そして誰もいなくなるの?
DDT
第1話
ただいま。
ソファの背越しに、振り向いてほほ笑むキミ。
あたしより早いなんて珍しいね。
ふふふ。
もう一杯飲んじゃってる?
うん。
ごはんは?
うん。
お風呂は?
うん。
うん、じゃわからないよ。
暗い部屋の中、ドアを開けてあたしは立ちすくんだまま。
灯りを点けることもできず、ソファに座っているはずのキミを想う。
あたしに応えてくれるはずのキミを想う。
確かにそこに居たはずなのに。
今年の1月末、いつも通り会社に行ったきり、帰ってこなかった。
そうして3日後、県境の土手の枯れた草むらの中で発見された。
衣服や持ち物はすべて身に着けたままだった。
あたしが送った大量のメッセージで、カバンの外ポケットに入れられたガラケーがちかちか点滅していた。
今日は何の日か覚えてる?
……。
結婚して3周年。
……。
ジューンブライドが定番すぎて恥ずかしいって笑ったね。
……。
あのときほんの少しお腹がふくらんでいて、「来月だとドレスきびしかったですねえ」ってプランナーさんがほっとしたように言ったね。
……。
あの子はどこに行ったんだろう。
……。
本当ならそろそろベビーカーを卒業して走り回っている頃じゃない?
……。
いつのまにお腹の中からいなくなったんだろう。
……。
あたしはずっと封印していた子供部屋のドアを開けて、するりと忍び込む。
カーテンの隙間からもれる冷たい外灯の光に、ベビーベッドのがっしりした木枠が浮かび上がる。
忍び寄るように低い音で雨が降り始めていた。
ベッドの上には真新しい小さなくまのぬいぐるみ。
アイボリーホワイトの毛布はただ白く、ふわふわしたまま几帳面にたたまれていた。
生き物の気配は今までもこれからも誰も感じ取れないだろう。
ここは空虚。何かで埋めなくちゃいけないわ。
あたしはキッチンに戻って、シンクの手元の灯りを点けた。
雑然と散らばった調理器具。
汚れた食器にこびりついた食べ残しがかびている。
焦がした鍋のふちが、磨いてもいないのに電灯に照らされてぎらぎら光った。
壁にマグネットで取り付けられた包丁を掴みとる。
何か月ぶりだろう、この柄を握ったのは。
子供部屋は寒々しい上に埃っぽく、梅雨の湿気を帯びていて酸っぱいようなにおいがした。
あたしはあたしの手首にそっと包丁の刃を添え、ゆっくりと細心の注意を払って滑らかに前後に動かした。
ほとばしった赤が白い毛布に転々と散った。
ベッドの中から今、生命が湧き上がってくるようだとあたしは思った。
甘いミルクのようなにおいが部屋を包み、ふらふらと酔っぱらう。
生きている実感が体を突き動かす。
孤独を癒やす。
朝日に照らされて気がついた時、しばらく何が起こったのかわからなくて、あたしは床に倒れたままだった。
左手首がじんじんと痺れてきて、痛みが加速度的によみがえってきたので、そのあまりの痛さにあたしは泣いた。
わんわん泣いた。
いつまであたしはこんな一人芝居を続けるのだろう。
いつからあたしは、一人芝居を続けていたのだろう。
そして誰もいなくなるの? DDT @D_D_T
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます