの呪いも厄介そうだからな。ここは任せる」

「はい。承知致しました。では、お気を付けて」

 ハヤトに頭を垂れられ、ミュリエルは馬車に乗り込んだ。

 駆ける馬車のなかはぴんと空気が張り詰めている。

「ね、ねぇ、私のこの姿って、どのくらいもつかしら」

 緩んだドレスを縛り上げ、ミュリエルはちらりとアイザックを見る。彼は出発してからずっと喋らないし目を瞑ったままだ。

「……………それなりに、もつんじゃねぇの。最長は半日だっただろ」

「それは貴方の調子が良かった時のことでしょう。私のこの姿って、呪いを緩和する貴方の力の使い方次第でもとにもどっちゃうんだから」

 しかもアイザックは先ほどマリルの呪いを解いたばかりだ。あまりこの姿でいられないかもしれないとミュリエルは覚悟した。

「さすがに別荘に着く前にもとにもどるなんてことはねぇよ。半日は無理かもしれねぇけど、感覚的にはそのくらい緩和してるはずだ」

「そうなの?」

 アイザックは段々と己の能力を掌握しつつあるようだ。

「だったら、大丈夫かしら。別荘は遠いの?」

「いや、そこまで遠くない。というか、そう遠いところに監禁はしねぇよな、あの考えなしな頭じゃ」

「でも彼女の様子じゃ、きっと裏で協力しているヤツがいるわよ」

「それが厄介だ」

 おそらく呪いをかけた人物が背後にいる。それがミランダの監禁にノータッチとは考えにくい。となれば。

 ひた走る馬車のなかが沈黙で満たされた。

(う、沈黙が、痛い)

 どことなくアイザックの声も冷たいような。

(やっぱり怒ってるの?)

 目を瞑ったままのアイザックを見てミュリエルは恐る恐る口を開いた。

「あのね? さっき、私が言ったことなんだけど、」

 だがミュリエルが言えたのはそこまでだった。馬車がガタンッ! と大きく揺れて、そのまま止まったからだ。

「着いたか」

 すっと目を開いたアイザックはさっさと馬車から降りる。ミュリエルも慌ててそれに続いたが。

 別荘だという屋敷を目にした途端、ミュリエルの肌は何故だかゾワッと粟立った。

「異様な雰囲気がするんだけど。気のせい?」

「気のせいじゃねぇよ。こっからでも分かる。呪いの気配が満載だ」

 呪いを察知する感覚の乏しいミュリエルでさえ不気味に感じる程、屋敷からは異様な雰囲気が漂っていた。別荘の敷地の扉を開くディマエル家の使用人達に、アイザックはあまり屋敷に近づかないようにと指示を出す。

 そしてくるりとミュリエルを振り返ったアイザックの顔はというと、やはり苦いものだった。

「ここで待ってる……………わきゃーねぇわな」

「あのね、ここで待ってるなら、きた意味がないじゃない」

「まあ、お前の身体能力を考えれば、そう危険でもねぇんだろーけど」

「大丈夫だってば。どんな攻撃もちゃんと避けてみせるから!」

 アイザックはこめかみを手で押さえたが、ふーっと息を吐いてから短く言った。

「気をつけろよ」

「ええ」

 アイザックを前にして屋敷へと入り、二人は屋敷の扉の鍵を開ける。ギィィィッという扉の開く音さえも不気味だ。

 真夜中の屋敷。当然なかは真っ暗だ。

「あ、灯りを点けたくなるわね?」

 馬車から持ってきたランプはあるのだが、いかんせん中が広い。ゆらゆらと揺れるランプの影にもびっくりしてしまいそうだ。

「そうだな。点けとくか」

 アイザックはさほど恐ろしくないのか、すたすたと進み燭台の蝋燭にランプの火を点けた。

 そうすると、屋敷のエントランスがぽぅっと浮かび上がって。

「ひっ――――」

 ミュリエルは目に飛び込んできた物に思わず悲鳴を上げそうになって、自分で自分の口を塞いだ。

「何だ、これ」

 エントランスの壁には落書きのような、文字のようなものが描かれていたのだ。それも血のような、真っ赤な何かで。

 ミュリエルは震える声でアイザックに言った。

「貴方の趣味部屋と、どっこいどっこいね?」

「こっちの方がより悪趣味だがな」

 アイザックは落書きに近づき、その赤く描かれた紋様に触れた。

「ちょっと! あ、危なくない? 大丈夫なの?」

「へーきだ。ま、これ呪いだけど。俺は耐性があるから―――――」

 だがアイザックがバッと壁から手を放し叫んだ。

「ぎりぎりまで下がれ!」

 声と共に幾つかの刃物が天井から降り注ぐ!

 とっさに壁ぎわまで退避したミュリエルとアイザックの前に、次々とナイフやら包丁やらが刺さっていった。

「………………物理的な仕掛けもあるの? しかも殺意はっきり感じるわね、これ」

「屋敷中がこんなになってると思った方が良さそうだな」

「ってことは、あれね。ここで当たりってことよね。

 でもって、たぶんミランダ様は奥にいるわよね。違う?」

「大当たり、だ。あの男爵令嬢にかかってた呪いの気配とまったく同じ」

 アイザックは頷いて廊下の奥をじっと見つめる。

「幾つか、仕掛けてあるな」

「場所、分かるの?」

「だいたいは。………………お前なら俺の動きについてこられるよな?」

「誰に言ってるのよ」

 恐怖を振り払いミュリエルは強がりを言った。そのミュリエルを一瞥すると。

「じゃ――――遅れるなよっ!」

 言うなりアイザックは走り出す。

 ミュリエルはその背後にぴったりとくっつくようにして走った。肉を脱いだミュリエルの動きはアイザックよりも素早い。なんなくついていける。

「踵の低い靴にしておいて、正解っ!」

 仕掛けられている罠を的確に避けるアイザックの動きに合わせ、ミュリエルも廊下を駆ける。

「上か」

 おそらく呪いの気配をたどっているのだろう、アイザックが階段を駆け上がる。ミュリエルも同じところを走ったつもりだったのだが。ミュリエルの足元の階段がカコンと音をたてた。

「ミリィ! 跳べ!」

 ほんの二、三段上にいたアイザックがミュリエルに手を伸ばして叫ぶ。ミュリエルはとっさにアイザックの方へと跳んだ。

 一瞬の後、ミュリエルがいた場所の階段が抜け落ちた。アイザックはミュリエルの身体をしっかりとした手つきで捕まえてくれた。

 その腕にしがみつきながら、ミュリエルは先ほどまでいた場所に開いたぽっかりとした穴にぞっとする。

「あ、危なかったぁ。ありがと、助かったわ」

「豚令嬢だったら確実に落ちてたな」

 アイザックの胸に引き寄せられたミュリエルはハッと気がついた。

 さっき、自分が何と呼ばれたのかを。

(とっさだったからなんだろうけど)

 思わずアイザックの顔を下から覗き込んでしまう。

「何だよ?」

 怪訝そうな顔をするアイザックに躊躇ったが、ミュリエルは思い切って聞いた。

「え、と。さっき、ミリィって呼んだ?」

「……………仕方がねぇだろ。嫌なら呼ばねぇから、今回だけは許せよ」

 どことなく面白くなさそうに言うアイザックにミュリエルは慌てる。

「ち、違! ちょっと驚いて…………その、嫌じゃないし」

 するとアイザックは意味深な目でミュリエルを見ると小首を傾げた。

「俺みたいな最低男、近くにいるのも嫌なんじゃねぇの?」

 そういえば、先ほどミュリエルはそう言い切ってしまっていたんだった。ミュリエルは慌てた。

「だ、だって! 協力関係? に、あるわけじゃない! 私達!

 そりゃ…………貴方は女関係は緩いし、口悪いし、態度も悪いけど。で、でもさっきのは……………私が言い過ぎたって思うし」

「………………ほぉん。言い過ぎた、ね」

「近くにいるのも嫌、は、ダメよね。うん。ごめんなさい。貴方だって真面目なトコはあるし。ほんのちょっと優しいとこがあると思わないでもないし? あ、でも、女性関係についてはやっぱり最低って思うけど。

 だけど一応、婚約者なわけだし。愛称で呼ばれるくらいは、されてもいいかなって」

 言い訳がましく喋るミュリエルに、アイザックはどうしてだか、ふっと笑った。

「まーな。んじゃ、お前も俺のことザックって呼ぶんだ?」

「それは…………まぁ、貴方が嫌じゃないなら」

「別に嫌じゃねぇよ。特に気にしねぇもん。

 いーんじゃねーの? お前も言ってるけど、今のところは婚約者だし。不自然じゃねぇわな」

「そ、そうよね。うん。とりあえず、今のところは、だものね」

 あたふたとしているミュリエルをアイザックがじっと見つめる。

 そして何故だか。

「ほれ、呼んでみ?」

 そんなことを言った。

「は?」

「だーかーらー、ザックって呼んでみろって」

 何故そんな風に急かされなければならないのか。ミュリエルはいつも通りアイザックに噛みついた。

「必要になったら呼ぶわよ!」

「おお? 助けてやったってのに、その態度か」

 ミュリエルの顔を覗き込み続けるアイザックは、どうにも愛称を呼んでもらいたいようにも見える。

「助けてくれた、のは………………ありがと、ザック」

 根負けしたような気がしなくもないし。でも本当は呼んでみたかったような気もするし。

 色んな感情がごちゃ混ぜになってミュリエルは俯いてしまう。

「どーいたしまして」

 明らかに笑いを含んだアイザックの声が何故だか恥ずかしくて堪らない。

「ほら! ご、ごちゃごちゃ言ってないで早くいかなきゃ! ミランダ様が心配でしょ!」

 自分でも顔が熱くなっているのは分かる。どうかこの暗闇でアイザックにそれがバレませんようにとミュリエルは祈った。

 アイザックはそんなミュリエルの願いを知ってか知らずか、すいっとミュリエルから身体を離し、トントントンッと階段を駆け上がる。

「へいへーい。んじゃ、サクッと見つけよーぜ」

 ミュリエルは慎重にアイザックの上った位置と同じところを踏みながら階段を上った。

 二階は比較的、罠が少ないようだ。走らずに気配を探りながらアイザックが進んでいく。そうして、とうとう一つの部屋の前にたどり着いた。

「ここだな。一番呪いの気配が強い」

「つまり、絶対に何かが仕掛けてあるわけね」

「だろうな」

 目配せするアイザックにミュリエルは頷いて扉のある壁に張り付いた。アイザックはドアノブを素早くガチャッ! と回して開くと、同じように中には入らずに外から気配をうかがう。

 しかし二人の予想に反して、辺りはしーんと静かなものだった。

「あ、あれ? 何もなし?」

「いや、油断すんな」

 そーっと部屋のなかを覗いてみても何もない。拍子抜けするほど、部屋はがらんとしている。

「入るぞ」

「うん」

 アイザックに続いて部屋に足を踏み入れたミュリエルだったが、踏み入った一歩目で気がついた。

(この部屋! 呪いがかけられてる!)

 だがそれに気付いても遅い。ぐにゃりと視界が歪んで―――――ざわざわざわ、と、壁から何かが浮かび上がってくる。

「って、うえぇぇぇぇぇっ? 何? 何これ!」

 形作られていくそれにミュリエルは思わず悲鳴を上げた。

「色気のない悲鳴だなっ?」

「だってこれ、叩き潰さなきゃいけないって考えたら、吐き気がするでしょ!」

 現れたのは人の頭ほどもある虫の群れ。だがアイザックはその虫よりも、ミュリエルの発言に奇妙な感想を漏らした。

「ああ………………お前、害虫叩き潰せる女だったっけ」

「叩き潰すわよ。戦わなくてどうするのよ。虫くらい自分で何とかするもんでしょ!」

 あり得ない虫に囲まれているというのに、アイザックはずいぶんと余裕だ。にやりと笑うと、自分も叩き潰す気満々だというように拳を前に突き出した。

「それでこそ、俺の図太い婚約者」

「今は太くないっ!」

 叫んでミュリエルは一番近くにいる虫めがけてジャンプした。

「気持ち悪いけど! 害虫は、叩いて殺す!」

 ズダンッ! と、ミュリエルはその虫に勢いよく足を振り下ろす。

 しかし―――――ミュリエルが踏みつぶしたはずの虫は。

「え? 嘘。潰れない? というか、消えちゃった?」

 跡形もなく霧散してしまった。

 いや、こんなデカい虫が潰れたところなんて見たくないから、むしろ助かったのだが。

「成る程、これは幻覚か」

「で、でも、幻覚って! って、痛っ!」

 油断していたところに足に噛みつかれ、ミュリエルは急いでそれを噛まれていない方の足で踏みつぶした。

「くそっ、痛みはありやがるのよ!」

 虫に群がられたアイザックはそれらを振り払いながら毒づいた。

「っていうか! 次から次へとわいて出てくるんですけどっ?」

 素早く動いている分、ミュリエルの方が傷は少ない。だがこのままではいずれ群がられてしまう。

「幻覚を見せている大元が、どこかにあるはずだ。………………どこだ」

 アイザックが気配を探る。それに集中できるように、ミュリエルは彼に群がっている虫を蹴散らした。

「ミリィ! 左の壁だ! かかってる絵画をブチ抜け!」

 ミュリエルは言われた通りに左の壁に走った。

「ぃえやぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」

 跳びかかってくる虫をかいくぐって、早く鋭いミュリエルの拳が絵画を貫く。

 バスッ! という音と共に、絵画に大穴が空いた。と思ったら、周りの虫がいっせいに霧散した。

「あ、消えたわ」

 しかも何もないように見えていた部屋には続き部屋があり、そこには二つの棺が並んでいる。

 慎重にそちらに踏み入ったアイザックがミュリエルに言った。

「行方不明者、発見、と」

 棺の一つに、ダークブラウンのちぢれ髪をした少女が横たわっている。その顔は男爵令嬢のマリルだが。

「この人が、入れ替わっているミランダ様ね」

「ああ。どうやら、着せられているドレスが大元だな。これを脱げば、呪いは解けるだろ」

「そうなの?」

「呪いを解く条件の幾つかのうちの一つ。大元を破壊する手段ってやつだ」

 言いながら棺を調べていたアイザックだったが、少女が横たわっている棺から反対側の棺に回ったところで急に毒づいた。

「クソッ! やっぱりこの屋敷に仕掛けたヤツは悪趣味だ!」

「ど、どうしたの?」

 思わず聞いてしまったミュリエルにアイザックは逆に苛立たしげに聞き返した。

「ミリィ、この中に入っている物に見覚えは?」

「えっ?」

 言われてミュリエルはミランダが入っている棺の反対側にある棺を覗き込んだ。その中には白いヴェールを被った人形が横たわっている。

(人形? でも、こんな人形に見覚えは………………あ!)

 だが人形の身に着けている物に、ミュリエルはハッとした。ああ、これだけは見覚えがある。

「このヴェール、見たことあるわ」

 スズランの花のレースに真珠をあしらったヴェールは良く覚えている。

(ロバート様が、褒めてくれたから)

 似合っているだなんて、見え透いたお世辞に胸をときめかせていた自分が愚かしい。

「花嫁衣装を選びに言った時に、着けたんだろ?」

 ミュリエルはこくりと頷いた。

「お前の、豚令嬢の呪いはこれを身につけた所為だ。間違いない。呪いの気配が同じだ」

「つまり、これを壊せば」

「お前の呪いを解くことになる。……………けどな」

 アイザックはヴェールを被った人形が入った棺を忌々しげに見つめて言った。

「この棺はおそらく連動している。一つが開けば、もう一つの中身が失われるように」

「え? どういうこと?」

 ミュリエルはアイザックが何故険しい顔をしているのかが分からずに混乱した。

「でもそれって、大元が失われるのなら、私の呪いだって」

「………………そんな甘いモンだと思うのか? ここまでの仕掛けを作ったヤツが」

 そのアイザックの声の低さにミュリエルはぞっとした。

「まさか、解けない、の?」

 アイザックがミュリエルから顔を背けた。

「本当にクソッタレな仕掛けだ! 大元の呪力だけを残して形を失くす。呪いの最終形態みてぇな手段だぜ」

「つまり?」

「呪いは残るんだよ! 大元は失われても、呪いは残る! そういう仕掛けがこの棺に施されてるって言ってんだ!」

 それは何とも絶望的な事実だった。大元を壊せば呪いが解ける、という手段の一つが失われるということだから。

 そして一つの棺を開ければ、自動的にもう一つの棺にその仕掛けが発動する。

「………………ミリィ、お前、何てヤツに目ぇつけられてんだよ」

「心当たりないんだってば、本当に」

 何故、自分にこんな災いが降りかかっているのだか、ミュリエルには心の底から疑問だ。

(原因分かったところで解決しないし、そもそも疑問解消されそうにないけどね!)

 がっくりと膝をついてしまいたい心境になってしまったが、そんなこともしていられない。

 アイザックが棺を指さしてわざわざミュリエルに尋ねた。

「で? どーするよ?」

「ねぇ、その質問って意味ある? どうするって、選択肢なんかないでしょ」

 半眼で自分を睨むミュリエルにアイザックは暗に「見捨てる」という選択肢を示したつもりだ。彼女がそちらを選ばないことは、百も承知で。

「貴方だって、ディマエル伯爵に約束したでしょう。彼女を連れて帰るって」

 ミュリエルはきっぱりと言い切った。

「だから、ミランダ様を助けるわよ」

「……………豚令嬢の呪いが解けなくなるかもしれないぞ」

「それでもいいわ」

 彼女には他に選べる道なんかない。その性格故に。

「てゆーか、人の命の方が大切でしょ! 当たり前じゃないの!」

 自分の呪いが解けなくなるかもしれない可能性を知りながら、それでも「当たり前」と言ってしまう彼女に。

 アイザックは「そーだな」と言うと、ほんの少し口角を上げて言った。

「呪いの大元がなくなろうが、お前の呪いはぜってー俺が解いてやる」

 ミュリエルも笑った。アイザックのそれが気遣いだと気付いたから。

「ほんのちょっとだけ、期待してるわ」

 ミュリエルとアイザックは顔を見合わせ、ミランダが横たわる棺の蓋に手をかけると、力を入れてそれを押し開ける。と同時に反対側の棺のなかみが青白い炎に包まれた!

「急がなきゃ! どうせこれって、屋敷にも火が燃え移る仕組みなんでしょっ?」

「たぶんな!」

 アイザックがミランダを抱き上げ棺から出したところで、彼女はうっすら目を開いた。

「大丈夫ですか? 今、助けますからね」

 安心させるようにミュリエルが言えば、彼女は目を見開いて思いもよらない名前を口に出した。

「ハンナは? ハンナはどこですっ?」

「えっ?」

 どうしてここでハンナの名前が? と驚いたが。次の瞬間、ミランダは信じられないことを告げた。

「彼女も捕まっているの! お願い、助けて!」

 その必死な形相、この状況下でのそれは嘘とは考えられない!

「待って! どういうことなの?」

 状況が分からないミュリエルと違い、アイザックはすぐにそのことに気がついた。

 呪いの気配は、ハンナからもしていた、ということに。

「そーゆーことかぁっ! だからハヤトのヤツはこっちを俺達に任すって!」

 そこでミュリエルもハッとその可能性に思い当たった。

(まさかハンナ様も入れ替わってたっ? しかも、その人が今回のこれを仕組んでたのっ?)

 ハヤトは優先度の高い仕事、と、そう言っていたではないか。

「あっちに犯人が残ったから、ハヤトは逃がさないように残ったってことっ?」

「だろうなっ! クソハヤトめ、分かっていやがったのに教えないとか!

帰ったらぜってーボコる!」

「良い案ね! ぜひとも協力させて!」

 図らずも喧嘩ばかりしている婚約者達の意見一致に一役買ってしまったあの執事は、果たして二人がかりでどうにかできるものなのか。

 しかし、そんなことを考えるのは後だ。

「でもとりあえずは、ハンナ様を探さなくちゃ!」

 人形を焼いている火が徐々に棺を炙り始めていた。

 アイザックは部屋の窓に走り寄り外を確認すると、躊躇いもなくその窓を叩き壊した。

「アーシュレー侯爵の娘は俺が探す! お前と彼女はさっさとここから出ろ!」

「でも!」

「足でまといなんだよ。とくに、そこのお嬢様はな!」

 アイザックはミュリエルの反論を即座に封じた。

「いいか? こっから雨どいをつたって下に降りろ。それが一番安全で手っ取り早い」

 ミランダの顔が青ざめた。

「そこから外に出るのですか? ここは二階ですよ?」

 ミュリエルはきゅっと彼女の手を握った。

「大丈夫です。私がついていますから」

 確かに彼女は一刻も早くここから逃がさなくてはならない。

「二階から落ちたくらいじゃ人は死なねぇよ。それに、そこにいる女がアンタをきっと助ける」

 今だにミランダはマリルの姿をしていたが、慎み深いご令嬢の気品が内から滲み出ていた。

(中身が違うと、こうも違って見えるのね)

 やはり生まれがどうとか、外見がとか、そういうものは人の本質ではないのだ。

「ミランダ様、怖いと思う気持ちは分かりますが、勇気を出して。貴方ならできます」

 じっと瞳を合わせて言えば、ミランダは震えながらも頷いた。

「分かりました」

 ミュリエルは窓の外から身を乗り出して雨どいを見ると、どうやって下まで降りるのかを確認し、アイザックに聞いた。

「外に罠は?」

「ない。屋敷の中を行くよりずっと安全だ」

「信じるわ」

 けれど、ミュリエルは窓を越えることを躊躇った。

「すぐに出てくるわよね?」

 探るようにアイザックを見れば彼はわずらわしそうに手を振るだけだ。

「こんなとこで焼け死んだりしねぇよ。先に行ってろ」

「…………………出てこなかったら探しに行くから。炎のなかに」

「本当にやりそうで怖ぇな」

 苦笑いを浮かべたアイザックだったが、ふいに真剣な顔をした。

「お前が決断する前には絶対に出る。行け」

 ミュリエルはぐいと窓を乗り越え、ミランダに手を差し伸べた。

「さ、早く」

「は、はい」

 二人が窓の外に出たことを見届けたアイザックが走り出す。その遠ざかる足音を聞きながら、ミュリエルはゆっくりと着実に雨どいをつたい、ミランダを誘導した。

 実際、雨どいをつたって下に降りることはそう難しいことではなかった。身軽なミュリエルはひょいと飛び降りてしまえさえしたが、ミランダがいるので足場を探しつつ、彼女が落っこちないように手助けしながら地面に降り立った。

「ありがとう、ございます」

 はぁふぅ肩で息をしている彼女には悪いが、ここも長くいるべきではない。ミュリエルは彼女の手を引いて、屋敷の外まで連れ出した。

「貴方達! 助けに来てきれたのね」

 外で待機していたディマエル伯爵家の使用人達を見て、彼女はかくりと膝から崩れ落ちた。

「もしや、この方がミランダ様なのですか?」

 姿の変わっている彼女に戸惑っているような使用人達だったが、ミュリエルの「そうです。すぐに馬車を呼んで」という指示に慌てて動き出す。

「もう大丈夫ですよ。きっとハンナ様も無事です」

 しゃがみ込んでしまったミランダの背中を優しく撫でれば、彼女は潤んだ瞳でミュリエルに向かって呟いた。

「貴方はいったい、どちらのご令嬢でしょう?」

「ジルベリア侯爵の娘、ミュリエルですわ、ミランダ様」

 ミュリエルが微笑むと彼女の頬には涙が伝った。

(怖かったでしょう。今も不安なのだわ)

 ミランダの言葉にならない恐怖や不安は痛いほど分かる。

「大丈夫…………きっと、大丈夫です」

 パチパチと炎の爆ぜる音が聞こえてくる。炎は屋敷の二階、ちょうどミュリエル達が脱出してきた窓から吹き上がっていた。

 ミュリエルはそれをミランダの手をぎゅっと握りながら見つめる。

(早く出てきなさいよ。貴方、女の子を見つけるのは得意なはずでしょう? 色気違いなんだもの。簡単でしょ)

 炎が上がり続ける屋敷をミュリエルはひたすらに見つめ続けた。どこから人影が出てきても見逃さないように。

(早く出てきなさいってば。でないと、探しに行くわよ)

 周りは騒然とし、火を消す為に水が汲まれてくる。しかし外からいくら水をかけようが炎の勢いは止まらない。

「あぁ…………ハンナ」

 その悲痛な声にミュリエルは彼女の手を放し、屋敷に走り出すところだった。もし、この時、バリィンッ! っと盛大に一階の窓が割られなければ、ミュリエルはきっと走り出していただろう。

 その窓から出てきたのはアイザックで。彼の腕には一人の女性が抱えられていた。

「ハンナッ!」

 ミランダが彼女を見て叫んだ。

 驚いたことにアイザックが抱えていた女性は、ミュリエルの見たアーシュレー侯爵令嬢のハンナと同じ顔だった。気を失っているようだが、確かに彼女だ。

(ミランダ様は、入れ替わっているのに? どういうこと?)

 ミュリエルは疑問に思ったがそれはもう後回しだ。

「ほらよ。無事にもどっただろ?」

 ドヤ顔でハンナを抱えてやってきたアイザックにミュリエルは言った。

「遅い」

「………………焦らすのもクドく術の一つなんだよ。覚えとけ」

「そんな知識いらないわよ」

「そーかぁ? いつか使う時がくるかもしんねぇぞ? お前でも」

 こんな状況下でも軽口を叩くアイザックにミュリエルは拳を突き出した。

 ハンナを抱えた状態で避けられるはずのないアイザックにトスッと軽くミュリエルのそれがぶつかって。ミュリエルは心の底から安堵した。

「―――――心配した」

 俯いているからアイザックには見えないはずだ。泣きそうになっているミュリエルの顔は。

 けれど、何故だか妙に嬉しそうなアイザックの声が降ってきた。

「お? 何だ? けっきょくお前も俺に惚れる、ってか」

 ミュリエルの涙は一瞬にして引っ込んだ。

「誰が惚れるかっ!」

 その思いをこめて、ミュリエルは思い切りアイザックの足を踏んづけてやった。

「痛ってぇっ! 何すんだ、この恩知らず!」

「はぁぁぁぁ? いつ貴方に恩ができたのよ? 虫の時に私が助けたんだから相殺よ!」

「か、可愛くねぇぇぇぇっ!」

 燃え上がる屋敷を前に盛大に喧嘩を始めた二人だったが、いつもであればそれを止めるはずの執事は残念ながら不在だった。

 ぎゃあぎゃあと言い会う二人の間でオロオロと困ったのは、正真正銘の淑女、ミランダだったことは言うまでもなかった。



 ミランダとハンナが呪いの屋敷から助け出された、ちょうどその頃。

 一人の女性が手足を縛られ目隠しをされた上で、ヴィサンテオ公爵邸へと移送された。

 アイザックとミュリエルがウォルター伯爵邸を出た直後に捕縛を完了するという電光石化の仕事ぶりをみせたのは、もちろんヴィサンテオ公爵家の有能な執事だ。

「さてと……………少々お話ししましょうか、森の魔女殿」

 はらりと目隠しを外された女性は、ほんの一刻前までとはまったく違う―文字通りアーシュレー侯爵令嬢の顔ではなくなっている―顔でくすくすと笑った。

「あの子の手の早さ、父親似なの?」

 それは黒髪の執事に言ったのではない。彼女の目の前にいる、灰色をした瞳を持つ二人の青年に向けられた言葉だ。

「いったい何が目的だ」

 彼女の話には取り合わず、淡々と取り調べを始めたのはハイルフォードだった。

「お話ししましょうって言ったのは、そっちなのに」

 肩を竦める彼女をアルベルトが睨んだ。

「その気がなくても、話してもらうよ?」

「あぁら、怖い。でも、貴方に話しても、ねぇ?」

 からかう様に喋る彼女に、すいっと漆黒の影のような執事が進み出た。

「はははは、愉快ですね、魔女殿は。しかしですねぇ、お話ししましょうと言ったのは私ですよ? 私に話してくださらないと」

「……………貴方、術者ね。それも東の」

 ハヤトは小首を傾げた。

「ほんの端くれですよ。まぁ、貴方の呪いを封じるくらいはできる術者ですけれどね」

「そのようね。想定外だったの、貴方。こんな護符を用意してるだなんて、聞いてなかった」

 微笑みながら術者同士は牽制し合う。

「口を割らせる術はある。その上で聞く。

 一連の呪いは、『魔女の森』の総意なのか」

 まったく表情の動かないハイルフォードを見つめ、彼女がふぅと息を吐いた。

「そうとも言えるし、そうでないとも言える」

 アルベルトは顔をしかめた。

「答えになってないよ」

 どうにもはぐらかされているような気がするのだろう、アルベルトは腕を組んだ。

「豚令嬢の呪いから始まった一連の事件は、貴方の犯行なんだろう?」

 すると彼女はフフフと不気味な笑い声を上げた。

「おめでたい頭をしてるのね、貴方って。本当にあの騎士様の息子なの?」

「なんだと!」

 思わず怒鳴り返そうとしたアルベルトを、ハイルフォードは片手を上げるだけで黙らせた。

「もう一度聞く。目的は何だ」

 鋭いハイルフォードの視線に彼女は笑い続ける。

「ふふふ、ふふっ。私の役割は『見つける』 ことよ。この後、どうなるのかなんて知らない。でも忠告するわ。

『魔女』を殺せば―――――災いは免れないわよ?」

「………………だろうね。そんなことは分かってる」

 苦々しく頷いたアルベルトに彼女は「あら、物分りはいいのね」と言った。

「魔女殿、貴方は役割を演じた。そしてそれはもう終了した。そういうことで?」

 ハヤトの質問に彼女はいっそう笑みを深くする。

「あぁ、本当に、貴方は大誤算。ええ、そう。私の役割は終わり。もう知らない。後のことは、なぁんにも知らないの」

「………………そのようですね」

 肯定するハヤトに、ハイルフォードが唸った。

「お前の、いや、お前達の狙いはアイザックなんだな」

 魔女と呼ばれる彼女は答えない。ただ笑う。

「どうなんですか? 魔女殿?」

 ハヤトに質問され、彼女は口を開いた。

「私達はただ盗まれたものを取りもどそうとしているだけよ…………」

 どこか夢見心地のような顔で。

「花泥棒に盗まれた薔薇を、もとの森にもどすだけ」

 彼女はそう答えた。

「それは………………『茨の魔女』の願いなのか?」

 ハイルフォードのそれに彼女はことりと首を傾げる。

「さあ? 私は知らないわ。ただ豚令嬢の呪いを作ったのは――――私じゃないけれどね?

 あぁ、でも、証拠は消えちゃったみたい。馬鹿な娘ね。呪いを刻んじゃった。知ったことじゃないけれど」

 ハヤトとアルベルトは顔を見合わせて眉間にしわを寄せた。

「ミュリエルちゃんを呪ったのはアイザックを見つける為で、ミランダちゃんはアイザックの力を確認する為だろう。目的は果たしただろうに、何故そんなことを」

「ふふふ、やっぱり頭の回転は遅いようね」

 ハヤトがまた彼女に質問した。

「アイザック様を、呪いに縛り付ける為、ですか」

「…………………あの子の、力を、取り戻す為」

 ハイルフォードが冷たく言い放った。

「アイザックは森にはもどさない。そうした約束のはず。

 お前達があの力を取り戻すことは協定に反する」

 彼女は喘ぐように言った。

「それは、あの子の知らないところでの、約束。あの子は知ったらどうするかしら?

 己が何者かも。どうやってこの国に連れてこられたのかも。知ってしまったら」

『協定』は、あくまでドーハライドと魔女の間でなされたもの。アイザックがもし自身で選んでしまったら?

「それが狙いなんですね? アイザック様を是が非でも森に返したいわけですか」

 しかし魔女の目的が分かったところで、もう計画はかなり進んでしまっていることをハヤトは悟った。

「真実を知った彼が『魔女』になることを選んだとして、責められないでしょう?

 なにせ、産まれたばかりに攫われたんだから」

「違う! リジオン殿下はそのようなことはしない!」

 思わず激昂したアルベルトをハイルフォードは冷静に諌める。

「落ち着け、アルベルト。挑発に乗るな」

 だがハイルフォードの瞳にも怒りが浮かんでいた。

「アイザック―――殿下はドーハライドの人間だ。

 少なくとも十八年前に『茨の魔女』はそれを選んだ。我が子を手放すことを。

 それが真実だ。殿下が生きるべき世界は森ではない。―――――この国だ」

 確固たる意志を持って言い切った彼を彼女は見つめて呟く。

「さすが王家の騎士。守るのね、彼を」

「我が家に託された使命だ」

 それは十八年前に公爵邸へと赤子が連れてこられた時から何一つ変わらない。

 ハイルフォードとアルベルトは、アイザックの剣と楯なのだ。

「それにアレはまだ我が愚弟。弟を守らない兄はいない」

「騎士の鏡だね、兄上。ま、僕もザックを『魔女』にさせるなんて反対だけど。あ、もちろん兄としてね?」

「まったく麗しい兄弟愛ですね。それとも臣愛でしょうか。

 どちらにせよ、『魔女の森』にアイザック様をお渡しすることはできません」

 この国の王家を守る剣と楯。そして東の護符。

 それに守られているのは、王家の血を吸った薔薇の苗だ。

「どうかしら? 血は水より濃いというでしょう。といっても、半分ずつ、だものね?

 彼がこれからどちらを選ぶのか――――森か、この国か。賭けてみようじゃない」

 不敵に言う魔女に、しかしハヤトはほんの少しだけ余裕だった。

 いや、ハヤトだけではない。ハイルフォードもアルベルトも。

 なぜなら、その賭けは本当のところ、五分五分ではないことを彼らは知っているからだ。

 守られている薔薇の苗。その近くで、今根付こうとしている薬草があることを、彼らは知っている。

 とんでもなくしぶとくて、薔薇の香りにも負けないような、気つけ薬になりうるかもしれない、あの少女の存在は。

 ある意味、彼らにとっての最後の切り札と言えるのかもしれなかった。











エピローグ



 今日も今日とて、ヴィサンテオ公爵邸には怒声が上がる。

「冗談っ、じゃっ、ないわよっ?

 もう呪いなんか解けやしないんだから、さっさと解放しなさいよーーー!」

「それは! こっちのセリフだ、この豚令嬢がっ!」

 巨漢のミュリエルが繰り出した三段蹴りを何とか回避してアイザックも叫んだ。

「はい、はい、はーい。仲がよろしいのはけっこうですが、そろそろお時間ですよー」

「「仲良くなんて、してない!」」

 声をかけた黒髪の執事を二人は同時にギロリと睨んだ。

「何でまだこいつとキスしなきゃなんねーんだ!」

「まったくもって同意見! こんな男とキスしなくちゃいけないなんて、拷問よ!」

「あぁん? メス豚にキスする方の身にもなってみろ」

「どんな女の子にもキスする淫乱男でしょ!」

「その俺が嫌がるって、とんでもなさだな! 誇れ!」

「えーえー、誇りますとも! アンタみたいな男に近寄られないなら、この姿も役に立つってものよね!」

 またも取っ組み合いをはじめそうな二人に、ハヤトがにっこりと笑いながら言う。

「お二人とも、また別館に監禁されたい、と」

 幾度となくこの執事に別館へと叩き込まれている二人は、睨み合いながらも黙った。

 そんなミュリエルとアイザックにハヤトは淡々と事実確認をする。

「お二人とも、旦那様からご説明をうけましたよね? アイザック様はご自分の力をより深く知る必要があると。ミュリエル様もそれに同意しましたよね?」

 ハヤトの圧力に二人は思わず視線を逸らした。

 あのミランダ嬢入れ替え事件が解決した直後、ミュリエルとアイザックは共闘してハヤトをボコろうとしたものの、ものの見事に返り討ちにされたことは記憶に新しい。

(本当に、何者なのよっ? この執事ってば!)

 呪いには詳しい。腕っぷしは強い。情報収集はお手の物。

 正体は化け物でした、とかいう想像すら浮かんでくるハヤトに迫られたら、もう逃げ場はないわけで。

「さあさあ、行きますよ。成果は出ているんですから」

 首根っこを掴まれる前にアイザックは屋敷へと歩き出した。

「成果って言ってもなぁ。呪いが解けるわけじゃあねぇんだもんなー。ヤル気でねぇー」

「何よ! 私だって貴方の能力開発に付き合わされるのは、本当は御免なんですからね!」

 と言いながらもミュリエルも渋々ながら歩き出す。

「俺がキスしなきゃ、豚令嬢のままなくせして」

「呪いの解けないキスで威張ってんじゃないわよ」

 けっきょく喧嘩は止まらないわけだが、ハヤトは生温かい目で二人を見守るだけだ。

「では、頑張ってくださいね。お二人の明るい未来の為にも!」

 事情の込み入り過ぎた、呪われ豚令嬢と色気違いな公爵子息の婚約はまだまだ続く。

 二人の明るい未来は、婚約続行か、はたまた婚約解消か。

 答えは当分出そうにないが、何度目か分からない二人の宣言は、高らかに公爵邸に響き渡るのだ。


「「絶対呪い解いて、コイツと婚約解消してやるッ!」」









                                      終

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呪われ豚令嬢の込み入った婚約事情 丘月文 @okatuki

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